LOGIN婚約者の藤原蓮(ふじわら れん)には、18年間も大切にしている女の子・藤原光希(ふじわら みつき)がいた。 私たちの婚約を知った途端、光希は私にちょっかいを出すようになった。 彼女は庭のバラを引っこ抜いて菜の花に植え替えたり、新居のオートロックの暗証番号を勝手に自分の誕生日に変えたりした。 でも、私はいつも笑って許してあげていた。 だって、蓮がいつもこう言っていたから。 「光希はまだ若い。君に俺の愛情を全部取られちゃうんじゃないかって、不安なだけなんだよ」 そして、月日は流れて、光希は大人になった。 彼女のせいで、蓮は私たちの結婚式を100回もドタキャンした。しかも、その理由はいつも信じられないようなものばかりだった。 1回目は、光希とディズニーランドの花火を見に行かなくちゃいけないって。 33回目は、光希とS国へ海を見に行く約束をしたからって。 そして99回目。バージンロードを歩き始めたまさにその時、病院から電話がかかってきた。光希が急性盲腸炎で倒れた、と。 …… ついに、100回目。光希がポップアップストアに行きたいと言い出して結婚式をすっぽかしたせいで、蓮はまたしても式を延期した。 彼は去る際に、本当に申し訳なさそうな顔でこう言った。 「次は、次は絶対に光希に時間通りに来るように言い聞かせるから。だから、怒らないでくれ」 私は静かに微笑むだけで、何も答えなかった。 もう次はない。100回目の結婚式は、これでおしまい。 蓮との関係も、もうこれ以上続ける意味なんてない。
View Moreあれから数年が過ぎた、とある週末の午後。翠は庭でしゃがみこみ、歩き始めたばかりの娘に植木への水やりを優しく教えていた。小さな子はぷにぷにの手でジョウロを握りしめている。でも、ふらふらとよろけて水をこぼしてしまい、きゃっきゃっと楽しそうに笑った。「シチューがもうすぐできるよ!手を洗って、ごはんの準備しよう!」慎吾がエプロン姿のまま、フライ返しを手にキッチンから顔を出した。その時、翠のスマホが鳴った。それはずいぶん連絡を取っていない番号からだった。彼女は手をぱっぱっと払って電話に出た。「もしもし、どちら様ですか?」電話の相手は昔の同級生だった。どこか遠慮がちで、ため息まじりの声だ。「翠さん?久しぶり。あのさ、蓮さんのこと、何か聞いた?」翠は植木の葉っぱをかじろうとする娘をそっと抱き上げると、落ち着いた声で答えた。「ううん、なにも。どうかしたの?」「彼……亡くなったんだって。もう何年か前の話らしいんだけど、ビルから飛び降りたとか。あんなに順風満帆だった人が、どうしてかねぇ」電話の向こうの人は、藤原家の没落ぶりを立て続けに話した。蓮が皆に見捨てられ、どれだけ惨めな暮らしをしていたか、とか。翠は無表情のまま静かに耳を傾け、時々、「うん」と相槌を打つだけだった。小さな子が待ちきれなくなったのか、翠の足にまとわりついて、ぐずりながら抱っこをせがんだ。翠はスマホに向かって、淡々とした口調で言った。「そう、わかった。わざわざ教えてくれてありがとうね」「え?」同級生は彼女の反応が予想外のことだったらしく、一瞬言葉を失った。「それだけ?言うこととかないの?だって、あなたたち昔は――」「もう、ずっと昔のことだから」翠は相手の言葉をさえぎった。声は穏やかだ。「ごめん、娘がごはんって騒いでるから。また今度ね」彼女はあっさりと電話を切ると、スマホをぽいと脇に置いた。そして、ぷうっと頬をふくらませる娘をひょいと抱き上げ、鼻先を小さなほっぺにすり寄せた。「お腹すいたの?よし、パパのお料理上手に出来てるかどうか、見に行こうか!」ちょうど鍋を運んできた慎吾が、それを聞いて笑いながら言い返した。「ひどいなあ!俺の腕は確かだって!」そう言いながら彼はソファの上で一瞬光ってすぐ暗くなったスマホの画面に目をやり、何気なく尋ねた。「さっきの電話、
