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気づかせないまま離婚届に署名させる

気づかせないまま離婚届に署名させる

بواسطة:  ハサウェーمكتمل
لغة: Japanese
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私は九条航介(くじょう こうすけ)と結婚して三年になる。 彼はフォーブス世界長者番付のトップ十に名を連ねる大富豪でありながら、私は誰にも知られることのない、彼の「隠された妻」である同時に、大学を卒業間近の、ただの女子大生だ。 「九条家の妻」という肩書きなど重要ではない、と私は自分に言い聞かせてきた。 彼が私を愛してくれるのなら、世間に公表されようがされまいが構わないのだと。 けれど――彼の幼なじみが帰国したそのとき、私はようやく気づいてしまった。 私たちの婚姻を繋ぎとめているのは、ただ一枚の戸籍謄本だけ。 情と呼べるものは、もしかすると私の一方的な思い込みだったのかもしれない。 だから私は、離婚届を用意した。 それを学校の提出書類に見せかけ、彼は何も知らずに署名をさせた。 彼が無造作にペンを走らせたその瞬間、私たちの婚姻関係は終わりを告げたのだ。 書類に対して彼が払った無関心――それはそのまま、私たちの三年間の結婚生活を映し出していた。 心がこもらない、形だけの関係。 愛がないのなら、私は自分の自由を取り戻す。 離婚届が受理されたそのとき、私は解き放たれた。 ただの自由だけではない。私の中には、まだ生まれていない命――航介の子どもが宿っていたのだ。 しかし、私がすべてを置いて、彼の手が届かない場所へと消え去ったあとで、ようやく彼は気づく。 自分が失ったものの大きさに――愛する人と、自らの血を継ぐ後継者を。 そして再び私を見つけ出した彼は、復縁を懇願する。 けれどそのときの私は、もうかつての私ではなかった。 恋だけを生きる未熟な少女ではなく、自分自身の仕事を持つ自立した女性へと生まれ変わっていたのだから。 彼は願う。私の愛を、私の振り向きを――祈るように。

