《ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?》殺された夫が私の耳元で愛を囁く《今も愛している》

《ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?》殺された夫が私の耳元で愛を囁く《今も愛している》

last updateLast Updated : 2025-08-25
By:  月歌Completed
Language: Japanese
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夫を殺された日から、遥の時間は止まった。 「浮気相手」と名乗る女の手で命を奪われた夫・悠真。だがそれは、妄想に囚われた一方的な犯行だった。 誰にも信じてもらえず、孤独のなかで遥に寄り添ったのは、幽霊となった夫と――幼なじみの湊だった。 「ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?」 そう微笑む亡き夫と、隣で黙って支え続けてくれた湊。 遥の心は、過去と現在、生と死の間で揺れていく。 想いがすれ違うほどに、胸の奥に残された“愛”の輪郭が浮かび上がる。 これは、名前を持たない感情と、まだ終われない恋の物語

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Chapter 1

第一話 夫を殺した女

《ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?》

耳元で囁かれたその声に、高村遥(たかむら はるか)はハッとして目を見開いた。馴染み深くて、懐かしくて、もう何百回も聞いた声だ。

次の瞬間、法廷に響いたのは、裁判長の判決だった。

「被告人・朝比奈美月に対し、懲役十五年を言い渡す」

静寂の中、木槌の音が鈍く響いた。誰も動かない。誰も声を出さない。被告席の女は、虚ろな目で前を見つめたまま、何かを失ったように項垂れた。

結審。

ーー六年前に夫・悠真(ゆうま)が刺されて死んでから、遥はこの日を待ち続けていた。

あの日から、彼は幽霊になって彼女の傍に現れた。最初は錯覚かと思った。だが、声も、姿も、はっきりと見えた。むしろ、生きていた頃よりも近くにいた。

泣く夜も、怒る日も、息が詰まるほど苦しい時間も、悠真はそばにいた。

言い争うこともあった。ふと笑い合うこともあった。

……まるで、生きているみたいに。

被告の女・朝比奈美月は、夫の勤めていた会社の部下だった。

供述によれば、二人は不倫関係にあり、もつれからの殺意だったという。最初に報道されたその内容を、世間は信じた。

「社内不倫」

「愛人関係のもつれ」

どのワイドショーも、そんな見出しばかりを並べた。

そして――遥自身も、ほんのわずかに信じかけた。

悠真は学生の頃、女癖が悪かった。

結婚してからは落ち着いたように見えても、心のどこかで「また繰り返すんじゃないか」と疑ってしまった。

幽霊となって戻ってきた彼が、何度「違う」と言っても、その声を信じきれなかった。

今日の判決で、それがすべて妄想だったと明らかになった。

朝比奈美月の供述は虚偽。実際には交際の事実など一切なく、一方的な思い込みによる犯行だった。社内で少し言葉を交わしただけの相手に、女は恋をし、勝手に関係を作り上げて、そして――殺した。

遥は唇を震わせ、ハンカチを取り出して口元を押さえた。

「……ごめんなさい、あなた」

疑ってしまった。信じているふりをしながら、心の奥では否定していた。ほんとうは、最期まで信じるべきだったのに。

そのときだった。

ふっと、右肩に重みが乗る。手のひらのような感触。確かに、そこに“彼”がいた。見なくてもわかる。いつもそうだった。その存在に包まれるようにして、遥はそっと目を伏せた。

「……大丈夫?」

左側から低く優しい声がかかった。

黒川湊。遥の幼なじみであり、彼女が今働いている猫カフェの店主だ。

「……うん」

遥がそう答えたときだった。

右肩の重みが、ふっと消えた。まるで空気に溶けるように、何もなかったかのように。

(あ……)

