All Chapters of 柳散って人去りて: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「渡辺社長、こんにちは。藤原恭介と申します。プラ化粧品会社の代表を務めております。お茶がお好きだと伺ったので、高級なお茶を持ってまいりました。ぜひ……」恭介が腕を上げたまま待っていると、背を向けて椅子を揺らしていた女性が、ゆっくりと振り返った。見覚えのある顔。エレベーターで、そして7号ホテルで美咲と一緒にいたあの人。まさか彼女が美咲の友人だとは。美咲は滅多に外に出ないのに、こんなに地位のある人とつながっていたなんて……だが逆に言えば、もしこの人が美咲の友人なら、今日の交渉は七割方成功したも同然だ。「渡辺社長、お会いできて光栄です。美咲ちゃんのご友人ですか!」恭介は満面の笑みでそう言った。美和は彼の差し出す茶箱を一瞥し、つまらなそうに返す。「そうよ。美咲ちゃんは私の友達。でもそれが、あなたに何の関係があるの?」「俺は美咲の夫で、藤原恭介と申します。プラ化粧品会社の代表を務めております。以前は貴社とも取引がありました。今日はその件で……」「おかしいわね」美和は眉をひそめ、わざとらしく首をかしげる。「あなたが美咲ちゃんの夫?それは違うんじゃない?7号ホテルで会ったとき、美咲ちゃんは知らない人だってはっきり言ってたわよ。しかもあの時、あなたは別の女を抱えて子どもの誕生日を祝ってたじゃない。私、美咲ちゃんに子どもがいるなんて一度も聞いたことないけど?」「そ、それは……」恭介の顔は青ざめたり赤くなったり、口ごもるばかりで言葉が出てこない。「そ、その、ちょっとした誤解なんです」美和は余裕の表情でじっと見つめ、さらに追い詰める。「やめておいたら?ビジネスは誠実さが基本。うちの会社は、嘘ばかりつく人とは組まないの」恭介は足元がおぼつかないほど打ちのめされ、エスティ化粧品会社を後にした。美和は窓辺に立ち、逃げるように去っていく背中を見送りながら胸のつかえを下ろす。美咲、あなたは本当に、こんな男に命を削るほどの価値を見いだすの?お願いだから、もう一度立ち上がって。こんな泥沼から抜け出して、自分のために生きてほしい。恭介がぼんやり会社へ戻ると、警備員が「先ほど里穂さんは出て行かれました」と告げた。だが今の彼には、彼女のことなど気にしている余裕はない。ソファに身を投げ出し、築き上げてきた会社を見渡すと、ただた
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第12話

「美咲ちゃん……」恭介は、自分の胸を締めつけるこの衝動に驚いていた。結婚して何年も経つというのに、まるで恋に浮かれた若い頃に戻ったみたいで、彼女に会いたい気持ちを抑えきれなかった。家の中は灯りがついていない。外の街灯が窓から差し込み、広いリビングをまだらに切り取っていて、どこか冷え冷えとして見えた。「美咲ちゃん、帰ったよ」けれど、いつもなら車椅子で迎えに出て、微笑みながらバッグを受け取ってくれるはずの彼女が、今日はどこにもいない。鍵を置こうとした手がふと止まる。美咲は毎日散歩に出るから、いつでも取りやすいように玄関に鍵を置いていた。なのに――そこは空っぽだった。胸がざわめき、恭介は我を忘れて彼女の部屋へ駆け込んだ。ドアを開けると、部屋はきちんと整えられていて、クローゼットは半開きのまま、中は空っぽだった。何も残っていなかった。恭介はその場に崩れ落ちるようにベッドに腰を下ろし、うわごとのように呟いた。「……ありえない。いつ出ていったんだ?」震える手で携帯を取り出し、何度も深呼吸してから、指が覚えている番号を押す。だが、返ってきたのは冷たい機械音だった。「おかけになった番号は、現在使われておりません」「そんな……」真っ赤に充血した目で、何度も番号を確認し、何度もかけ直す。それでも、繋がることはなかった。彼女は番号を消してしまったのだ。呆然と座り込み、ぶつぶつと独り言のように言う。