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الفصل الأول

第1話

私は離婚届を手に持ち、法律事務所に足を踏み入れた。

正面に座る弁護士は、私を一瞥しただけで、依頼者とも思っていないような無関心な表情を浮かべている。

彼はオーダーメイドのスーツを着こなし、磨き上げられた革靴を履いている。

一方の私は、ただの膝丈スカートにニットの上着という平凡な格好。おそらく学生か何かに見えたのだろう。

「離婚届はこのままの状態で提出可能ですか?その後に夫が署名すれば、提出できるんでしょうか?」

弁護士は少し眉をひそめた。まさか私が既婚者だとは思っていなかったようだ。彼はうつむくと、私が差し出した書類をじっくりと確認し始めた。

「……この離婚届なら問題ありません」

その言葉を聞いて、私はふうっと安堵の息を漏らした。

九条航介(くじょう こうすけ)――私たちの結婚は、こうして静かに幕を閉じるのだ。

書類を手に九条家へ戻ると、ゲート前の警備員はいつもと変わらず私を透明人間のように扱った。

無理もない。彼らは一度たりとも航介から「妻」の存在を告げられたことはないのだろう。

きっと、私のことをただの「援助を受けている貧しい学生」くらいに思っている。

この別荘の中で、私を女主人と見なすのは航介以外に一人もいない。

いや、航介自身でさえ――私を妻と思っていないのかもしれない。

カチャ……

書斎の扉を押し開けると、そこには白鳥凪紗(しらとり なぎさ)の姿がある。

彼女はソファに腰掛け、航介がキャビアを乗せた小さなビスケットを、彼女の口元に差し出している。

凪紗はそれを素直に口に含み、二人で目を合わせて笑みを交わす。

キャビア。それは航介が昔から嫌っていた食べ物。

彼は「家にキャビアを持ち込むな」と厳しく言った。ましてや彼の聖域とも言える書斎に、飲食物を置くなど絶対に許されないはずだった。

それは結婚当初、彼が私に求めたルールだった。

けれど今凪紗は、彼が最も嫌う食べ物を、彼の書斎という聖域で口にしている。それが意味するものは明白だ。

航介にとって、凪紗は私よりずっと特別な存在なのだ。

その事実は一ヶ月前から知っていた。けれど改めて目の前で思い知らされると、やはり心は静かに痛んだ。

私は心の中の苦しみを抑え、何もなかったかのように、平静を装う。

「航介、これは学校の健康診断の同意書。署名をお願い」

まっすぐに机に歩み寄り、健康診断の書類を上に、そしてその下に離婚届をほんの少し角が覗くように重ねて差し出した。

凪紗は私に気づき、にこやかに立ち上がって、熱心に声を掛けてくる。

「寧々、帰ってきたのね?私と航介、今夜の食事の相談をしていたの。一緒にどう?」

笑みを浮かべ、さりげなく航介の腕に手を回す。その仕草は、私への挑発のようにも見える。

航介は一度、机上の書類に目を落とし、取り上げようとした。だが凪紗が何気ない笑みを浮かべて言った。

「ただの健康診断の書類でしょ?そんなの大して見る必要もないわ。

航介って寧々にすごく厳しいじゃない?まるで旦那様というより、お兄さんみたい。厳しい保護者って感じ!」

その言葉に、航介は書類を置くと、さっと署名を入れた。「そうか?俺はそんなに堅い人間じゃないと思うけどな」

ペンを置いた瞬間、私の心臓は激しく跳ね上がった。興奮を必死で押さえながら、すぐに書類を畳み、かばんへ押し込む。

「……ありがとう」

小さな声でそう言い残し、彼を振り返ることなく急ぎ足で書斎を出た。

指先は震え、胸は高鳴る。――ついに、彼が署名した。

これで私は自由になれる。航介から、そしてこの婚姻から解き放たれる。

私と航介の結婚は、最初から過ちだった。

私の父は九条家の先代当主の運転手であり、ライバルの策略から彼を庇って命を落とした。その縁で、私は九条家に引き取られたのだ。

十年前に先代が亡くなってからは、航介と共に暮らしてきた。

彼は私より十歳年上。普段は冷徹で笑顔を見せない、商談の場では常に決断力が強くて、知り合いが誰も彼の頭脳に屈服する。

