花咲の響き、何処とも知らず のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

29 チャプター

第1話

「院長先生、この前おっしゃっていたヨーロッパ留学の件については、決めました。私、行きます」月岡花咲(つきおか はなお)は虚ろな目で鏡を見つめた。そこに映っているのは、青ざめた顔に赤く腫れた目、そしてどこかやつれた自分の姿だった。電話の向こうで、院長の弾んだ声がすぐに返ってきた。「やっと決心してくれたのね、それでいい。このチャンスは一度きりよ。ただし、ご主人とちゃんと話しておきなさいね。行ったら三年間は戻れないし、手続きもあるから、遅くとも来週には出発しないと」花咲は深く息を吸い込んだ。「大丈夫です。ちゃんと折り合いをつけます」話しを終えるや否や、彼女は慌ただしく電話を切った。少しでも遅れれば、泣き声を抑えられなくなりそうだったからだ。花咲は先週、立て続けに七件の再建手術をこなした。最後の女の子の患者は、特に強く印象に残っている。透き通るような白い肌、細い足、あどけない可愛らしさを残す顔立ち。こんなにも清楚で純粋そうな少女が、再建手術を受けに来ること自体、滅多にない。そして、何よりも驚いたのは、その女の子が自分とどこかよく似ていることだった。だが、今回救急から運ばれてきたのは、まさにその女の子だった。つい先日、修復手術を終えたばかりの子が、今度は重傷で搬送されてきたのだ。女の子はまるで虐げられ、踏みにじられたかのような様子で、それが花咲の胸に怒りを灯した。不安が一気に心の中に広がり、花咲は思わず両手をぎゅっと握りしめる。必死に声色を落ち着けながら、問いかけた。「こんなにひどい怪我……通報してあげしましょうか」通報という二文字が出た途端、女の子は途方に暮れたように慌てだした。「いいえ……いいんです。私の彼氏が……私が可愛いから、つい我慢できなかったって。もう二度と、こんなことはしないって……約束してくれたんです」花咲は眉をひそめ、視線の端に少女の手首が映った。そこには、見覚えのありすぎる銀色のブレスレットが光っている。身をかがめ、そっと近づけて嗅いでみた。やはり、微かにあの椿の香りが漂ってきた。女の子は頬を真っ赤に染め、恥じらいを隠せない様子で、花咲がじっと自分のブレスレットを見つめているのに気づくと、まるで証明するかのように手首を高く掲げ、言葉を添えた。「先生、ほら見て、これも
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第2話

花咲は、乱れた自分の姿を手早く整え、いつも通りの笑みを浮かべた。「彼には知らせなくていいです。私は大丈夫です」その時、デスクの上に置かれたスマホがメッセージの通知音を立てた。画面には二件の不在着信と、一通のメッセージ。【ご飯食べた?なんで電話に出ないの?今日は患者さん多かったか?出前で夜食を頼んでおいたから、もうすぐ届くよ。明日の朝帰ったら何が食べたい?作ってあげる】スマホを握る指に、ぐっと力がこもる。抑えていた涙が、再びこみ上げてきそうになった。花咲はふと、今朝のことを思い返した。家を出る前、遼がそっと唇を重ねて別れを告げてくれた。そして、生理中の彼女を気遣い、体を温める甘いスープをわざわざ用意して、保温ポットに詰めて持たせてくれた。初めて、花咲は遼のメッセージに返信をしなかった。スマホの画面を消した。ドアの向こうからノックの音が響き、看護師の声が届いた。「月岡主任、さっき手術を終えた患者さんが、傷口がとても痛いと言っています。診ていただけますか」花咲は病室に入ると、目に飛び込んできたのは、シーツを強く握りしめ、痛みに耐えるように身をよじらせている女の子だった。――小林由奈(こばやし ゆな)。さっきカルテで見た名前が頭によみがえた。「先生、すごく痛いんです。また血が出てますか……怖いです」由奈の目尻には涙が滲み、どうしていいかわからないといった様子で、頼りなく可哀そうに訴えてくる。傷口に新たな異常が起きないよう、花咲はもう一度彼女の診察を行った。その時、由奈は頬をほんのり染め、花咲に聞いた。「先生、実は……傷の痛みよりも、もっと気になってることがあって……手術のあとって、どれくらい経ったら、彼とそういうこと、しても大丈夫なんでしょうか」花咲はちらりと由奈に視線を向けた。由奈はさらに頬を染め、言い訳のように続けた。「私、そんなにしたいわけじゃないんです。でも、彼がすごく欲が強くて」さらにどこか誇らしげに言った。「だからちゃんと応えてあげたくて……先生、一番早くてどのくらいでできますか?」花咲は淡々と由奈の傷口を確認すると、手袋を外し、告げた。「セックスは、早くても一か月は控えてください」その声色は業務的だったが、言葉を口にするだけで精一杯だった。由奈は小さく「あ……」と漏
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第3話

