LOGIN「院長先生、この前おっしゃっていたヨーロッパ留学の件については、決めました。私、行きます」 月岡花咲(つきおか はなお)は虚ろな目で鏡を見つめた。そこに映っているのは、青ざめた顔に赤く腫れた目、そしてどこかやつれた自分の姿だった。 電話の向こうで、院長の弾んだ声がすぐに返ってきた。 「やっと決心してくれたのね、それでいい。このチャンスは一度きりよ。ただし、ご主人とちゃんと話しておきなさいね。行ったら三年間は戻れないし、手続きもあるから、遅くとも来週には出発しないと」 花咲は深く息を吸い込んだ。 「大丈夫です。ちゃんと折り合いをつけます」 話しを終えるや否や、彼女は慌ただしく電話を切った。 少しでも遅れれば、泣き声を抑えられなくなりそうだったからだ。 花咲は先週、立て続けに七件の再建手術をこなした。 最後の女の子の患者は、特に強く印象に残っている。 透き通るような白い肌、細い足、あどけない可愛らしさを残す顔立ち。 そして、何よりも驚いたのは、その女の子が自分とどこかよく似ていることだった。
View More花咲が遼の病室に足を踏み入れたとき、彼はちょうど窓際でガラス片を手に、自らの手首を切ろうとしていた。彼女の足音が近づくのを耳にして、彼はようやくその手を止め、ゆっくりと振り返った。灰色に沈んだ瞳に、ふっと星明かりのような光と喜びが差した。やつれた体を支え、弱々しく立ち上がった彼の真っ白な顔には、驚きと嬉しさが入り混じった笑みがあった。「花咲……どうしてここに?君、一昨日の便じゃなかったっけ?」花咲は手にしていた証拠をベッドの上に叩きつけ、冷えきった声で言い放った。「結城遼、もう白々しい芝居はやめなさい」遼は蒼白な唇をわずかに動かしたが、結局何も言い返さず、ただ苦く笑みを浮かべた。由奈が騒ぎを起こしてから、花咲はやはり何かがおかしいと感じていた。色々調べ上げ、そして辿り着いた答えに、胸の奥がすっと冷え込んだ。あの日、彼女を襲おうとした男――その影にいたのは、ほかでもない遼だった。由奈が配信者たちを集め、花咲を晒し上げることができたのも、遼の後押しがあったからだ。窓辺の男は、二十年以上前と変わらず端正で穏やかな面影を残していた。だが、もう、あの頃には戻れない。遼はその日、初めて知ったのだ。花咲が祖父の功績を使って、離婚を申し出ていたことを。あまりにもきっぱりとしていて、二人の間には、もう一片の余地すら残さなかった。彼女の瞳の奥で、氷のような冷たさが嫌悪へと変わっていく。それを見て、遼はついに取り乱した。目を赤くし、慌てて近づこうとした。だが、花咲は素早く後ずさり、その手を避けた。口を開き、冷たく感情のない声で告げた。「結城遼、私、後悔してる。あの時、あなたと結ばれるべきじゃなかった」その言葉は、遼の心を細切れにされるような痛みを与えた。彼はふらつく足取りで花咲の前に膝をつき、目尻を赤く染め、乞うように彼女を見上げた。「花咲……全部、愛してるからだ。俺は、君を愛しすぎたんだ。なのに、どうして償う機会さえ与えてくれないか?ただ……そばに置いておきたかっただけなんだ。小林由奈には、君を傷つけさせない。あいつは所詮ただの駒だ。君さえ戻ってきてくれれば、俺が必ずすべて片をつける」花咲は必死に縋りつく遼を見下ろし、胸の奥に失望が込み上げた。静かに首を振り、その言葉を遮った。「
由奈が智也へ近づこうとするのを見て、花咲の胸がわずかにざわめいた。だが、彼女はあえて何か弁解しようとはしなかった。もし智也が本気で自分を疑い、由奈をかばうつもりなら、何を言っても無駄だと分かっていたからだ。ところが、智也は由奈が腕に触れようとするのをするりとかわした。その眼差しは氷のように冷たく、そして、わずかな嫌悪すら宿っていた。彼は口を開き、言葉を叩きつけるように放った。「口では花咲を罵りながら、その顔で僕を誘惑しようなんて。はっきり言っておく。事実がどうであれ、僕は彼女を信じるし、おまえみたいな女に惹かれることも絶対にない」その言葉に、由奈の美しい顔が怒りでゆがみかけた。足を踏み鳴らし、歯を食いしばって言い返した。「誰があなたなんか誘惑するのよ。ただ忠告しただけだ。騙されたいなら勝手にすれば」花咲は、智也が迷いなく自分の味方として立ちはだかる姿を見つめていた。ふと、三年前の誕生日パーティーの日を思い出した。あの時も、二者択一の場面だったが、遼は決して揺るぎなく彼女の側に立つことはなかった。その瞬間、花咲ははっきりと悟った。遼が抱いていたのは愛ではなく、ただの占有欲だったのだ。愛とは、無条件の信頼と守り抜くことだ。決してペットを檻に閉じ込めて飼うようなものではない。智也はその隙を逃さず、警察へ通報した。やがて警察が到着し、騒然としていた場はようやく鎮まっていった。由奈の瞳に一瞬、悔しさがよぎった。だが焦りはない。今回の件が虚偽の告発だとわかっているから、法的に花咲が処罰されることはない。けれど、遼と花咲が離婚していないのは事実だ。これから先、花咲の名誉は地に落ちるだろう。警察が来たのを見て、花咲は込み上げる悔し涙をこらえながら、顔なじみの男性に向かって声をかけた。「武おじさん」ここの警察署の署長は、かつては彼女の祖父の弟子で、両家の付き合いも深かった。それでも花咲は、こうした私事で彼らの手を煩わせ、治安の仕事に支障を与えるようなことは決してしなかった。もし今回、こんな濡れ衣を着せられることがなければ、彼女が口を開くこともなかっただろう。花咲は胸の奥で渦巻く感情を押さえ込み、口を開いた。「武おじさん、私が離婚しているかどうかを皆さんに教えていただけませんか?