「きっと怒ってるんだ……だから帰ってこないんだ……」次の瞬間にはもう車のキーをつかみ、飛び出していた。ハンドルを握る手は震え、車は速度を上げて曲がりくねった山道へ。真っ暗な山のふもとには人影一つない。恭介は後悔で胸を掻きむしりたくなった。あの時、自分はなんて残酷なことをしたのか。障害を抱えた彼女を、この山に一人置き去りにするなんて。「美咲ちゃん!どこだ!美咲ちゃん!返事してくれ……」声を枯らして叫んでも、答えてくれるのは風に揺れる木々の影の音ばかりだった。夜通し必死に探し回り、最後は地面に膝をついて、涙声で呟く。「美咲ちゃん……本当に悪かった。お願いだ、戻ってきてくれ……」翌朝。美和の車が会社に着いた途端、突然ボロボロの姿の男がフロントに飛びかかり、窓を叩き始めた。あまりの必死
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第13話

恭介はエスティ化粧品会社のビルの前に一晩中座り込み、翌朝、美和の車が現れると、狂ったように飛び出していった。彼は窓ガラスにすがりつき、必死に見上げる。「美咲ちゃんはどこ?君のところにいるんですか?いくら探しても見つからなかったんです……君が隠してるんでしょ、返して!」美和は呆れ顔で笑いながら答えた。「頭でもおかしくなった?奥さんがいなくなったのは私のせいじゃないわ。あのホテル以来、ずっと会ってもいないのに」その言葉を聞いた瞬間、恭介の背中は崩れ落ちるように丸まり、目の焦点が外れた。そして突然、窓にしがみついて泣き叫ぶ。「窓を開けて!中を見せて!一目だけでいいんです!美咲ちゃんには友達なんてほとんどいない、行く場所なんかないはずです!嘘だ……彼女はここにいるんだろう!」駆けつけた警備員に引き剥がされ、彼は力なく引きずられていった。美和は車の窓を閉め、ふと後部座席に視線を向ける。そこには目を閉じたままの美咲。彼女は何も言わず、ずっと黙っていた。今、彼女が何を考えているのか。美和にはわからなかった。ただ、妙におかしく思えた。あれだけ大事にされていたのに、裏切られた今になって、男は必死に愛を語る。けれど、遅れて示された愛情なんて、要らない。誰が欲しがるものか。恭介の以前の姿は、もう見る影もなかった。服は破れ、全身泥だらけ。額の髪は汗と汚れで貼りつき、あの威厳ある経営者の面影などどこにもない。顔は青白く、瞳には生気がなかった。会社に戻っても仕事どころではなく、持てる人脈や資金を使って美咲を探し続けた。社員全員に彼女の写真を配り、空港、駅、バスターミナルに張り込ませ、居場所を突き止めろと命じる。位置情報の報告まで強要し、その捜索範囲は春町市じゅうに広がった。自分は会社に泊まり込み、ほとんど眠らず探し続けた。まるで彼女を見つけなければ生きられないかのように。社員たちは疲弊しきり、ただでさえ業績が落ちている中で、こんな無茶な命令に耐えきれず、次々と辞表を出した。それでも恭介は諦めず、自ら街へ出て美咲の写真を片手に歩き回った。「どんな犠牲を払っても、必ず見つける……」ある日、通行人に声をかけていると携帯が鳴った。慌てて出る。「美咲ちゃん?美咲ちゃんなのか?」しかし聞こえてき
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第14話

美咲の父親が主催するパーティーがあると聞き、春町市の名だたる人々がみな集まることになった。新しい取引先を見つけようと、中村秘書は必死になってやっと一枚の招待状を手に入れる。そして当日。朝早くからホテルの支配人が、オーダーメイドのドレスと、海外で特注された靴を届けてきた。前に登山のとき履かされた特注靴でひどい思いをして以来、美咲は「靴」というだけで体が強張るようになっていた。けれど、この靴は想像以上に履き心地が良く、足をしっかり守ってくれる感覚があった。結局、問題は靴じゃなくて、それを買う人に気持ちと経済力、それから人脈があるかどうかなんだ。着替えを整えると、ホテルの専属ドライバーに送られ、会場である「サンズホテル」へ向かう。