All Chapters of 春の花と冬の雪: Chapter 1 - Chapter 10

25 Chapters

第1話

江崎愛乃(えざき あいの)は人混みの中に立ち、手には二つの書類を握りしめていた。一つはアレキシサイミアの診断書、もう一つは戸籍謄本だった。三時間前、病院のシステムに登録された婚姻状況が「離婚」と表示されていることを不審に思い、わざわざ市役所まで足を運んだのだった。職員が顔を上げた。「江崎さん、確かに相川さんとは三年前に離婚されています」愛乃の表情が一瞬固まった。「そんなはずはありません。三年前、私たちはちょうど結婚したばかりです」職員はもう一度確認し、少し困惑した様子で言った。「申し訳ありませんが、システム上、確かに離婚の記録は三年前となっており……ご結婚から七秒後に登録されています」そしてさらに続けた。「また、相川さんはその後一年で再婚されており、配偶者欄には麻生楓(あそう かえで)さんの名前が登録されています」愛乃は、魂が抜け落ちたようにその場で呆然と立ち尽くした。瞳は虚ろで、ただ腕だけがわずかに震えていた。誰もが知っていた。愛乃と相川諒(あいかわ りょう)は幼い頃からの知り合いで、互いに成長していく姿をずっと見守ってきたことを。諒はいつも彼女を守り、特別扱いし、誰もが羨む「お姫様」にしてくれた。そして麻生楓は、彼のビジネスライバルの家に残された孤児だった。「大丈夫ですか?」職員の声に、愛乃はなんとか立ち上がり、手を振って応えた。心ここにあらずのまま街をさまよい、やがて中央広場の大型ビジョンに映る諒のインタビューに足を止めた。男はベージュのスーツに身を包み、長い脚を組んで座っていた。インタビューが不意に途切れ、彼は腕時計をちらりと見た。「すみません、今日はここまでにしましょう。これから家に帰って妻と夕食をとる時間です」カメラに向かって笑みを浮かべると、生中継はそのまま終了した。人混みからは羨望のため息が漏れ、「妻を大切にしている」「一途だ」といった称賛の声が上がった。愛乃は薬指の指輪を撫でながら、その言葉を皮肉に感じていた。彼が言う「妻」とは、一体どちらのことなのだろうか。思考は遠くへ漂い、あの頃の光景がよみがえった。毎朝一時間早く起き、遠回りしてでも彼女を迎えに来てくれた「王子様」。学校行事でも必ず隣に立ち、「自分は彼のものだ」と世界に示していた
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第2話

愛乃は、見知らぬ部屋で目を覚ました。枕元には、一枚の付箋が貼られていた。【二週間後、港で会おう】アルコールに沈んでいた記憶が、じわじわと浮かび上がってくる。昨夜、彼女が会ったのは――西園寺慶(さいおんじ けい)。浪崎市で諒と肩を並べられる、ただ一人の男。そして、彼女をこの街から遠くへ逃がせる唯一の存在だった。スマホの画面には、百件近い不在着信とメッセージが並んでいた。すべて――諒からのもの。家に戻ったときには、すでに夕暮れが迫っていた。諒は進行中のビデオ会議を即座に切り上げ、彼女のもとへ駆け寄った。「愛乃、どこへ行ってた?昨夜出てから一晩中帰ってこなかったじゃないか。もう少し遅かったら、市中に捜索願を貼り出すところだった」赤く充血したその瞳を見れば、一晩中眠っていなかったことがわかった。テーブルの上ではパソコンの画面が光り、そこには彼女の結婚式の写真が映し出されていた。初めて彼女が純白のウェディングドレスに身を包んだあの日――彼は子どものように声を上げて泣いていた。愛乃はしばらく黙って彼を見つめた。その瞳には、今もあふれるほどの愛がある。ただ、その愛はもう――唯一でも、純粋でもなかった。視線を逸らし、淡々と言った。「友達に会ってたの。話し込んでしまって、連絡するのを忘れた」諒は肩の力を抜き、彼女をダイニングへ導くと、自ら袖をまくって海老の殻を剥き始めた。「最近、顔色があまり良くないな。病院に行ったほうがいいんじゃないか?」箸を動かしていた彼女の手が止まった。愛乃は、出かける前には必ず行き先を告げてきた。病院へ行ったあの日も例外ではなかった。だが、彼は楓のことで頭がいっぱいで、そのことをすっかり忘れていた。「暑くて、食欲がないだけ」そう答えると、諒はすぐにキッチンへ声をかけた。「木村さん、これからはもっとあっさりした料理を。愛乃の好きな果物も、暑気払いのデザートにして、毎日違うものを用意してください」木村(きむら)は「はい」と返事をしたものの、すぐにはキッチンへ戻らず、玄関そばの棚に何かを置いた。愛乃はその動きにつられて視線を向ける。そこにあったのは――弁当箱だった。あっという間に、愛乃の皿には、諒が骨を取り除いた魚と、殻を剥いた海老が山のよ
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第3話