思わず視線を彷徨わせる。

けれど姿は見えない。

それでも、また現れる。遥はそう思った。

この六年間、どんなときも、彼は傍にいたのだから。急にいなくなるはずがない。そう自分に言い聞かせるように、遥は深く息を吸い込んだ。

「行こう」

湊が先に立ち上がり、遥もゆっくりと席を立つ。

法廷の扉が開くと、冬の冷たい風が吹き込んできた。どこかで雨が降り始めたらしい。二人は並んで歩き出す。小さな駅に向かう石畳の道を、沈黙のまま。

背中に感じたあたたかさだけが、まだかすかに残っていた。

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第一話 夫を殺した女
《ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?》耳元で囁かれたその声に、高村遥(たかむら はるか)はハッとして目を見開いた。馴染み深くて、懐かしくて、もう何百回も聞いた声だ。次の瞬間、法廷に響いたのは、裁判長の判決だった。「被告人・朝比奈美月に対し、懲役十五年を言い渡す」静寂の中、木槌の音が鈍く響いた。誰も動かない。誰も声を出さない。被告席の女は、虚ろな目で前を見つめたまま、何かを失ったように項垂れた。結審。ーー六年前に夫・悠真(ゆうま)が刺されて死んでから、遥はこの日を待ち続けていた。あの日から、彼は幽霊になって彼女の傍に現れた。最初は錯覚かと思った。だが、声も、姿も、はっきりと見えた。むしろ、生きていた頃よりも近くにいた。泣く夜も、怒る日も、息が詰まるほど苦しい時間も、悠真はそばにいた。言い争うこともあった。ふと笑い合うこともあった。……まるで、生きているみたいに。被告の女・朝比奈美月は、夫の勤めていた会社の部下だった。供述によれば、二人は不倫関係にあり、もつれからの殺意だったという。最初に報道されたその内容を、世間は信じた。「社内不倫」「愛人関係のもつれ」どのワイドショーも、そんな見出しばかりを並べた。そして――遥自身も、ほんのわずかに信じかけた。悠真は学生の頃、女癖が悪かった。結婚してからは落ち着いたように見えても、心のどこかで「また繰り返すんじゃないか」と疑ってしまった。幽霊となって戻ってきた彼が、何度「違う」と言っても、その声を信じきれなかった。今日の判決で、それがすべて妄想だったと明らかになった。朝比奈美月の供述は虚偽。実際には交際の事実など一切なく、一方的な思い込みによる犯行だった。社内で少し言葉を交わしただけの相手に、女は恋をし、勝手に関係を作り上げて、そして――殺した。遥は唇を震わせ、ハンカチを取り出して口元を押さえた。「……ごめんなさい、あなた」疑ってしまった。信じているふりをしながら、心の奥では否定していた。ほんとうは、最期まで信じるべきだったのに。そのときだった。ふっと、右肩に重みが乗る。手のひらのような感触。確かに、そこに“彼”がいた。見なくてもわかる。いつもそうだった。その存在に包まれるようにして、遥はそっと目を伏せた。「……大丈夫?」左側から低く優しい声がかかった。黒川湊。遥の幼
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第二話 夫からのキス
裁判所を出たあと、遥は湊とともに静かな寺を訪れた。墓石の列の間を歩きながら、冷たい風が髪を揺らす。悠真の墓の前に立つと、遥はそっと手を合わせた。「……ごめんね、湊。少し、一人にさせて」「……わかった。俺、山門の前で待ってるよ」湊はそう言って、気遣うように彼女の背を一度見てから、足音を静かに遠ざけていった。遥は線香を手向け、小さな火をつけた。煙がまっすぐ空へ昇っていくのを、じっと見つめる。「有罪になったよ、あの人……懲役十五年だって」言葉は誰に届くわけでもなく、風に紛れて消えていく。「……あなたの不倫は、ただの妄想だったって裁判で証明されたの。……疑って、本当に、ごめんなさい」そう言った瞬間――背後から、あの声が届いた。《気にするな》驚いて振り返ると、懐かしい姿がそこにあった。「……悠真!」《お前は、この六年、頑張ったよ。遥》微笑みながら現れた彼は、生前と変わらない穏やかな顔をしていた。遥は思わず声を詰まらせ、胸の奥がじわりと熱くなる。「そんなことない……。