All Chapters of 春の約束は、まだ果たされず: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

一方で、飛行機がゆっくりと南の小さな町の空港に着陸した。翠は窓の外の懐かしい景色を眺め、目頭がじんと熱くなった。五年ぶりだった。蓮の家で暮らすようになってから、実家に帰ってきたのは数えるほどしかなかった。そしていつも慌ただしく来ては帰り、疲れ果てた体を引きずっていた。そう思いながら荷物を受け取って到着ロビーに出ると、人混みの中にいる両親がすぐに目に飛び込んできた。母親の絵美はつま先立ちで周りを見渡し、父親の栗原隼人(くりはら はやと)はしきりに腕時計を見ていた。二人の顔には、はっきりと焦りの色が浮かんでいた。「翠!」絵美が先に翠に気づき、泣きそうな声で駆け寄ってきた。隼人もそのすぐ後ろを、少しよろめきながらついてきた。絵美は翠をぎゅっと抱きしめ、その肩はあっという間に涙で濡れた。「翠、どうしてこんなに痩せちゃったの」震える手で娘の顔を撫でながら、「頬がこけてるじゃない」と言った。隼人はそばに立ち、唇を震わせ、言葉を失っていた。そして、娘の首筋にうっすらと浮かぶ痣に気づいた時、隼人はとうとう我慢できずに目を赤くした。「これはどうしたんだ?誰かに虐められたのか?」翠は口を開こうとしたが、かすれた息の音しか出なかった。彼女は首を横に振り、スマホを取り出して文字を打った。【大丈夫、ただの風邪だから】娘が苦しそうに声を出す様子を見て、絵美はさらにひどく泣き始めた。「喉、どうしたの?病気なのにちゃんと治してもらえなかったの?」翠は打ち続けた。【もうだいぶ良くなったわ。先生には、あと数日休めば治るって言われたから】すると、隼人は突然くるりと向き直り、外へ向かおうとした。「チケットを取ってくる。蓮にどういうことか問い詰めてやらないと!」翠は慌てて隼人の腕を掴み、素早く文字を打った。【お父さん、本当に大丈夫だから。ただ、二人に会いたくなって、しばらく実家で過ごしたいと思っただけなの】絵美は涙を拭いながら翠を抱きしめた。「帰ってきてくれてよかった、本当によかった。お母さんが毎日栄養があるご飯を作ってあげるからね。きっとすぐに元気になるよ」懐かしい団地に戻ると、近所の人たちが翠を見て親しげに声をかけてきた。「翠、帰ってたの?久しぶりねえ!」「あら、どうしたの?顔色が良くないじゃない」絵美は無理に笑顔を作って答えた
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第12話

一方で、蓮は狂ったように、街中を探し回った。まず翠と同棲していたマンションへ向かった。指紋認証は変えられていなかったが、部屋の中はがらんとしていた。そして、翠のスリッパは玄関にきちんと揃えてあったが、クローゼットには蓮の服しか残っていなかった。ドレッサーの上の化粧品も、きれいさっぱりなくなっていた。寝室に駆け込むと、ベッドサイドに置いてあった二人の写真まで消えていた。そこには、フォトフレームの跡がうっすらと残っているだけだった。「翠?」蓮がらんとした部屋で翠の名前を呼んでみるが、返ってくるのは虚しい反響だけだった。次に、翠が一番好きだったあの書店へ向かった。店員によると、翠はしばらく来ていなかったが、数日前にポイントカードの残高をすべて使い切っていったという。それを聞いた蓮は、その場で呆然と立ち尽くした。それから彼は、二人がよく行ったレストランやカフェ、公園のベンチまで、思いつく限り走り回った。二人の思い出が詰まった、あらゆる場所を。しかし、どこにも翠の姿はなかった。最後に蓮は銀行へ駆け込み、窓口の職員に怒鳴りつけた。「栗原翠という人の口座を調べろ!今すぐだ!」銀行の支店長は怒鳴られて、恐る恐る記録を検索してから言った。「藤原社長、栗原さんはとっくに共有口座の解約手続きを済まされています」蓮は、5年前に翠を連れて共有口座を作った時のことを、はっと思い出した。あの時、自分は自信満々にこう言ったんだ。