花咲はここまで思い至ると、鼻の奥がつんと痛み、思わず自嘲気味に口元をゆがめた。「大丈夫。あとで飲むから」「今すぐ飲め。さもないと、すぐ車を飛ばして病院に行くぞ」遼はきっぱりと言った。花咲の胸の奥が、どうしようもなく切なく締めつけられた。遼の愛は、あの頃から何ひとつ変わっていないように見える。もし、由奈の体にあの確かな証拠を見てしまわなければ、花咲は、遼の愛はこの先もずっと揺らがないと信じていただろう。翌朝、同僚と引き継ぎを済ませた花咲は家へ戻った。そこにはすでに遼が食事を整え、彼女の帰りを待っていた。「明後日は君の誕生日だから、他の予定は全部取りやめた。コンサートのチケットも取った。一緒に行こう」遼は言いながら、花咲の茶碗に次々と料理を取り分けた。どれも彼女の好物ばかりだ。花咲が二口も口にしていないうちに、遼はやや落ち着かない様子で立ち上がった。「食べ終わったらゆっくり休んでて。会社で急ぎの用があって、もう何度も急かされているんだ。君はしっかり休んで、夜には甘いものを買って帰るから」そう言って花咲のそばに歩み寄り、額に軽くキスを落とした。花咲は表情を崩さず、ふと光った画面に目を落とした。表示された登録名は「小林部長」、だが、その番号はカルテに記されていたあの番号と同じだった。遼が家を出る音が完全に消えるまで待ち、花咲は箸を置き、洗面所に入った。額を何度もこすり洗い、赤くなるまで手を止めなかった。洗面所を出ると、そのまま二人の寝室に戻り、クローゼットから自分のスーツケースを取り出して荷物をまとめ始めた。荷物は驚くほど多かった。ほとんどが遼が買い与えたものだ。これまで、花咲が何かをほんの一瞬でも目に留めれば、遼はためらうことなく買い与えてくれた。こうして積み上がったアクセサリーや服の数々は、かつての花咲にとって幸福の象徴だった。だが今では、ただの重荷にしか見えなかった。花咲は自分で買った服を数着だけ残し、引っ越し業者を呼び寄せた。残りの荷物を箱ごと運び出してもらった。引っ越し業者のスタッフが、花咲にいくつかの高価な宝石のオーダーメイドジュエリーをどう処分するのか尋ねてきた。花咲は遼が自らデザインしたアクセサリーの詰まった箱を見つめた。それはかつて、何よりも大切にしてきた宝物だった。だが今は、
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第4話