あなたが、ずっとそばにいてくれたから……耐えられたのよ」悠真はふっと目を細めた。《だといいな。でも初めは、随分疑ってたよな?せっかく幽霊になって会いに来たのに、まさか浮気を疑われて責められるなんて思いもしなかった》肩をすくめて見せる姿に、遥は苦笑した。「……だって、悠真の学生時代を思い出したら……」《あれは付き合う前だろ?》「そうだけど。女をとっかえひっかえしてたのは事実でしょ?」《まあ、それは否定できないけど……でも、お前と出逢ったときに思ったんだよ。“この女だ”って。今まで付き合った誰にも感じなかった。……運命ってやつを、な》「……悠真」遥の胸が、静かに高鳴る。けれど次の瞬間、悠真は妙に真面目な顔で訊いてきた。《ところで……あいつと再婚するのか?》「……え?」《黒川湊だよ》「湊は、ただの幼なじみよ」《ただの幼なじみが、この六年間ずっと親身になるかよ?》遥は呆れてため息をついた。「……まさか、下心があるって言いたいの?残念だけど、彼はゲイよ。私が中学生のときに告白したら、“ゲイだから”ってあっさりフラれたんだから」《でも、性癖って変わるだろ?》「そんな簡単なものじゃないって。私はこの十年以上、湊の恋愛相談に乗ってきたの。間違いないわ」悠真は不満げに
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第三話 傘の音、静かに
山門のそばで待っていた湊は、墓の方をそっと見上げた。石畳の道の向こう、遥の姿がかすかに見える。立ち尽くす彼女が、誰かと話しているように口を動かしていた。けれど、傍らには誰の姿もなかった。まるで目に見えない誰かと会話しているような、そんな様子に、湊は胸の奥に小さな棘のような不安を感じる。遥は昔から、強がるところがあった。無理をして笑ったり、平気なふりをしたり。でも今は、それとはまた違う。どこか、空を見つめるような目をしているときがある。――あれから、六年。不意に、石畳の上で細かな雨が弾ける音がした。 湊は傘を開き、静かに墓の前へ向かって歩き出した。石畳の道を曲がったところで、遥の姿が見えた。彼女はゆっくりと歩きながら、湊に気づくといつもと変わらぬ柔らかな笑みを向けた。「おまたせ。……お参り、終わったわ」「うん、じゃあ行こうか」湊は彼女に傘を差し向け、並んで歩き出す。頭上では、しとしとと雨の音が続いていた。「……雨、本当に降ってきたね」「お前、絶対降らないって言ってただろ」「だって、本当に降らないと思ったんだもの」「でも、降っただろ?……遥は昔からそうだよな。決めつけが多い」「そうかな?」「そうだよ。ほら、行くぞ」「うん」二人のあいだに、しばらく静かな時間が流れた。寺の坂道を下りながら、湊はちらりと遥の横顔を見た。声は普通で、足取りも乱れていない。さっきの“独り言のような様子”を、問いただすべきか迷ったが、結局、言葉にはできなかった。結審のあと、遥が悠真の墓に向かうと言ったとき、湊は自然と「付き添おうか」と申し出ていた。そうやって傍にいたくなるのは、いつも遥が、“どこか遠くを見ているような目”をするからだ。「……引っ越し、ほんとにするんだな?」「うん。裁判も終わったし……。さすがに、ずっと実家にいるのも申し訳なくて」「でも、おばさんたち……寂しがるだろ」「……それは、そうだけどね。お父さんはわりとあっさりしてたけど。……私が、ちゃんと前に進んでるって思ってくれるなら、安心するかなって」「ふーん……」湊は、それ以上は言わなかった。雨の中、二人で歩く音だけが響く。「……あの、ね。あらためて言っておきたいんだけど、湊。お店で働かせてもらって、本当にありがとう。求人、見つからなかったし……すごく助かってるの。でも、ずっと
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第四話 雨の午後と、甘い記憶