そこは美咲の父親が経営する高級ホテルだった。ただ、普段からあまりにも表に出ないせいで、「サンズホテル」のドアマンは彼女の顔を知らなかった。「失礼ですが、招待状をご提示ください」丁寧ではあるが、どこか見下した響きを含んだ口調だった。まさか父親が経営してるホテルで足止めされるとは。招待状を持ってくるのを忘れ、取りに戻るのも面倒だ。美咲はドアマンを困らせまいと、車椅子を脇へ寄せて美和に電話をかけた。けれど何度鳴らしても出ない。ため息をついて、ホテルへ戻ろうとしたその瞬間――探し続けてきた人が、恭介の目の前に、あまりにも突然に姿を現した。瞳が潤み、彼は震える手を差し伸べながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。胸の奥から込み上げるものを堪えきれず、ただ彼女を抱きしめたくて仕方なかった。「美咲ちゃん……!」人混みを抜け、ようやく手が届くと思った刹那、美咲の車椅子はすっと押され、入口へと進んでいった。彼女とすれ違う形で。車椅子を押していたのは、一人の若い男だった。きちんと仕立てられたスーツに身を包み、堂々とした立ち姿、気品の中に余裕すら漂わせている。その声には威圧感があった。「ホテル総支配人の娘、美咲さんをホテルの入り口で止めるとは。ドアマンを替えるべきじゃないか?」その一言で、ドアマンの顔色が悪くなり、その場にひざまずいた。美咲が誰なのかは知らなくても、この谷口家の御曹司だけは絶対に怒らせてはいけない。「谷口様、本当に申し訳ありません!すぐにご案内します!」美咲
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第15話

宴会場に入ってようやく、美咲はその男の顔をはっきりと見た。冷ややかで端正な顔立ち、どこか人を寄せつけない雰囲気をまとっている。彼女は軽くうなずき、礼を言った。拓巳は首をかしげて、じっと彼女を見つめる。「本当に、俺のこと覚えてないのか?」茫然と首を振る美咲を見て、彼はふっと笑った。「子どもの頃に、君の顔に化粧したあの……」その言葉で、美咲の頭に嫌な記憶がよみがえる。顔が真っ黒になりそうな、封印したい記憶だ。九歳のときだった。家に大勢の客が来ていて、父から「小さい子たちの面倒を見ろ」と言われていた。子どもたちはすぐに仲良く遊びはじめたが、一人だけオーバーオール姿の少年が階段の隅でしょんぼりしていた。大人たちに叱られるのが怖くて、美咲は苛立ちながら理由を尋ねた。少年は、「誰も化粧ごっこをしてくれない。お父さんには、男が化粧なんて化け物になるだけだって怒られた」と口にした。その話を聞いて美咲も驚いた。化粧するのは母や叔母くらいで、男の子が好きだなんて聞いたことがなかったから。それでも彼女は母の化粧パレットを差し出した。「じゃあ私がモデルになるから。元気出しなさいよ」こうして、彼女の顔はまるで絵の具のパレットになった。少年が塗りたくるめちゃくちゃな色を、眉をひそめて我慢するしかなかった。ちょうどそのとき、階段を上がってくる客たちと鉢合わせ。派手に笑われ、恥ずかしさで顔から火が出そうだった。その一件は、毎年のように人にからかわれるネタになり、だからこそ父が谷口家との縁談を持ち出したとき、彼女は心の底から嫌だったのだ。拓巳は意味ありげに笑う。「もしかして、あの件でずっと俺を避けてたんじゃない?」……図星。美咲は口元をひきつらせながら、苦し紛れに答えた。「そ、そんなことないわよ」彼はそれ以上追及せず、堂々と手を差し出した。「俺は拓巳だ。改めて、よろしく」美咲も同じように笑って応じる。「美咲です。よろしくね」そこへ、ワイングラスを手にした美和が、にやにやしながら割り込んできた。「おやおや、紹介しようと思ったら、もう勝手に握手しちゃってるじゃない?二人ともいい感じじゃない?もっと仲良くなったら?」言いたい放題の友人に、美咲は申し訳なさそうに拓巳を見た。だが彼は気にした様子もなく微笑み、親のところへ戻
