All Chapters of 凪いだ夜に、君はもういない: Chapter 1 - Chapter 10

23 Chapters

第1話

【宿主様、当世界における生命維持期間が間もなく満了します】【延長を希望しますか?】機械的なシステム音が、浅野真尋(あさの まひろ)の脳内に響いた。感情の起伏は一切ない。真尋は手にしていたコーヒーカップを置き、その縁を指先でそっと撫でた。長い沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開く。「いいえ、結構」【宿主様、帰還プログラムを起動した場合、あなたはこの世界で死亡します】【再度確認してください】真尋は静かに微笑んだ。「ええ、お願い」【宿主様の指示を確認しました】【重要人物との別れのため、十五日間の猶予が与えられます】システムはそれだけ告げると消えた。彼女はスマートフォンを手に取り、習慣のように月島詩織(つきしま しおり)のSNSを開いた。写真は空港のガラス窓に映ったもの。詩織が桐嶋慧(きりしま めぐみ)の肩に寄りかかり、慧は彼女の腰を両手で強く抱きしめ、口元に笑みを浮かべている。その笑みが、真尋の目を容赦なく刺した。胸が締め付けられ、窒息しそうなほどの圧迫感。涙が膜のように瞳を覆っていく。慧、あんなに彼女を愛しているのね。それなら、どうして私を弄んだの?真尋はグラスを取り、水を一気に呷った。冷たい水が喉を滑り落ちていくが、心の奥で燃え盛る苦さを消し去ることはできない。壁の時計は十二時を指している。しかし慧はまだ帰ってこない。テーブルに並べられた手料理は、とうに冷え切っていた。真尋は涙を必死に堪え、立ち上がった。「もう、片付けて」家政婦の吉川(よしかわ)さんがため息をつきながら口を開いた。「旦那様をもう少しお待ちになっては……」もう待たない。引き止められないものに、もう未練はなかった。真尋は重い足取りで寝室へ戻った。椅子に腰掛ける間もなく。バンッ――部屋のドアが乱暴に開け放たれ、桐嶋湊(きりしま みなと)の小さな姿が入口に現れた。「ママ、パパは詩織おばちゃんを迎えに行ったの?」真尋の心臓が鉛のように沈む。彼女は懸命に涙を押し殺した。「そんなことないわ。湊、いい子だから、お部屋に戻って寝なさい」「嘘だ!詩織おばちゃんは今日帰ってくるんだもん!パパ、空港まで迎えに行くって約束したんだ!」湊の小さな顔がくしゃくしゃに歪み
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第2話

十年前、真尋はシステムによってこの世界に送り込まれた。当時、慧は詩織に振られたばかりで重度のうつ病を患い、日に日に痩せ衰えていた。彼女の任務は、何度も自殺未遂を繰り返すターゲットを救い、彼をまっとうな人生の軌道に戻すこと。慧が健康を取り戻し、二度と死を望まなくなれば、彼女は元の世界に帰還できるはずだった。彼女は彼に寄り添い、共に語らい、散歩し、あらゆる辛い日夜を乗り越える支えとなった。そして、いつしか彼女は彼に心を奪われていた。だから、システムが任務完了を告げた日、彼女は残ることを選んだ。報酬として得た全ポイントを、この世界で生き続ける資格と引き換えたのだ。しかし今になって、それがすべて自分の独りよがりだったと悟った。真尋は一睡もできず、夜が明ける頃には赤く腫れた目で忙しく動き回っていた。この数年間で父子から贈られたものをすべて整理し、大きな段ボール三箱に詰め込んだ。時間通りに宅配業者が訪れ、箱を運び出し始める。その時、呼び鈴が鳴った。「何を片付けてるんだ?」声がしたかと思うと、真尋ははっと振り返った。入口には慧と湊、そして……詩織が立っていた。慧はスーツケースを二つ引きながら、不機嫌そうに眉をひそめる。「手伝え。車にまだ荷物がある。詩織がしばらくここに住むことになった」真尋の心は凍りついた。慧が所有するもう一軒のマンションについて尋ねようとしたが、言葉は喉の奥で詰まってしまった。喉に広がる苦い味さえ感じられる。「ママ、何を片付けてるの?」湊が詩織の手を振りほどき、興味津々で段ボールを覗き込んだ。慧の視線も段ボールに注がれる。彼は一目で、真尋に贈った限定モデルの腕時計だと気づき、その声は瞬時に冷え切ったものになった。「これ、全部捨てるのか?一体何を考えてるんだ!」真尋はかろうじて微笑んだ。「物が多いから。新しく住む人のために、場所を空けないとね」か弱い声が、絶妙なタイミングで響いた。「真尋さん、私が住むのがご迷惑なのかしら。誤解しないで、本当に一時的なものだから……」詩織は潤んだ瞳で真尋を見つめる。まるで、彼女が頷かなければ非情な人間だと言わんばかりに。湊もそれに便乗した。「ママってケチだなあ!家はこんなに広いのに、片付けなんて必要ない
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第3話

