All Chapters of 凪いだ夜に、君はもういない: Chapter 11 - Chapter 20

真尋が死んでからというもの、慧は毎日彼女の骨壷を抱きしめ、手放そうとしなかった。湊も学校へ行かなくなり、毎日家で寝転がっている。家の使用人たちはその姿を見て、涙をこらえきれなかった。そして、ため息をつかずにはいられない。「あんなに素晴らしい奥様だったのに、どうしてこんなことになってしまったのか……」幸せだったはずの家庭が、あっという間に崩壊してしまった。そんなある日、桐嶋家の静寂は一本の電話によって再び破られた。詩織からの電話だった。妊娠した、と。慧は彼女の言葉を全く信じなかった。彼が詩織と関係を持ったのは、あの夜、バーへ行った一度きりだ。それも、泥酔した状態で誘惑された末のことだった。しかも、きちんと避妊したことははっきりと覚えている。妊娠するはずがない。だから、詩織が検査報告書を手に家の前で騒ぎ立て、中に入れろと叫んだ時、彼は警備員に命じて彼女を追い出させた。そのせいで、詩織は気を失い、病院へ運ばれた。そして、彼女が本当に妊娠していることが判明した。慧の顔色が変わる。彼は詩織を無理やり手術室へ引きずっていき、子供を堕ろさせようとした。しかし、その前に、怒りに燃えた慧の母親が駆けつけた。「慧！この子は絶対に産んでもらう！あなた、詩織さんにあんなことをしておいて、私とあなたのお父さんが、どうやって彼女のご両親に顔向けできると思ってるの！」桐嶋家と月島家は、代々付き合いのある家柄だった。両家の先代は若い頃に共に事業を立ち上げた仲で、その関係は浅くない。もし月島家が海外へ移住していなければ、慧と詩織の結婚はごく自然な流れだったはずだ。しかし、二人の関係は途中でこじれてしまった。慧の母親は慧を急かした。「真尋さんのお葬式は早く済ませなさい。詩織さんとお腹の子を待たせるわけにはいかないわ」慧は心身ともに疲れ果てていた。彼は疲れたようにこめかみを揉んだ。「母さん、真尋が逝ってまだ間もないんだ……」「生きている人間は前を向かなきゃならないのよ」母親は彼の言葉を遮った。「詩織さんのお腹にはあなたの子がいるの。いつまでも名無しのままにしておくわけにはいかないでしょう。あなたがやらないなら、私が適当に埋葬してしまうわよ」「俺がやる！」慧は、最終的に折

その日、家に帰ると真尋は緊急でシステムに連絡を取ったが、休暇中のシステムからは何の返事もなかった。その後数日間、桐嶋父子が訪ねてくることはなかった。しかし、真尋の心は少しも落ち着かなかった。「真尋……」真尋は画面に表示された見知らぬ番号を見て、わずかに眉をひそめた。一体、どこからこの番号を？彼女が電話を切ろうとしたその時、慧の慌てたような声が再び聞こえてきた。「湊が熱を出してるんだ。ずっと苦しそうだ。真尋、俺たちはこの世界に来たばかりで、どうすればいいのか本当にわからない。お前は昔、どうしていた？どうすればあの子が楽になるか、教えてくれないか」真尋は思わず様子を見に行きたい衝動に駆られた。しかし、彼女は知っていた。彼らとはもう元には戻れない。これ以上、関わるべきではないのだ。「まず、私は医者ではない。お子さんを病院へ連れて行って」「次に、私はあなた方を知らない。どうか、これ以上私の生活を邪魔しないで」そう言うと、彼女はためらうことなく電話を切った。彼女は苛立ちながら髪をかきむしり、再びシステムに連絡を試みた。「この役立たずのシステムはどうなってるの！私の任務はもう完了したはずよ。どうして彼らがここに現れるの！」今度の機械音には、わずかながら申し訳なさそうな響きがあった。【検測によりますと、宿主様が任務世界を離脱された後、桐嶋慧が突如として自我に目覚めました。自身が小説の登場人物であると知った後、自殺を仄めかしてシステムを脅迫し、彼と桐嶋湊を現実世界へ転送するよう要求しました】真尋は怒りのあまり、スマートフォンを叩きつけそうになった。自殺でシステムを脅迫したですって？よくもそんなことを！真尋は数回深呼吸し、必死に平静を取り戻そうとした。「それで、彼はいつ帰るの？」システムは少し間を置いて答えた。【不明です】「じゃあ、あなたに何がわかるのよ！」システムはそれ以上何も言わず、まるでフリーズしたかのようだった。だったら簡単だ。慧がここにいたいなら、いればいい。どうせ任務は終わったのだから、彼らがどうなろうと知ったことではない。その日以降、真尋は彼に関する連絡先をすべて削除し、慧と接触する可能性のある場所も意図的に避けた。しかし、桐嶋父子はまるで蒸発

