結婚してから、私大塚杏奈(おおつか あんな)は足の不自由な夫久保翔真(くぼ しょうま)を七年間ずっと世話してきた。 けれども、彼が立ち上がったその日、偶然にも彼が親友とフランス語で話しているのを耳にした。 「翔真、お前ほんとにあの地味女と結婚式やり直すつもりか?もし大事な妹ちゃんが傷ついたらどうするんだよ?」 翔真は息子の久保颯太(くぼ そうた)にエビをむいてやりながら、ゆったりと答えた。 「あり得ないだろ。お前も大事だって言うじゃないか。傷つけるなんてできるわけないだろう」 「パパと同じ。僕もキレイなおばさんが好きで、ブサイクのママなんて大嫌い」 傍らで息子がフランス語で口をはさんだ。 彼らは知らない。私はフランス語が分かるのだ。 こんな生煮えの人生を、これ以上続ける気にはなれなかった。
Lihat lebih banyak三年後、杏奈は手元に残っていた最後の文物の修復を終え、授賞式に招かれて帰国した。 彼女はその賞金を手に入れ、再び大塚家の古い屋敷を買い戻すつもりでいた。 この三年間、仕事と並行してビジネス運営を学び、大塚グループを再建しようと考えていたのだ。 たとえ長い時間がかかっても、一歩ずつ進んでいくつもりだった。 それがこれから先の人生の指針になるはずだった。――しかし、授賞式が終わった後、彼女の前に現れたのは、この世で一番会いたくなかった人物だった。 翔真は車椅子に座っていた。全身が見るも無惨で、その虚ろな瞳が杏奈を捉えた時、一瞬だけ希望と興奮の光が浮かんだ。 スーツも着ておらず、髪も髭も伸び放題で乱れている。あれほど自分の外見に気を遣っていた久保家の若様は、見る影もなく落ちぶれていた。 顔色は血の気がなく、体調もひどく悪そうだった。杏奈が背を向けようとした途端、彼は半狂乱になって車椅子を動かし、哀れな声で必死にすがりついてきた。 「杏奈、やっと戻ってきてくれたのか! 俺が間違っていた……頼む、子どものためだと思って、もう一度だけ埋め合わせの機会をくれないか?」 颯太もまた痩せ細り、小さな身体が哀れを誘った。彼は父親のそばに立ちながら、おそるおそる杏奈を見上げていた。 杏奈が視線を向けると、彼はわっと泣き出し、飛びつくように彼女の足に抱きついた。泣き声は場を震わせるほど大きかった。 「ママ、ごめんなさい。もうちゃんと宿題もするし、言うことも聞くから。二度とママに反抗したりしない。 ママ、僕もう大きくなったし、いい子になるから……どうかパパと僕を捨てないで」 かつて小さな暴れん坊だった彼は、すっかりおとなしい目をして、言葉一つにも気を使っていた。 私を見上げる彼の瞳は、不安と心配でいっぱいだった。彼は私を固く抱きしめ、まるで私が彼を突き放し、彼らを捨てるのを恐れているかのようだった。「ママ、僕とパパは、ずっとずっとママを探していたんだ。ママ、パパはママを探している途中で事故に遭って、長い間入院したんだ。先生が、僕にはもうパパを失うところだったって。ママお願い……お願いだから、僕らを捨てないで」 父と子、二人揃って哀れな姿を晒していた。だが、三年という年月は、杏奈の中の未練や情すらもすっかり風化させてし
