1 女は、逃げていた。 虫が鳴いている。 樹林に囲まれている。 足の踏み場が悪く、走りにくい。 汗がじっとり、体にねばりついていた。 息も上がっている。 浅い呼吸を繰り返しながら走っていた。 ぼきぼき 小枝が折れる音がする。 それに続く音がなくなった。 はあはあ 誰もおってきてないな ここで初めて後ろを振り返る といっても、どれくらい走ったのか正確には分からない。 無我夢中で走ったからだ。 こんな夜道を... 何で自分はこんな... そんなこといってもしかたない 走れ。 雑念を捨てろ! そう言い聞かせる。 これからのことを考えないと 胸が焼けるように痛い。 そう思っていると、樹林の方から音がした。 女は手に持っているナイフを、音がした方向に向けた。 かさかさ みんみん そのような音の中に、ざっざっと言う音だけを抽出し、それに注意する。 誰だ? その音が徐々に大きくなる。 近づいているのだ。 影が月の明かりに照らされて、その姿を現した「誰?」 背は普通くらいの女だ。 香水のにおいが鼻をついた。 それほど、感覚が鋭敏になっているのだろう。「由紀奈ちゃん?」 その影は実態をもって近づいてきた。「比留田先生?」 由紀奈は、安堵した顔をした。 相手が比留田であったからだ。「よかった。無事だったのね」 比留田は、由紀奈に微笑みかけた。 自然な足取りで、由紀奈に歩み寄る。 由紀奈は、構えていたナイフを下げた。「怖がらないでいいのよ」 比留田は、両手を広げた。 由紀奈は、比留田の胸元に吸い込まれるように、抱擁した。 その瞬間 ぱん 音がした。「おやすみ。由紀奈ちゃん」 由紀奈はその場に倒れこんだ。 胸からは血を流している。 由紀奈は、二ッと笑っている比留田の顔を見ている。2 東京都のとあるオフィスビルで、パソコンの光る画面に向かって何かを話している人たちがいた。 同じような光景がその社内にあり、蛍光灯は明るいが、室内の雰囲気は、やや鈍重になっており、その一人である、森智子の心中はやや重いものになっていた。「何か、就活で困っていることがあれば...」「いや、もう面接したくないんで。何かあったらラインするんで」 画面の向こうにいる肥満体の男が、森に冷たく言った。
Last Updated : 2025-11-17 Read more