All Chapters of 別れの時になってこそ、愛の深さを知る: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

結婚してから、私大塚杏奈(おおつか あんな)は、足の不自由な夫久保翔真(くぼ しょうま)を七年間ずっと世話してきた。 けれども、彼が立ち上がったその日、偶然にも彼が親友とフランス語で話しているのを耳にした。 「翔真、お前ほんとにあの地味女と結婚式やり直すつもりか?もし大事な妹ちゃんが傷ついたらどうするんだよ?」 翔真は息子の久保颯太(くぼ そうた)にエビをむいてやりながら、ゆったりと答えた。 「あり得ないだろ。お前も大事だって言うじゃないか。傷つけるなんてできるわけないだろう」 「パパと同じ。僕もキレイなおばちゃんが好きで、ブサイクのママなんて大嫌い」 傍らで息子がフランス語で口をはさんだ。 彼らは知らない。私はフランス語が分かるのだ。 こんな生煮えの人生を、これ以上続ける気にはなれなかった。…… 翔真は息子の額に手を当て、満足げに微笑みながら、無意識にフランス語で褒めた。 「颯太は本当にお利口だね。パパとおばちゃんが可愛がった甲斐があったよ。颯太がもう少し大きくなったら、おばちゃんにキレイな妹を産んでもらおう。そうすれば学校も一緒に行けるだろ」 颯太は手を叩き、ぎこちないフランス語で興奮気味に叫んだ。 「やった、最高だ!僕、おばちゃんとパパが一番好き!おばちゃんの産むキレイな妹も大好き! うちにあの口うるさいママがいなければいいのに。会うとイライラするだけだよ」 その言葉を耳にした瞬間、私は固まった。信じられず、しばらく動けなかった。 私の視線に気づいたのだろう、翔真は笑顔で私にゴーヤを取ってくれ、優しい声をかけてきた。 「どうした、杏奈」 私は首を振ったけれど、涙が勝手にあふれて止まらない。胸の奥が張り裂けそうに痛く、息苦しさが全身を支配した。 翔真は忘れてしまったようだ。この家で最初にフランス語を覚えたのは私であることを。 そして、私がゴーヤをまったく口にしないことも。 私の目が赤くなっているのを見ると、翔真は一瞬で慌てておろおろし出した。 「どうして泣いてるんだよ」 私は彼の手を避け、自分で涙をぬぐい、無理やり口角を上げて笑った。 「なんでもないの。ただ、あなたが私がゴーヤ嫌いだって忘れてたから」 わざと甘えた声でそう言った。 「ところで、さっき何
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第2話

私が口を開く前に、大吾がスマホをちらっと見てから、フランス語でまた急かした。 「翔真、もういい加減にしろよ。妹ちゃんがグループチャットで呼んでるぞ。こんな大事な日に待たせんなよ」 翔真は一瞬きょとんとして、それから汁椀を置き、私の唇にそっと口づけた後、少し困った顔で言った。 「杏奈、皿と箸はお手伝いさんに任せて、君は早めに寝ててくれないか? 友達に呼ばれててさ……ちょっと出かけてくるから、お願いだ」 その様子に私は思わず吹き出し、笑みを浮かべた。 「うん、行ってきなさい。 でもね、足が治ったからって、私を裏切るようなことはしないでよ。 もしそんなこと見つけたら、私は迷わずあなたを捨てるから」 翔真は固まった。目の奥に焦りと不安が一瞬浮かぶ。 だが鳴りやまないスマホの着信に追われるように、彼は結局立ち上がり、スマホを手に取り、コートを羽織った。 外へ出ながら、真剣な口調で私をあやす。 「心配すんなって。俺は生きていても死んでいても、君のものだ。久保夫人の座は、君だけのものだよ。颯太、ママの言うことをちゃんと聞けよ。ママを怒らせたら、帰ってきたらぶっ飛ばすぞ!」 そのドアが完全に私たちを隔てた後、私はようやく我に返った。気づけば、顔中が涙で濡れていた。息子は再び軽蔑するように私をにらみつけ、私が理解できないと思っているフランス語で罵った。「ブサイク。泣いてばっか。だからパパに嫌われるんだ。 