「何か話があるなら、もっと穏やかに言えないのか?」慧の声が一段と高くなる。「湊がいくつだと思ってる。そんな大声で怒鳴る必要はないだろう」真尋は信じられない思いで彼を振り返った。目の前の父子の姿が、ひどく見知らぬものに思える。心に辛いものが込み上げてきたが、真尋はそれでも平静を装い、ケーキを指差した。「数ヶ月前、湊がヨーグルトをちょっと飲んだだけで病院に運ばれたこと、先生に何て言われたか忘れたの?」慧の顔色が変わった。何かを思い出したようだったが、結局何も言わなかった。詩織はそれを見て、慌てて場を収めようとする。「真尋さん、子供って甘いものが好きだものね。これくらいなら、大丈夫じゃないかしら……」真尋は怒りのあまり笑ってしまった。「月島詩織、あなたは人の話が理解できないの?」慧は再び眉をひそめた。「真尋、言葉に気をつけろ。たかがケーキ一つじゃないか。湊が食べたがってるなら少し食べさせてやれ。何をそんなに大げさに騒ぐ。それに、現に何ともないんだろう。大袈裟なんだよ」彼は一呼吸おいて、さらに厳しい口調で続けた。「詩織に謝れ」真尋は唇を固く噛みしめ、目に込み上げてくる涙を無理やり押し殺した。こんな場面になることは予想していた。それでも、心は耐え難いほどに冷えていく。「慧」彼女の声は掠れ、わずかに震えていた。「もう、あなたの好きにすればいいわ」涙がこぼれ落ちる前に、真尋は背を向け、この息が詰まるような家から逃げ出した。この世界に、もはや彼女を惹きつけるものはない。この二つの執着も、消え去ろうとしていた。真尋は車を走らせ、あてもなく街をさまよった。音楽のボリュームを最大にする。耳をつんざくようなドラムの音が、心に渦巻く痛みをわずかに紛らわしてくれるようだった。どれくらい経っただろうか。突然、スマートフォンの着信音が音楽の喧騒を突き破った。真尋は通話ボタンを押す。「奥様、大変です!坊っちゃまが……」吉川さんの泣きじゃくる声が途切れ途切れに聞こえてきた。真尋の頭の中で何かが切れる音がした。彼女は急ブレーキを踏み、甲高いブレーキ音が夜空を切り裂いた。湊は自分の体の一部だ。どんなに聞き分けがなくても、母と子の絆は変わらない。彼女はハンド
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第4話