翔真は一夜にして名声を地に落とした。 彼はスマホを握りしめ、動画やチャット履歴を見つめながら、崩れ落ちて号泣した。 もし、彼が「妻はあの日食事の席での会話しか知らない」と自分を騙し続けていたら、まだ許しを請う機会があったかもしれない。しかし、これらの動画やチャットの履歴を見た今、彼は完全に耐えきれなくなった。彼は、もう二度と杏奈の許しを得られないかもしれないと悟った。彼は動画を見ながら、床にひざまずき、何度も自分の頬を叩いた。杏奈がこれらの動画を見た時、どれほど絶望したかを考えると、頭の中はそのことでいっぱいになった。それほどまでに絶望したからこそ、彼女は子供さえも捨てて、何も言わずに彼らのもとを去ったのだ。会社が大損失を抱えようと、そんなことはどうでもよかった。 今の翔真の頭にあるのは、杏奈を探し出して直接謝ること、その一点だけだった。 だが日が経っても、杏奈の行方は杳として知れなかった。 その間、柚希の追い詰め方はさらに苛烈になっていった。 ある日、彼女はビデオ通話をかけてきて、胸元に包丁を突き立てながら叫んだ。 「翔真、今私は両親のお墓の前にいるの。今すぐ来て。来なきゃ、ここで死ぬから。 お兄ちゃん、両親と約束したでしょ?私を一生大事にするって。なのにどうしてできないの?どうして今は杏奈ばっかりなの?彼女がそんなに特別なの?最初にそばにいたのは、私でしょう! 今日ここに来て、私と子どもに答えを出して。来なかったら、私たちはここで死ぬんだから!」 柚希もまた、極限まで追い詰められていた。 ネットで叩かれ続け、何度も心が壊れかけていた。 翔真は全部わかっていた。だが彼は、彼女にも子どもにも一切会おうとしなかった。まるで存在しないかのように無視し続け、柚希は完全に行き場を失っていた。 かつて愛し合っていたはずなのに――ほんの数年、海外に行っただけで、どうしてこうもすべてが変わってしまったのだろう。 杏奈はただの隠れ蓑じゃなかったのか? どうして今や、翔真の心の中には杏奈しかいないんだ? 醜悪に歪んだ顔で狂気を見せる柚希を見て、翔真の心に湧き上がるのは、嫌悪と苛立ち、そして言葉にできないほどの憎悪だった。 彼は冷たい眼差しを投げつけ、吐き捨てるように言った。 「いいだろう。
かつての甘く幸せな日々は、今では刃物となって彼の心臓に一突き一突き突き刺さっていた。 杏奈が去ってからというもの、彼の世界は一変してしまった。 すべてが違っていた。以前は温もりに満ちていた家にも、もう帰りを待って食事を用意してくれる人はいない。 がらんどうの家は、まるで四角い牢獄のように感じられ、息苦しさに押し潰されそうになりながらも、逃げ出すことはできなかった。 彼は父親だからだ。杏奈がいた頃には、息子も素直で手のかからない子に思えた。 だが今は四六時中、母親を探して泣き叫ぶか、学校に行くのを嫌がるか。すべてがわざと彼を苦しめようとしているかのようだった。 杏奈の行方を必死に調べたが、まったく手がかりは得られない。 積み重なる問題の数々は、もはや彼の心を壊す寸前まで追い込んでいた。 ほんのわずかな間に、世界すべてを失ってしまったような感覚に苛まれながら、どれだけ悔いても、どれだけ走り回っても、あの頃自分だけを見つめていた杏奈を取り戻すことはできなかった。 彼が人探しに奔走したことはすぐに広まった。その結果、短い間で「彼と妻が離婚騒動を起こしている」と周囲に知られてしまったのだ。 一部の人々は彼を愛妻家と褒め、私のことをわがままだと非難した。だが真相を推測する声が飛び交う中、ネットに突然翔真と柚希の禁断の関係が暴かれる。 流出したのは写真、やり取りの記録、そして生々しい動画。瞬く間に世間は騒然となった。 妻が七年もの間、足が不自由になっていた彼を献身的に支え続けてきたにもかかわらず、その妻を裏切り、義妹と関係を持っていた……この一件は数日にわたって検索ランキングの上位を独占することになる。 「誠実な男」という彼のイメージは一気に崩れ去り、世の中の目は冷酷なまでに厳しく変わっていった。 事情を知る人々はもちろん、無関係のネットユーザーまでもが怒りを爆発させた。 【うわ、キモすぎ。つまりこの男は最初から義妹が好きで、その隠れ蓑として妻を利用してただけ?】 【愛妻家って言ってたじゃないか。どうしてこんなクズ男に成り下がったんだ?】 【はっ!典型的な二股野郎だろ。どっちも欲しいとかふざけんな】 【死ねばいいのに。大騒ぎして奥さん捜してる場合じゃないだろ!俺なんか奥さんのことをわがままって思っ