本当に役立たず!」 私は苦笑し、涙を拭った。 もう吹っ切れるべきだと分かっているのに、どうしても止められなかった。7年間の愛だ。どんなに冷たい石でも温まるはずだ。ただ、自分が惨めで悔しかった。息子は今年6歳になる。生まれてから一度も私から離れたことはない。私は彼と彼の父親に、全ての愛を注いできた。七年の間、妻であり、母であり……ただ、自分自身でいることはなかった。 だが、彼も彼の父親と同じで、彼のフランス語を教えたのが私だということを忘れていた。翔真は三日間、家に戻らなかった。 だが、彼は毎日メッセージを送ってきて、優しく近況を報告した。足がようやく治ったから、少し羽目を外していると。私は泣きもせず、騒ぎもせず、黙って荷物をまとめ、出て行く準備を進めていた。 七日目。私
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第3話

彼の皮肉でまた泣いてしまうかと思っていたが、不思議と心は静まり返っていた。 階段を駆け上がる彼の背中を見つめながら、私はフランス語で口を開いた。 「わかった、出ていくわ」 その瞬間、小さな背中が勢いよく振り返り、顔が強張ってまるで幽霊でも見たかのような表情を浮かべた。 彼は慌てて腕時計型の電話を操作し、父親に向けてフランス語で音声メッセージを送った。 「パパ、パパ、大変だよ。あのクソババア、フランス語わかるんだ」 数秒も経たないうちに、返事の音声が送られてきた。 久保柚希(くぼ ゆずき)の見下すような声が流れる。 「颯太、何をバカなこと言ってるの!あの女の家なんてとっくに破産してるのよ。フランス語学べる環境なんてあるわけないでしょ?この数日おとなしくしてなさい。私がパパとデートしてるんだから邪魔しないで。 また今度お菓子持ってきてあげるからね」 颯太は顔をこわばらせて私を何度もじろじろと見た。私が何の反応も示さないのを見ると、彼は私が言ったことを忘れ、嬉々として向こうに返信した。「わかったよ。おばちゃん、パパと楽しく遊んできてね。 早くかわいい妹を僕に産んでくれるといいな」 この数日、私は翔真との過去を思い返さずにはいられなかった。 あの頃、私が破産して世間中から罵られ嫌われたとき、元婚約者は婚約を破棄したばかりか、落ちぶれた私の家に追い打ちをかけるように侮辱してきた。 そんなとき、まるで七色の雲に乗った英雄のように現れて「俺が君を娶る」と言ったのが、翔真だった。 当時の彼は事故で両足が不自由になったばかりだったが、私はためらうことなく彼と結婚し、彼のために子供を産み、彼が不自由になってから7年間、彼を看病した。今思えば、彼が私と結婚したのは、彼と義理の妹柚希との、人には見せられない関係を世間から隠すためだったと分かった。…… 颯太の部屋からはゲームの音がずっと聞こえてくる。 私はこれまでのようにゲーム機を取り上げて早く寝なさいと叱りもしなかった。 宿題のことも言わなかった。明日先生にチェックされるというのに。 彼がそこまで私を嫌うのなら、この母親の役目を放り出しても構わないと思った。 でも、どうして翔真がこんなにも演技が上手いのか、何日考えても分からなかった。夜中の
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第4話

私は一日かけて、自分の存在の痕跡をすべて焼き尽くした。服も写真も、何も残さなかった。そして、離婚協議書を印刷してサインし、2日後に届くよう手配した。航空券は明日のものだ。明日を過ぎれば、彼らはもう私とは何の関係もなくなり、私を見つけることもできなくなる。私は文化財修復の機密保持契約に署名した。今後3年間、私は文化財修復の専門家チームに入り、仕事は機密扱いとなり、世間から隔絶される。翔真はまだ帰ってこなかったが、柚希からの挑発的なメッセージから、彼が彼女と様々な体位を試すのに忙しいことが分かった。颯太は相変わらず、私を空気のように扱った。最後に母親としての責任を果たすため、彼の好きな料理を一通り作った。