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第16話

美咲は車椅子を押して背を向けた。もう相手にしたくなかった。けれど、その冷たさが恭介の胸に突き刺さる。彼は車椅子を強引に押さえ、行く手を塞いだ。「どうした?図星を突かれたら逃げるのか?美咲ちゃん、忘れてないだろうな。俺たちはまだ正式に離婚してない、れっきとした夫婦なんだぞ。なのにどうしてそんな態度が取れるんだ?」被害者ぶったその言い方に、美咲は笑った。ほとんど聞き取れない声でつぶやく。「あなた、昔からそうだったわね」その一言に、恭介の瞳孔がぎゅっと縮む。心臓を握りつぶされるような痛みが走る。やはり彼女は自分を怨み、憎み、心底嫌っているのだ。美咲はそれ以上言わず進もうとする。恭介は眉間にしわを寄せ、必死に自分に言い聞かせた。「何かしろ、このままじゃ本当に美咲を失う」手のひらに汗をにじませながら、彼は耳元で低くささやいた。「一緒に家に帰ろう。そうしないなら、谷口家の坊ちゃんに言ってやるぞ。君が男に取り入ってのし上がろうとする女だってな。俺は君の夫だ。俺の言葉と君の言葉、どっちを信じると思う?」美咲の鋭い視線が彼を射抜く。恭介も拳を握り、必死に見返した。怯んではいけない。彼女が戻ってくるなら、罪を償おうと決めていた。美咲はただため息をついた。その瞬間、恭介の口元に笑みが浮かんだ。やはり、最後には自分に折れるのだと。けれど、彼女の言葉はあまりにも冷たかった。「好きにすれば」そう言い残し、そのまま行ってしまった。最初から彼を人とも思っていないように。笑みは恭介の顔に貼りついたまま固まった。そして次の瞬間、彼は怒鳴った。「美咲!本気で拓巳が君を好きになると思ってるのか?君は孤児で、障害者だ。この世で本気で面倒見るのは俺しかいないんだ!」ごめん、美咲。君をつなぎとめるためなら、手段は選ばない。君を徹底的に打ちのめし、全世界を敵に回したとしても、自分だけにすがるようにすればいい。俯いた美咲は、すっかり気力を奪われたように見えた。もう彼とは決別したはずなのに、その言葉はやはり胸を深くえぐる。彼女は改めて知った。目の前の男が、どれほど自分本位で卑しい人間か。「誰が孤児だと?」場の空気を裂くように、力強い声が響いた。威厳に満ちた紳士が、美和と拓巳に付き添われて姿を現した。七年ぶりに見る父
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第17話

一騒動あったものの、宴会はすぐに落ち着きを取り戻し、客たちは再び酒を酌み交わしていた。美咲はどうしてもこの雰囲気に馴染めず、車椅子を押して外へ出て、橋のそばで少し風にあたることにした。ところが、そこにまた恭介がついてきた。先ほどまでの威張った態度は消え、声にはどこか卑屈さすらにじんでいた。「まさか……君が高級ホテルの総支配人の娘だったなんて」美咲には、その言葉にどんな意味があるのか分からなかった。「そうだったら何?違ったら何?私は私よ。何も変わらない」恭介の目は複雑な色に揺れていた。「違うさ……全然違う。もし君がもっと早くお父さんを見つけていたら、俺と一緒にあんな苦しい思いをせずに済んだんじゃないか」彼は、美咲が父と今になって再会したと勘違いしているのだろうか。思わず可笑しくなって、美咲は声を立てて笑った。「私はずっと、自分が誰か知ってたわ。あなたと付き合ってから、父親との関係がぎくしゃくしていた」「そんなはずが……そんなこと……」恭介の顔から血の気が引いていく。どうして。どうしてそんなふうに、彼女は自分を選んだ?家族との縁を切ってまで、莫大な財産を捨ててまで、それに足を失ってまで。そんな重い愛、彼には背負いきれない。もし少しでも彼女を愛していたなら、結婚してから浮気に走ることはなかった。もし大切に思っていたなら、あの日、あんなふうに山中に置き去りにはしなかった。もし尊重していたなら、人に笑われ、侮辱されるのを見過ごすこともなかった。