私は彼を兄のように思い、密かに憧れ、誰にも言えない恋心を胸に秘めていた。

けれど交わりはほとんどなかった。すべてが変わったのは、ある家族の宴の夜。

酔った航介が、私の部屋に入り込んできて――そして私たちは結ばれた。

責任を取ると言い、彼は私と結婚した。

その時、私は信じていた。これが幸せの始まりなのだと。

だがあとに気づいた。それは、束の間の幸せの幻に過ぎなかった。

凪紗が帰国したその日から、航介の私への態度は、日を追うごとに冷たくなっていった。

――だから今、ようやくこの婚姻を終わらせ、自分の自由を取り戻す時が来た。

私は固く握りしめた。その署名済みの離婚届は、まるで自由への鍵のようだ。

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色々短編読んだけど、子どもを堕ろさないパターンは初めてかも。たまにはこういうハッピーエンドも良いよね。
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第1話
私は離婚届を手に持ち、法律事務所に足を踏み入れた。正面に座る弁護士は、私を一瞥しただけで、依頼者とも思っていないような無関心な表情を浮かべている。彼はオーダーメイドのスーツを着こなし、磨き上げられた革靴を履いている。一方の私は、ただの膝丈スカートにニットの上着という平凡な格好。おそらく学生か何かに見えたのだろう。「離婚届はこのままの状態で提出可能ですか?その後に夫が署名すれば、提出できるんでしょうか?」弁護士は少し眉をひそめた。まさか私が既婚者だとは思っていなかったようだ。彼はうつむくと、私が差し出した書類をじっくりと確認し始めた。「……この離婚届なら問題ありません」その言葉を聞いて、私はふうっと安堵の息を漏らした。九条航介(くじょう こうすけ)――私たちの結婚は、こうして静かに幕を閉じるのだ。書類を手に九条家へ戻ると、ゲート前の警備員はいつもと変わらず私を透明人間のように扱った。無理もない。彼らは一度たりとも航介から「妻」の存在を告げられたことはないのだろう。きっと、私のことをただの「援助を受けている貧しい学生」くらいに思っている。この別荘の中で、私を女主人と見なすのは航介以外に一人もいない。いや、航介自身でさえ――私を妻と思っていないのかもしれない。カチャ……書斎の扉を押し開けると、そこには白鳥凪紗(しらとり なぎさ)の姿がある。彼女はソファに腰掛け、航介がキャビアを乗せた小さなビスケットを、彼女の口元に差し出している。凪紗はそれを素直に口に含み、二人で目を合わせて笑みを交わす。キャビア。それは航介が昔から嫌っていた食べ物。彼は「家にキャビアを持ち込むな」と厳しく言った。ましてや彼の聖域とも言える書斎に、飲食物を置くなど絶対に許されないはずだった。それは結婚当初、彼が私に求めたルールだった。けれど今凪紗は、彼が最も嫌う食べ物を、彼の書斎という聖域で口にしている。それが意味するものは明白だ。航介にとって、凪紗は私よりずっと特別な存在なのだ。その事実は一ヶ月前から知っていた。けれど改めて目の前で思い知らされると、やはり心は静かに痛んだ。私は心の中の苦しみを抑え、何もなかったかのように、平静を装う。「航介、これは学校の健康診断の同意書。署名をお願い」まっすぐに机に歩
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第2話
凪紗は「自分のマンションが改装中だから」という理由で、しばらく九条家のゲストルームに滞在することになっている。そして航介もあっさり承諾した。「白鳥家とは長年のビジネスパートナーだから、粗略に扱うわけにはいかない」もっともらしい理由を並べ立てて。 私の意見など一度も尋ねない。まるで、私は透明な存在であるかのように。こうして凪紗は堂々と九条家に住みつき、屋敷の中を好き勝手に歩き回った。それはまるで、彼女こそがこの家の女主人であるかのように。彼女はしばしば、セクシーな部屋着のままリビングを歩き、さらに私と航介の会話にいきなり口を挟み、私たちの話をぶった切る。