砕け散ったガラスの下で、スマホはまだ映像を流し続けていた。諒は身をかがめ、腕の中の彼女をソファに押し倒した。「俺だけでいいのか?じゃあ、これはどう思う?」彼は手を上げ、一つのネックレスを垂らした。愛乃の瞳は一瞬で縮んだ。まったく同じネックレスを、彼はかつて彼女にも贈ったことがあった。しかも、それは世界に一つしかない「一点物」だと言っていた。彼女はすぐに手元のネックレスの写真を撮り、宝飾業の友人に送った。返ってきた答えは――「贋物」その二文字を見つめながら、愛乃はふっと笑みをこぼした。手の中のネックレスも、この「妻」という肩書きも、全部偽物だ。彼女はスマホを握りしめたまま、感極まって涙ぐみ、甘えるように話す楓の姿を見つめていた。「もう一つだけ、願いがあるの……」そのとき、諒から電話がかかってきた。「愛乃、急に二日間の出張が入った。俺がいなくても、ちゃんと食事はしっかりとるんだぞ」電話を切ると、彼女は無意識に車を走らせ、彼の会社の前まで来ていた。ちょうど諒の車が出ていくところだった。長い時間運転し続け、車はやがて山道へ入り、霧雨に煙る坂を進み、山門の前で止まった。滑りやすい石段を、諒は楓を背負いながらゆっくりと登っていった。ここは、愛乃にとって見覚えのある場所だった。千段の石階段を登りきった先には、古い寺がある。結婚してもなかなか子どもに恵まれなかった頃、義母の相川一荷(あいかわ いっか)が彼女をここへ連れてきた。「一歩一礼、心を込めて祈れば、子宝に恵まれる」一荷は結婚してからずっと、江崎愛乃に「相川家の男の子を産め」と強く求めていた。どこかでこの寺の子宝祈願がとても効果的だと聞きつけ、雨の日でも構わず連れてきていたのだ。一歩進むたびに額を地につけ、彼女の膝は苔に覆われ、やがて擦りむけて血がにじんだ。最後の一段にたどり着いたとき、諒が駆けつけ、一緒に手を合わせた。彼は母の迷信を責め、その後半年間、相川家には一度も帰らなかった。彼女はまだ覚えている。あの日、寺で二人は縁結びの錠を掛けたことを。噂によれば――この寺で祈願した二人が、門前の橋に錠を掛ければ、仏様が二人の絆を永遠に守ってくれるという。まさか、再びここに来たのは、彼と別の女を追ってのことだっ
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第4話