ようやく処置が終わり、真尋は湊のベッドのそばでうたた寝をしていた。朦朧とする意識の中、聞き慣れた声が聞こえた。「真尋」真尋ははっと目を覚ました。顔を上げると、慧と詩織が病室の入口に立っていた。慧の顔は険しい。「お前は、そんなふうに子供の面倒を見ていたのか」彼女が口を開く前に、詩織がベッドのそばへ歩み寄った。「湊くん、もう大丈夫?」湊は顔をそむけ、拗ねて彼女を無視した。詩織の目が赤くなり、説明を始める。「湊くん、ごめんね。おばちゃん、昨日の夜は急用ができて出かけてたの。すごく、すごく大事な用事だったのよ」湊は彼女を見つめ、小さな顔に悲しみを浮かべた。「昨日の夜、すごく怖かったんだ。でも、詩織おばちゃんも、パパもママもいなくて、もう二度と会えないかと思った」そう言ううちに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。ふん、すごく大事な用事ね。真尋は冷笑した。その時、看護師が入ってきて、静かに言った。「お子さんは今、安静が必要です。あまり感情的にさせないようにしてください」慧は頷き、詩織を連れて部屋を出て行った。真尋は吉川さんに残るよう言い付け、自分も病室を後にした。医師によると、湊は数日間入院して様子を見る必要があるらしい。湊の着替えをいくつか取りに帰らなければならない。別荘への帰り道、車内の空気は息が詰まるほど重かった。詩織が最初に沈黙を破った。「真尋さん、アレルギーがこんなに大変なものだなんて知らなかったの。もう二度としないから……」真尋は黙っていた。慧はバックミラー越しに彼女を一瞥し、冷たい声で言った。「真尋、お前は夜中にどこへ行っていたんだ?もっと早く気づいていれば、湊はここまでひどくならなかったんじゃないか」真尋は冷たく笑った。「慧、面白いことを言うのね。彼は私一人の息子なの?息子が病気の時、父親であるあなたはどこにいたの?それとも、妻と息子に隠れてバーに行くのは、そんなに刺激的だった?」慧の顔色が瞬時に気まずくなった。口を開いたが、しばらく言葉が出てこない。隣の詩織が目元の涙を拭い、潤んだ目で説明した。「真尋さん、昨日は私の友人のバーの開店祝いで……本当はあなたも一緒に誘おうと思ってたの。でも、お部屋に行ってもいなかったから……」真尋は
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第5話

夜、真尋は片手に保温ポット、もう一方の手に数枚の着替えを持って病院を訪れた。エレベーターを降りると、慧に呼び止められた。彼の顔は険しく、その眼差しは氷のように冷たい。「詩織は今、情緒が不安定だ。真尋、彼女の前に姿を見せない方がいい。うつ病が発症した時、どれだけ辛いか、お前ならわかるはずだ」真尋の心がずしりと沈んだ。彼の看病に付き添ったあの日々、自分がどうやって乗り越えてきたか、もちろん覚えている。骨の髄まで突き刺すような痛み、光のない暗闇の日々。今でも鮮明に思い出せる。真尋は微笑んだ。「私は息子に会いに来ただけよ」彼女は慧を避け、病室のドアを開けた。中は誰もいなかった。慧の声が背後から聞こえる。「湊は散歩に出ている。これからはスープを俺に渡してくれればいい。俺が面倒を見る」真尋はすぐに彼の意図を理解した。彼女は何も言わず、黙って保温ポットを彼に手渡した。「じゃあ、しっかり面倒を見てあげて。私は家に帰るから」しかし、真尋は帰らなかった。病室を出た後、彼女はこっそりと階段の踊り場に隠れた。ほどなくして、慧が病室から出てきて、隣の部屋へと入っていく。真尋は静かにドアに近づき、隙間から中を覗いた。病室では、湊が詩織のベッドのそばに寄り添っている。慧は傍らに座り、リンゴの皮を剥いていた。その顔には優しい笑みが浮かんでいる。なんて温かい、家族の姿だろう。その光景が、真尋の目を深く、深く突き刺した。真尋は茫然自失のまま家に帰った。力なくソファに倒れ込み、習慣でSNSを開く。最初に目に飛び込んできたのは、詩織の投稿だった。【チキンスープよりも、あなたたちがそばにいてくれる方が好き。今を大切に】添えられた写真は、湊が詩織の首に抱きつき、頬を寄せて満足そうに笑っているものだった。そして、左下に写り込んでいる袖口は、まさしく今日慧が着ていたスーツのものだ。自分が息子のために心を込めて作ったチキンスープが、あの父子によって宝物のように他の女に捧げられていた。彼らの心の中では、自分は笑い話のような存在なのだろう。真尋は自嘲気味に笑い、スマートフォンを投げ捨てた。世界がぼやけて見える。ただ、胸の中で砕け散った心臓だけが、まだ鼓動を続けていた。これが
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第6話