あれからしばらくした後、翠と慎吾の結婚式は行われた。式場で楽しそうな笑い声が、庭の方からかすかに聞こえてくるけど、離れているせいかどこか霞んだようにも聞こえた。蓮はそんな声を聞きながら、大きな木の陰に隠れて、その様子をこっそりと見ていた。今日の翠はとてもきれいだ。白いドレスは、シンプルで上品なデザインだった。派手なベールは着けていない。髪はすっきりとまとめられていた。隣に立つ慎吾は黒いスーツ姿で、彼女にずっと笑顔を向けているのだ。二人はそこに並んで立ち、司会者の言葉に耳を傾けていた。そして、指輪を交換した。それから慎吾はそっと身をかがめると、翠の額に優しくキスをした。翠もまた幸せそうに微笑んだ。その光景の一つ一つが、鋭い刃物のように、とっくに傷だらけだった蓮の心をさらにズタズタにしているようだった。蓮は翠との結婚式を、何度も思い描いていた。もっと盛大で豪華な式で、新婦はもちろん彼女のはずだった。それなのに今、翠はウエディングドレスを着て、別の男の隣で幸せそうに笑っている。「俺だって、翠にこうしてやれたはずなんだ」と、蓮はかすれた声で呟いた。だけど今の自分には、もう何も残されていないのだ。藤原家は自分を勘当し、全ての口座を凍結されてしまった。そして、自分に与えたものは全て取り上げられてしまったのだ。あれほど自分に取り入ろうとしていた人々も、今では手のひらを返したように自分を避けるようになった。樹のせいで自分の評判は地に落ち、もはや再起のチャンスなどどこにもないのだ。自分は、本当に全てを失ってしまった。今の自分に、翠を手に入れる資格なんてない。いや、そもそもここにいること自体、自分こそが、この清らかな幸せを汚している存在なのだろう。これ以上生きてても、もはやなんの意味もない。自分の存在自体が、翠を汚しているのだと思うと、蓮は自身の犯した罪を許せないでいたのだ。そう思いを巡らせていると、結婚行進曲が流れ始め、新郎新婦は家族や友人からの祝福を受け始めた。蓮は最後に、翠の姿を目に焼き付けた。そして、音を立てずにその場を離れた。彼はしばらく歩き続け、やがて高いビルの前にたどり着いた。エレベーターで最上階まで上がり、さらに階段を一つ上って、屋上へ続くドアを押し開けた。風が強く吹いて
だが、蓮は本当に気が狂ってしまったようだった。いや、翠が軽々しく口にした心無い一言が、彼にとっては呪文のようだった。それから蓮は彼女に会いに行くこともなく、しばらく姿を消した。彼はどこからか埃をかぶった古い電気治療器を見つけてきた。震える手で電極パッドを自分の腕に貼り付けながら、電流に撃たれて苦痛に痙攣していた翠の姿を思い出していた。そしてその思いを胸に蓮は目を閉じ、勢いよくスイッチを入れた。すると、「あぁぁっ――」激しく、言葉では言い表せない痺れるような痛みが全身を駆け巡った。筋肉は意思とは無関係に引きつり、歯はガチガチと鳴った。これでまだ一番弱いレベルだというのに。じゃあ、翠が耐えた痛みはどれほどのものだったのだろう?そう思いながら、蓮は次によろよろと冷凍庫の中へと入っていった。暗闇と、骨まで凍みるような寒さが、一瞬にして彼を飲み込んだ。そんな中時間だけが過ぎていた。だが、蓮は30分も経たないうちに、みっともなくそこから逃げ出した。