航介はそれを嫌がるどころか、むしろ彼女の親しさを楽しげに受け入れている。ある日、私は書斎の前を通りかかり、扉の隙間から凪紗の笑い声を耳にした。中では、彼女が航介の隣に座り、二人で一枚の書類を覗き込んでいた。互いの距離はとても近かった。凪紗の紅い唇が、航介の耳朶に触れんばかりに近づく。「航介、覚えてる?昔、あなたが私の数学の宿題を手伝ってくれたこと」彼女は甘えたような笑い声をあげた。航介も穏やかに笑い返した。「忘れるわけがないだろう。お前の数学の出来は散々だったからな。仕方なく手伝ってやったんだ」その声は、私が一度も聞いたことのないほど柔らかい。胸がずしんと沈み、足が止まる。部屋に入る気力が失せ、踵を返そうとしたが、もう遅かった。航介が私に気づいた。「寧々、ちょうどいい。凪紗が庭にブランコを置こうって提案していてな。形をどうするか一緒に考えよう。お前はどんなのがいい?」彼が手招きする。私は引きつった笑みを浮かべ、無理に歩み寄った。「えっと……なんでもいいわ。私、卒論の仕上げがまだ残っているから。二人で決めてちょうだい」私は頭をかきながらそう言った。もうすぐここを離れるのだ、ブランコの形なんてどうだっていい。だってそれは、私の為にあるものじゃないんだから。凪紗はわざとらしく唇を尖らせた。「卒論?なんだそれ?ああ、思い出した。私も大学を卒業するときに書いたわね。もっとも、その時は航介が手伝ってくれたけど。あなたも航介に頼めば?彼なら完璧に仕上げてくれるわよ」航介がちらりと私を見た。その視線は、私の口から「助けて」と言わせた
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第3話
学校の指導教授から、私のノルウェーにおける四年間の現地研究申請がすぐに承認された。たぶん、航介と凪紗から離れてこそ、私は本当の自分を取り戻せるのだろう。実は、航介と凪紗の関係を知った時、私はどうにかして繋ぎ止めようともがいた。「きっと思い過ごしだ」「ただ仲が良いだけ」――そう自分に言い聞かせて。けれど、彼らが並んで笑い合う姿を目にするたび、親密な会話を耳にするたび、胸が裂けるように痛んだ。私は気付いた、もう自分を欺けないと。航介が凪紗と一緒にいる時の、あの心から楽しそうな表情は――偽れるものじゃない。私と一緒にいる時には、一度も見せたことがない顔だった。だから、ノルウェーからの現地研究招へいが来た時、最初は拒んだものの……今度こそこの場所から離れようと思った。離れることを決意した朝、私は早く起きて荷造りを始めた。服、書籍、化粧品をスーツケースに詰め込み、リビングに行くと、飾られた写真や小物を整理し始める。目に留まったのは、水晶のフレームに収められた写真。そこに入っているのは、私と航介のツーショットだ。それは結婚式の日に撮った写真。私たちはまるで世界の幸せをすべて掴んだかのように、輝くような笑顔を浮かべていた。けれど今、すべてが変わってしまった。私は深く息を吐き、そのフレームをゴミ箱に放り込んだ。三年の結婚生活――それで終わりだ。その後の一週間、私は論文と実験に追われ、航介ともほとんど連絡していない。離婚届の受理を待ちながら、むしろ心は軽くなっていった。そんなある日、研究室を出た私に、航介から電話が突然入った。「寧々、終わったか?迎えに行く」その声は低く柔らかく、まるで何もなかったかのようだ。私は一瞬戸惑ったが、「……うん」と答えた。三十分後、彼の車が校舎の前に停まる。私はドアを開けて乗り込み、彼はちらりと私を見て言った。「最近、忙しいのか?」「ええ、実験のスケジュールが詰まってるの」私は淡々と返した。どうせもうすぐ去るのだ。やり残しはないようにしなくてはならない。少し間を置き、航介が口を開いた。「そうだ、言っておくけど。凪紗な……来月、家を出るそうだ。お前に気を遣って、これ以上邪魔をしたくないって」私は一瞬驚いたが、すぐに視線を落とした。「そうか……
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第4話
