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愛はそよ風のごとく のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

25 チャプター

第1話

「今井さん、本当に修正型電気けいれん療法を予約するつもりですか?それはあなたの心にある苦しい記憶を消すことができますが、愛してきた人も忘れてしまいます」今井美雨(いまい みう)はスマホを握る指の関節が白くなるほど力を入れたが、声は異様に毅然としていた。「はい、立川先生。忘れることが私にとって一番いい方法です」電話を切ったあと、美雨は水を飲もうと手を伸ばしたが、枕元のテーブルが空っぽなことに気づいた。隣の病室から楽しげな笑い声が響いてきて、その声の主は彼女の夫と五歳の息子だ。そして二人が深く愛している神原茜(かんばら あかね)もそこにいた。看護師が薬を替えに入ってきて、世間話のように言った。「隣の病床の女性は本当に良い男と結婚しましたね。ご主人も子どもも一日中ずっとそばに付き添ってますよ」美雨は苦笑を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。「そうですね。たとえ私こそがあの男の妻で、子どもの母親でも、私がここに運ばれて点滴を始めてから、一度も見舞いに来てくれたことはありません」若い看護師は自分の失言に気づき、複雑な表情で部屋を出て行った。美雨は顔を上げて点滴バッグを見つめ、頭の中では昨夜の商業施設での出来事が何度も何度も繰り返されていた。夫の月村冬真(つきむら とうま)と息子の月村晃宇(つきむら あきたか)は、茜の誕生日を祝うために伊勢海老を食べに行きたがっていた。美雨もただの引き立て役として一緒に出かけた。彼女が立ち上がり、トイレに向かったわずか数分後、ショッピングモールで火災が発生した。誰もが必死に外へと逃げ出した。慌てて冬真と晃宇を探しに戻ると、彼女の目に入ったのは三人が寄り添い合う姿だった。冬真は怯えて震える茜をお姫様抱っこし、手でその頭をしっかり守っていた。晃宇は両手で茜のハイヒールを抱え、体は小柄だったが、それでもなお漢らしく彼女を守っていた。少し離れたところから、茜は挑発的な目を美雨に投げかけ、わざとらしく慌てた声を出した。「美雨さんはまだトイレから出てきてないわ。待たなくていいの?」冬真は冷たい顔をしながらも、声だけは優しく答えた。「美雨も大人だ。火事を見れば自分で逃げられる」晃宇もすぐに口を添えた。「そうだよ。ママは何をするにも遅いんだから、少しは懲りるべきだ!茜おばさん、早く出ようよ。煙に
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第2話

夕暮れ時、美雨は七階に上がり、専門医の指導のもとで初めての修正型電気けいれん療法を受けた。施術中の痛みはほとんどなく、違和感もまったくなかった。終わったあと、体の中の何かが消えたような感覚があったが、彼女はうまく説明できない。ただ、それは悪くない気持ちだった。医師は、何度か受けてこそ効果がはっきりすると伝えた。彼女はしっかりと胸に刻んだ。病室へ戻る途中、茜の部屋の前で、彼女は思わず足が止まった。ドア越しに見ると、冬真が茜におかゆを食べさせていた。一口ごとに息を吹きかけて冷ましてから、茜の口元へ運ぶ。その丁寧さは、正妻である彼女に一度も見せたことがなかったものだった。彼は世話ができない人ではなく、世話をしたいと思う相手にしか世話をしない人なのだと悟った。晃宇は薬を持ちながら、大人びた口調で茜をあやしていた。「茜おばさん、お薬の時間だよ。苦くても大丈夫。僕がキャンディを用意したから、飲んだら一緒に食べよう」「晃宇、あなたが私の子どもじゃないなんて、本当に残念わ」「そんなことないよ。僕は茜おばさんにママになってほしいんだ。パパも僕もあなたが好き!僕のママはつまらない人で、全然あなたみたいに楽しいことや美味しいものをくれないんだ」冬真はただ優しく微笑みながら、そのやり取りを眺め、反論することはなかった。美雨は、これほど心をえぐる言葉にはもう耐性があると思っていた。しかし、再びその言葉が耳に入った瞬間、胸の奥に細かく刺さる痛みが蘇った。病室の三人はまるで幸せそうな家族だが、彼女はただドアの外に立ち、立場も発言権もない存在だった。見物に飽きたのか、茜は笑みを消し、驚いたふりをした。「美雨さん、来てたのね。私が体が弱いせいで、冬真と晃宇が心配してずっとそばにいてくれたの。だから、あなたのところへ行けなかったの。ごめんなさいね」その言葉を聞くと、冬真はドアのほうを見やった。その恨みを帯びた目は、まるで、彼女が相変わらず空気を読まず、わざわざ三人の楽しい雰囲気をぶち壊すつもりかと語っているようだ。美雨は部屋に入ると、淡々とした声で告げた。「退院の手続きをしようと思う」冬真は一瞬驚いたが、冷たい声で答えた。「急ぐことはない。少し様子を見てからでもいい」晃宇は横から口を挟み、命令口調で言った。「退院したいなら、ス
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第3話