収録当日。二人はお揃いのスーツに身を包み、席に着くと、諒は終始愛乃の手を握っていた。恋愛の思い出を問われると、彼は一言一句間違えることなく答え、合間には彼女のクッションの位置まで気遣って整えた。「幼なじみから結婚へ、一度も甘さを失わず……まさに理想のカップルですね。これからも末永く――」ガタン!司会者の言葉を鋭い音が遮った。全員の視線が向いた先には、倒れたフラワースタンドのそばで気まずそうに立つ楓と、その横でマネージャーが鼻先まで指を突きつけて低く叱責している姿があった。諒はほとんど反射的に愛乃の手を放し、大股でその場に駆け寄る。「君はクビだ」視線は楓の赤く腫れた前腕に落ちていたが、言葉はマネージャーに向けられていた。「部下の失態は上司の責任でもある。それに、公の場であんな扱いをすれば、会社のイメージも損なわれる」反論の余地を与えない強い口調だった。愛乃は席に残ったまま、周囲の視線が自分と楓の間を行き来しているのを感じていたが、彼女はずっと上品な微笑みを崩さなかった。インタビューは再開されたが、諒は明らかに集中できていない様子だった。「……あれ?結婚記念日を間違えましたね?」司会者が軽い笑いを交えて指摘する。握られた手が一瞬、ぎゅっと強く締められた。彼は咄嗟に愛乃を見やり、すぐに言い訳を口にした。「愛乃が言ったんだ。あまりに幸せすぎて、毎日が新婚のようだって」会場からは羨望の声が上がった。だが愛乃には分かっていた。彼は間違えてなどいなかった。無意識に口にしたのは、楓との結婚記念日だったのだ。愛乃は微笑みながら、水を飲むタイミングでそっと諒の手を引き抜き、そのまま戻さなかった。最後のコーナーでは、諒が愛乃を背負い、花のアーチをくぐる予定だった。だが彼女が首に腕を回した瞬間、脇に立っていた楓が突然倒れた。愛乃が反応する間もなく、背負われていた力が消えた。彼女はよろめいて地面に落ち、膝を石で擦りむいた。その間、諒は楓を横抱きにし、そのまま出口へ駆けていった。カメラに映っていたのは、愛乃のひとりぼっちで乱れた姿だけだった。スタッフが彼女を支え、病院へ運んだ。病室の中、楓の頬には涙の筋が光っていた。「早く江崎さんのところに戻って。あの『愛のドキュメン
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第5話

夕方、楓のSNSが再び更新された。【欲しいものは、手に入れる】写真には、愛乃がこの三年間食べ続けてきた料理が並び、左下には海老の殻を剥く手が写っていた。オーダーメイドの袖口には、彼女の英語の名前が刺繍されていた。スマホが光り、諒からメッセージが届いた。【今夜も残業だ。ちゃんとご飯は先に食べてね】愛乃は冷蔵庫を開けた。健康を気遣う諒は、木村に「食材はため込まず、毎日新鮮なものを使うように」と常々伝えていた。だから冷凍庫には、たった一袋の冷凍うどんしか残っていなかった。……彼はそれをすっかり忘れていたらしい。簡単に夕食を済ませた愛乃は、布団にくるまりながらもなかなか眠れなかった。慣れ親しんだ恐ろしい窒息感がじわじわと襲い、彼女は袖をめくると、両腕に赤い発疹が浮かんでいた。アレルギー反応だった。頭の中には、あの弁当箱の記憶がよみがえった。――少し前、楓にピーナッツ入りのお粥を作ったあの鍋。彼女はその鍋で、さっきうどんを煮た。意識がぼんやりとし、視界が暗くなった。そしてそのまま床へドサリ――果てしない闇の中、彼女は夢を見た。父が急逝したあの日。諒は別の街で大事な商談中だった。「すぐ戻る」――電話越しの彼の声には迷いがなかった。「大丈夫……そっちの方が大事だから」父の書斎に座っていた愛乃は、涙がもう枯れていた。「待ってて」彼はそう言って、電話を切らなかった。翌朝、愛乃はハッと目を覚まし、無意識に携帯を手に取ってつぶやいた。「諒……まだいるの?」「いるよ」すぐに返事が返ってきた。次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開き、彼は歩み寄って彼女を抱き締めた。「もう泣くな。これからは叔父さんの代わりに、俺が君を守るから」――あの頃の彼の瞳には、彼女だけが映っていた。けれど、どれほど深い愛も、マンネリ化には勝てなかった。「もう、少し優しくしてあげてよ。眉をひそめてるよ?」その一言で愛乃は夢からふと目を覚まし、手の甲に鋭い痛みを感じた。楓の声が響いた。「ごめんなさい、私が食いしん坊で木村を借りたせいで……江崎さんがピーナッツを誤って食べちゃったの」「君のせいじゃない、愛乃が不注意だったんだ」諒の声色はすぐに柔らかくなった。「木村さんは君の好
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第6話