翌日の午後、航介の助手・佐々木大和(ささき やまと)が研究室を訪ねてきた。「奥様、九条社長が今夜、モンスーンレストランでお会いしたいと仰っています」私は一瞬、息を呑んだ。モンスーンレストラン。そこは私にとって、一生忘れられない場所。結婚記念日に彼が仕事の会議を優先して現れず、私はひとりで一晩中待ち続けた、あの場所。長い沈黙の末、私は小さく頷いた。――夕刻。私はモンスーンレストランへと足を運んだ。航介はすでに窓際の席に座っている。濃紺のスーツに身を包み、髪はきちんと後ろに撫でつけられ、鼻筋には見慣れた金縁の眼鏡がかかっている。彼は顔を上げ、私を見つけると、すこし微笑みを浮かべた。まるで、何事もなかったかのように。「寧々」低く優しい声で、私の名を呼んだ。私が彼を見つめ、胸が激しく波打った。そうだ、たとえ私はこの愛を手放す決意をしたとしても、長年積み重なった想いは簡単に消え去るものではない。心臓は彼を前にしていまだ乱れ、照れくささで頬が赤らんでしまう。席に着くと、彼は昔と変わらず、椅子を引いて私をエスコートした。航介はじっと私を見つめ、どこか複雑な眼差しを向けてきた。「寧々、お前と話がしたい」「何を言いたいの?」彼は視線を落とし、言いにくそうに口を開いた。「最近、お前を放ってしまっていたのは分かってる。でも俺と凪紗のことは――」その瞬間、彼のスマホが鳴り響いた。発信者は大和。「社長、白鳥様が……手首を切られました」「何だと!?」航介は椅子を倒さんばかりに立ち上がった。彼の激しい反応を目の当たりにし、私はまるで冷水を浴びせかけられたかのようだ。彼に抱いていた最後のわずかな希望までが、完全に消し飛んでしまった。私はずっと、彼から真実を聞きたかった。誤解だと言ってほしかった。けれど、あの女の名が出た途端、彼は相変わらず彼女のことを心配している。これが、彼の「説明」。これが、彼の「話がしたい」という意味。「航介、行けばいいわ」私は頭を上げ、精一杯、平静を装って言った。彼は一瞬、痛みを帯びたように目を細め、私を見た。「寧々……すまない。すぐ戻る」そう言い残し、背を向けて駆け去っていった。その背中を見送った瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走り、視界がぐらりと揺れた。――そし
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第5話
ノルウェーへ出発の日、私は指導教授に一通のメールを送った。その中で、自分が妊娠していることを正直に伝えた。ほどなくして返事が届いた。「なんてこと!伊吹さん!本当におめでとう!これは素晴らしい知らせだよ。住む場所から検診まで全部用意するよ。あなたが空港に着いたらすぐに新居へ案内できるよう、スタッフを待たせておくから安心してね」画面に並んだ文字を見た瞬間、鼻の奥がツンと熱くなり、涙が溢れそうになった。本当は、妊娠が知られたら現地研究の計画を見直されるんじゃないかと不安だった。けれど返ってきたのは、これほどまでに温かい言葉。この状況で、私にとって何より大きな支えとなった。その日、私はゆったりとした服を選び、膨らみ始めたお腹を隠した。空港に到着すると、一人の若い男性が手を振ってきた。「伊吹寧々(いぶき ねね)さん!」整った顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべた彼は自己紹介した。「はじめまして、藍原時弓(あいはら ときゆみ)です」彼は自然に私の荷物を受け取り、柔らかく微笑んだ。「伊吹さんのお名前はずっと伺っていました。今日こうして会えて光栄です」私は笑顔を返しつつも、心の中では不安を抱えている。初めての海外、それも子を身ごもったまま。だが、時弓の気遣いや落ち着いた態度に触れるうちに、心が少しずつ和らいでいった。彼は私に代わって搭乗手続きを済ませると、保安検査場まで付き添ってくれた。「伊吹さん、大丈夫です。向こうに着いたらすべて手配してありますから、安心してください」彼はそっと私の手を軽くたたき、力強い口調で言った。私はこくんと頷くと、心中にありがたさがじんわりと滲んだ。――そのとき。近くから聞き覚えのある声が響いた。「凪紗、足元気をつけろ」心臓が跳ね上がった。航介だ。どうしてここに?私は思わず顔を伏せた。見つかってはいけない。幸い、すぐに凪紗の声が響いた。「航介、あそこの新しいカフェ行ってみたいな。一緒に行こ?」航介は一瞬ためらった様子で言った。「……少し待ってくれ。今、寧々の名前が聞こえた気がして。電話してみようか」彼の視線がこちらに向いた。私は慌てて頭を下げ、荷物を整えるふりをして顔を隠した。冷や汗が背中を伝う。しかし凪紗が彼の手をとめた。「やめて、今の時間ならき