認めざるを得ないが、由奈の演技は見事だった。涙は雨に打たれる花のようにこぼれ落ち、声は哀れを誘うほどか細く、まるで血を吐くかのような悲痛さを帯びていた。さらに傍らでは、泣きすぎて今にも声が枯れそうな幼い子がいいて、人々は否応なく彼女に同情を寄せ始めた。花咲が反論する間もなく、由奈は人前で涙ながらの訴えを続けた。「このあたりで、誰だって知ってるわ。遼はあなたを溺れるほど愛してる。そんな彼が浮気なんてするはずない。全部あなたたちが仕組んだことよ。私のお腹を借り物にして子どもを産ませるために。もし本当に浮気だったのなら、なぜあなたは彼と離婚せず、ひとりでヨーロッパへ行ったの?あれは夫婦そろっての芝居だったんよね。私はあの時、あなたの病院の婦人科を受診した記録だって持ってる。表向きは診察に見せかけて、実際には私のお腹をどう使うか相談してたじゃないか?」花咲はあまりの怒りに頭が真っ白になった。理由はただ一つ、こんなにも厚かましい人間は初めて見たからだ。黒を白と言い、白を黒と言いくるめる。だが同時に、花咲は一つの抜け穴に気づいた。彼女は由奈の手をぐいと掴み、冷ややかな笑みを浮かべて問い返した。「何を根拠に、私と遼が離婚していないと思っているの?」由奈は顔を上げ、涙はまだ頬を伝っていたが、その奥底には隠しきれない怨嗟と嫉妬が滲んでいた。「あなたはあの日の翌日には出て行ったじゃない?遼と一緒に役所へ行って離婚の手続きをしたわけでもないし、あれだけあなたを愛していた遼が、離婚に応じるはずがないわ。今だって、あなたたちはまだ夫婦のままよ。本当に彼の浮気が我慢ならないのなら、どうして今まで離婚していないの?」――これこそが、由奈が花咲を貶めるための切り札だった。花咲が去ってから、由奈は何度も遼と一緒になろうとした。だが、そのたびに遼はきっぱりと断った。さらには、人前でも容赦なく彼女の尊厳を踏みにじった。由奈は後になって、ようやく理由がわかった。それは、花咲がまだ遼を繋ぎとめたまま離婚しようとしないからだ。遼が彼女を拒み続けるのも、自分にまだチャンスがあると思い込んでいたから。今回、花咲が戻ってきて、遼が彼女のために命さえ投げ出そうとしたことで、由奈はますます自分の推測に確信を深めた。怒りに我を忘れていなけ
入口にたどり着いた花咲は、由奈の口から飛び出す言葉をはっきりと耳にした。彼女は、まだ二歳ほどに見える子どもを抱きしめながら、地面に膝をつき、涙で顔を濡らしていた。その後には、スマートフォンを構えた男女が数人。配信画面に向かって視聴者とやり取りをしている。一目で、由奈がわざわざ呼び寄せた配信者だとわかる。警備員たちも、こんな光景は初めてらしく、誰もがどうしていいかわからず立ちすくんでいた。下手に手を出して由奈や子どもを引き離せば、二人はさらに大きな声で泣き叫び、まるでいじめられたかのような芝居を打つだろう。しかも、この場には配信している人が大勢いる。もし動画がネットに上がり、誹謗中傷の的になれば、この先まともな日常などはもう望めない。花咲は人混みを抜け、カメラの前で泣き崩れている由奈を冷ややかな眼差しで見据えた。「小林さん、望みどおり私が来たわ。話があるなら、場所を変えて話そう。ここで騒ぐのはやめなさい」だが由奈は小さく身を縮め、怯えたように顔を上げた。「月岡家のお嬢様、あなたはお金も権力もお持ちですけれど、もし私と莉子が本当にあなたについて行ったら、私、生きて帰れるのでしょうか?」花咲は拳をぎゅっと握り、深く息を吸って怒りを押し殺した。「それで、何が望みなの?」由奈は子どもをそっと降ろし、膝をついたまま花咲の服を掴んだ。泥に伏すような卑屈さで、震える声を絞り出した。