LOGIN江崎愛乃(えざき あいの)は人混みの中に立ち、手には二つの書類を握りしめていた。 一つはアレキシサイミアの診断書、もう一つは戸籍謄本だった。 三時間前、病院のシステムに登録された婚姻状況が「離婚」と表示されていることを不審に思い、わざわざ市役所まで足を運んだのだった。 職員が顔を上げた。 「江崎さん、確かに相川さんとは三年前に離婚されています」 愛乃の表情が一瞬固まった。 「そんなはずはありません。三年前、私たちはちょうど結婚したばかりです」 職員はもう一度確認し、少し困惑した様子で言った。 「申し訳ありませんが、システム上、確かに離婚の記録は三年前となっており……ご結婚から七秒後に登録されています」
View More――二年後。愛乃は早足で歩きながら、片手にスマホを当て、もう一方の手で秘書が差し出した入札案の最終稿を素早くめくっていた。「そろそろ島に戻ってみないか?」電話越しの慶の声は、柔らかな笑みを含んでいた。愛乃の唇が自然とほころぶ。「あと数日ね。最近は地に足がつかないくらい忙しいの」デスクの上には、母から届いた絵葉書が置かれている。「君のお母さんとうちの母さんが一緒に世界一周に行って、会社を私たちに丸投げしてから、一晩もぐっすり眠れてないわ」「江崎社長、それは愚痴かな?」慶の声には茶化しと優しさが混ざる。「先月、『年間最も影響力のある若手経営者』に選ばれた人が言う台詞じゃないね」「それはあなたが悪くないからよ」愛乃は書類を閉じ、ふっと目を上げた。二人の視線が空中で交わり、同時に通話が切れる。――そして、入札会場。二人が向かい合い、愛乃は真剣な表情で口を開いた。「今回の入札、もうあなたには負けない」慶も笑みを浮かべる。「俺も手加減はしないよ」同じエレベーターに乗り込む二つの会社の人たち。張り詰めた空気の奥に、不思議な調和が漂う。三時間後――司会者が江崎グループの勝利を告げた瞬間、愛乃の視線は無意識に慶を探していた。彼は落胆の色を見せず、真っ先に立ち上がって拍手を送り、その瞳は誰よりも誇らしげに輝いていた。終了後、慶は会所の最上階バーを貸し切った。両社のメンバーはすぐに打ち解け、笑い声が響く。――しかし、その和やかさを破るように、隣の個室からガラスの割れる音と女の泣き声が聞こえてきた。「宍戸社長、お願いです、もう一度だけ考え直してください!相川グループは今は苦しいだけで、諒なら必ず立ち直れますから!」扉が半開きになった個室の中で、楓が化粧を崩し、中年の男の腕を必死で掴んでいた。隣の子供椅子には、二歳ほどの男の子が落ち着かず身をよじっている。テーブルには空になった酒瓶が五、六本並んでいた。「麻生さん、失礼ですが――」宍戸社長は冷たく手を振り払った。「どんな大物が来ても、もう助けにはなりません」愛乃はそれ以上見ず、立ち去ろうとしたが、出口で楓と鉢合わせる。涙に濡れた瞳がこちらを向く。「あなたは運がいいだけよ。実家が後ろ盾になって、男たちが君に群がって……
三年前――愛乃はこの窓の前をウェディングドレス姿で通り過ぎていた。その時、これから自分を待つのは幸せな人生だと、何の疑いもなく信じていた。今振り返れば、それはまるで夢のようだった。夢の中で、彼女は卑下するほど愛し、骨の髄まで痛みを味わい、そして目覚めた時に残っていたのは、粉々に砕けた思い出だけだった。母と楽しそうに語らう慶を見つめながら、愛乃は胸の奥で嘆息する。――運命とはなんと残酷な冗談を仕掛けるのだろう、と。だが、すぐに口元にほのかな安堵の笑みが浮かんだ。巡り巡って原点に戻ったのなら、今度こそ間違いを正してやり直せばいい。――今度は誰のためでもなく、自分のために生きるのだと。気づけば、実家で過ごして一週間が経っていた。旭島の養殖場が気がかりで、愛乃と慶は一度戻って様子を見ようと決めた。わずかな日々を共に過ごしながら、母との間に空いていた何年もの溝を埋めていた。父が亡くなってから、母は深い悲しみに沈み、愛乃は新たな拠り所を求めて諒との結婚に飛び込んだ。今思えば、二人とも間違った方法で傷を癒そうとしていたのだ。「ママ……今日、旭島に戻ろうと思うの。養殖場を再建しなきゃ。島の人たちも……」「言い訳はいらないわ」母は遮り、理解の光を瞳に宿したまま微笑んだ。「行きたいなら行きなさい。あなたが笑顔でいられるなら、それが一番よ」朝食の席で、会社の財務担当から電話が入った。相川グループへの資金はすべて回収済みで、全取引も解消し手続きが完了したとの報告だった。愛乃は静かに耳を傾け、自分の胸に広がる驚くほどの平穏に気づいた。かつて命さえ削るほど苦しめられた名前が、今では信用を失ったどこかの取引先にすぎなかった。「すべて終わったわ」電話を切った母が意味ありげに彼女を見つめた。「これで、本当におしまいよ。早く帰ってきなさい」最後の言葉とともに、力強い抱擁が交わされた。車は江崎家の門をゆっくりと出て行った。窓越しに遠ざかる屋敷を見ても、愛乃の胸にあるのは未練ではなく、奇妙なほどの軽さだった。市の中心広場で赤信号にかかった。巨大スクリーンの朝のニュースが、車内まで響いてきた。「相川グループ代表・相川諒氏、最近の不可解な行動が話題となっています。会社が調査を受けた直後、市民が昨