翔真が地面に崩れ落ち、胸を引き裂かれるように泣き叫んでいる時だった。 颯太は杏奈のフランス語の資格証明書を抱え、恐る恐る父親の前にしゃがみ込み、口ごもりながらようやく言葉を絞り出した。 「パ……パパ、ママはフランス語が分かるんだよ。僕たち、もうママの前でフランス語で悪口を言うのはやめようね。パパがおばちゃんと一緒にいた数日間、ママが僕にフランス語で話しかけていたんだ」翔真はガバッと顔を上げた。息子の手にある証明書を見た瞬間、すすり泣きが止まり、瞳孔がギュッと縮まる。 思い出したのだ。杏奈がフランス語できることを。この家で最初にフランス語を学んだのは、彼女だった。 彼が足の痛みに苦しみながらも働かなければならなかった時、彼女は独学でフランス語を学び、彼の助けとなった。彼と息子を連れて、パリに旅行に行ったのも彼女だった。そして、息子に流暢なフランス語を教えたのも、彼女だった。どうして自分は、それをすっかり忘れていたのだろう。 食事の時でさえ、彼は友人と平然とフランス語で会話していた。彼女がその時、目を赤くしていたのも無理はなかった。全てを思い出した翔真の心は、さらに崩れ落ちた。自分の頬を強く叩きつけるが、それでも足りない。 今になって初めて、自分がどれほど取り返しのつかない過ちを犯したのか、思い知ったのだ。 「ごめん……ごめん、杏奈……」 彼は、自分をあれほど愛してくれた杏奈が、あの会話を聞いてどれほど絶望したかを想像することさえできなかった。それでも杏奈は泣くことも怒鳴ることもせず、淡々とこう言ったのだった。 ――「もしあなたが私を裏切ることをしたら、私は迷わずあなたのもとを去るわ」 その言葉が、今も頭の中で何度も何度も繰り返される。翔真は胸を押さえ、嗚咽を漏らすしかなかった。 隣では、14点しか取れなかったテスト用紙を握りしめ、颯太もポロポロ涙を流していた。 「パパ……ママと離婚しないで……ママ、いつ帰ってくるの?ママに宿題を急かしてほしい。勉強も教えてほしい。クマさんクッキー作ってほしい。 もう出前なんて食べない。ママのご飯が食べたい。 もうこんな点数取りたくない。先生にも友達にも笑われるんだ……」 泣きじゃくりながら颯太は電話の腕時計で杏奈にかけようとする。 だが、何
翔真は車を飛ばしながら、必死に杏奈へと電話をかけ続け、メッセージを送り続けていた。 しかし、杏奈はすでに彼の連絡先をすべてブロックしており、連絡は全くつかなかった。優しくて、ひたむきで、約束を守らなかった時でさえ、一人でこっそりと泣くだけで、彼を無視することなど決してしなかったあの女性が、今回は完全に彼を拒否したのだ。胸に広がる不安のままアクセルを踏み込み、信号をいくつも無視して突っ走る。 しかし、辿り着いた広い家の中には、あの馴染んだ姿はもうどこにもなかった。 いたのは颯太だけで、口をもぐもぐさせながら何かを噛んでいる。 足元にはお菓子の袋と、点数が十四点しかないテスト用紙が落ちていた。 翔真が帰宅したのを見ると、颯太は慌ててお菓子の袋を隠した。だが、テスト用紙を隠そうとした時には、すでに遅かった。叱られる――そう身構えた颯太だったが、翔真はただ震える手で横に転がっていた紙を拾い上げるだけだった。 それは、離婚協議書だった。 