それからの数日間、真尋は病院へ行かなかった。毎日家で、この世界に残した自分の物を整理していた。去るからには、自分の痕跡をすべて消し去らなければならない。湊と詩織が退院する日、真尋は彼らのための豪華な食事を用意させることもしなかった。彼女は静かにソファに座り、昔書いた日記帳を手にしていた。すでに黄ばんだページには、慧に関する記述がびっしりと詰まっている。一ページずつめくっていくと、最後の一枚に慧の筆跡を見つけた。いつ書かれたのかはわからない。【慧と真尋は、一生一緒にいる】そして、真尋と慧が訪れた街々で撮った写真。どれも親密なものばかりだった。これらの品々を彼女は大切に保管し、アルバムにしていた。老後、ロッキングチェアに座ってゆっくりと思い出したり、子孫に語り聞かせたりするのも楽しいだろうと思っていた。だが、もはやその必要はない。かつて心をときめかせた思い出が、今では一本一本の鋭いナイフのように、彼女の心臓を突き刺す。彼女はそれらをすべて一つの段ボール箱に放り込み、前庭へ運んだ。マッチを一本擦ると、燃え盛る炎が瞬く間にすべての思い出を飲み込んでいった。真尋の瞳に、何の感情も映っていなかった。最後に、彼女は薬指から結婚指輪を外し、それも火の中へ投げ入れた。これは慧が起業して二年目、全財産をはたいて買ってくれたものだ。高価ではなかったが、彼がこの指輪を彼女の薬指にはめてくれた時の表情を、彼女は永遠に忘れないだろう。彼は何度も彼女にキスをし、耳元で繰り返し囁いた。「真尋、必ずもっといい暮らしをさせてやるからな!」十年。それは、一本の火で焼き尽くせるものだったのだ。「真尋、何を燃やしているんだ?」真尋ははっと振り返った。三人が一緒に立っているのが見える。夕日が彼らを照らし、まるで幸せな家族のようだった。真尋は口の端を引きつらせた。「どうでもいいゴミよ」詩織はしばらく黙っていたが、自ら進み出て真尋の手を握った。「真尋さん、私のせいで慧さんと喧嘩しないで。私が病気で自分を抑えられなかったの。全部、私のせい……」真尋は彼女を一瞥もせず、静かに自分の腕を引き戻した。「あなたが自殺しようとしたことなんて、元々私には関係ないわ。わざわざ強調する必要はない」
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第7話

真尋は何も言わず、ただ静かに彼を見つめていた。慧も自分の口調が良くなかったことに気づいたのか、声を和らげ、どこか申し訳なさそうに言った。「M島行きの航空券を予約したんだ。お前、ずっと行きたがっていただろう?あそこで誕生日を祝わないか?」真尋はやはり答えなかった。自分がこの世界を去る日が、ちょうど自分の誕生日だということを、彼女は忘れていた。慧は彼女の骨ばった手を握り、ふと何かに気づいた。「指輪は?」真尋は手を引き抜き、静かに言った。「失くしてしまったの」四つの目が交差する。慧は息を吸い込み、優しく彼女の頭を撫でた。「失くしたなら、また新しいのを買おう」真尋は黙っていた。その時、慧は壁にかかっていたウェディングフォトがなくなっていることに気づいた。それだけでなく、部屋の中が以前よりずっとがらんとしている。あまりにも空っぽで、どこかおかしい。彼は真尋を見た。「なんだか、家の中がずいぶんすっきりしたな」真尋は頷いた。「もう見飽きたものは、捨てたの」慧はそれ以上聞かず、ただ頷いた。「捨てるならそれでいい。あのウェディングフォトも綺麗じゃなかったしな。今年の結婚記念日にまた撮りに行けばいい。それよりお前だ。ちゃんと食事して、少しは肉をつけろ」その言葉を聞いて、真尋は一瞬固まった。「きゃあ!」沈黙を破る甲高い悲鳴と、陶器が割れる音が響いた。慧は反射的に立ち上がり、急いでドアへ向かった。しかし、ドアの前で何かを思い出したように立ち止まり、真尋を振り返った。「詩織が、お前にスープを作って元気を出させようとしてるんだ。今、作り方を学んでいるところなんだ。真尋、詩織は来週には出ていくと言っていた。もう少しだけ、我慢してくれないか?彼女の病気が……治りにくいことは知っているだろう」彼の去っていく背中を見つめながら、真尋は目を閉じた。もう疲れた。これ以上、追及する気力もない。慧は本当に真尋の体を心配しているようで、その後数日間、会社には行かなかった。彼は献身的な夫のように、片時も離れず彼女のそばにいた。一日三食、彼が自ら確認し、不器用ながらスープの作り方まで学び始めた。忙しく立ち働く彼の姿を見て、真尋の心は言いようのない気持ちで満たされた。この世界にい
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第8話