唇を噛みすぎて、ほとんど血がにじみそうだった。花咲は笑顔を作ろうとしたが、それは泣き顔よりもずっと歪んで見えた。「わかったよ、おじいちゃん。すぐに電話する」花咲はすぐさま、遼に電話を掛けた。彼の口からあの偽りの約束を聞きたいわけじゃない。ただ、祖父に未練を残したまま逝ってほしくないだけだった。けど、続けて三度電話をかけたが、応答はなく、あるいはすぐに切られた。こんなことは今まで一度もなかった。花咲は何かに気づいたようで、怒りに震えが全身へと広がっていった。彼女は必死に感情を押し殺し、込み上げる苛立ちを呑み込みながら、四度目の発信ボタンを押した。今度で、ようやく繋がった。花咲の目がぱっと輝き、すぐに口を開いた。「りょ……」しかし、その先の言葉は口に出る前に、電話の向こうから次々と響く甘ったるい声に遮られた。花咲はいち早くも反応し、ほとんど反射的に音量を最小にし、スマホを握りしめて一歩後ずさった。それでも、漏れ聞こえた耐えがたい声は、はっきりと耳に届く。あまりにも鮮明で、遼の息の乱れた声まで聞き取れてしまうほどだ。心地よい低い声に、今はあからさまな情欲の色が混じっていた。「……由奈、お前は本当に小悪魔だな」由奈は艶めいた声で小さく甘く鼻を鳴らし、「じゃ、遼……教えてよ。私と、月岡花咲、どっちが好き?」遼はまさに昂ぶりの最中にあり、由奈を叱ることもせず、少し苛立った声で言った。「……花咲のことを言うな」由奈は吐息まじりの甘い声で、遼をさらに欲望の深みへと引きずり込む。そして、わざと花咲に聞かせるように声を張り上げた。「だって遼、あなたが言ったんじゃない?彼女、全然色気がないって」「……花咲」祖父の弱々しい声が、花咲を取り乱しそうな淵から引き戻した。容体はすでに極限まで悪化しているはずなのに、花咲の顔色を気にして、無理を押して病床から身を起こそうとした。「まさか遼のやつ、出ないのか。電話よこせ。私が説教してやる」花咲は胸を切り裂かれるような痛みを押し込み、素早く通話を切った。そして、笑顔を作った。「大丈夫だよ、おじいちゃん。遼は忙しいだけ。一生、私を守るって言ってくれたから」ようやく安心したように、祖父は再び身を横たえた。最期の時が近づいてもなお、花咲
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第5話

由奈は今回、遼をすっかり夢中にさせた。彼が気づいて、家へ引き返したのは、すでに四日後のことだった。花咲に盛大な誕生日パーティーを開くと、固く誓ったあの約束さえも、気づけばすっかり頭から抜け落ちていた。家へ向かう途中、遼も友人から、花咲の祖父が亡くなったとのことを受け取った。彼は少しうろたえ、不安を覚えた。花咲はきっと怒っているだろう。怒られるのは構わない。ただ、疑われるのが怖い。なぜなら、スマホの通話履歴に、花咲からの着信が一件残っていたからだ。通話時間はおよそ一分。だが遼には、その記憶がまったくなかった。由奈もまた、強い口調で言い切った。少なくとも二人がベッドにいたとき、花咲からの着信はなかったと。きっとどこかの拍子に、遼が誤って応答してしまったのだろう。それでも遼の胸の奥には不安が残った。だが同時に、あの高慢な花咲の性格を思えば、本当に何かに気づいていたのなら、こんなふうに静まり返っているはずがない、とも感じていた。そんなふうに自分に言い聞かせながらも、足は自然と急いでいた。車を降りると同時に彼は別荘へ駆け込み、息が切れるほど走って、普段の端正で気品ある姿はどこにもなかった。遼はリビングルームへ駆け込みながら、大声で花咲の名を呼んだ。「花咲!花咲」そして、書斎で丸くなって眠っている彼女を見つけた。胸の奥にのしかかっていた重石が、ようやく音を立てて落ちた。黒いドレスに、ふわりとした長い巻き髪。その髪に、小さな白い花がひとつ。彼女は前よりもずっと痩せて、やつれていた。固く閉じられた瞼、青白い肌、花咲はしおれた花のように脆く見える。頬には乾ききらぬ涙の跡、抱きしめているのは一冊のアルバムだった。遼の胸がちくりと痛み、目尻も赤くなった。そっと抱き上げようと膝をつくが、起こしてしまいそうで、ただ優しい声で呼びかけた。「花咲、ただいま。ごめん、このところ忙しくて、おじいちゃんのお葬式も逃してしまった。大丈夫。おじいちゃんがいなくても、俺がいる。これからもずっとそばにいるから」花咲は、祖父と再会する夢の真っ中だった。その夢に、耳元で犬が吠えるような声が割り込んでくきた。ゆっくりと瞼を開け、遼を見た瞬間、瞳の奥にほんの一瞬だけ嫌悪の色が走った。だが、すぐにそれを隠し、ただ
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第6話