帰り道の車中、真尋は再びシステムを呼び出したが、何の反応もなかった。彼女は絶えず指をこすり合わせていた。指先は氷のように冷たい。一つは、湊のことが心配だった。慧は完全に常軌を逸している。早く彼を元の世界に送り返さなければ、湊は本当に彼に殺されてしまうかもしれない。もう一つは、正和にシステムのことをどう説明すればいいのか、わからなかった。家に帰ると、春実はすでに目を覚ましていた。頬はまだ赤いが、元気はだいぶ戻っているようだった。彼らの姿を見ると、彼女はすぐに布団をめくり、駆け寄ってきて真尋の足に抱きついた。「ママ、どこに行ってたの？」甘えた声に、真尋の張り詰めていた神経がようやく緩んだ。彼女は腰をかがめて春実を抱き上げ、その小さな頬にキスをした。「ママ、春実におもちゃを買いに行ってたのよ」彼女は背後から小さなウサギのぬいぐるみを取り出した。「ほら、気に入った？」春実は力強く頷き、ウサギを固く抱きしめた。「好き！ママが買ってくれたものなら、何でも好き！」真尋は彼女の額に触れ、熱が下がっていることを確認して、ようやく安堵した。彼女は春実を下ろし、一人で遊ぶように促した。そして、正和の手を取り、リビングのソファへ座った。「あなたに、話さなきゃいけないことがあるの」真尋の指は固く絡み合い、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。「湊は、確かに私の息子なの……」真尋はシステム任務のこと、そして慧との過去を、洗いざらい正和に話した。正和は聞き終えても、しばらく何も言わなかった。真尋は彼の驚いた表情を見て、乾いた笑いを漏らした。「少し、突飛な話よね。まずは、頭を整理して」しばらくして、正和がようやくゆっくりと口を開いた。「君は、また戻りますか？」真尋は首を振った。「いいえ、戻らないわ。任務はもう終わったから」正和は少しの間黙り込み、眉をわずかにひそめた。「では、桐嶋さんはいつ帰りまか？」真尋は長くため息をつき、力なくソファにもたれかかった。「わからないの。あの役立たずのシステムとは、もうずっと連絡が取れないし」長い沈黙が、真尋に一抹の不安を抱かせた。彼女は顔を上げ、恐る恐る正和の表情を窺った。「何を考えてるの？」正和は静かにため息