飛行機が離陸して間もなく、真尋はうとうとし始めたが、激しい揺れで目を覚ました。機内は混乱に陥り、悲鳴や泣き声があちこちから聞こえてくる。酸素マスクが天井から落ちてきて、空中で揺れている。客室乗務員の震える声が、何度も安全の指示を繰り返すが、それはまるで死へのカウントダウンのように真尋の神経を打ちつけた。飛行機は急速に降下していく。無重力感に、真尋の心臓は胸から飛び出しそうだった。飛行機はようやく停止したが、猛烈な衝撃で真尋の頭はガンガンと鳴った。機体のドアが開き、人々は先を争って外へとなだれ込む。誰かが真尋を押し、早く行くよう促した。真尋の心臓がずしりと沈む。彼女は無意識に父子の姿を探した。その時、慧が湊の手を引き、別の方向へ走っていくのが見えた。「慧!湊!」真尋は声を張り上げて叫んだが、その声は喧騒の波に飲み込まれ、誰にも届かなかった。父子は一度も振り返らず、人混みの中へ消えていった。彼女は人波に押され、よろめきながら飛行機を降りた。冷たい雨が容赦なく降りつけ、あっという間に真尋をずぶ濡れにしたが、寒さは全く感じなかった。彼女は焦って周りを見渡し、慧と湊の姿を探す。まだ、そう簡単には諦めきれなかった。「慧!湊!」真尋は声を振り絞って彼らの名前を呼んだが、その声は雨音と風の音にかき消されていった。周りの人々は抱き合い、生存できることを喜び合っている。彼女だけが、ひとりぼっちだった。雨はますます激しくなり、轟く雷鳴を伴った。その時、真尋は人混みの向こうに、固く抱き合う慧と詩織、そして湊の姿をようやく見つけた。雨水が真尋の頬を伝い落ちる。それが雨なのか涙なのか、区別がつかなかった。命拾いしたはずなのに、彼女はもっと深い奈落の底に突き落とされたような気分だった。慧は震える詩織を抱きしめ、その背中を優しく叩きながら、穏やかに慰めていた。「もう大丈夫だ、詩織。もう大丈夫……」湊も詩織の首にしっかりと腕を回し、舌足らずな声で叫んだ。「詩織おばちゃん、怖くないよ。僕がいるからね」最初から最後まで、騙されていたのは自分だけだったのだ。湊でさえ、慧の周到な計画を知っていた。彼女はよろめきながら一歩後ずさった。その瞬間、驚き、失望、悲しみ……様々な
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第9話