しかし、彼は学校から帰るとただ冷たい目を向けただけで、代わりにフライドチキンのデリバリーを頼ませ、一言も私に話しかけようとしなかった。食事が冷めていくのを見つめながら、夜が更けていく。うとうとしていると、玄関から微かな物音が聞こえてきた。月明かりの中で、ようやく帰ってきた翔真と彼の愛しの人が見えた。柚希は頬を赤らめ、翔真の腰に跨がり、情熱的にキスを求めていた。彼女の細い手は彼の体を撫で回し、火をつけていた。翔真は彼女の後頭部を抑え、キスを深める一方で、もう一方の手でしっかりと柚希の腰を支えていた。呼吸が絡み合う中、翔真は低い声で注意した。「柚希、いい子だから、後で騒ぐなよ。君のお義姉さんを起こさないようにね」柚希は嫉妬で彼の首に抱きつき、赤い唇で彼の耳たぶを力強く噛み、哀れな声で訴えた。「お兄ちゃん、私が一番好きって言ったじゃない?家に帰ったら杏奈の前でやるのがもっと刺激的で気持ちいいって言ったじゃない?あのクソババアは、私たちの愛を守るための道具だって言ったじゃない?なんで彼女を『義姉さん』って呼ばなきゃいけないの?」柚希が涙を浮かべるのを見て、翔真はたまらなく胸が痛み、彼女の涙を優しくキスで拭いながら、愛を込めてなだめた。「柚希、いい子だね、そう呼んだ方が、もっと刺激的だろ?柚希は本当に小悪魔だ、兄さんの心は君だけだよ」彼らの吐息は、ますます熱を帯びていった。すでに血だらけだった私の心は、さらに大きく引き裂かれた。私はソファの上で体を丸め、吐き気を催すような匂いを嗅ぎながら、
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第5話

翌日早朝、私はスーツケースを引き、後ろを振り向くことなく家を出た。電源を切る直前、柚希からまた挑発的なメッセージが届いた。【今日、あなたの誕生日でしょ。ねぇ、あなたのご主人は、いいお兄ちゃんとして、私と妊婦健診に行くと思う?それともあなたと誕生日を祝うと思う?】写真には、ベッドで指を絡ませて横たわる二人が写っていた。その笑顔はひどくまぶしかった。私は一瞥しただけで、柚希をブロックした。そして、彼女が送ってきたチャットの履歴をすべてゴシップ記者にリークした。彼と柚希の盾として7年間も生きてきたが、もう疲れたのだ。スマートフォンの電源が落ちる前に、翔真からメッセージが届いた。【杏奈、君への誕生日プレゼントを選んでるんだ。いい子で帰りを待っててね。この誕生日が終わったら、改めてバリ島でロマンチックな結婚式を挙げようか?】私は彼がまた嘘をついていることを知っていた。柚希から、今日の彼のスケジュールを全て聞いていたからだ。柚希と一緒にショッピングに出かけ、病院で妊婦検診に付き添い、さらにはロマンチックなデート……忙しい合間に、私を騙すための甘い言葉を捻り出しているのだ。吐き気を抑えながら笑い、問いに答えずに返信した。【翔真、おめでとう。またお父さんになるのね】残念ながら、彼はその残酷さと無情さで、私の将来に対するすべての希望を打ち砕いた。このメッセージを送った後、私は彼に話す機会を与えず、彼を削除してブロックした。窓の外の雲を見つめながら、私はこの馬鹿げた恋愛を思い出した。「すべての愛は君だけに」「愛妻家」「この人生で愛するのは君だけ」……すべてが嘘だった。以前、彼は私への愛を公にすることが好きだった。その時、彼は私を抱きしめて言った。「俺は世界中の人々に、君が俺のものであること、俺たちが深く愛し合っていることを知ってほしいんだ。そうすれば、誰も君を奪えない」当時はそれが彼が私を愛している証拠だと思っていたが、今考えてみると、本当の愛はわざわざ見せつけたりはしないものだ。彼が私にくれた愛は、いつも口約束ばかりで、実際に行動に移されることはほとんどなかった。例えば、颯太が生まれた日、彼は出張で別の街に足止めされ、戻ってこられないと言い訳をした。しかし実際には、柚希が嫉妬して腹を立て、