江崎家の旧宅。愛乃はソファに腰掛け、雨に滲む外の景色をじっと見つめていた。三年――諒と結婚してから、実家へ帰ったのは数えるほどしかなかった。先ほどまで、離婚の事実と相川家での出来事を、余すところなく母に語り尽くしていた。「――あの野郎!」江崎一夏(えざき いちか)は勢いよく立ち上がり、書斎の机に向かって電話を取った。「すぐに書類を用意して! 相川グループから全ての資金を引き揚げるわ、今すぐよ!」電話を切ると、彼女は愛乃のそばに戻り、目に涙を浮かべた。「愛乃……ママが悪かった……パパが亡くなってから、悲しみに沈んで、あなたのことをちゃんと見てあげられなかった。あの時、諒との縁談を許したのは、あなたが彼に好意を持っていると思ったから……少なくとも、幸せになると信じていたのに……」愛乃は首を振り、母の手を握った。「ママのせいじゃない。私が、愛があれば全て乗り越えられると、浅はかに信じていただけ」一夏の視線が慶へと移った。「あなたのお母様は……お元気?」慶は頷いた。「母は早くに海外へ移り住み、元気にしています。一夏さんのことも、ずっと案じていました」一夏と慶の母は大学時代の同級生で、かつては最も親しい友人同士だった。だが運命は二人を引き裂いた。片や若くして夫を亡くし、片や離婚後に遠くへ去り、それきり音信が途絶えた。「……二階へ行きなさい。ゲストルームは整えてあるわ。愛乃、友達を案内してあげて。夕食の時に、またゆっくり話しましょう」愛乃は慶を伴って階段を上がり、途中のテラスで足を止めた。手すりに触れながら、遠い日を思い返す。「あの日……ここで私は諒を選んだ」その声には悲しみはなく、ただ尽きることのない感慨が滲んでいた。慶も隣に立ち、窓の外の門を指差した。「その日、俺はあそこで待っていた。母が車の中で急かすから、贈り物を置いてすぐ帰ったんだ。――それから二十年、会わなかった」「あなたが……贈り物?」愛乃の記憶では、客を見送ったとき、門には何もなかったはずだ。「紫の蝶の飾りがついた風鈴さ。あの日、君が紫のセーターを着ていたから」愛乃の胸に雷が落ちたような衝撃が走った。――その後まもなく、諒も同じ風鈴を贈ってきたのだ。紫の蝶が揺れる風鈴を。彼女はふっと笑った。
会議室で、相川諒は四半期報告を聞いていた。だが、彼の心はどこか上の空で、手元の資料をめくりながらも、時折スマホに目を落としていた。愛乃が去ってからというもの、彼はその癖をやめられなかった。まるで次の瞬間に彼女から連絡が来るかのように期待していたが、いつも裏切られていた。「では次に……」秘書の声が彼を現実に引き戻したその時、会議室の扉が突然押し開けられた。高いヒールが床を鋭く打つ音が響く。諒は顔を上げ、瞳がぎゅっと縮んだ。信じられない光景がそこにあった。純白のテーラードスーツを着こなし、長い髪をきりりとまとめた愛乃が、鋭い眼差しで彼を見つめて立っていた。その後ろには数名の捜査員が控えている。一人が令状を差し出した。「通報を受け、貴社における一部の不正取引について調査に参りました。ご協力をお願いします」会議室は瞬時にざわめいた。会社の将来を案じる声、そして何よりも、ここに愛乃が現れたことへの驚きが広がった。彼らは知らなかった。「社長夫人」など、もはや肩書きだけの存在であることを。諒は反射的に立ち上がった。――そうだ、忘れていた。これが彼女の本職だったのだと。愛乃は言い訳を続ける秘書の声を冷ややかに遮り、諒に視線を向けた。「相川社長、証拠はすでに捜査機関に提出済みです。説明を求められているのは、これだけではないはずです」その視線は鋭い刃のように、彼の胸を貫いた。「それから――」彼女はファイルから一枚の書類を取り出した。「あなたの奥様、麻生楓さんについても、いくつか不審な行動が確認されています」その言葉に、室内は再びざわめきに包まれた。愛乃の声は、島での破壊行為の記憶とともに、かすかに震えていた。「相川社長――納得できる解決策を示してください」踵を返し、彼女は去っていった。高いヒールの音が冷たい空気を切り裂き、遠ざかっていく。諒はその場に立ち尽くし、世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。だが、数秒後には彼女を追いかけていた。彼女は大きなガラス窓の前に立ち、まるで彼の来るのを待っているかのようだった。「……本気でそこまでやるつもりか?俺たちの会社同士はまだ提携が――」愛乃は冷たく哀れむように笑った。「本気?あなたが何度も私を騙したとき、そ
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