「これで俺たちの資産も一緒になったから君は一生、俺から離れられないな」翠はあの時、とても嬉しそうに笑っていた。でも、3回目の結婚式が延期になった後、彼女は急に真剣な顔で言った。「蓮、あなたにあげるチャンスは100回だけ。100回目の結婚式も挙げられなかったら、私たち、もう終わりだからね」あの時はただの腹いせだと思って、笑いながら翠にキスをして言ったんだ。「100回なんてあるわけないだろ。次こそは絶対に挙げるから」「ありえない……」蓮は呟いた。「100回なんて、そんなはずが」彼は震える手でスマホを取り出し、裕也に電話をかけた。「すぐに調べてくれ。俺の結婚式は何回延期になっていた?」電話の向こうで裕也は数秒黙り込んだ後、おずおずと言った。「社長、ちょうど100回です。毎回、私と栗原さんとで後処理をいたし
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第13話

しばらくして、蓮の車が実家の門の前で急ブレーキをかけて止まった。執事はすでに門の前で待っており、険しい顔で言った。「蓮様、大旦那様が、すぐに先祖代々が祭られているお部屋へいらっしゃってくださいとおっしゃってます」言われた通り中に入ると屋敷の空気は、息が詰まるほど重かった。見慣れた廊下を渡りながら、蓮の手のひらは冷や汗でびっしょりだった。部屋の扉は大きく開かれていた。中には家族一同が黒山の人だかりを作っていて、その中央では光希が震えながらひざまずいていた。「この馬鹿者が!さっさと来い!」藤原彰人(ふじわら あきと)は持っていた杖を、床に強く叩きつけた。蓮は、すかさず光希の隣に立って言った。「おじいさん、すべて俺の責任で、光希は関係ない」「お兄さん!」光希は彼の手首を掴み、涙をぽろぽろとこぼした。「おじいさんが私を追い出すって言ってるの」彰人は怒りで全身を震わせた。「この子はお前の妹だぞ!こんなことをして、恥を知れ!」「私たち、血の繋がりはないじゃない!」光希が突然顔を上げ、甲高い声で叫んだ。「私がお兄さんを好きなのが、いけないの?彼と一緒にいたいと願うのが、間違いなの?」するろ部屋の中は、一瞬で騒然となった。彰人はよろめき、執事に支えられた。「馬鹿な!これじゃ藤原家の名誉が、お前たちのせいで地に落ちるだろうが!」それを聞いて蓮は慌てて頭を下げた。「おじいさん、全部俺のせいだ。あの夜、薬を盛られた酒を飲んでしまって、それで、あんな過ちを……」「薬を盛られただと?」彰人は鋭くその一点に食いついた。「誰が盛った?」蓮は、思わず口走っていた。「翠だ。翠が――」口にした瞬間、彼自身もはっとした。どうして、翠だと決めつけていたんだろう?光希が泣きながらそう言ったからか?「馬鹿を言え!」彰人の杖が、蓮の背中を強かに打った。「翠のことは、俺がよく分かっておる!お前たちにこれだけ振り回されても、いつも黙って耐えてきたじゃないか。そんなことして彼女に何の得があるんだ?お前が結婚式をまた延期させることも、光希を連れて見せびらかすことも彼女になんの得にもならんだろ」その言葉に光希の顔から血の気が引き、彼女は服の裾を固く握りしめた。彰人は執事に手を振って命じた。「調べろ!あの晩の監視カメラも、酒の記録も、すべて洗い出すんだ
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第14話

蓮がマンションに駆け戻ると、玄関のセンサーライトがつき、がらんとした静寂が広がる部屋を照らし出していた。暗闇の中、スマホの画面が不意に光り、震えた。裕也から送られてきた暗号化メールだ。件名には【光希さんに関する事件の全調査報告書】と書かれていた。蓮は震える手でメールを開いた。最初のページは、光希がとある高級でプライベートなクラブの個室にいる写真だった。日付では、彼女があの「しつけ教室」で苦しめられていたはずの時期とピッタリ重なっていた。写真の中の光希は、ばっちりメイクをして、ワイングラスを片手に心から楽しそうに笑っていた。露出した肌はつるつるで、どこにも暴力を受けた痕跡なんて見当たらなかった。