あらゆる手を使ってまで私と結婚した夫、高梨辰哉(たかなし たつや)は、その2年後に、新しく囲った女を家に連れ込んだ。玄関でその女の長い髪をそっと撫でながら、私の方を見て笑う。「薫、お前も見学してみたらどうだ?ロボットみたいな表情じゃなくて、可愛い笑い方を覚えたほうがいいぞ」昔は、私の髪を撫でるのが好きだと言ってくれた。触れていると、どんな悩みも忘れられる、と。なるほど。別に誰でもよかったんだ。それに気づいた瞬間、どうでもよくなった。引き出しから用意しておいた離婚届を取り出し、淡々と差し出す。「サインして。席を譲ってあげるわ」残された時間は少ない。これ以上、この男に時間を費やしたくない。離婚届を突きつけられた瞬間、辰哉の顔は鉛色の空のように曇った。腕の中にいた林奈々(はやし なな)はその険しい気配に怯えて、バッグを握りしめたまま気まずそうに部屋を後にした。二人きりになった部屋に、重苦しい空気が漂う。すると突然、彼が早足で近づいてきて、顎を乱暴につかみながら私を壁際へと押しつけた。そして怒りに震える声で私に問いかける。「薫、なんで別れ話はいつもお前からなんだ?」沈黙が続く。彼の瞳に、醜くやつれた私の顔が映し出される。あの奈々という女の若さあふれる姿には到底かなわないでしょう。言葉のないにらみ合いの末、彼は突然手元の離婚届を床に叩きつけ、私の唇を荒々しく奪った。「薫、とっくにわかってるよ。俺よりもお前のほうがずっと冷たい人間だって」冷たい人間というより、私はただ、彼に無駄な時間を使いたくないだけだ。「辰哉、やめて……」必死に突き放そうとしたが、あっさり抱き上げられ、次の瞬間ソファに乱暴に投げ出されていた。抗う声も涙も彼の唇に塞がれてしまい、圧し掛かる重みから逃げられない。頬を伝う涙はやがて絶望の中で冷たい空気に溶けていった。数年前の記憶が鮮明に蘇り、私を深い闇へと引きずり戻す。胸がえぐられるように痛み、胃の中がひっくり返されるような感覚が襲った。 彼の息遣いが、「あの人」のものと重なっていくのを感じた。意識が混乱する中、彼は俯きながら私の目を覆い、唇で頬の涙を拭ってくれた。「薫」そう呼ばれた気がする。低く響くその声が、幻聴のように思えた。結局堪えきれずに彼を押しのけた。
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