カフェに着く頃には、雨脚がすっかり強まっていた。小さなベルの音とともに扉を開けると、温かな空気とコーヒーの香りがふたりを迎えた。「濡れなかった?」「うん。湊の傘、大きくて助かった」微笑み合いながら、ふたりは窓際の席に座る。天井から吊られたドライフラワーがゆるやかに揺れている。メニューをめくると、手描きのイラストで「人気 No.1 チーズケーキ」の文字が目に留まった。「……じゃあ、これにしようかな」遥がそう言って閉じた瞬間、ふっと――耳元で囁く声がした。《チーズケーキは、苦手だ》幽かな男の声。懐かしい声。瞬きの間に消えたその響きに、遥は動揺を悟られぬよう静かに目を伏せた。---ケーキが運ばれ、ふたりは黙ってフォークを手に取る。口に含んだ瞬間、とろける甘さが舌に広がった。「美味しい……」そう言った直後、遥はぽつりとこぼす。「悠真は、チーズケーキが苦手だったの。口の中にまとわりつく感じがダメだって、よく言ってた」「……そうなんだ」湊の返事は短く、でも温かかった。強く肯定も否定もせず、ただ過去ごと受け止めてくれるその声が、ありがたかった。外では雨が激しく窓を叩いている。ガラス越しの街はすっかりにじみ、歩く人影も輪郭を失っていた。「遥」湊が、ふいに切り出した。「実家を出て……ひとり暮らしをするって話だけど。元の家に戻るのか?」湊がふいに切り出した。コーヒーの湯気が、ふたりの間を曇らせている。遥は、驚いたように顔を上げた。「……うん。まだ迷ってるけど。あの家、ずっと空けたままにしてるのもどうかと思って」言いながら、カップを両手で包むように持った。「……そうか」湊は頷いて、しばし黙った。外の雨音が、会話の余白を埋めるように強まっていく。「家を出るのは……いいと思う。うん。でも、店は――辞めないでくれないか」「……え?」遥が目を見開いた。「俺は……お前に、いてほしいんだ。いや、変な意味じゃなくて。ほら、うちの親……俺がゲイだっての、知ってるだろ? だから、男を雇うとすぐ“恋人か”って目で見てくるんだよ。監視っていうか、詮索っていうか……」言いながら、湊はバツが悪そうに視線を落とした。「だから、その……遥の方が気が楽で。お前が店にいると、助かるんだ。ほんとに」語尾が少しだけ滲んで、湊の本心がちらりと垣間見えた。遥は
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第五話 雨音の向こうに
静かな午後だった。雨の音だけが、ガラス越しにかすかに響いていた。カフェの奥、窓際から少し離れたテーブルに、ひとりの男が座っていた。白いシャツに薄い影のような輪郭。誰の視線にも引っかからない存在――高村悠真は、確かにそこにいた。店員が水を運ぶことも、注文を取りに来ることもない。ただ、テーブルの向こうにいる遥と湊の姿を、じっと見つめていた。ふたりの間に漂う空気は穏やかで、切なく、やさしい。(……チーズケーキ、か)遥が口に運ぶそのケーキが、自分の苦手だったものであることに、苦笑が漏れた気がした。---悠真が死んで、六年になる。理不尽な最期だった。あの女の刃が、自分の胸を貫いたとき――何が起きたのか、理解できなかった。ただ、遥の顔が一瞬浮かんだことだけは、はっきり覚えている。自分の名を呼び、泣き崩れた遥の姿を、ずっと見てきた。葬儀のときも、遺影のそばにいた。だけど、自分がそこに立っていることなど、誰にもわかるはずがなかった。ーー幽霊だから。彼女は悩んでいた。あの女の供述を信じ、どこかで――“自分は裏切られていたのかもしれない”と。何も言えず、ただ見つめるしかなかった自分が、どれほど悔しかったか。遥の目に自分の姿が映ったのは、死んでから一か月ほど経った頃のことだった。その日、彼女は酷くやつれていた。食事も取らず、声も発さず、じっと部屋の壁を見つめていた。生きてはいるが、魂がどこかに置き去りになったような――まるで死人のような顔だった。いてもたってもいられず、悠真は思わず声をかけた。《遥……!》その声が、届いた。遥はぴくりと顔を上げ、周囲をきょろきょろと見回した。呼吸が浅くなる。気のせいだと首を振ろうとしたその瞬間、ふと悠真と視線が合った。けれど、彼女は怯えなかった。「……迎えに来たの?」ぽつりとそう呟いた遥の声が、今でも耳に残っている。違う――迎えに来たんじゃない。君に、生きてほしかった。悠真は必死だった。あの女とは何の関係もない。ただのストーカーだった。愛していたのは、遥だけ。出会ったときからずっと、ずっと。その想いを、何度も、何度も伝えた。ようやく遥が頷いたとき、安堵と共に涙が溢れそうになった。幽霊に涙腺などあるのかは知らないが、確かに泣きたくなった。自宅を出て、実家に戻ってほしいと伝えたのも、あのときだった。一人でいる
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第六話 雨上がりの足音