自分は彼女の人生を台無しにした汚点のような存在だ。もし自分がいなければ、彼女の未来はどれほど輝いていただろう。それでもまだ、彼女を独り占めしたいと願ってしまう。だが現実には、彼女のそばにいる誰もが、自分よりよほど良い環境を彼女に与えられるのだ。呆然としたまま、恭介は苦い思いを飲み込み、かすれた声で言った。「……美咲ちゃん、離婚しよう」いま彼にできる唯一の償いは、彼女を解き放つことだけだった。だが美咲の心は少しも動かない。離婚なんてただの手続きにすぎない。二人の関係は、とっくに赤の他人同然だった。彼女が背を向けて去っていくのを、恭介はただ黙って見つめるしかなかった。結局二人は、全く別の世界の人になってしまったのだ。その時だった。美咲の車椅子が木橋を渡り切ろ
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第18話

湖へ飛び込んだのは拓巳だった。意識を失いかけたその瞬間、逆光の中を魚のように力強く泳いでくる人影があった。かつて自分も、愛する人を救うために迷わず飛び込んだことがあった。結局、美咲は死ななかった。拓巳の的確な救助で、傷一つといっていいほど無事だった。彼女は誰にも心配をかけたくなくて、拓巳に着替えを手伝ってもらったあと、平然を装って階下へ降りた。「今度はさすがにやりすぎだ」拓巳の声には、彼女を思う怒りがにじんでいた。ちょうどその時、外からざわめきが聞こえてきた。美咲が目にしたのは、人だかりの海で、子どもを縛り付けられたまま恭介と並んでひざまずく姿だった。前に立つ美和は全身に怒りを張り詰め、今にも二人を食い殺しそうな形相だった。「恭介、あなたって人は……!殺す気でやったの?」美咲が生きていると知って、粉々に砕けそうだった恭介の心は、ようやく少し落ち着いた。彼は黙って膝をつき、罵られ殴られるままにしていた。周りからは小声のささやきが漏れる。「いくらなんでも酷すぎる。ホテル総支配人の娘に手を出すなんて、自殺行為だろ」「どんな深い恨みがあるんだ、命まで狙うなんて」「悪質すぎる……渡辺さん、警察に通報したほうがいい」美和は地面で泣き叫ぶ子どもを引きずり上げた。恭介は目を閉じ、黙っていた。甘やかしすぎたせいで、子どもはわがままに育った。そのツケが今きているのだ。叱られて当然だった。その時、美咲が車椅子で人垣を割って進み出た。「美和ちゃん、もういい。行かせてあげて」恭介は目を見開いた。美和はため息をつき、子どもを返した。友人として彼女をよく知っている。美咲は優しすぎるのだ。「土下座しろ!」恭介が怒鳴ると、泣き止んでいた子どもが再び嗚咽を漏らした。「泣くな!土下座して謝れ!」初めて目にする父の鬼のような顔に怯え、子どもは震えながら地面に膝をつき、美咲へ頭を下げた。「ごめんなさい、おばさん。ぼくが悪かった。もう二度としない……」額が割れて血が滲むまで頭を打ちつけ、ようやく美咲が止めた。「子どもを産んだなら、きちんと育てるべきだよ。親が教えなければ、外の世界で容赦なく教えられるだけだから」恭介は恥ずかしさに俯き、ただ黙って頷いた。そして警備員を呼び、二人を会場から追い出した。
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第19話

ある日の会食のあと、年配の人たちが美和たち若い世代を呼び出し、少し話をした。言葉はやんわりしていたが、その意図は誰もが理解していた。美咲と拓巳を結びつけたい、ということだ。以前なら、美咲もすぐに頷いたかもしれない。結局のところ政略結婚とは、資源の共有と利益の最大化にすぎないのだから。けれど今は違う。拓巳に救われたあと、胸の奥に自分でも説明できない感情が芽生えていた。深く考えれば考えるほど、それは怖さにも近いものだった。できることなら、一人で余生を過ごしたい。美咲は珍しく嘘をついた。「まだ前のことを整理できていないんです。しばらく結婚は考えたくありません」拓巳の祖父の顔が一気に曇った。もともと彼は、バツイチで足の不自由な美咲を快く思ってはいなかった。