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第6話
一方その頃、航介の胸中は、どうにも落ち着かない。まるで何か大切なものを、取り返しのつかない形で失ってしまったような気がしている。我に返った瞬間、街角から一台のオートバイが猛スピードで突っ込んでくる。彼は慌ててブレーキを踏み込み、タイヤが路面を擦りつけて甲高い悲鳴を上げた。助手席の凪紗は顔面蒼白になり、鋭い悲鳴を上げる。「航介!いったい何考えてるのよ!心臓が止まるかと思った!」だが航介は、彼女の言葉を耳に入れる余裕もない。ふと気づけば、もうずいぶん長いこと、私から何の連絡も届いていない。「航介?」凪紗がすこし不満げに声をかけた。航介は我に返り、前を見据えた。「すまない、ちょっと考え事をしていた」そう言って詫びながら、車を路肩へゆっくり停める。スマホを取り出し、私とのメッセージの履歴を開く。最後のやりとりは、ひと月近く前、私が送ったものだった。【最近は少し忙しくて、研究室に泊まり込んでるの】胸が不穏にざわつく。指先で画面をいくらなぞっても、新しいメッセージは一つとして見つからない。言いようのない喪失感が、一瞬にして胸の奥から込み上げてきた。彼は深く息を吸い込み、冷静さを取り戻そうと試みた。その様子を察したのか、凪紗が心配そうに尋ねた。「航介、大丈夫?」「……何でもない」彼は淡々と答え、車を再び発進させた。道中、彼の心はどこか遠くに浮遊している。屋敷に戻り、リビングに入ると、航介は空気がどこか重苦しいと感じる。執事が控えているが、その顔色は複雑だ。「旦那様……お帰りなさいませ」航介が頷いた。そしてコートを脱ぎながら問いかけた。「何かあったのか?」執事は一瞬ためらい、それから口を開いた。「こちら、今日屋敷のゴミ箱から見つかったものでございます。旦那様にご覧いただいた方がよいかと」差し出されたのは、一冊のアルバム。航介はそれを受け取って、疑いながらページをめくった。そこに映っているのは、彼の隣に寄り添い、幸せそうに微笑む私。だがその横にいる航介は、どの写真もどこかよそよそしく、表情が硬い。ページの余白には、私は日付と感想まで残されている。【今日は私たちの結婚一周年。航介はやっぱり忙しいけど、一緒にお祝いできて嬉しい】【航介がまた残業だって、夜食を
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第7話
航介の指先が、戸籍謄本に印刷された文字をそっとなぞる。その目には、深い驚愕と後悔が浮かんでいた。「どうして……俺はどうして離婚届に署名してしまったんだ……」傍らにいた凪紗は、ちらりと戸籍謄本を一瞥し、どこか嘲るような色を帯びた声で言った。「もういいじゃない、航介。そんなに慌てることないわ。寧々はどうせただの駄々っ子よ。どうせそのうち泣きついて戻ってくるわよ。だって彼女、ただの貧乏学生でしょ?あなたみたいな金持ちを、簡単に手放せるわけがないじゃない」「黙れ!」航介は頭を上げ、怒りに満ちた目で凪紗を睨みつけた。「寧々は俺の妻だ!」吐き捨てるように言うと、彼は凪紗を乱暴に突き放し、玄関へと大股で歩き出した。凪紗はよろめき、横の水晶の花瓶にぶつかった。花瓶は派手な音を立てて床に落ち、水晶の破片が四方に散らばった。まるで、彼らの婚姻が粉々に砕け散ったことを象徴するかのように。航介は一度も振り返らず、玄関のドアを乱暴に開け放ち、そのまま車に飛び乗ると、私の通う大学へと全速力で向かった。ハンドルを握る彼の脳裏には、私の姿ばかりがよぎる。だが、気づけば彼は私のことを何ひとつ知らない。