「ほかに望みはありません。ただ、私とこの子から手を引いてほしいんです」花咲はその言葉を聞き、思わず怒り混じりの笑みがこぼれそうになった。「私があなたから手を引く?それは逆じゃないか?三年前、あなたは遼を誘惑して私の家庭を壊した。私はそれを遼の自制のなさだと受け止め、あなたを責めずに身を引き、席を譲った。それなのに今になって、こうしてしつこくまとわりつくなんて」この騒ぎに気づいた往来の人々が、次々と足を止めた。花咲の言葉を耳にした人々は、すぐさま由奈を指さし、ひそひそと囁き合った。「こんな若くてきれいな子が、どうして不倫相手なんかになるのかしら」「見え見えじゃない。金持ちに取り入ろうとして、子どもまで産んだのに捨てられて、今度は元妻に絡んでるんだろう」「こんな恥知らずな不倫女に遠慮なんていらない。私なら人を呼んで叩き
由奈はわざと服のボタンを二つ多く外し、白い首筋に残る生々しい赤い痕をあらわにした。花咲は背筋をすっと伸ばし、白鳥のように気高く優雅な姿勢を崩さないまま、落ち着き払った声で短く問いかけた。「何かご用?」由奈の瞳に、ふっと嫉妬の影が走った。彼女は花咲にぐっと近づき、二人だけに聞こえる声で囁いた。「ねえ、この前……私と遼の声、良かったか?」少し丸みを帯びた切れ長の瞳に宿るのは、作り物の無垢さと、底の見えない悪意。花咲のグラスを握る手に、さらに力がこもった。指先はうっすらと白くなっていた。由奈はさらに距離を詰め、美しいはずの顔を歪めて言葉を突き刺す。「遼はね、いちば
遼は、このとき想像もしていなかった。自分が部屋を出ていった直後、花咲が明後日の夜にヨーロッパ行きの航空券を手配していたなんて。誕生日パーティーの日、遼は共通の友人たちを大勢招いていた。花咲を喜ばせようと、遼は持てる限りの心尽くしをした。誕生日パーティーのあちこちに、遼の巧みな仕掛けが光っていた。来客は皆、その細やかな心遣いに感嘆の声を上げずにはいられなかった。花咲は遼の隣に立ち、相変わらず気高く美しかったが、心の中では夜にヨーロッパへ到着したあとの予定を思い描いていた。「花咲……」不意に、どこか取り乱した遼の声が耳元に落ち、思考が引き戻された。遼は緊張した面持ち
由奈は今回、遼をすっかり夢中にさせた。彼が気づいて、家へ引き返したのは、すでに四日後のことだった。花咲に盛大な誕生日パーティーを開くと、固く誓ったあの約束さえも、気づけばすっかり頭から抜け落ちていた。家へ向かう途中、遼も友人から、花咲の祖父が亡くなったとのことを受け取った。彼は少しうろたえ、不安を覚えた。花咲はきっと怒っているだろう。怒られるのは構わない。ただ、疑われるのが怖い。なぜなら、スマホの通話履歴に、花咲からの着信が一件残っていたからだ。通話時間はおよそ一分。だが遼には、その記憶がまったくなかった。由奈もまた、強い口調で言い切った。少なくとも二人がベッド
唇を噛みすぎて、ほとんど血がにじみそうだった。花咲は笑顔を作ろうとしたが、それは泣き顔よりもずっと歪んで見えた。「わかったよ、おじいちゃん。すぐに電話する」花咲はすぐさま、遼に電話を掛けた。彼の口からあの偽りの約束を聞きたいわけじゃない。ただ、祖父に未練を残したまま逝ってほしくないだけだった。けど、続けて三度電話をかけたが、応答はなく、あるいはすぐに切られた。こんなことは今まで一度もなかった。花咲は何かに気づいたようで、怒りに震えが全身へと広がっていった。彼女は必死に感情を押し殺し、込み上げる苛立ちを呑み込みながら、四度目の発信ボタンを押した。今度で、ようや
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