カフェを出ると、雨はいつの間にか止んでいた。空はまだ雲に覆われているが、濡れたアスファルトには薄い光が反射し、行き交う人々の足音だけが静かに響いていた。ふたりの足元からも、しとりとした水音が立つ。「……雨上がりの匂いって結構すき。湊は?」「俺も割と好きだな」遥がぽつりと呟いたので、湊は答えながら少しだけ歩幅を緩めた。隣を歩く彼女のことを、湊は何年も前から見つめてきた。幼なじみとして、友人として、あるいは、それ以上の感情として。中学のとき、遥に告白されたことがある。驚いた。でも、答えはすぐに決まっていた。湊は「ごめん、俺、男が好きだから」と正直に言った。遥はしばらく沈黙した後、いつものように笑って、「そっか」とだけ返してくれた。変わらなかった。関係も、距離も、空気も。それがどれだけ救いになったか、あのときの湊には、うまく言葉にできなかった。実はその少し前――好きな先輩に想いを伝えて、ひどい言葉で突き放されたことがあった。「気持ち悪い」「迷惑だ」と言われた。あれは笑えない傷だった。ーー以来、誰かと深く関わることが怖くなった。それでも、遥は違った。だから、彼女が結婚したときは、素直に祝福できなかった。自分でも気づかないまま、寂しさがつのっていた。あれが情だったのか、それとも愛だったのか――今も答えは出ない。ただ、こうして並んで歩く彼女の横顔を見ていると、不意に胸が締めつけられる。湊はふと、背中に“何か”が触れた気がして立ち止まった。視線。誰かに見られているような、ぞわりとした感覚。思わず後ろを振り返る。濡れた道、雨に滲んだ街灯、遠ざかる車の光――しかし、人影はどこにもない。「……気のせいか」小さくつぶやいて視線を戻すと、遥も歩を止めていた。彼女も、同じように振り返り、湊と同じ方向をじっと見つめている。その表情は、どこか切なげで――懐かしさすら滲んでいた。湊も再び背後を見やる。何があるのか、何を見ているのか。けれど、やはりそこには何もなかった。「……遥?」声をかけると、遥はハッとしたように振り返った。「あっ……ごめん。今……」彼女は少しだけ迷いながら、言葉を選ぶように目を伏せる。「……夫の、悠真の声が聞こえた気がして」その一言に、湊の背中を冷たいものが這った。もう一度、反射的に後ろを振り返る。けれど、
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第七話 おかえり
鍵を差し込んで扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。静かで、誰もいない家の匂い――六年前に止まったままの時間が、そこに横たわっている。小さな玄関。靴箱の上には、結婚式の写真があった。少し埃をかぶったその写真を、そっと指先でなぞる。笑顔のふたりが、わずかに揺れた。――ここで、暮らしていた。ふたりで、未来を築いていくはずだった。ローンは苦しかったけれど、夢があった。小さな庭にビニールプールを広げて、子どもと水遊びをして。砂場を置いて、三人でバーベキューをして。そんな光景を思い描きながら、何度も笑い合った。けれど、あの日を境に、すべてが崩れた。「浮気相手の女に刺された」と報道された。彼女はこうも言った――「奥さんが実家に帰っていた日、高村さんと、あの家で関係を持ちました」信じたかった。それでも、疑ってしまった。泣いて泣いて、眠れない夜をいくつも越えた。そして、夫が死んで一ヶ月が過ぎた頃――彼は突然、現れた。あの日と同じ、無造作に跳ねた前髪と、気怠げな笑みを浮かべて。《俺、浮気してないから》《俺が愛しているのは、お前だけだ》その声は、やけにリアルだった。怖かった。でも、愛しかった。だから声が出なかった。それから、彼は何度もふいに現れては、まるで生きている頃のように、他愛もない話をしては消えていった。――幻か、妄想か、本当に幽霊なのか。わからないまま、時だけが過ぎていった。けれど今日、裁判が終わったと連絡を受けた。加害者の女は控訴せず、判決を受け入れると告げたという。ようやく、長かった時間が終わったのだ。実家に持って帰っていた位牌を胸に抱え、リビングの仏壇にそっと戻す。線香を焚き、手を合わせる。「……すべて、終わったわ。悠真。疑ってしまって……ごめんなさい」そう呟いたとき、不意に、背後から声がした。《――遥》息を呑んで振り返る。そこに、彼がいた。いつものように、リビングの隅に立って、微笑んでいる。「悠真……!」込み上げてくる涙に、何も言葉が続かなかった。もしかしたら、裁判が終われば、彼はもう現れなくなると思っていた。成仏してしまうのではないか、と。それでも、こうして、ちゃんと――《……おかえり、遥》優しい声だった。それを聞いた瞬間、堪えていたものが、決壊した。「……ただいま