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第6話

翔真は妻から届いたメッセージを見て、本能的に眉をひそめた。 最初に頭に浮かんだのは、杏奈がまた妊娠したのではないか、ということだった。 しかし胸の奥には、これまで感じたことのない動揺がじわじわと広がっていく。 柚希が嫉妬深く、他の女には一切手を出すなと釘を刺していたため、杏奈とはすでに半年近く夫婦関係がなかったのだ。 何度も繰り返し「またお父さんになるのね」という一文を見つめていると、不安はどんどん膨れ上がっていく。 だがどう返事をすればいいのか、いくら考えても言葉が出てこなかった。 そんな時に限って、柚希が新しく選んだ服を手に彼の前にやって来て甘えてくる。 「お兄ちゃん、見て。この服かわいいでしょ?着てみてもいい?気に入ってくれるかな? お兄ちゃん、今日はちゃんと一緒にたくさん選んでくれなきゃダメだよ。少ししたら赤ちゃんが大きくなって、もう可愛い服なんて着られなくなっちゃうんだから。それに……妊娠してスタイルが崩れちゃったら、お兄ちゃん、嫌いにならないでね」 本来は柚希が妊娠したことは嬉しかったはずなのに、この瞬間だけは笑顔を作ることができなかった。 頭にこびりついて離れないのは、杏奈から唐突に届いた「おめでとう!」の一言。 まさか――杏奈が自分と柚希の関係を知ってしまったのか? その考えがよぎった瞬間、額に冷や汗が滲み出す。 いや、あり得ない。知られるはずがない。何度も心の中でそう言い聞かせ、無理やり不安を押し殺す。 そして柚希を見て、何かを決意したように口を開いた。 「柚希……この子が生まれたら、杏奈に育てさせよう。 何といっても、あの人は俺の妻だ。子供を任せるのは筋が通ってる。 心配するな。君の生活は一生保障する。絶対に不自由はさせない」 その言葉を聞いた柚希の瞳孔は収縮し、表情には信じられないという色が浮かんだ。 いつもの甘く響く声も崩れ落ちる。 「翔真……どういう意味?私の子を、どうしてあの女に育てさせるの? あの女なんかに、私の子の母親面させる気!?」 翔真の目には明らかな苛立ちが宿る。 「いい加減にしろ。その子を私生児だと後ろ指差されてもいいなら、好きにすればいい」 そう吐き捨てて、背を向けようとした瞬間――息子から電話が入った。 「パパ、大変だよ
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第7話

翔真は車を飛ばしながら、必死に杏奈へと電話をかけ続け、メッセージを送り続けていた。 しかし、杏奈はすでに彼の連絡先をすべてブロックしており、連絡は全くつかなかった。優しくて、ひたむきで、約束を守らなかった時でさえ、一人でこっそりと泣くだけで、彼を無視することなど決してしなかったあの女性が、今回は完全に彼を拒否したのだ。胸に広がる不安のままアクセルを踏み込み、信号をいくつも無視して突っ走る。 しかし、辿り着いた広い家の中には、あの馴染んだ姿はもうどこにもなかった。 いたのは颯太だけで、口をもぐもぐさせながら何かを噛んでいる。 足元にはお菓子の袋と、点数が十四点しかないテスト用紙が落ちていた。 翔真が帰宅したのを見ると、颯太は慌ててお菓子の袋を隠した。だが、テスト用紙を隠そうとした時には、すでに遅かった。叱られる――そう身構えた颯太だったが、翔真はただ震える手で横に転がっていた紙を拾い上げるだけだった。 それは、離婚協議書だった。 その一枚を握りしめ、翔真は膝から力が抜けていく。 最後の署名欄を見るのが、恐ろしくて仕方なかった。 あの、自分だけを見てくれていた女が、すでに名前を書き、全てを終わらせる覚悟を決めているのではないか――その想像に凍りつく。 彼は何かを思いついたかのように、よろめきながら寝室に駆け込んだ。だが、そこにも杏奈の痕跡は何一つ残されていなかった。 服も、愛用品も、何もかもが消えていた。 三人で写った家族写真はバラバラに破かれ、ゴミ箱の中にはめちゃくちゃになった写真フレームと、ひとつの指輪が転がっていた。 