私の研究室の正確な場所すらわからないし、指導教授や仲間の名前さえ知らない。彼は自分がいかに私に無関心だったかを痛感し、罪悪感に駆られてアクセルをさらに踏み込む。車はキャンパス内を疾走し、やがて私の学部がある校舎の前で、ようやく停止した。彼は車から飛び降りると、そのまま校舎へ駆け込んだ。「すみません、伊吹寧々はどこの研究室ですか!」すれ違った学生の腕を掴み、必死に問いただす。学生は怪訝そうに彼を見た。「伊吹寧々さん?もうここにはいませんよ」「いません?どういうことですか!」航介の声はさらに切迫した。そこへ警備員がやってきて、彼を不審そうに睨んだ。「あなたは誰です?伊吹博士に何のご用で?」航介は唇を引きつらせながら、かすれ声を絞り出した。「俺は……彼女の家族です」「家族?研究室のメンバーは先週、全員移転しましたよ。家族なのに、それを知らなかったんですか?」その言葉は、鋭い刃のように航介の胸を深々と突き刺した。足元が崩れ落ちるような感覚に、彼はその場に立ち尽くす。私は、もうここにはいない。夫であるはずの彼が
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第8話
航介は突然その女子生徒の肩をつかみ、低く切迫した声を絞り出した。「……彼女はどこだ?寧々は今どこにいる!」女子生徒は彼の突如の行動に驚き、しばらく口ごもった後、ようやく答えた。「か、彼女は……先週、ノルウェーに行った。学術交流プログラムに参加するため」――ノルウェー?その言葉を聞いた瞬間、航介の心臓がぎゅっと締め付けられた。彼の脳裏には、かつて寧々の提出した「ノルウェーにおける現地研究申請書」を冷笑した自分の姿がよみがえる。あの時、彼はどう言った?「ノルウェーか……お前は寒い気候が嫌いだったはずだ」私はただ黙って俯き、それ以上何も言わなかった。いま思えば、私が懸命に抱いていた期待は、彼の目にはただの冗談にしか映らなかった。――なのに今、私は本当に彼に嘲笑されたその場所へ行ってしまったのだ。航介の胸に激しい痛みが走り、全身から力が抜けていく。彼は女子生徒の肩をようやく放し、ふらつきながら数歩後ずさった。「あなた……大丈夫?」女子生徒が心配そうに声をかける。航介は答えず、深く息を吸い込むと、そのまま背を向けて歩き去った。深夜。九条グループ本社ビルの高層オフィスには、ただ一人の男の気配だけがあった。ぼんやりとした灯りの下、航介は机に向かい、キーボードを高速で打っている。その眼差しは氷のように鋭く、かつての温厚な彼の面影はどこにもない。電話を切る間もなく次の発信を繰り返す。その声は低く、そして揺るぎない意志に満ちている。「……調べろ。寧々がノルウェーでの居場所。彼女が学術交流プログラムに参加した直後のはずだ。手段は問わない、必ず居場所を突き止めろ」深夜三時。ようやく全ての段取りを終えた。「今すぐプライベートジェットを用意しろ。研究所の所長を呼べ。今すぐだ」眠気を拭いきれぬ所長が慌てて駆けつけると、航介は迷うことなく机に小切手を置き、冷然と言い放った。「寧々の居場所を教えたら、この金はお前のもの」この突然の申し出に、所長は少し躊躇した。彼は小切手を見つめ、また航介を見つめた。その目には警戒の色が濃く浮かんでいる。「九条さん、それはさすがに……」言葉の途中で、航介がさらに額面の大きな小切手が「バンッ」と、机に叩きつけられた。「足りないか?まだここにある」机の横
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第9話