その一枚を握りしめ、翔真は膝から力が抜けていく。 最後の署名欄を見るのが、恐ろしくて仕方なかった。 あの、自分だけを見てくれていた女が、すでに名前を書き、全てを終わらせる覚悟を決めているのではないか――その想像に凍りつく。 彼は何かを思いついたかのように、よろめきながら寝室に駆け込んだ。だが、そこにも杏奈の痕跡は何一つ残されていなかった。 服も、愛用品も、何もかもが消えていた。 三人で写った家族写真はバラバラに破かれ、ゴミ箱の中にはめちゃくちゃになった写真フレームと、ひとつの指輪が転がっていた。 それは、今の彼の社会的地位にはまるで似合わぬような、安っぽいリング。 孤独に転がるその指輪を目にした瞬間、翔真の心は絶望で押し潰された。 潔癖のはずの彼が、ごみの中に手を突っ込み、それを掴み取る。 「杏奈、一生身につけるって言ったじゃないか。どうして捨ててしまったんだ?杏奈……、本当に俺を捨てちまったのか?」 涙に滲む視界の中、ふと七年前の光景が脳裏をよぎる。 彼の頭の中には、杏奈と初めて付き合った時の光景がぼんやりと浮かんでいた。その日、杏奈は彼を病院の診察に連れて行こうとしていた。道中、自転車で指輪を売っている行商人に偶然出会った。杏奈は立ち止まり
翔真は妻から届いたメッセージを見て、本能的に眉をひそめた。 最初に頭に浮かんだのは、杏奈がまた妊娠したのではないか、ということだった。 しかし胸の奥には、これまで感じたことのない動揺がじわじわと広がっていく。 柚希が嫉妬深く、他の女には一切手を出すなと釘を刺していたため、杏奈とはすでに半年近く夫婦関係がなかったのだ。 何度も繰り返し「またお父さんになるのね」という一文を見つめていると、不安はどんどん膨れ上がっていく。 だがどう返事をすればいいのか、いくら考えても言葉が出てこなかった。 そんな時に限って、柚希が新しく選んだ服を手に彼の前にやって来て甘えてくる。 「お兄ちゃん、見て。この服かわいいでしょ?着てみてもいい?気に入ってくれるかな? お兄ちゃん、今日はちゃんと一緒にたくさん選んでくれなきゃダメだよ。少ししたら赤ちゃんが大きくなって、もう可愛い服なんて着られなくなっちゃうんだから。それに……妊娠してスタイルが崩れちゃったら、お兄ちゃん、嫌いにならないでね」 本来は柚希が妊娠したことは嬉しかったはずなのに、この瞬間だけは笑顔を作ることができなかった。 頭にこびりついて離れないのは、杏奈から唐突に届いた「おめでとう!」の一言。 まさか――杏奈が自分と柚希の関係を知ってしまったのか? その考えがよぎった瞬間、額に冷や汗が滲み出す。 いや、あり得ない。知られるはずがない。何度も心の中でそう言い聞かせ、無理やり不安を押し殺す。 そして柚希を見て、何かを決意したように口を開いた。 「柚希……この子が生まれたら、杏奈に育てさせよう。 何といっても、あの人は俺の妻だ。子供を任せるのは筋が通ってる。 心配するな。君の生活は一生保障する。絶対に不自由はさせない」 その言葉を聞いた柚希の瞳孔は収縮し、表情には信じられないという色が浮かんだ。 いつもの甘く響く声も崩れ落ちる。 「翔真……どういう意味?私の子を、どうしてあの女に育てさせるの? あの女なんかに、私の子の母親面させる気!?」 翔真の目には明らかな苛立ちが宿る。 「いい加減にしろ。その子を私生児だと後ろ指差されてもいいなら、好きにすればいい」 そう吐き捨てて、背を向けようとした瞬間――息子から電話が入った。 「パパ、大変だよ
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