それは、今の彼の社会的地位にはまるで似合わぬような、安っぽいリング。 孤独に転がるその指輪を目にした瞬間、翔真の心は絶望で押し潰された。 潔癖のはずの彼が、ごみの中に手を突っ込み、それを掴み取る。 「杏奈、一生身につけるって言ったじゃないか。どうして捨ててしまったんだ?杏奈……、本当に俺を捨てちまったのか?」 涙に滲む視界の中、ふと七年前の光景が脳裏をよぎる。 彼の頭の中には、杏奈と初めて付き合った時の光景がぼんやりと浮かんでいた。その日、杏奈は彼を病院の診察に連れて行こうとしていた。道中、自転車で指輪を売っている行商人に偶然出会った。杏奈は立ち止まり
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第8話

翔真が地面に崩れ落ち、胸を引き裂かれるように泣き叫んでいる時だった。 颯太は杏奈のフランス語の資格証明書を抱え、恐る恐る父親の前にしゃがみ込み、口ごもりながらようやく言葉を絞り出した。 「パ……パパ、ママはフランス語が分かるんだよ。僕たち、もうママの前でフランス語で悪口を言うのはやめようね。パパがおばちゃんと一緒にいた数日間、ママが僕にフランス語で話しかけていたんだ」翔真はガバッと顔を上げた。息子の手にある証明書を見た瞬間、すすり泣きが止まり、瞳孔がギュッと縮まる。 思い出したのだ。杏奈がフランス語できることを。この家で最初にフランス語を学んだのは、彼女だった。 彼が足の痛みに苦しみながらも働かなければならなかった時、彼女は独学でフランス語を学び、彼の助けとなった。彼と息子を連れて、パリに旅行に行ったのも彼女だった。そして、息子に流暢なフランス語を教えたのも、彼女だった。どうして自分は、それをすっかり忘れていたのだろう。 食事の時でさえ、彼は友人と平然とフランス語で会話していた。彼女がその時、目を赤くしていたのも無理はなかった。全てを思い出した翔真の心は、さらに崩れ落ちた。自分の頬を強く叩きつけるが、それでも足りない。 今になって初めて、自分がどれほど取り返しのつかない過ちを犯したのか、思い知ったのだ。 「ごめん……ごめん、杏奈……」 彼は、自分をあれほど愛してくれた杏奈が、あの会話を聞いてどれほど絶望したかを想像することさえできなかった。それでも杏奈は泣くことも怒鳴ることもせず、淡々とこう言ったのだった。 ――「もしあなたが私を裏切ることをしたら、私は迷わずあなたのもとを去るわ」 その言葉が、今も頭の中で何度も何度も繰り返される。翔真は胸を押さえ、嗚咽を漏らすしかなかった。 隣では、14点しか取れなかったテスト用紙を握りしめ、颯太もポロポロ涙を流していた。 「パパ……ママと離婚しないで……ママ、いつ帰ってくるの?ママに宿題を急かしてほしい。勉強も教えてほしい。クマさんクッキー作ってほしい。 もう出前なんて食べない。ママのご飯が食べたい。 もうこんな点数取りたくない。先生にも友達にも笑われるんだ……」 泣きじゃくりながら颯太は電話の腕時計で杏奈にかけようとする。 だが、何
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第9話

かつての甘く幸せな日々は、今では刃物となって彼の心臓に一突き一突き突き刺さっていた。 杏奈が去ってからというもの、彼の世界は一変してしまった。 すべてが違っていた。以前は温もりに満ちていた家にも、もう帰りを待って食事を用意してくれる人はいない。 がらんどうの家は、まるで四角い牢獄のように感じられ、息苦しさに押し潰されそうになりながらも、逃げ出すことはできなかった。 彼は父親だからだ。杏奈がいた頃には、息子も素直で手のかからない子に思えた。 だが今は四六時中、母親を探して泣き叫ぶか、学校に行くのを嫌がるか。すべてがわざと彼を苦しめようとしているかのようだった。 杏奈の行方を必死に調べたが、まったく手がかりは得られない。 