遼は、このとき想像もしていなかった。自分が部屋を出ていった直後、花咲が明後日の夜にヨーロッパ行きの航空券を手配していたなんて。誕生日パーティーの日、遼は共通の友人たちを大勢招いていた。花咲を喜ばせようと、遼は持てる限りの心尽くしをした。誕生日パーティーのあちこちに、遼の巧みな仕掛けが光っていた。来客は皆、その細やかな心遣いに感嘆の声を上げずにはいられなかった。花咲は遼の隣に立ち、相変わらず気高く美しかったが、心の中では夜にヨーロッパへ到着したあとの予定を思い描いていた。「花咲……」不意に、どこか取り乱した遼の声が耳元に落ち、思考が引き戻された。遼は緊張した面持ちで問いかけた。「あの箱はどこだ?ほら、俺がデザインしたアクセサリーを詰めた箱。どうして箱ごとなくなってるんだ?」毎年、花咲の誕生日には、遼が自ら手作りしたアクセサリーを贈ってくれた。さまざまなデザインのものだ。それは彼なりの、濃やかな愛情の証だった。花咲はいつも、その箱を宝物のように大切にしてきた。今年も遼は例年通り、ブルーサファイアのネックレスをデザインして贈っていた。ただ、花咲がすでにネックレスを身につけていたため、遼はひとまず箱にしまっておこうと考えた。ところが、二人の寝室に戻ってみると――金庫の中の箱はすっかり姿を消していた。泥棒が入ったのかと、遼は息をのんだ。花咲が何よりも大事にしていたものだからこそ、遼はこれほどまでに慌てたのだ。花咲はまあまあ落ち着いた様子で、穏やかに笑いながら答えた。「この前ね、少し古くなってきたと思って、職人に預けて専門の修理工房に送ったの。きっと数日もすれば戻ってくるわ」遼はその言葉にようやく安堵の息を漏らした。だが、花咲を見つめるその眼差しには、まだどこか探るような色が残っていた。「さっき、少し家の中を見回したら、君の持ち物がずいぶん減っているように見えたんだ。花咲……」彼は花咲の手を握り、子供のように不安げな声を漏らした。「家の中から君の気配がなくなるのは、怖い」花咲の視線は相変わらず波ひとつ立たず、「何でもないわ。ずっと着ていなかった服があって、汚れていたから捨てただけよ」と淡々と答えた。遼はようやく笑みを浮かべ、甘えるように彼女の鼻先をつついた。「汚れてい
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第7話

由奈はわざと服のボタンを二つ多く外し、白い首筋に残る生々しい赤い痕をあらわにした。花咲は背筋をすっと伸ばし、白鳥のように気高く優雅な姿勢を崩さないまま、落ち着き払った声で短く問いかけた。「何かご用?」由奈の瞳に、ふっと嫉妬の影が走った。彼女は花咲にぐっと近づき、二人だけに聞こえる声で囁いた。「ねえ、この前……私と遼の声、良かったか?」少し丸みを帯びた切れ長の瞳に宿るのは、作り物の無垢さと、底の見えない悪意。花咲のグラスを握る手に、さらに力がこもった。指先はうっすらと白くなっていた。由奈はさらに距離を詰め、美しいはずの顔を歪めて言葉を突き刺す。「遼はね、いちばん愛してるのは私だって言ったの。なのに、あなたは私たちの関係に気づいていながら、どうして席を譲らないの?そんなに厚かましいの?まあ、いいわ」由奈は突然、口元を歪めて笑った。その笑みはどこか不気味だった。「じゃあ、遼に選ばせようよ。あなたか、私か」そう言うや否や、由奈は急に表情を荒らげ、花咲の手をつかんで右へと強く引き倒した。花咲が振り払う間もなく、二人はもつれるように倒れ込んだ。右側には、花咲のために遼が用意した巨大な二十段のバースデーケーキ。その中には、硬くて鋭い支え棒が隠されている。反射的な生存本能で、花咲は由奈を突き飛ばした。だが、避けきれず、脚が支え棒で裂かれた。ドレスもケーキで汚れた。由奈は短く悲鳴を上げ、転がった拍子にケーキが揺れ、最後には彼女の上に崩れ落ちた。その光景に、場の空気が凍りついた。やがて人混みの中から、悲鳴とざわめきが広がった。遼が異変に気づくやいなや駆け寄り、真っ先に花咲のもとへ向かった。だが、歩み寄る直前、周囲の声が耳に入った。「ねえ、あの女の子、誰? なんだかすごく可哀そう。あんなにひどい怪我をして」「え、花咲にそっくり」その瞬間、遼の足はまるで凍りついたかのようにぴたりと止まった。もう花咲の方へ一歩も近づくこともなかった。花咲は、なおも血が流れ続ける脚を押さえながら、悔しげに遼を見つめた。これが、彼が自分に約束した盛大な誕生日パーティーなのに。もう離れる覚悟は決めていた。それでも、花咲は自分の誕生日に、人前で惨めな姿をさらすつもりはなかった。「遼……」と花咲
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第8話