退院の日、諒は自宅でささやかな宴を開いた。数人の栄養士が腕を競い、長いテーブルには色とりどりの料理がずらりと並んでいた。背後からそっと近づいた彼の掌が、愛乃の腰に触れた。「今日の料理は、全部君が先に味見してからじゃないと、誰も手をつけられない」「気に入った一品を選んで、君の近くに置いておこう」柔らかな声音だったが、愛乃の胸はもうときめかなかった。ただ、手を引かれるまま会場の中へと歩を進めた。姿を見せた瞬間、視線が一斉に彼女へ集まった。楓は隅に追いやられていたが、その眼差しは愛乃を射抜くように離れなかった。――かつては、自分もこういう場で主役だったのに。今は、愛乃の「残り物」しか口にできないのか。瞳に宿る冷たい光が溢れそうになったその時、栄養士が新しいデザートを運び込み、それを楓の隣に置いた。カチン――皿が触れ合う小さな音が、宴の空気を裂いた。楓の前にあるミルフィーユの一角が、すでに欠けていた。「麻生さん、奥様はまだ召し上がっていませんよ」誰かがそう指摘した。楓は落ち着いた様子でフォークを置いた。「すみません、お腹が空いていて」そして、ゆっくりと次の一切れを口に運んだ。周囲にざわめきが広がった。「この子、誰?」「行儀も礼儀もない……」「どうやって入ったんだ?」場の空気が固まり、愛乃は疲れを覚えながら人混みをかき分けて進んだ。「皆さん、どうぞご自由に……私は少し疲れたので――」「あっ――!」言い終える前に、なぜか楓と一緒にケーキの中へ倒れ込んだ。起き上がった時、ドレスも髪も生クリームでべっとりと汚れていた。「どうしたんだ?」駆け寄った諒は、すぐにハンカチを取り出し拭こうとした。しかし力が強すぎ、手の甲の針跡に触れた瞬間、愛乃は思わず声を上げた。その声に眉をひそめた彼は動きを止め、ゆっくり楓へと顔を向けた。「そんなに好きなら、このデザート作った栄養士、君にやる」「解雇は禁止だ。三年間、毎日欠かさず食え。一日でも抜いたら……俺が直接監視する」驚きの声があちこちから漏れた。「これ、海外で三ツ星のミシュランシェフじゃない!?どうやって払うのよ!」「泣きながら食べることになるんじゃない?」楓の顔は徐々にこわばり、目を赤くして退席し
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第7話

翌日、正午近くになってようやく、愛乃は体を起こす力を取り戻した。階下へ降りると、諒が台所で忙しくしている姿があった。テーブルには出来上がった昼食と、手を付けていない朝食まで並んでいた。彼がいつ帰宅したのか、愛乃は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。「栄養士たちはどうした?」背後から近づき、彼は彼女の手を取った。昨日、怒りをぶつけた相手とは思えぬほどの、いつもの甘やかな声で諒は言った。「選べなかったなら、全員残せばいい。俺が払える」愛乃は動かず、淡々とした眼差しで問い返した。「……麻生さんが連れて行った木村さんも含めて?」握られた手をはじくように振り払った。諒は振り向き、瞳に苛立ちをにじませた。「いい加減にしろって言ってるだろ!」愛乃は少し驚いた。二十年以上の付き合いの中で、諒がこんな大声を上げたのは初めてだった。「いつまで拗ねるつもりだ?愛乃、俺の我慢にも限界がある」愛乃ははっとした。その言葉を最後に聞いたのは、子供の頃、自転車の練習をしていた時だった。何度も彼の胸に倒れ込み、彼は笑いながらからかっても、決して手を離さなかった。だが今では、楓のことを一言でも口にすれば、簡単に彼を苛立たせてしまうようになっていた。愛乃はふいに、これ以上彼と向き合う気を失い、バッグを手にして部屋を出た。車のドアを閉める瞬間、屋内から食器が床に落ちる音が響いた。深夜になってようやく帰宅すると、リビングのソファに楓が座っていた。「りょ……いえ、相川社長は出張に出る予定です。私は仕事で来ただけです」愛乃は何も言わず、そのまま階段を上がった。しばらくして、楓がドアをノックした。「相川社長に頼まれて、荷造りを手伝いに来ました」愛乃は雑誌をめくりながら片手を上げ、クローゼットの方を示したが、楓はすでに中へ入っていた。楓の指は諒のスーツを一着ずつなぞり、ガラスのショーケースに収まった宝飾へと移った。その目には露骨な欲が光っていた。愛乃はそれらすべてを見なかったことにした。楓がスーツケースを引きずって出てきた時、ちょうど諒が帰宅した。「今回の出張は南の島へ行く。数日滞在するが、来たければ一緒に来い」楓の表情が一瞬ぎこちなくなり、隣のスーツケースが倒れて彼女の脚にぶ
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第8話