積み重なる問題の数々は、もはや彼の心を壊す寸前まで追い込んでいた。 ほんのわずかな間に、世界すべてを失ってしまったような感覚に苛まれながら、どれだけ悔いても、どれだけ走り回っても、あの頃自分だけを見つめていた杏奈を取り戻すことはできなかった。 彼が人探しに奔走したことはすぐに広まった。その結果、短い間で「彼と妻が離婚騒動を起こしている」と周囲に知られてしまったのだ。 一部の人々は彼を愛妻家と褒め、私のことをわがままだと非難した。だが真相を推測する声が飛び交う中、ネットに突然翔真と柚希の禁断の関係が暴かれる。 流出したのは写真、やり取りの記録、そして生々しい動画。瞬く間に世間は騒然となった。 妻が七年もの間、足が不自由になっていた彼を献身的に支え続けてきたにもかかわらず、その妻を裏切り、義妹と関係を持っていた……この一件は数日にわたって検索ランキングの上位を独占することになる。 「誠実な男」という彼のイメージは一気に崩れ去り、世の中の目は冷酷なまでに厳しく変わっていった。 事情を知る人々はもちろん、無関係のネットユーザーまでもが怒りを爆発させた。 【うわ、キモすぎ。つまりこの男は最初から義妹が好きで、その隠れ蓑として妻を利用してただけ?】 【愛妻家って言ってたじゃないか。どうしてこんなクズ男に成り下がったんだ?】 【はっ!典型的な二股野郎だろ。どっちも欲しいとかふざけんな】 【死ねばいいのに。大騒ぎして奥さん捜してる場合じゃないだろ!俺なんか奥さんのことをわがままって思っ
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第10話

翔真は一夜にして名声を地に落とした。 彼はスマホを握りしめ、動画やチャット履歴を見つめながら、崩れ落ちて号泣した。 もし、彼が「妻はあの日食事の席での会話しか知らない」と自分を騙し続けていたら、まだ許しを請う機会があったかもしれない。しかし、これらの動画やチャットの履歴を見た今、彼は完全に耐えきれなくなった。彼は、もう二度と杏奈の許しを得られないかもしれないと悟った。彼は動画を見ながら、床にひざまずき、何度も自分の頬を叩いた。杏奈がこれらの動画を見た時、どれほど絶望したかを考えると、頭の中はそのことでいっぱいになった。それほどまでに絶望したからこそ、彼女は子供さえも捨てて、何も言わずに彼らのもとを去ったのだ。会社が大損失を抱えようと、そんなことはどうでもよかった。 今の翔真の頭にあるのは、杏奈を探し出して直接謝ること、その一点だけだった。 だが日が経っても、杏奈の行方は杳として知れなかった。 その間、柚希の追い詰め方はさらに苛烈になっていった。 ある日、彼女はビデオ通話をかけてきて、胸元に包丁を突き立てながら叫んだ。 「翔真、今私は両親のお墓の前にいるの。今すぐ来て。来なきゃ、ここで死ぬから。 お兄ちゃん、両親と約束したでしょ?私を一生大事にするって。なのにどうしてできないの?どうして今は杏奈ばっかりなの?彼女がそんなに特別なの?最初にそばにいたのは、私でしょう! 今日ここに来て、私と子どもに答えを出して。来なかったら、私たちはここで死ぬんだから!」 柚希もまた、極限まで追い詰められていた。 ネットで叩かれ続け、何度も心が壊れかけていた。 翔真は全部わかっていた。だが彼は、彼女にも子どもにも一切会おうとしなかった。まるで存在しないかのように無視し続け、柚希は完全に行き場を失っていた。 かつて愛し合っていたはずなのに――ほんの数年、海外に行っただけで、どうしてこうもすべてが変わってしまったのだろう。 杏奈はただの隠れ蓑じゃなかったのか? どうして今や、翔真の心の中には杏奈しかいないんだ? 醜悪に歪んだ顔で狂気を見せる柚希を見て、翔真の心に湧き上がるのは、嫌悪と苛立ち、そして言葉にできないほどの憎悪だった。 彼は冷たい眼差しを投げつけ、吐き捨てるように言った。 「いいだろう。
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