私は振り返り、航介を見つめた。その目にはかつての情など一切なく、ただの赤の他人を見るような冷ややかさと距離感があった。航介の顔には、驚きと苦しみがはっきりと刻まれている。彼は震える声で口を開いた。「寧々……俺だ、俺は九条航介だ……」私の声は静かで冷ややかだ。「航介。私たちの間に、もう話すことなんてない」黎明が訪れ、救援作業も次第に復旧へと移りつつあった。そのとき再び、航介が私を呼び止めた。彼の声は低く、そしてどこか絶望を帯びている。「寧々……俺は許されない過ちを犯した。でも……お前は妊娠しているんだ!それは俺の子どもでもある!」私は冷然と彼を見つめた。「だから何?それで何が変わるというの?」「頼む……チャンスをくれ。償わせてくれ」彼の声はほとんど哀願に近い。だが私は冷たく彼を一瞥した。「九条航介、私たちはもう終わったの。出て行って」「寧々!頼む、俺を見てくれ!」彼は苦しみに満ちた声で叫んだ。私は顔を背け、静かに言った。「九条航介……皮肉ね。私があなただけを見ていたとき、あなたは一度も私を見てくれなかった。今さら遅いのよ」ちょうどその時、時弓が数人の警備員を伴ってやってきた。私は一度も振り返ることなく、救護用のテントの中へと消えていった。航介は外で何時間も待ち続けたが、私は二度と彼に会おうとはしない。やがて時弓が姿を現し、疲れ果てた航介を冷ややかに見つめながら言った。「寧々は妊娠三ヶ月だ。知っているのか?」航介の目に、苦悶の色が一瞬走った。「知ってる……だからこそ、俺は彼女を探しに来たんだ」「九条さん、寧々には休息が必要だ」時弓の声は冷たく、断固としている。「それに、彼女はもうあなたに会いたくないと言っている」航介は痛みに耐えるように目を閉じ、掠れた声で答えた。「……俺はただ、彼女が無事かどうかを確かめたいだけだ」時弓は一瞬黙り込んだあと、衛星電話を差し出した。「パイロットに連絡しろ。嵐が近づいている。ここはあなたを歓迎しない」結局、私は再びテントから姿を現した。航介を目の前にして、胸の奥に湧き上がる感情は複雑で言葉にしようもない。数え切れないほど、彼ときちんと話し合いたいと願ったことがあったのに、彼はいつも理由をつけて避け続けた。けれど今こうして彼を前にしても、用
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第10話
航介と時弓が同時に驚きの声をあげた。しかし、動いたのは航介のほうが早かった。彼は猛然と駆け寄り、崩れ落ちる私の体をしっかりと抱きとめた。「何をしている!」時弓が怒声をあげ、私を奪い返そうとする。だが航介は私を強く抱きしめ、揺るがぬ眼差しで言い切った。「俺は彼女の夫だ。彼女の世話をする権利は俺にある」混乱の中、私は医療用のテントへと運ばれた。航介はベッドのそばに腰を下ろし、慎重にミルクを温める。温度を確かめたあと、そっとストローを私の唇に寄せた。「寧々、少しだけでも飲んで。楽になるはずだ」私はストローを受け取り、彼の傷だらけでありながらもなお優しい手を見つめる。胸の奥に、言いようのない複雑な思いがこみ上げた。かつてはこの手こそが、私にとって最大の支えだった。けれど今は、この手が私の一番深い痛みを呼び起こす。私は黙ってミルクを口に含み、言葉を飲み込む。航介もまた沈黙したまま、ただ静かに私を見守っている。テントの中には、ミルクの温かさと互いの呼吸音だけが漂っている。しばらくして、航介が低くかすれた声で口を開いた。「寧々……お前がまだ俺を恨んでいるのはわかっている。でも、どうしても伝えたいことがある。俺と白鳥凪紗のあいだには、何もなかった」私は思わず顔を上げ、鋭い眼差しを彼に向ける。「彼女のお腹の子は、前夫との子だ。ひとりで産めば世間から後ろ指をさされるのを恐れていた。それに前夫に付きまとわれるのも嫌で、俺に父親のふりを頼んできたんだ」航介の目には深い悔恨が宿っている。「俺は同情した。昔からの友人でもあったから、安易に引き受けてしまった。でも、それがお前をどれほど傷つけたのか、あの時はわかっていなかった。寧々……俺は間違えた。大きな過ちだった。お前を傷つけ、俺たちの信頼を壊してしまった。お前に会いに来る前に、俺は凪紗にメッセージを送った」航介は揺るぎない声で続けている。「俺は彼女に言ったんだ。彼女に何も思わないって。俺の妻はただひとり、寧々だけだと。速く九条家から出て、これ以上、俺たちの生活を乱すな、と」彼の言葉を聞きながら、私の心は揺れ動いた。凪紗の子どもは、前夫の子……?では、航介は――私を裏切ってはいなかった……?「寧々、お願いだ。もう一度、
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