その下には、メイクアップアーティストの証言が添付されていた。光希のために、いかに本物そっくりの痣や傷跡を作り上げたかが、詳しく供述されているのだ。それを目にした蓮は、はっと息をのんだ。彼の脳裏に、あの地獄のような「しつけ教室」から翠を連れ出した時の光景が、一瞬でよみがえった。翠は見るも無残に痩せこけ、ぶかぶかの入院着に包まれた体は、今にも崩れてしまいそうなほど脆く見えた。そして顔色は青ざめていて、血の気がなかった。自分を見るその瞳は虚ろで、憎しみも、ましてや愛情もなく、空白に満ちていた。その全ては、自分の判断によるものだった。それもたった一つの、計算され尽くした嘘のために。それに気づくと蓮は拳を強く握りしめ、爪が手のひらに深く食い込み、血が滲んだ。それでも彼は、痛みさえ感じていないようだった。彼は震える手で、画面を下にスワイプした。そこには、目を疑うような事実が次々と並んでいた。翠の車に故意に追突した時の、ドライブレコーダーのデータ復元分析。結婚式の前に、わざと自分を怒らせたり、仮病を使ったり失踪したふりをするための、数えきれないほどの通話記録やチャットのスクリーンショット。長期間にわたって探偵を雇い、翠を尾行、盗撮させていた記録。そして、わざと親密そうに見える角度を選んで撮った誤解を招く写真を、送信した履歴まであった。さらに、驚くことに行きつけの医師との暗号化された通信記録もあった。そこには、「ちょうどいい」タイミングで流産を偽装し、その罪を翠に着せる計画が記されていた。「ありえない、こんなこと……」蓮は呟き
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第15話

「お兄さん?なんでこんなところに?ここ、すごく暗い」光希は床に倒れ込み、怯えた様子でガラクタだらけの薄暗い部屋を見回した。蓮は印刷した調査報告書を、彼女の顔めがけて叩きつけた。紙は床一面に散らばった。「見ろ!君のしでかしたことを、その目でよく見ろ!」光希はドアの隙間から差し込む光を頼りに、紙の内容を確かめた。途端に彼女の顔は血の気がなく、真っ青だった。「嘘よ!全部でっち上げ!翠さんが私を陥れたのよ!お兄さん、信じちゃだめ!」「黙れ!」蓮は乱暴に光希の顎を掴み、殺気立つほどの目で睨みつけた。「この期に及んでまだ嘘をつく気か!今の自分の姿を見てみろ。子供の頃の純粋さなんて微塵もない。どうしてこんなにも根性の悪いヤツになってしまったんだ!」「私が根性悪い?」一番痛いところを突かれたように、光希は甲高い声で笑い出し、やがて泣きじゃくった。「ぜんぶあなたを愛してるからよ!小さい頃からずっと!なのにあなたはあの女しか見てない!あいつのどこがいいのよ?なんであなたを奪われなきゃいけないの?!私がしたことは全部あなたを愛しているからよ!」「愛だと?」蓮は心底馬鹿にしたように笑った。その目には、狂気と憎悪が溢れそうだった。「君の愛っていうのは、俺を騙して一番大切な人を傷つけさせることか?俺に嘘で固められた世界で生きろってのか?それが愛だと?ふざけるな!それはただのわがままだ!異常なんだよ!」翠が味わった苦しみを思うと、すべてを破壊し尽くしたいほどの怒りが蓮を完全に飲み込んだ。彼は光希の腕を掴んで引きずり起こし、部屋の中央まで連れて行った。蓮が手を放すと、光希はよろけて冷たい床に倒れ込んだ。さきほどお仕置きで打たれた背中を強打し、彼女は痛みに息を呑んだ。光希は腕を抱えて声を震わせながら、いつものように弱いふりをして、蓮の同情を引こうとした。だが、蓮はゆっくりとしゃがみこみ、床に散らばった調査報告書を拾い上げた。そして一枚、また一枚と、ゆっくり光希の目の前に投げつけた。「よく見ろ」彼の声は静かだった。「これのどれがでっち上げか、言ってみろ」光希は動かぬ証拠を前に、唇を震わせながらも言い逃れようとした。「これは全部翠さんが私を陥れるために仕組んだことよ!彼女は私を憎んでるの!だから……」「どうやら、痛い目を見ないと分からないんでし