家に戻った美雨は、まず新しい住まいを探し始めた。離婚したあと、もう二度とあの二人に会いたくはなかったから、当然引っ越すつもりだ。都会の中心部のせわしない生活にも疲れ、彼女は郊外に家を買うことを決めた。彼女にとって、最低限のインフラさえ整っていれば、普通の生活が送れるだけで十分だ。彼女の貯金も少なくなく、一人で暮らすには困らない額を持っていた。彼女はだいたい目星をつけて帰宅すると、ちょうど冬真が晃宇を連れて戻ってきた。それだけでなく、見知らぬ二人の男がカメラを抱えて家に入ってきた。彼らは一枚の写真を取り出し、来意を説明した。写真には数日前の火災現場で、冬真と晃宇が茜を守りながら脱出する姿が映っていた。彼らは雑誌社の記者で、この光景があまりに美しいと感じ、家族三人に関する取材記事を掲載したいと思った。そのうち一人が言った。「たまたまシャッターを切ったらこの瞬間が撮れたんです。とても感心しました。男性が体で妻を守り、幼い息子が母親のハイヒールを抱いて、なんて愛に満ちた家族でしょう。こうした感動的な出来事は、ぜひニュースで取り上げられ、多くの人に知ってもらいたいです」美雨がソファに腰を下ろすと、二人の記者は彼女の顔を丁寧に確認し、写真の女性ではないと気づいた。「この方は、写真の女性のお姉さんですか?妹さんは本当に幸せですね。夫も息子も愛してくれて」美雨は淡々と笑みを浮かべて言った。「いいえ、私は写真に写っている男性の妻で、子どもの母親です」晴天の霹靂のように放たれたその一言で、リビングは瞬く間に静まり返った。針の落ちる音さえ聞こえるほどの静寂が、その場を包んだ。いち早く顔を曇らせた冬真は、彼女の腕をぐいと引き、寝室へと連れ込むと、二人きりで言葉を交わした。「美雨、考えてからものを言えないのか?相手は記者だぞ。もししつこく追及されたら、茜のモデルのキャリアが台無しになるんだぞ!」彼女は何も言わず、ただ怒りを帯びた彼を見つめた。悲しみも喜びもなかった。彼女の言葉はすべて事実だ。茜は彼女の家庭を壊したのに、なぜ堂々と認めようとしない?自分の口調がきつすぎたと気づいた冬真は、表情を和らげた。「ごめん。あんな言い方するべきじゃなかった。お前が嫌なら、取材は断るよ」美雨は彼に抱き寄せられても
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第4話

