私は離婚届を手に持ち、法律事務所に足を踏み入れた。正面に座る弁護士は、私を一瞥しただけで、依頼者とも思っていないような無関心な表情を浮かべている。彼はオーダーメイドのスーツを着こなし、磨き上げられた革靴を履いている。一方の私は、ただの膝丈スカートにニットの上着という平凡な格好。おそらく学生か何かに見えたのだろう。「離婚届はこのままの状態で提出可能ですか?その後に夫が署名すれば、提出できるんでしょうか?」弁護士は少し眉をひそめた。まさか私が既婚者だとは思っていなかったようだ。彼はうつむくと、私が差し出した書類をじっくりと確認し始めた。「……この離婚届なら問題ありません」その言葉を聞いて、私はふうっと安堵の息を漏らした。九条航介(くじょう こうすけ)――私たちの結婚は、こうして静かに幕を閉じるのだ。書類を手に九条家へ戻ると、ゲート前の警備員はいつもと変わらず私を透明人間のように扱った。無理もない。彼らは一度たりとも航介から「妻」の存在を告げられたことはないのだろう。きっと、私のことをただの「援助を受けている貧しい学生」くらいに思っている。この別荘の中で、私を女主人と見なすのは航介以外に一人もいない。いや、航介自身でさえ――私を妻と思っていないのかもしれない。カチャ……書斎の扉を押し開けると、そこには白鳥凪紗(しらとり なぎさ)の姿がある。彼女はソファに腰掛け、航介がキャビアを乗せた小さなビスケットを、彼女の口元に差し出している。凪紗はそれを素直に口に含み、二人で目を合わせて笑みを交わす。キャビア。それは航介が昔から嫌っていた食べ物。彼は「家にキャビアを持ち込むな」と厳しく言った。ましてや彼の聖域とも言える書斎に、飲食物を置くなど絶対に許されないはずだった。それは結婚当初、彼が私に求めたルールだった。けれど今凪紗は、彼が最も嫌う食べ物を、彼の書斎という聖域で口にしている。それが意味するものは明白だ。航介にとって、凪紗は私よりずっと特別な存在なのだ。その事実は一ヶ月前から知っていた。けれど改めて目の前で思い知らされると、やはり心は静かに痛んだ。私は心の中の苦しみを抑え、何もなかったかのように、平静を装う。「航介、これは学校の健康診断の同意書。署名をお願い」まっすぐに机に歩
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