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第16話

「まだ一回目だぞ」蓮の声は戦慄させるほどの恐ろしさあった。「なあ、翠はあそこで、毎日電気ショックを受けていたんだ。どんな気分だったと思う?」「ごめん、お兄さん、お願い」光希は必死に許しを乞うが、恐怖ですっかり心を奪われていた。しかし、蓮は聞こえないふりをして、再び電極パッドを手に取った。今度は、光希のふくらはぎの古傷に正確に貼り付けた。それは、以前わざと転んで、翠に突き飛ばされたと嘘をついた時にできた軽い捻挫の跡だった。「ここは、まだ痛むか?」蓮はそう尋ねた。その声色は「優しい」とさえ言えるほどだったが、光希をぞっとさせるには十分だった。「痛くない!とっくに治ってる!」彼女は叫んだ。「だが、君はあの時、可哀想に泣きながら、翠がものすごい力で突き飛ばしたと言っていたな」そう言うと蓮の目が鋭くなり、彼は一気に電流を強めた。「あああ――」光希の体は激しく痙攣し、ふくらはぎの古傷が、焼けた無数の針で同時に突き刺されるような痛みに襲われた。彼女はあまりの痛みに気を失いそうになった。蓮はボタンから手を離し、光希がぐったりと崩れ落ちるのを見つめた。「痛いか?」と彼は尋ねた。光希はもう言葉を発することができず、ひゅうひゅうと息を吸う音を漏らすだけだった。そして涙も止めどなく溢れてきた。それを見た蓮の声は更に低くなった。「君がわざと車ではね飛ばした時、翠は全身を何箇所も骨折し、内出血を起こし、冷凍庫の中で熱と感染症に苦しんだ。どれだけ痛かったと思う?ん?」彼は光希の髪を掴み、無理やり自分の方を向かせた。「教えろ。彼女はあの時、今の君みたいに、泣き叫んで許しを乞うことができたのか?」光希は、蓮の目に宿る狂気じみた憎しみと苦痛におびえ、ただ必死に首を横に振ることしかできなかった。蓮は彼女を離すと、傍らに置いてあったバケツを手に取った。その中には、凍えるように冷たい氷水が入っていた。彼はためらうことなく、バケツの水を光希の頭から浴びせかけた。「きゃあ!」光希は凍えるような冷たさに体を震わせ、悲鳴を上げた。「冷か?」蓮はバケツを放り投げた。「こんなのまだ序の口だ。翠はマイナス20度の冷凍庫で、丸一晩過ごしたんだ。薬で意識は朦朧とし、外の寒さで血も凍りそうになっていたんだからな、そんな気分を、君も味わってみたいか?」蓮
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第17話

一方で、翠は絵美と一緒にスーパーから帰ってきたところだった。その手にはまだ土のついた新鮮な野菜がぶらさがっていて、空気の中もくちなしの甘い香りと、懐かしい家庭料理の匂いが漂っていた。庭では隼人が植木の手入れをしていた。翠が帰ってきたのに気づくと、老眼鏡をくいっと押し上げて、顔をほころばせた。「お帰り。お母さんが、君のために腕によりをかけて筑前煮を作ってるよ」それはありふれているけど、心からの温もりを感じる日常だった。それに、凍りついていた翠の心はすこしずつ溶かされて温まっていくのを感じた。彼女の顔色も、目に見えてよくなってきた。まだゆっくり話さないといけないけど、声はずいぶん聞き取りやすくなってきたのだ。今日は、病院で定期検診を受ける日だった。翠は一人で病院へ向かった。消毒液の匂いはまだ少し苦手だ。それでも翠は、耳鼻咽喉科の外にある長椅子に静かに座って、順番を待っていた。「次の方、栗原さん」看護師が顔を出して名前を呼んだ。名前を呼ばれて、翠は立ち上がって診察室に入った。机の向こうでは、医師がカルテに目を通していた。白衣姿の彼はすっきりと整っている横顔をしていた。「どうされましたか?」医師はそう言いながら顔を上げた。視線がかち合い、二人とも固まった。「翠か?」医師は勢いよく立ち上がった。その顔は驚きと信じられない気持ちでいっぱいだった。「翠?本当に、君なのか?」翠も同じように固まってしまう。目の前にいるのは、どこか懐かしいようで見覚えのある顔だった。少年時代のあどけなさは消え、落ちつた大人の雰囲気の漂わせているその相手のいつも優しく笑っていた目元は、昔のままだった。