ドアの外で倒れ込むと彼は荒い息を繰り返しながら、翠がどうやってあの長い夜を耐え抜いたのかを噛み締めた。そして、蓮はさらに、強力な媚薬を手に入れ、それを氷水に混ぜて一気に飲み干した。それから誰もいない部屋に閉じこもり、欲望が理性を焼き尽くす感覚と、巨大な空虚感と後悔に飲み込まれていった。心も体も引き裂かれるような苦しみに、彼は正気を失いかけるほどになっていた。そんな風に蓮は偏執的とも言えるほど、かつて翠に与えた苦しみを、一つ、また一つと自分自身で「体験」していった。痛みが頂点に達するたび、彼の脳裏には当時の翠の顔がはっきりと浮かび上がった。それは血の気のない、絶望に満ちた、どん底につきおとされた表情だった。こんなにも痛かったのか。自分は、翠にあんなにも残酷なことをしていたのか。蓮がその自己懲罰という地獄から這い出した時には、一層痩せこけて人相が変わってしまっていた。胸の刺青は、度重なる無茶と手入れ不足で炎症を起こしてただれており、見るからに無残だった。その時、彼のスマホが鳴った。彰人からだった。蓮は震える手で電話に出た。だが、彼が何か言う前に、電話の向こうから彰人の、怒りに満ちていながらも疲れきった声が聞こえてきた。「蓮!この役立たずめ!お前が何をし
蓮のつきまといは日に日にエスカレートしていった。翠にとって、取っても取り切れないほど、吐き気がする不快な存在だった。ある深夜、蓮はまたしても酔っ払って、彼女の家の前で待ち構えていた。翠は慎吾に送られて帰ってきた。そこには、またしても亡霊のように立っている蓮を見て彼女の我慢は、ついに限界に達した。翠は慎吾に先に帰ってもらい、冷たい顔で蓮の前に歩み寄った。「蓮、一体どうすれば私の前から消えてくれるの?」彼女の声は氷のように冷たかった。「警察を呼んで、数日間拘置所にでも入らないと分からない?」蓮は酔ってかすむ目で翠を見ると、まるで溺れる者が藁をも掴むように、よろめきながら近づいた。そして写真立てを彼女の胸に押し付けた。「翠、見てくれ、ほら。俺たち、昔はこんなに幸せだったじゃないか」翠は、その写真立てを荒々しく振り払った。蓮は、砕け散った写真を呆然と見つめた。そして、翠の冷たく嫌悪に満ちた顔を見た。その瞬間彼が必死に抑え込んできた過去の記憶が、崩れかけの理性と一緒に押し寄せてきた。彼は思い出した。光希からの電話一本で、ウエディングドレスの試着や、結婚指輪を選んでいる翠を、時には一緒に食事をしていた時の彼女を置き去りにしたこと。何度も結婚式を延期した挙句、「思いやりがない」「分かってくれない」と、逆に翠を責めたこと。光希のデタラメだらけの信じ込み、みんなの前で翠を「根性悪い」と罵ったこと。地獄のような「しつけ教室」に、自分の手で翠を送り込んだこと。彼女が誰よりも信頼を必要としていた時に、最も致命的な裏切りをしたこと。さらに、彼は翠が高熱で生死の境をさまよっていた時も思い出した。自分は、体調不良のふりをする光希をなだめるため、医師を全員光希のところに行かせ翠を一人ほったらかしにしたのだ。最後に彼は冷凍庫の中に放り込まれた時翠が見せたあの絶望しきった、生気のない瞳。「うっ……」そんな想いに駆られ蓮は急に胃の中がひっくり返るような吐き気に襲われ、かがみこんだ。アルコールと、後悔と苦しみがごちゃ混ぜになって、彼は体の中が焼き尽くされるような思いだった。そして、彼は激しくえずき、涙が堰を切ったように溢れ出した。「俺は、なんてことをしたんだ」蓮はガラスの破片の上にひざまずいた。鋭いガラスで膝は切れて血が滲んだが、彼は全く痛み