もし拓巳が七年前から「彼女以外は嫌だ」と言い続けなければ、こんな話を持ち出すこともなかっただろう。ところが今や、名門・谷口家のほうが先に断られる形になってしまった。場の空気が微妙に張り詰める中、拓巳がわざと明るく笑ってみせた。「まあまあ、じいちゃん。俺はまだ若いし遊び足りない。結婚なんて早すぎるよ」「三十にもなって若いだと?」拓巳の祖父は茶碗でも投げつけそうな勢いだった。他の年配者たちは苦笑いしながら話題を逸らした。美咲の父も何か言いかけたが、娘の折れない性格を思い出してため息をつき、口をつぐんだ。「まあいい。我々はもう年寄りだ。若い者のことは若い者が決めればいい」宴のあと、美和と美咲はそれぞれ家業を引き継ぐことになった。「エスティ化粧品会社」は順調に成長していたが、美咲は多忙で手が回らなくなっていた。色々考えた末、彼女はその「エスティ化粧品会社」を拓巳に譲ることにした。ひとつには、彼が子どもの頃から化粧品に興味を持っていたことを思い出したから。もうひとつは、彼に命を救われた負い目もあり、それを返す意味も込めてだ。法人名義が拓巳に変わった証書を見て、彼は冗談めかして言った。「これって、持参金ってやつ?」美咲は呆れたように返す。「違う。贈り物よ。気に入った?」「当たり前だろ。子どもの頃からメイクが好きだって知ってるだろ?」彼はからかうように視線を向け、美咲は一瞬、この決断が正しかったのか不安になった。「どうせなら、もう一度ベースメイクのモデルになって
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第20話

恭介は幼稚園に将吾を迎えに行き、そのまま会社の地下駐車場に車を停めた。もう別荘はないので、今は会社で寝泊まりしている。将吾は父の後ろで、今日の学校であった出来事を楽しそうに話していたが、途中で急に黙り込んだ。「将吾?どうした、急に黙っちゃって」振り返った恭介は、その光景に驚愕し、手に持っていた袋をすべて落とした。里穂が片手で将吾の口を塞ぎ、もう一方の手でナイフを恭介に突きつけていたのだ。「恭介くん、まさかまだ潰れてなかったとはね。ちょっと金欠でさ、少し貸してくれない?」恭介は怒鳴りつけた。「まだここに顔を出すとはな。倉庫の件はすでに警察に通報してある。今まさに君を探しているんだぞ!」里穂はやつれた顔をきょろきょろさせ、急にヒステリックに叫んだ。「うるさい!いいから金を出せ!」子どもに危害が及ぶのを恐れ、恭介はポケットの現金をすべて放り出した。それをひったくった里穂は、さらに彼のスマホと車の鍵まで奪い取った。そして将吾を突き返しながら、気味悪く笑った。「寂しくなったら会いに来なよ。知ってるでしょ、私の腕前は、あの足の悪い奥さんよりずっといいんだから」恭介はその下品な姿に吐き気を覚えた。彼女が車に乗り込もうとしたその瞬間、横から強烈な蹴りを受けて地面に転がった。「……なんでここに!?」恭介は驚いた。現れたのは拓巳だった。里穂は地面に落ちたナイフを掴み、逆上して拓巳に突き立てようとした。恭介の心臓が跳ね上がった。「危ない!」だが拓巳は落ち着き払ったまま身をひねり、刃が届く直前に肘打ちで彼女を叩き伏せた。里穂は床に這いつくばり、血を吐き出した。恭介はすぐにスマホを拾い、警察に通報した。凶器を持っての傷害に加え、数百万相当の物品窃盗――これで里穂は残りの人生を刑務所で過ごすことになるだろう。将吾を落ち着かせたあと、恭介は深々と頭を下げた。「助かった、本当にありがとう」拓巳はさらりと答える。「気にするな。大したことじゃない」」「それで……俺に用があるんだろ?美咲のことか?」図星だった。拓巳の表情は険しい。「七年前、俺は君たちにチャンスをやった。だがもう二度とチャンスをやる気はない」「七年前?」恭介は眉をひそめる。「君と美咲が崖から落ちて重傷で運ばれた時、誰が一番に病院
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