彼女は慧が安堵のため息をつくのを聞いた。「わかった。じゃあ、今夜はホテルに泊まって、明日帰ろう」真尋が言ったのは、自分の本当の家に帰るという意味だった。しかし慧は、彼らの家に帰るという意味だと勘違いしていた。「いいから。雨も少し弱まってきた。まずはホテルで熱いシャワーを浴びよう。風邪をひいてしまう」慧の口調には、どこか機嫌を取るような響きがあった。彼は真尋の肩を抱こうとしたが、彼女は何気ないそぶりでそれを避けた。断ろうと思ったが、慧の言う通り、彼女はひどい頭痛を感じていた。ホテルに着くと、真尋はすぐにバスルームに入った。出てきても慧はまだソファに座って待っていたが、彼女はひどいめまいを感じ、ベッドに倒れ込んだ。朦朧とする意識の中、誰かが彼女の額に触れるのを感じた。誰かに体を起こされ、薬を飲まされた。薬はとても苦かったが、抵抗する気力もなかった。そのまま昏々と眠り続け、次に目覚めたのは翌日の昼だった。外は依然として嵐で、吹き付ける風が頭痛をひどくする。彼女は起き上がって窓を閉め、ついでにスマートフォンを見た。今日が、最後の日だった。しかし、誕生日を祝ってくれると言ったその人は、どこにもいない。彼女は慧に電話をかけた。電話に出たのは、詩織の甘ったるい声だった。「もしもし?」真尋はスマートフォンを握る指に力を込めた。「慧は?」「真尋さんね」詩織の声には、どこか得意げな響きがあった。「こんなに早く起きると思ってなかったから、食事に出てきちゃったの。あなたも来る?」真尋は軽く笑った。「別に用はないわ。続けて」そう言って、彼女は電話を切った。真尋は起き上がり、自分の服に着替えた。彼女は自分自身のために、最後のバースデーケーキを注文した。フロントが届けてくれたのは、夜の十時だった。しかし、慧はまだ帰ってこない。真尋はルームキーを手に、部屋を出た。もう、待つ必要はないと、彼女は思った。ケーキを受け取ると、真尋は螺旋階段を上っていった。ロビーのクリスタルのシャンデリアが眩しく輝き、彼女の意識を少し朦朧とさせた。「真尋さん」甘ったるい声が階下から響いた。真尋は足を止め、下を見下ろした。詩織がロビーの中央に立ち、にこやかに彼女を見
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第10話

大きな物音に、多くの人々が足を止めた。慧は床に膝をつき、真尋を固く抱きしめた。温かい液体が彼のシャツを濡らしたが、彼はそれに気づかなかった。「真尋!真尋、目を覚ませ!何か言ってくれ!」湊も真尋の体に覆いかぶさり、小さな体を丸めていた。「ママ!ママ!湊を置いていかないで……」詩織は顔面蒼白だったが、必死に平静を装って救急車を呼んだ。「もしもし、こちら翠明ホテルです。人が……自殺しました。早く来てください」電話を切ると、彼女は唇を噛みしめ、前に進み出て言った。「慧さん、落ち着いて。真尋さんはきっと大丈夫だから」慧は彼女の言葉が聞こえていないかのように、ただ真尋を固く抱きしめていた。詩織は彼の反応がないのを見て、歯を食いしばり、無理やり湊を引き離した。「湊くん、いい子だから。一晩寝て起きれば、ママも目を覚ますわ」湊は必死にもがき、ママと叫びながら泣いたが、詩織に力ずくで連れ去られた。病院には、鼻をつく消毒液の匂いが満ちていた。医師が真尋の死亡を告げた瞬間、慧の世界は轟音を立てて崩壊した。実は、医師も首を傾げていた。螺旋階段はそれほど高くなく、通常なら即死には至らないはずだった。なぜこの若い女性は救急車の中で……運命としか言いようがない、と彼は結論付けた。「ご主人、奥様のスマートフォンです。お納めください。お悔やみ申し上げます」慧は機械的に看護師からスマートフォンを受け取った。その裏には小さな写真が貼られていた。遊園地で輝くような笑顔を見せる、家族三人の写真。写真の中の真尋の笑顔は、あまりにも明るく、幸せに満ちていた。しかし今、彼女は冷たくなって横たわり、二度と彼に微笑むことはない。慧は声を上げて泣き、スマートフォンを強く握りしめ、指の関節が白くなった。彼は信じなかった。信じたくなかった。「いやだ!彼女が死ぬはずがない!絶対に助けてくれ!金ならいくらでも払う!」「彼女が死ぬもんか!俺とあの子を置いていくはずがないんだ!絶対に死なない!」看護師は首を振り、部屋に戻っていった。彼の泣き声は、冷たいドアの向こうに閉ざされた。慧は詩織に無理やり家に連れ戻され、丸一日昏睡した。目覚めて最初にしたことは、病院へ駆けつけることだった。真尋が自分を置い
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