「あなたが彼を愛したところで、何になるの。彼女はもう死んだのよ。二度と会えない」詩織は慧の耳元に近づき、復讐の快感を込めて、一言一言、そう囁いた。しかし、十日間も昏睡していた男が、ゆっくりと目を開けるとは、夢にも思わなかった。意識が戻った瞬間、慧は全身が砕かれたような激痛に襲われた。彼は必死に目を開け、ぼやけた視界が次第に鮮明になっていく。一人の女性が飛びかかってきて、泣きじゃくる声が彼の耳元で響いた。「慧さん！やっと目が覚めたのね！死ぬかと思った。私がどれだけ心配したか、わかってるの！」詩織は彼を固く抱きしめ、涙が彼の病衣に滴り落ちた。慧は一瞬、状況が飲み込めなかった。目の前の女性が誰であるかを確認すると、彼は彼女を激しく突き飛ばした。その目には、隠しようのない嫌悪が浮かんでいた。「月島詩織、俺に近づくな」彼はもがきながら起き上がろうとしたが、全身に力が入らなかった。その時、病室のドアが開き、小さな影がよろめきながら駆け込んできた。「パパ！」湊は泣きながら慧の胸に飛び込み、小さな手で彼の襟を固く掴んだ。「パパ、どうしてここにいるの？ママは？ママに会いたい」慧の心が締め付けられ、彼は無意識に息子を強く抱きしめた。彼自身も、一体何が起こったのかわからなかった。どうして突然……戻ってきたんだ？詩織は腹をさすりながら、傍らの椅子に腰掛けた。「湊くん、ママのお葬式が終わって、まだそんなに経ってないのよ。もう忘れたの？」彼女は手招きした。「こっちへいらっしゃい。まだ熱があるか、おばちゃんが見てあげるから」湊はさらに激しく泣き、慧の腕の中で必死に叫んだ。「ママがいい！お前はいらない、お前は悪い女だ！」詩織は眉をひそめ、怒り出しそうになった。その時、慧が布団をはねのけ、よろめきながらベッドから降りた。彼は湊を抱き上げると、一度も振り返らずに病室を飛び出していった。彼女を一瞥さえしなかった。「慧さん！慧さん、どこへ行くの！」返事はなかった。詩織は地団駄を踏み、急いで後を追った。その頃、別荘の二階の寝室では、真尋が夢から覚めたように激しく息をついていた。「奥様、どうかなさいましたか？どこかお加減でも？」吉川さんの心配そうな声がドアの外から聞こ

真尋は一瞬、固まった。「慧、私はここには残らない」そのあまりにも落ち着いた声に、慧の目がみるみる赤くなった。「あいつのどこがいいんだ？真尋、男のことなら、俺の方がお前よりよくわかってる……」「間違っている、慧」真尋は彼の言葉を遮った。「私は誰かに依存したいわけじゃない。それに、あなたの言う愛なんて、ただの自己満足な独占欲よ。もう、自分に陶酔するのはやめて」真尋は、背後の男がかすかに震えているのを感じた。二人は長い間、黙っていた。やがて、慧の声が再び響いた。「真尋、俺はお前を手放さない」「この生涯、絶対に」真尋は目を閉じ、もう何も言わなかった。翌朝、目が覚めた時、慧はすでにいなかった。一睡もできず、真尋はひどい疲労感に襲われていた。彼女は階下へ降り、食卓の椅子に腰掛けると、おかゆを一口一口、ゆっくりとすすった。吉川さんがため息をついた。「奥様、お辛いお気持ちはわかります。ですが、旦那様がどうであれ、坊っちゃまは奥様がお腹を痛めて産んだ子でございます。あの子を産む時、どれだけ大変だったか、お忘れですか」真尋はスプーンを握る手が、かすかに震えた。彼女は湊を産む時、難産だった。死ぬほどの痛みを味わい、最終的には帝王切開で取り出すしかなかった。その時の傷跡は、今でも彼女のお腹に残っている。何度かレーザー治療を受けたが、完全には消えなかった。その傷を、湊は「気持ち悪い」と言った。実は、湊は幼い頃、とても彼女に懐いていた。毎晩、彼女に抱きついていなければ眠れないほどだった。春実のように、彼女の手を握り、甘い声で「ママ」と呼んでくれた。慧が浮気した時も、彼女は自分に言い聞かせた。少なくとも、自分には息子がいる、と。だから、彼女はすべての愛情を息子に注いだ。しかし、その真心で愛した息子も、父親と同じように彼女を騙し、隠し事をし、挙句の果てには、他人を母親にしたいと願った。こんな仕打ちを、「ごめんなさい」の一言で許せるはずがない。「奥様」吉川さんの声が、彼女を思い出から引き戻した。「坊っちゃまの様子を見に行って差し上げてください」真尋は目の前の保温ポットを見て、頷いた。はっきりさせる時が来たようだ。真尋が保温ポットを手に、湊の病室がある階へ