もしかすると、彼女が茜との公開インタビューを許したからか、帰宅後の冬真は美雨に細やかな気遣いを見せ、まるで恋愛初期のように甘やかしてくれた。いつもは好き嫌いの激しい晃宇も、食卓では大人しく食べ、彼女の料理に文句をつけることはなかった。だが美雨は、そんな状況を喜ぶこともなく、ただ静かに受け入れていた。彼女の気乗りのなさに気づいた冬真に、彼女はただ生理痛を理由にやんわり誤魔化した。冬真は無駄口を叩かずに彼女を介抱し、横たわらせて世話をしながら傍らで見守った。わずかな物音にもすぐに駆け寄り、優しい声で彼女の様子を確かめた。美雨は心の中で思った。きっと彼はかつて彼女を深く愛したこともあったのだろう。ただ、その愛を別の女性とも分け合っているだけなのだ。会社でトラブルがあり、休暇中だった冬真も急きょ出社することになった。その日、美雨は修正型電気けいれん療法を受けたあと、いつものように昼食を届けに行った。受付の新しいインターンは、美雨が社長の妻だとは知らなかった。ちょうど昼休みの混雑時で、美雨が専用エレベーターを使いたいと伝えると、その人は彼女を見下し、皮肉を言った。「あなたに専用エレベーターを使う資格がありますか?いつも茜さんが社長に会いに来るときだけ案内するんですけど」美雨は一瞬ぽかんとした。どうやら、茜が会社に冬真を訪ねるのは、すでに日常の光景になっていたのだ。そして、社員たちは当然のように茜が社長夫人だと思っているらしい。黙っている彼女に、そのインターンはさらに皮肉な言葉を重ねた。「その老けてる顔、自分でも見てくださいよ。茜さんは色白でスタイルもいいし、うちの社長とお似合いなんです。身の程知らずも大概にしたら?」古参社員が袖を引いて止める者もいれば、同調する者もいた。「社長はよく茜さんを連れて会社に来るし、食事も一緒。もう美雨さんと離婚してるんじゃない?いずれは茜さんが奥さんになるでしょ」「社長の息子も茜さんのこと、ママって呼んでるくらいだし。父子そろって認めてるんだから、私なら早めに身を引くね」美雨は社員たちにあれこれ中傷され、心に初めて寒々しい感覚が芽生えた。この会社がここまで発展したのは、彼女の功績が少なくとも半分はあると言って差し支えないだろう。それなのに今では、彼女はただ上階へ行くことす
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第5話

車で帰る途中、冬真に茜から電話がかかってきた。泣き声は人の心を揺さぶるほど哀れだ。ヤラカシに追い詰められたから助けに来てほしいと、冬真に頼んでいる。冬真は辛うじて口を開いた。「美雨、茜はうちの会社の広告塔でもあるんだ。俺が行かないのはちょっとまずい」今の冬真がどれほど焦っているかを知っているのは、美雨だけだ。彼のハンドルを握る指の関節は、きつく縮こまっているからだ。彼女はさっとドアを開けて車を降りた。「行ってあげて。私はタクシーで帰るから」何度も彼女が怒っていないか確かめたあと、冬真はアクセルを踏み込み、走り去った。美雨が家に戻ると、出迎えたのは落胆した顔の晃宇だった。「ママ、パパはまだ帰ってこないの?パパが約束してくれたじゃん。僕がちゃんとご飯食べたら茜おばさんを家に連れてきて一緒に遊んでくれるって!」美雨の言葉が詰まった。彼女はカバンから離婚協議書を取り出し、晃宇の前に置いた。「晃宇、パパの字を真似してサインできる?」「なんでパパの名前を書くの?」美雨の胸が締めつけられた。「サインしたらね、茜おばさんといつでも遊べるし、もうこそこそ会わなくてもいいの」晃宇の目は一気に輝き、嬉しそうに頷いた。美雨は諦めきれず、もう一度尋ねた。「晃宇、本当に茜おばさんのことが好きなの?どうしてママは好きじゃないの?」「好きだよ!パパも茜おばさんが好きだから、僕はもっと好き!きれいだし、幼稚園まで迎えに来てくれるとみんなが羨ましがるんだ!ママは宿題やれとか、スマホやパソコンするなとか、うるさいことばっかり。ママがお母さんなんてイヤだ。茜おばさんならそんなこと言わない!」その瞳は茜の話になると輝き、彼女の話になると嫌悪と軽蔑に曇っていた。それに気づいた美雨はそっと涙を拭い、ペンを差し出した。「じゃあ書いて。お父さんも喜ぶし、茜おばさんと晃宇も幸せになれる。みんなにとって一番いいことよ」「なんでこんないいこと早く言わなかったの!書く!」かつて美雨はずっと理解できなかった。長い間晃宇に教えてきたのに、彼は彼女の名前さえ書けず、漢字の画数が多すぎて書くのが大変だと、言い訳を言うのだ。だが月村冬真の四文字はその父親そっくりの筆跡で書ける。そしていつの間にか、神原茜の名前まで覚え、すべすべと書けるようにな
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第6話

