航介の視線は、どうしても私から離れない。彼は、研究拠点のキャンプで生き生きと動き回り、仲間と研究計画を語り合い、熱心にデータを記録する私を見つめている。時折、彼の目と私の目がぶつかる。その度に、彼の瞳には苦悩と葛藤が浮かんでいる。航介は悟り始めた――私はもはや、彼の世界で沈黙を守っていた妻ではなく、ひとり立ちし、才能ある研究者だということを。彼がこれまで決して真には理解することのなかった、ひとりの女性であるということを。それを悟ったときの彼の痛みは、肉体の傷よりもずっと深い。彼が築いてきた、権力と支配欲に守られた砦は、音を立てて崩れていった。過去の論理では、ここで全く通じないし、今の私を説明できない。金で私の許しを買うこともできず、権力で私を縛りつけることもできない。このキャンプでは、彼はただの「外の人」だ。航介は苦しげに目を閉じ、胸の奥に初めての感情が押し寄せる。彼は知ったのだ。どれほど足掻こうと、過去には戻れない。私はもう彼の世界を出て、自分だけの光を見つけてしまったのだ。広がる氷河の下、航介はようやく自分の心に気づく。どんなにもがいても、その心はすでに私に縛られていて、決して解き放てない。この無力感は、彼にとってどんな敗北よりも重くのしかかっている。そして彼は悟る。本当の愛とは、支配や所有ではなく、尊重と解放なのだと。けれどその悟りは、あまりに遅すぎた。キャンプの端で立ち尽くす航介は、私を見てる。その視線には複雑な感情が秘めている。彼が何を思い、何を悔やんでいるのか、私は知っている。だがそれらはすべて、もう過去のものだった。私はきっぱりと背を向け、ただ自分の仕事に集中する。もう二度と彼の方を見ようとはしない。やがて航介はゆっくりと立ち上がり、スマホを取り出し、助手の大和に電話をかけた。低く、それでも揺るぎない声で言う。「大和……皆に伝えてくれ。俺は無期限でノルウェーに残る。寧々を連れ帰るまでは絶対に帰らない。俺は、彼女に赦されるに足る人間になる。彼女を縛る夫じゃなく、彼女が隣にいてもいいと思える男になる」通話を切った彼の眼差しには、固い決意が宿っている。――そして、月日は流れた。一年後。ノルウェーのアパートで、私は息子・伊吹陽翔（いぶき はると）
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