last updateLast Updated : 2025-08-02
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第八話 ふたりぶんのハンバーグ
冷蔵庫を開けると、ほんのり冷え始めた空気が指先をかすめた。自宅に戻った今朝、ブレーカーを上げて、ようやく電気が通った。冷蔵庫のコンセントを差したのはそのあと。まだ冷え切らない庫内には、水のボトルが一本、寂しげに転がっているだけだった。「……そうよね、ずっと実家だったんだもの」ぽつりと呟いて扉を閉めたその瞬間、背後から聞こえる懐かしい声。《冷蔵庫、見事に空っぽだな》「うん。何もないから……買い物に行ってくるね」エコバッグを畳んで、バッグに入れる。ふと視線を上げると、いつの間にかリビングのソファに悠真が腰かけていた。幽霊が家具に座っているという非現実に、今さら違和感は覚えない。むしろ、その光景は、不思議なほど自然に溶け込んでいた。相変わらず、気配はないのに。それでも、“そこにいる”とすぐわかるのが不思議だった。「……ねぇ、一緒に買い物、行く?」少しだけ、いたずらっぽく口角を上げてみせる。悠真は一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑って立ち上がった。《いいのか? 俺は荷物も持てない、役立たずだぞ?》「でも、隣にいてくれるでしょ。それで十分だよ」*並んで歩く道すがら、人の目に映るのは、遥ひとり。けれどその横には、確かに悠真が歩いている。遥の足取りは、心なしか軽くなっていた。「スーパーが近い家を買って、正解だったでしょ?」《確かに便利だな。……で、あの家のローンは、大丈夫なのか?》「前に言ったじゃない。あなたが亡くなったから、ローンの支払いは免除になったの」《ああ、そうだったな。ありがたいような、悔しいような……。生きて返したかったよ。……まあ、ローンは正直きつかったから、払わなくていいのは助かるんだけどな》悠真の苦笑混じりのぼやきに、遥は笑いながら頷いた。「知ってる。あなた、毎月ため息ついてたもん」*スーパーの冷食コーナーの前で、遥はふと足を止めた。「今日の夜は……ハンバーグにしようかな」隣から、懐かしげな声がする。《ハンバーグ、か。お前の作るやつ、うまかったよなぁ》「うん。……ずっと、“子どもっぽいな”って思ってたの。でも、“美味しい”って言ってくれるあなたの顔が好きだった」遥の声は、ごく小さく揺れていた。悠真は気づいたふうに、気恥ずかしそうに顔を背ける。《ガキで、悪かったな……》「ふふ。いいのよ。ガキっぽい
last updateLast Updated : 2025-08-03
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第九話 ふれることのない夜
夕食を終えたあと、ふたりで並んでテレビを眺めていた。リビングの照明は落とし、間接照明だけを点けて。画面の光が、部屋の片隅をぼんやりと照らしていた。遥は、食後の温かいお茶を飲みながら、隣にいる悠真に話しかける。他愛もない会話。昔と変わらないような、何気ない時間。けれど、ふと気づくと、遥はソファに身体を預けたまま、静かに眠っていた。「……遥?」悠真はそっと名前を呼んだが、返事はない。うっすらと寝息を立てながら、遥は穏やかな顔で眠っている。きっと、ひとりで頑張って、疲れていたのだろう。《……こんなところで寝たら風邪ひくぞ。寝室、行けよ……》声をかけても、当然届かない。幽霊である自分には、起こすことも、抱えることもできない。そばにある毛布に手を伸ばしてみる。けれど、その手は空をすり抜けるだけだった。触れたくても、触れられない。そっと遥の髪に手を伸ばす。その指先は、彼女の柔らかな髪を通り抜けるばかりだった。