大体で二週間ほどが過ぎ、美雨は七回目の修正型電気けいれん療法を終えた。最近の彼女は多くの人や出来事を忘れてしまった。冬真がわざわざ言わなければ、目の前の人物が自分の夫や息子だとすら思い出せない。新しく買った家もほとんど片付き、すぐに住める状態になっていた。彼女はけじめをつけるつもりで、今夜は最後に彼らと一度だけ食事をして、すべてを終わらせることにした。しかし意外にも、冬真と晃宇は今夜、彼女のためにご馳走を作ると言い出した。彼女が茫然とした表情をしているのを見て、冬真は愛情に満ちた眼差しで彼女の額にキスをした。「いつもお前ばかり疲れているんだから、たまには俺たち父子で頑張らないとね」そう言うと、二人でキッチンに立った。三時間かけて完成した料理は、すべて彼女の好物ばかりだ。食卓では父子が代わる代わる皿から料理を取り分け、碗に入りきらないほど盛ってくれる。彼女はただ茫然とその光景を眺めた。「何か言いたいことがあるんでしょ?」冬真は気まずく言葉に詰まり、晃宇が待ちきれずに口を開いた。「ママ!僕とパパ、茜おばさんと一緒に山にキャンプ行きたいの!一晩泊まって星を見るの!ママならきっと許してくれるよね?」なるほど、今夜のご機嫌取りの理由はこれか。最後の食事は思ったほど楽しいものにはならなかった。冬真は彼女の手を握り、柔らかい声で言った。「一緒に行こうよ」美雨は笑わず、さりげなく手を引いた。「家でテレビ見たいの。あなたたち三人で行ってきて」冬真が何か言いかける前に、彼女は先に続けた。「もし気が咎めるなら、お金を少しちょうだい。バッグを買いたいから」これからの生活のために、彼女は金が必要だ。冬真はあっさりと承諾し、一千万円のカードを渡した。美雨はそれを受け取った。彼女が同行しないことに、冬真と晃宇はむしろ安堵したようだ。おそらく罪悪感からだろう。その後、冬真は絶えず彼女に気を遣い、過去のあれこれを一緒に振り返ってみせた。「遠距離恋愛の頃、節約するため、毎日カップ麵と漬物だけ食べてた。そして、切符を買って、お前に会いに行ったな。あの切符、積み重ねたら、晃宇の背丈くらいあったんだ。それに、冬のころ、美雨が俺のセーターを編むために、手があかぎれだらけになってたよね。あのセーターは、誰に会っても自慢し
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第7話

車内では、むしろ茜と晃宇が興奮気味に、楽しそうにおしゃべりを続けていた。茜の胸は高鳴っていた。あの日、偶然美雨が印刷屋に入るのを目にした。彼女が去った後、茜は店主へ尋ねたところ、印刷したのが離婚協議書だと知ったのだ。冬真がまったく気づいていない様子を見て、美雨は密かに離婚を進めるつもりなのだと確信した。そう思っただけで、茜は笑みを抑えられない。長い間待ち望んでいた彼女は、ようやく冬真の妻の座に一歩近づいた。だからこそ、彼女は今回わざわざ月村父子を誘ってキャンプに出かけた。目的はただ、美雨に時間と空間を与えることだ。まさに、双方にとってのウィンウィンの状況だ。バックミラー越しに、茜は甘いまなざしを運転席の男へ投げかけた。「冬真、覚えてる?子供の頃、よく一緒にキャンプしたよね。あのとき、みんなが私のことを怖がりだって虫でからかってたの。結局、私をかばってケンカしてくれたのはあなただけ。あのこと、ずっと忘れられないの」だが、冬真は取り合わず、ただ薄く笑っただけだった。美雨は家でどうしているだろうか。買い物には誰か付き合ってくれているだろうか?そんなことばかりが彼の頭をよぎっていた。一方、晃宇は茜の手を引きながら、好奇心いっぱいに尋ねた。「山には蛇もいるの?僕、面白い昆虫も見たことないよ!」「そうよ、私はね、昆虫の名前なら何百種類も知ってるの。あなたのパパが教えてくれたんだから。着いたら一緒に探そうね」こうして二人はさまざまな昆虫について話し始め、場の雰囲気はとても活気づいた。やがて、晃宇は崇拝のまなざしでその女性を見つめていた。「茜おばさん、物知りだなぁ!僕、本当に一緒に遊ぶの大好き!ママなんか、いつもガミガミうるさいだけで大嫌い。もしママに茜おばさんの半分でも良いところがあったら、僕だって嫌いにならなかったのに!ママなんか要らないよ!それに、おばさんに会わせてくれない」その言葉に、冬真は眉を寄せ、声を荒げて晃宇に向かって叱りつけた。「晃宇!ママの悪口を言っちゃだめだろう!身支度をきちんとしろとか、ゲームを控えろとか、全部お前の健康のために言ってるんだ。ママを悪く言うなんて許されない!」「でもパパだって、前にママは退屈だって言ってたじゃない。それに今まで僕がママの悪口言っても、パパ怒らなかったよ!」冬真の
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第8話