出張三日目、楓のSNS更新が一気に増えた。涼しげな服装の甲板ショット、美しい風景の登山写真、上品なレストランでの食事写真……変わらないのは、どの写真の隅にも必ず諒の姿が写っていることだった。最新の投稿では、彼女は堂々と彼の腕に手を回し、諒の横顔がはっきりと映っている。まるで新婚夫婦のように。投稿文には「上司と有給旅行中、邪魔しないでね」と書かれていた。愛乃の親指が画面の上で一瞬止まり、うっかり「いいね」を押してしまった。三秒も経たないうちにスマホが震え、画面に諒の名前が表示された。「今夜は嵐になるらしい」受話口からは、彼の声と共に波の音がはっきりと聞こえた。「戸締りはちゃんとして、雷が鳴っても怖がるな」窓の外では、雨がガラスを絶え間なく叩き続けていた。昔、彼女が一番怖がっていたのは雷雨の夜だった。その頃の諒は必ず予定を早めて帰宅し、氷のように冷たい彼女の足をそっと抱きしめて温めてくれた。その腕の中にいれば、世界は静まり返った。今、嵐に向き合うのは彼女一人だった。諒がまだ何かを話していたが、愛乃にはよく聞き取れなかった。そのとき、突然、澄んだ女性の声が割り込んできた。「諒!早く!花火が始まるよ!」「えっ、私の名前になってる!」「これ、私へのサプライズ?」「もう、すっごく嬉しい!」その喜びの声を聞きながら、愛乃の頭に海辺ではしゃぐ楓の姿が浮かんだ。受話器の向こうで衣擦れの音がし、諒は短く「早く寝ろよ」と言って電話を切った。無機質な「ツーツー」の音と雷鳴が重なり合い、やがて稲光が夜空を裂いたとき、彼女の涙は窓の外の雨と一緒にこぼれ落ちた。夜が明けると、雨は止んでいた。愛乃が窓を開けると、庭は荒れ果てていた。結婚の際に諒と共に植えた薔薇はすべて風雨に打ち砕かれ、花びらが地面に散っていた。昔なら、きっと長い間心を痛めただろう。しかし、別れが迫った今は、彼女は自分に言い聞かせた。「留められないものは、無理に掴もうとしなくていい」と。愛乃はスーツケースを広げ、自分の持ち物を整理し、持っていけないものはひとつひとつ壊して捨てた。彼女は自分の存在を示すものを、この家から丁寧に取り除いていった。再びスマホが震え、また諒からのメッセージだった。十数枚のジュエ
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第9話