「慎吾?」自信なさげにそう呼びかける。翠の声は、手術の後でまだ少しだけかすれていた。「俺だ!」金田慎吾(かねだ しんご)は机を回り込んで、数歩で翠の目の前に立った。その眼差しには、心配と再会の喜びが隠しきれずにあふれていた。「いつ戻ってきたんだ?どうして、ここに?」慎吾の視線は、翠が手にしている耳鼻咽喉科の再診票に落ちると途端に眉をひそめた。「喉、どうしたんだ?」矢継ぎ早に質問されて、翠はどれから答えたらいいのか分からなかった。ただ微笑んで、「久しぶり」とだけ言った。慎吾は翠の幼馴染で、二つ年上の近所の男だった。子供の頃はガキ大将で、い
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第18話

慎吾の丁寧な治療のおかげで、翠の喉は思ったよりも早く回復した。もう日常会話には困らない。声は以前より少し低く、かすれた感じになったけれど、それがかえって落ち着いた魅力を増していた。そして週に一度の検診は、すっかりお決まりの予定になった。慎吾はいつも丁寧で、頼りになる医師だった。たまに「治療の経過観察」を口実にして、自然な流れで食事に誘ってくれることもあった。行くのはいつも、昔ながらの路地裏にある老舗ばかり。そこは、翠が小さい頃から食べ慣れた味だった。湯気の立つ味がしみたおでんや、おばんさいを食べながら、二人はいつも昔話に花を咲かせた。家の庭に植木をしたこととか、あの先生が出す宿題が一番難しかったとか。二人の両親も、何十年も慣れ親しんだ隣人同士だったから、お互いのことはよく知っていた。そんな状況に翠の両親は、娘の顔にだんだんと笑顔が戻っていくのを見ていて、慎吾はその穏やかな思いやりに心から感謝しながら、二人の仲を喜んでいた。慎吾の両親も、翠のことが昔から気に入っていた。小さい頃からよく知っている相手だからこそ、彼女の性格の良さもよく理解していた。この何年か、彼女が外でどれだけ苦労しただろうと思うと、不憫でならなかった。だから、いますぐにでもお嫁にもらって、大事にしてあげたいと思っているのだ。ある週末、両家で食事をしていたときのことだ。慎吾の母親・金田楓(かねだ かえで)が翠の手を取り、絵美ににこにこと笑いかけた。「子供たち、うまくいってるみたいね。慎吾ももういい歳だし、翠も帰ってきたし。いっそ、結婚の話を決めちゃわない?そしたら私たちも、やっと肩の荷が下りるんだけど」隼人はお酒を一口飲むと、慎吾の方を向いた。「慎吾、君はどう思う?」慎吾はお箸を置くと、背筋を伸ばしてまっすぐ座った。彼は真剣な顔で栗原家の両親を見ると、少しうつむいている翠に視線を移した。「おじさん、おばさん。俺は、翠のことが本当に好きです。子供のころから、彼女と一緒にいたいと思っていた。今は、もっと彼女を大切にしたいんです。どうか、結婚を認めてください」そんな食卓は和やかで幸せな空気に包まれた。周りがはやし立てる中、翠は優しい笑顔を浮かべて、自分のために丁寧にエビの殻をむいてくれた慎吾を見てから、さらに、両親の久しぶりの心からの安堵の表情に目を向けたあと、静かにう
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第19話

翠は、結婚式の面倒な儀式を嫌がり、大勢の人目に晒されるのも、耐えられなかった。次第に彼女は、誰もいない結婚式場の夢を、頻繁に見るようになった。それはウェディングドレス姿の自分が、長い廊下を必死に走っているのに、どうしても出口が見つからない夢だ。蓮の夢を見ることもあった。何度も延期されたあの結婚式の日、彼は光希の後を追いかけて走り去っていった。その後ろ姿が、何度も、何度も、繰り返し頭によぎるのだ。そして翠は、自分がトラウマになっていることに気が付いた。結婚式、約束、そして「藤原」という名前がつくすべてのものに対して。そうやって日に日に口数が少なくなり、時々ぼーっとするようになった翠を見て、慎吾の心配はどんどん募っていった。慎吾はもともと気が利く方だし、相手が翠ならなおさらだった。