冬真たちは空き地でテントを設営したばかりだったのに、いきなり土砂降りの雨が降り出した。茜は文句を言いながら叫んだ。「どういうこと?天気予報では今週ずっと雨は降らないって言ってたのに!じゃあ今夜の星は見られないの?キャンプなんて全然意味がないじゃない!」冬真は外の雨をぼんやりと見つめ、頭の中は美雨の姿でいっぱいだった。彼は、イギリスで大学院に通っていた頃、美雨が国内で働いていた日々を思い出した。彼の誕生日が近づくたび、彼は美雨がそばにいて一緒に祝ってくれることを願っていたが、彼女は国内の仕事が忙しく、休みを取れなかった。彼に送金するために彼女が働いているのだから、冬真はそれを理解していた。それでも心の奥底には寂しさがくすぶっていた。だが、彼の誕生日の夜、イギリスでは激しい雨が降った。その夜、彼のドアをノックしたのは、密かに飛んできた美雨だった。彼女は全身びしょ濡れで、前髪が額に貼りつき、見るからにみすぼらしい姿だった。それでも彼女は、大事に守っていたケーキをそっと差し出し、微笑みながら言った。「彼氏くん、誕生日おめでとう!」その日、彼は自分が世界で最も幸せな男だと感じた。世界で最も自分を愛してくれる彼女がそばにいると、彼はそう思えた。その雨は、今日の雨とほとんど同じくらい激しかった。冬真は荷物を片付けながら、断固たる口調で言った。「雨が降っている以上、キャンプに意味はない。今日は一先ず帰って、また別の日にやろう」今回は、彼の態度は揺るがなかった。晃宇も言った。「僕も帰りたい。今朝出発したとき、ママはいつものように抱きしめてくれなかったから、ちょっと会いたくなっちゃった」晃宇の言葉を聞きながら、冬真は物を片付ける手を思わず早めた。茜は焦り、計画が狂ったことに慌てた。彼女は男性の腕を掴んで懇願した。「冬真、雨はすぐに止むかもしれないよ!あと一時間、いや、三十分だけ待とうよ!美雨と一緒にいるの嫌いって言ったでしょ?一緒にキャンプするの楽しいでしょ!」冬真は少しうんざりして、力強く彼女の手を振り払うと、冷たい口調で言った。「茜、美雨の名前は呼び捨てにしてはいけない。さん付けで呼べって言っただろう?今、俺が帰ると言ったら、誰も止められない!」これは、彼が彼女に対して初めて怒りを露わにした
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第9話