――この六年、一度も、彼女に触れたことはない。それでも。ほんの一瞬でもいい。奇跡が起きないかと、何度も願ってしまう。触れられたら、抱きしめられたら。ただ「おかえり」と、もう一度だけ。その想いは、声にもならず、夜の静けさに溶けて消えていった。*朝。微かな物音とともに、遥が身じろぎをした。「……くしゅんっ」くしゃみをひとつ。身体を起こして、あたりを見回す。「リビングで寝ちゃってた……」寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら、照れくさそうに笑った。悠真は、そばで小さくため息をつく。《だから言っただろ。ここは実家じゃないんだから。ちゃんと寝室で寝ないと、風邪ひくぞ》「……聞こえてたら起きてるわよ」遥が冗談めかしてそう返すと、悠真はくすりと笑った。《ひとりで生活、できそうか?……正直、心配なんだよ》「大丈夫。……子どもじゃないんだから」遥の声は明るい。でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、影が見えた気がした。悠真は黙ってその表情を見つめ、それから時計を見上げた。《……で、仕事には行かなくていいのか?》「えっ……!」遥が飛び起きて時計を見ると、思っていたよりも時間は進んでいた。「やだ、遅れる!」慌てて洗面所へ駆け込み、寝癖のまま着替えをはじめる。カバンに財布とスマホを放り込み、エコバッグをくしゃくしゃのまま押し込ん
last updateLast Updated : 2025-08-06
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第十話 ガラス越しの光
アンティークショップ「Lierre(リエール)」の扉を開けると、やわらかな日差しがショーケースの硝子を通して床に模様を落としていた。開店準備を終えた遥は、棚に並べられた器や古時計のホコリを静かに払っていた。「遥、このウラングラス、どこに飾ろうか?」カウンターの奥から湊が声をかけてくる。彼の手には、淡いグリーンを帯びたガラスの器があった。光を透かしたときの淡い煌めきが、なんとも幻想的だった。「わあ……これがウラングラス?初めて見るかも」「ブラックライトを当てると、蛍光色に光るんだ。時代は1930年代のチェコ製。ほんのり緑に光って、夜なんかは特に綺麗だよ」「ほんと、ちょっと魔法みたい」遥が感嘆すると、湊は少し照れたように笑い、棚の一角に仮置きしてバランスを確かめる。ふたりで、どこに飾れば一番映えるかと話していると、入口のベルが小さく鳴った。振り返ると、男女の二人連れが入ってきた。女性の方は見覚えのある顔だった。「いらっしゃいませ」遥が笑顔で声をかけると、女性もにこやかに会釈する。「こんにちは。今日は彼を連れてきたの。ずっとこの店の話をしてたから、見せたくて」「それは嬉しいですね。どうぞごゆっくり」何気ないやりとりのはずだったが、湊が女性の連れに気づいた瞬間、表情がさっと硬くなった。遥は気づかぬふりをしたまま、そっと彼の横顔を伺う。男の方は湊を見て、わずかに眉を上げた。口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。「……お前、この店、まさかオーナーか?」「はい。一応、店主です」湊は穏やかに答えたが、その声にはかすかな緊張が混ざっていた。すると、男は鼻で笑った。「へぇ。ずいぶん他人行儀じゃないか。学生のころ、俺に告白してきたくせに」遥の背筋が凍る。湊の表情がわずかに動いたのが、視界の端に見えた。「如月……もうその話は」湊の声は低く、冷静を保とうとしていた。だが、如月と呼ばれた男は一切気にする様子もなく、話を続けた。「ホモじゃないかって噂があってさ。俺は“ホモじゃない”ほうに金をかけたんだよ。けど、ちょっと優しくしたらすっかりその気になって、まんまと告白してきてさ。笑えるよな、ほんと」遥は、掌に汗が滲むのを感じた。「おかげで賭けには負けるし、男から好かれるし。マジで最悪だった。……ホモのくせにアンティーク店なんて気取って、どっかの男に
last updateLast Updated : 2025-08-07
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