その日の夕方、二人は川辺を散歩していた。慎吾は立ち止まると、そっと翠の手を握った。すると彼女の指先が少し冷えていて、かすかに震えているのがわかった。「翠」彼の声はとても優しかった。「最近、何か悩んでることでもあるの?俺に話してくれないか?」翠ははっと我に返り、思わず手を引っこめようとした。でも、慎吾はもっと優しく握りしめて離そうとしなかった。すると彼女はうつむいて、首を横に振った。「ううん、なんでもない。たぶん、マリッジブルーかな」と、もっともらしい言い訳で、ごまかそうとした。でも、慎吾はそんな言葉で簡単にごまかされはしなかった。彼は翠を川辺のベンチに座らせると、体を彼女の方に向けて、真剣な目で見つめた。「ちゃんと話して。一体何を怖がってるんだ?結婚式が面倒だとか?それとも、これからの生活が不安なのか?」翠は長い間、黙り込んでいた。慎吾がもう話してくれないかもしれない、と思ったその時、彼女はようやく小さな声で呟いた。「私、なんだか、もう永遠なんてものを信じられなくなったみたいなの」慎吾は不機嫌になるどころか、むしろすべてを察したような、切ない表情を浮かべた。「俺たちの問題じゃないってことは、わかってる。過去のことが、まだちゃんと吹っ切れてないんだろ?」そう言うと、慎吾はそっとため息をついた。その五年間、具体的に何があったのかは聞かなかった。ただ、翠の冷えた手を、さらに強く握りしめただけだった。「翠、俺を見て」翠が顔を上げると、慎吾
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第20話

その後、翠と慎吾は老舗の和お菓子屋へ立ち寄った。出てきた時、彼女は焼きたてのアーモンドクッキーの箱を手に持っていた。そして慎吾が「明日はもっと美味しいスイーツの店に連れて行ってあげるよ」と笑いかけると、翠も楽しそうに微笑み返した。その時、人混みの中から突然一つの影が飛び出し、まっすぐ彼女に向かってきた。翠は相手が誰かを見る間もなく、ものすごい力で引き寄せられ、硬く、そして記憶の中でよく知っている胸に強く叩きつけられた。その胸はタバコのきつい匂いを漂わせながら、どこか落ちぶれたような雰囲気だった。きつく締め付けられて翠は痛みを感じて、手に持ったお菓子の箱をぱさりと落としてしまい、クッキーが地面に散らばった。「翠、翠!本当に君なんだな!」頭の上から蓮の声がした。その声はしゃがれ、震えていて、狂気じみた喜びに満ちていた。「見つけた!やっと君を見つけたぞ!」翠は突然の出来事に一瞬呆然としたが、すぐさま激しくもがいた。「離して!蓮、何するの!」隣にいた慎吾も我に返り、すぐに蓮を引き離そうと割って入った。「すみません、彼女を離してください!」しかし、蓮にはまるで慎吾が見えていないかのようだった。彼の意識はすべて翠に釘付けで、力が入った腕は硬く彼女をびくとも離そうとしなかった。この時蓮の充血した目には翠だけが映っていて、周りの喧騒や人々は、すべてぼやけた背景になってしまったようだった。「すまない!翠、すまなかった!」蓮は支離滅裂に謝り、翠の首筋に顔をうずめた。そして熱く、荒い息を切らしながら言った。「俺が悪かった!俺はクズだった!君を傷つけた!許してくれ、頼む、一回だけ許してくれ」彼は涙を流しながら、声を震わせていた。翠は締め付けられて息も苦しかった。それ以上に、蓮の狂ったような様子に強い嫌悪感がこみあげてきた。「離して!言ってることが分からないの?!」「いやだ!離さない!」蓮は勢いよく顔を上げ、その目には、はかなげな執念が宿っていた。「君を離したら、他の男のところへ行ってしまうだろ!許さない!どうして他の男を好きになれるんだ?どうして彼に触れさせるんだ?!」蓮はまるで今になって、自分を引きはがそうとする慎吾に気づいたかのように、ひどく凶暴な目を向けた。「俺たちが過ごした五年間を忘れたのか?あぁ?」蓮は翠を睨みつけ、彼女の顔
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