夜九時。ヨーロッパのある国へ向かう便が、予定通りに離陸した。その機内には、花咲がいる。ちょうどそのころ、遼は由奈が目を覚ましたと聞き、ようやく胸をなでおろした。そこでようやく、花咲に電話をかけようと思い立った。だが、なぜか繋がらない。発信しても【電波が届かない】と表示されるか、あるいは通話中とだけだった。頭にふいに、あの光景がよぎった――その場に崩れ落ち、助けを求めるように自分を見上げていた花咲の瞳。胸の奥が妙にざわつき、彼は苛立たしげに髪をかきむしった。理由もなく、どこか息苦しさが込み上げてくる。遼は思いもしなかった。由奈がこんな無茶をして、花咲のために用意した誕生日パーティーへ紛れ込むなんて。しかも今となっては、彼女が花咲に何かを告げたのかどうかも分からない。あんな事故がなぜ起きたのかさえ、見当がつかなかった。そもそも由奈を選んだのも、花咲のためだった。もし花咲の誕生日パーティーで人命に関わる騒ぎでも起きれば、そのとばっちりを受けるのは間違いなく花咲自身だ。幸い、見た目こそ物々しかったが、由奈の怪我はかすり傷程度で済んでいた。電話が繋がらないため、遼はメッセージを送ることにした。誠意と想いを込めて、長文を丁寧に綴った。送信ボタンを押した。その直後、秘書が遼を探しに駆け寄ってきた。「社長、先ほどの小林由奈さんがお会いしたいと」遼はメッセージが届いていないことにも気づかぬまま、慌ただしくスマホをしまい、秘書の後を追って病室へと向かった。由奈はまだ体に包帯が巻かれている。血の気のない顔に大粒の涙を浮かべ、哀れっぽく遼を見上げた。遼の姿を見つけるやいなや、力なく震える声で甘えた。「遼……すごく痛いの。もう、二度と会えないかと思った」普段なら、由奈がこんな顔を見せれば、遼は決まって胸を締めつけられた。理由はただひとつ、彼が花咲を深く愛していたからだ。だからこそ、この面影を宿した顔で、悲しみや悔しさを浮かべられるのが堪らなかった。たとえ、その似姿がほんの五分の一しか重ならなくても。だが今の遼は、由奈をただ冷ややかに見据えるだけだった。声は、凍てついた石の上に散らばる氷片のように冷たく、鋭かった。「由奈……お前、どうして花咲の誕生日パーティーに突然現れた?彼
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第9話