家に戻った諒は、庭で倒れている小さな木につまずいた。眉間に皺を寄せ、横倒しになった草花を踏み越えながら、ドアを押し開ける。「愛乃、ただいま」だが、返事はなかった。何度か呼びかけたあと、諒はプレゼントでいっぱいのスーツケースを提げ、階段を駆け上がった。「愛乃、この前君が気に入ってたネックレスを買ってきたぞ!」寝室のドアは開け放たれ、空になったクローゼットが目に飛び込んだ。諒はその場で立ち尽くし、壁に掛けられていた結婚写真が消えていることにも気づいた。ここ数日、愛乃から一通も返信がないことを思い出し、胸の奥に冷たいざわめきが走った。そのとき、階下から物音がした。急いで降りると、そこにいたのは楓だった。「どうしてキミがここにいるんだ?」楓の笑みは一瞬固まり、すぐに彼に寄り添うように近づいた。「あなたのジャケット、うちに忘れてました」彼女は室内を見回して小さく尋ねた。「江崎さんは……いないの?」諒はその差し出された手を避け、眉を深く寄せた。「いないどころか、荷物までなくなってる」楓の表情が一瞬こわばり、探るように声を低めた。「……あの日、荷造りを手伝っていたとき、彼女が『ここを出て、二度と戻らない』って言ってた気がする……」「ありえない」諒は即座に遮った。「愛乃が俺から離れるなんて、絶対にありえない」これまでも、彼が過ちを犯せば、愛乃はいつも許してくれた。深い愛ゆえに、彼女はいつもそばにいたのだ。離れるなんて、絶対にありえない。「たぶん、気分転換で出かけただけだ。すぐ戻ってくるよ」楓は諒の腕を引き、外へ連れ出した。「木村さんが夕飯を作って待ってるから、今日はうちに来てよ」諒は断らなかった。ドアが閉まる直前、楓の視線がリビングのゴミ箱に留まった。――先ほど、彼女がテーブルの上の指輪とスマホを放り込んだとき、大きな音がしていた。諒が慌てて降りてきたとき、彼女はちょうどその隣に立っていたのだ。――江崎さん、出て行くなら、跡形もなく消えたほうがいい。まるで死んだみたいに、な。食卓には温かい料理が並んでいたが、諒は箸をつけず、皿の上の海老を見つめていた。「愛乃は海老が一番好きだった」楓の箸が途中で止まり、「パシン」と音を立てて卓上に落ちた。「木村
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第10話

「……ゴミ箱の中に?」諒は、自分の声がひどくかすれているのを聞いた。「はい。指輪と携帯、両方とも中にありました」木村がそれらをテーブルに置いた。諒はスマホを手に取った。画面が点いた瞬間、ロック画面の写真が目に飛び込んできた――それは、二人が新婚旅行をしたときのツーショットだった。諒の胸を、かつて感じたことのない不安が締めつけた。彼は愛乃の指輪をそっと撫でた。記憶の中で、彼女が結婚指輪を外したのはただ一度きりだった。それは結婚一年目の冬。庭で雪だるまを作っているときに、指輪がするりと抜け落ちだ。彼が会社から戻ると、愛乃は雪の中に膝をつき、真っ赤にかじかんだ手で探していた。「雪が解ければ自然と出てくるさ。帰ろう」そう諒は言ったが、彼女は頑なに首を振り、夜中の三時まで探し続け、ようやく庭の端で光る指輪を見つけた。その夜、愛乃は高熱を出しながらも、その指輪を手のひらに握りしめ、うわ言のように呟いた。「諒、見つけたよ……もう絶対に失くさないから……」だが今、彼女は自らそれを外し、ゴミ箱へ投げ入れた。ふと、諒は自分の指にも何も嵌っていないことに気づいた。そうだ――楓を喜ばせるため、仕事の邪魔になるともっともらしい理由をつけて……彼はとうの昔に外していたのだ。彼は引き出しを開け、二つの指輪を並べて置き、そして愛乃のスマホを手に取った。震える指で、自分の誕生日を入力すると、ロックが外れた。最新のアルバムに二本の動画が残っていた。一本目――画面の中、オフィスで楓が彼に身を寄せ、指先を彼のネクタイにかけている。彼はその身体を押し留め、指にはあのネックレスがぶら下がっていた。……おかしい、あの日、自分は確かに監視カメラを切ったはずだ。二本目――あの宴の日。楓が愛乃の手首をつかみ、自分から後ろへ倒れこみ、甲高い悲鳴を上げた。倒れる直前、彼女の口元に浮かんだ勝ち誇った笑みが、鮮明に映っていた。――これが真実か。楓は、自分が思っていたような無害な女ではなかった。諒は思い出した。あの日、自分は彼女の注射痕のある手を乱暴に引き、嫉妬で楓に手を出すなと強く責めた。今思えば、愛乃は最後まで何も言わず、ただ彼を見ていた。その瞳の奥で、何かが静かに消えていったことに、
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