町に入ると、雨は上がり、空には虹までかかっていた。茜はまだ最後の抵抗を見せた。「晃宇、キャンプに戻らない?今夜はきっとシリウスが見えるよ」いつも彼女の言うことを聞く晃宇が珍しく反論した。「もういいよ。帰ってきたんだから次に行こうよ。ちょっとママに会いたいんだ」「でも帰ったら、ママに宿題や暗記をやらされるよ。あなたが一番嫌いなことじゃない?」「茜、同じことを二度言わせないで。覚えておけ!美雨こそが俺の妻だ」彼女は唇を引き結び、それ以上何も言えなかった。こうして冬真は茜を路肩に降ろし、家の方向へ車を進めた。晃宇が言い出した。「僕たち、キャンプに行ったのに、ママを連れて行かなかった。ママはそんなことにすごく怒ってるかな?ママにサプライズでプレゼントを買おうか?」その瞬間、冬真は目が覚めたような気がした。彼は長い間、美雨にサプライズやプレゼントを用意していなかったのだ。ほとんどの時間、彼は茜と一緒にいて、ホテルや車の中で過ごしていた。そこで、彼は車を停めた。「晃宇、俺がママに花を買いに行く。お前はママにホットのミルクティーを買おう。サプライズにしよう」二人は大喜びで、美雨へのプレゼントを選び始めた。恋愛中はいつも節約していたので、記念日やバレンタインにだけ、彼女に一本のバラを贈っていた。その後、会社が軌道に乗り、衣食に困ることはなくなった。彼女もまた無駄遣いは避けたいと思っていた。何百本ものバラなど、場所を取るだけでお金の無駄だ。それよりも、晃宇に本やおもちゃを買ってあげたほうが、よほど価値がある。だが、女性は大きな花束が好きなのだ。冬真は数百本のブルガリアローズを選び、自ら包装した。花の香りが漂い、彼は美雨の驚く顔を見るのを楽しみにしていた。晃宇も母親の好きなミルクティーを買った。そして、二人は喜びながら家へ向かった。家に着き、エレベーターに乗ろうとしたその時、茜から電話がかかってきた。迷った末、冬真は電話に出た。向こうの茜は泣きじゃくり、支離滅裂に話した。「冬真、下半身が出血して。路上のおばさんが、流産だって言って……」茜は痛がって叫び続けた。冬真は雷に打たれたかのような衝撃で、思わずスマホを取り落としそうになった。「奥さん、多分流産だよ。すぐに病院に連れて行きなさい
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第10話

冬真は茜を病院まで送り、直接産婦人科に入った。彼女は確かに流産しかけていた。医師は二日間の入院観察を勧めた。彼の眉目は鋭く、声には冷ややかさが宿っていた。「降りたときは大丈夫だったのに、どうして急に出血したんだ?」茜は真面目な顔で嘘をついた。「バイクが突然ぶつかってきて、避けきれなかったの。そしたら、道路脇の柱にぶつかって出血したよ。もし親切な人が緊急連絡先に電話してくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」彼女はもちろん本当のことを言うはずがなかった。その時、彼女の頭はフル回転していた。どうすれば美雨のもとに行かせずに済むか、言い訳を考えていたのだ。最初は足首をひどく捻るだけで、少し傷があるように見える写真を撮るだけのつもりだったが、力を入れすぎて床に座り込んでしまい、血がふくらはぎを伝って流れた。その時、彼女自身も初めて、冬真の子を妊娠していると知ったのだ。これでさらに美雨と冬真を奪い合う理由ができた。美雨はどんなに我慢強くても、妊娠した愛人が目の前で騒ぐことは許せないはずだ。そう考えた末、彼女はそっと冬真の手の甲を握った。「冬真、私たち赤ちゃんができたよ。嬉しいよね、あなたも嬉しいでしょ?私はこの日をずっと待ってたの」晃宇が最初に口を開いた。「おばさん、赤ちゃんができるの?」「そうだよ、晃宇。これから弟や妹ができて、一緒に遊べるね」口ではそう言っているが、茜は心の中で鼻で笑っていた。美雨の子供が自分の子供と月村家の財産を奪い合うなんて、絶対に許せない。地位が安定した後には、必ず晃宇を追い出すつもりだ。しかし予想外に晃宇は二歩後ろに下がり、小さな顔を真剣に引き締めた。「違うよ、ママのお腹から生まれる子だけが僕の本当の弟や妹なんだ。幼稚園の先生が教えてくれたんだよ」茜は歯ぎしりしながらも、笑顔を崩さずに体裁を保った。「でも晃宇、私にママになってほしいって言ったじゃない。これからは私があなたのママになれるよ」この一言で、冬真の理性は完全に戻った。彼は茜の手を振り払った。「何を言ってるんだ?子供の前でそんなことを言うな。茜、どうして妊娠したんだ?毎回避妊はしていたはずなのに、どうして妊娠したんだ?」冬真は理解できず、頭を抱えるほど困惑していた。医師から茜が妊娠三か月だと聞かされたと
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