彼は今すぐにでも家へ帰り、花咲をしっかりと慰めたいと待ち焦がれていた。もはや由奈をあやす気持ちはなく、苛立った声で言い放った。「病院でちゃんと静養していろ。俺は、まだ用事がある」だが、まだ一歩も踏み出さぬうちに、由奈に手を掴まれた。彼女はわざと布団をはねのけ、患者服の紐をほどいた。とろけるような眼差しを向け、艶を帯びた声で囁いた。「遼……病院で、試してみたくないの?」遼の呼吸が一瞬で荒くなった。眉間に皺を寄せ、しばし逡巡した末――結局、彼が選んだのは由奈だった。遼は奥歯を噛みしめ、吐き捨てるように言った。「由奈……これが最後だ」これからしばらくの間、彼はすべての心を花咲に注ぐつもりだった。そう決めたはずなのに、またも二日二晩に及ぶ荒々しい夜が過ぎた。病室で、由奈の身を覆うものは何ひとつなく、容赦ない愛撫の末に、せっかく塞がりかけた傷口は再び裂けていた。血の赤が、雪のように白い肌をより際立たせる。それでも由奈は痛みを気にも留めず、ひたすら艶めかしく遼に身を寄せる。自分の体こそ最大の武器だと知っているからだ。だが、そのときの遼の瞳は、すでに満たされた男の冷ややかな静けさを湛えていた。情欲の色は微塵もない。由奈を見つめる眼差しには、凍りつくような冷たさと、かすかな嫌悪が滲んでいた。「遼……」赤い唇を尖らせ、熱を帯びた目で縋ろうとする由奈。だが遼は、するりと身をかわした。由奈がよろけて床に倒れ込んでも、遼の瞳には一片の波も立たなかった。そこには、彼女を気遣う感情すら見えない。由奈はみっともなく身を起こし、唇を噛みしめながら涙に濡れた瞳で見上げた。それでも、遼が依然として冷ややかな表情を浮かべているのを見て、彼女はようやくしゅんと頭を下げ、何気なく遼の上着を手に取って羽織ろうとした。ところが、指先がその布に触れた瞬間、遼の冷たく無情な叱責が飛んだ。「触るな」鋭く突き放す遼の声に、由奈はびくりと身を震わせ、指先を引っ込めた。遼は素早くその上着を手に取り、埃でも払うように何度も大事そうに叩いた。そして、ふと何かを思い出したのか、その瞳にわずかな柔らかさが宿った。胸の奥に、あのときの記憶が静かに蘇ってくる。「これは、花咲が俺の二十歳の誕生日に、特注で作ってくれたも
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第10話

一瞬、遼の頭の中で鈍い音が響き、途方もない焦りと混乱が全身を包み込んだ。車に乗り込みエンジンをかけたときも、両手はまだ痺れていた。だが、バックミラーに映った、動揺と困惑を隠せない自分の顔を見た瞬間、遼は考えを切り替えた。たしかに、由奈に誘われて心を乱されたのは、自分の落ち度だ。しかし、花咲のやったことはあまりにも行き過ぎている。由奈をケーキ台の下に突き飛ばすなんて。あんな重い支え棒がもし頭に落ちていたら、命に関わっていたはずだ。急いで由奈を病院へ運んだのも、花咲のためを思ってのことだ。いくら愛しているとはいえ、彼女のわがままを際限なく許すわけにはいかない。それなのに、花咲は自分の気持ちをまるで顧みず、容赦なくブロックしてきた。まったく、子供じみている。遼はハンドルを握りしめ、歯を食いしばったまま決意を固めた。しばらくは花咲を放っておこう。お互い頭を冷やしたあとで、改めて腰を据えて話し合えばいい――そう考えた。薄く目を細め、遼はハンドルを切って会社へと戻った。そして、あっという間に三日が過ぎた。だが、花咲からは一切、歩み寄る気配がない。ついに。堪えきれなくなった遼は、車いっぱいに花咲の好きな花を積み込み、彼女の勤める病院の前で待つことにした。一番目につく場所をわざわざ選んだ。このあと顔を合わせたら、花咲は怒って花を投げ捨てるかもしれない。それでも構わない。とにかく早く仲直りしたかった。そうでもしなければ、この数日、何をしても身が入らないんだ。そうして四時間近くが過ぎた。病院から出てくる人影は次第にまばらになっていく。しかし、あの見慣れた姿は一向に現れず、遼の眉間には深い皺が刻まれた。遼は、見覚えのある医師の一人を呼び止め、やや早口で問いかけた。「すみません、月岡花咲先生は今夜も手術の予定がありますか?」「月岡花咲先生?」その医師は少し驚いたように言葉を繰り返し、隣を歩く同僚の表情にも、微かな違和感が浮かんでいる。遼は、二人が花咲を知らないのだと思い、花咲の所属している科を説明しようとした。名刺まで取り出そうとした。だが、意外そうな声が耳に届いた。「月岡先生なら、一週間前に病院を辞めましたよ。何かご用ですか」もう一人の医師も頷きながら続けた
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