All Chapters of 遥かなる距離、残り愛の温もり: Chapter 1 - Chapter 10

17 Chapters

第1話

小栗柚希(おぐり ゆずき)が再び産科医として働き始めてから、最初に担当することになった胎児エコーは、自分の夫とその昔の恋人の子どもだった。彼女は妊婦のデータを凝視し、震える声を必死に抑える。「前田看護師、この妊婦の旦那さんって……三上重人ですか。システムの不具合じゃありませんか」看護師がそっと顔を寄せ、小声でささやいた。「その三上家の御曹司ですよ。ここは三上家のプライベート病院で、院長ですら大城菜月のことを丁寧に奥様と呼んでます。間違えるはずありません」そして看護師がスマホを差し出しながら、頬をほんのり染めて言った。「ほら、めっちゃ甘くないですか」三上重人(みかみ しげと)が大城菜月(おおしろ なつき)のふくらんだお腹に耳を当て、胎動を楽しむ写真を見た瞬間、柚希の瞳孔はすっと縮む。産科主任がからかうように笑った。「大城さんは妊娠四カ月だけど、三上社長は健診に一度も遅れたことがないんです。奥さん命ってこういう人のことですね」柚希の耳の奥がじんじんと鳴り続け、頭の中が真っ白になる。「大城さんって本当に幸せですよね。旦那さんはイケメンでお金持ちで、家庭円満。いいなあ」羨ましそうな看護師が言った。「ね、小栗先生もそう思いますよね」柚希はぼんやりと返事をし、白衣を握りしめる指先が震えた。自分の夫が、昔の恋人と結婚して、しかももう子どもまでいる。生まれて初めて、三上夫人という自分の立場に疑いが芽生える。結婚して五年、柚希はようやく子どもを亡くした悲しみから立ち上がれた。なのに重人は一年間の海外赴任に出てしまい、柚希は距離を縮めるため、こっそりM国の病院に応募してやって来た。けれど、今の状況を見る限り、自分の存在は完全に余計だ。菜月がなかなか現れず、柚希は落ち着かない息を何度も吐いた。彼女が重人に確認の電話をしようとした瞬間、ドアノブが回り、ボディーガードたちが一列に並ぶ。大勢に守られた菜月が、申し訳なさそうに微笑みながらお腹を優しくなでた。「夫が急に会議で、付き添えなくて。駄々をこねられて二時間も遅れちゃいました。皆さんのお時間、取らせてしまって」目が合った瞬間、柚希の全身の血が凍りつく。柚希は一目で分かった。菜月が重人の財布に入っていた写真の女性だ。健診が始まり、柚希は震える手を必死で押さえ込む。
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第2話

柚希はふらふらと病院へ戻り、気力だけで二つのことを済ませる。一つは退職願を提出すること。もう一つは結菜の髪を持って、親子鑑定に出すこと。柚希はその報告書をぼんやりと見つめ、冷たい指先が小さく震える。鑑定結果にはこう記されている。柚希は結菜の生物学的な母親である。薄い報告書がひらりと床に落ち、柚希は拾い上げるだけでも全身の力を使い果たしたように感じる。どれだけ滑稽なのだろう。ずっと胸の奥で恋い焦がれていた娘を、重人は菜月に媚びるための道具のように扱っていた。柚希は感覚の抜けた足取りで診療科へ戻り、ゆっくり荷物をまとめる。院長は彼女が退職することを知り、残念そうに声をかけた。「聞いたところによると旦那さんのためにここへ来たらしいのに、どうして急に辞める?」柚希の目が少し陰り、苦い笑みが浮かぶが目元までは届かない。「彼はもう……夫ではない」彼女は唇をきゅっと結び、深く頭を下げて別れを告げ、院長の驚いた視線を背に病院を出る。あてもなく街を歩き、子ども服の店の前を通ったとき、ショーウィンドウに並ぶ繊細なワンピースが目に入り、柚希は思わず足が止まる。結菜の服に油汚れがついていた姿を思い出し、彼女は目の奥が一気に熱くなる。本来なら誰より愛され、大切にされるはずの娘が、そんな乱暴な扱いを受けるなんて、柚希の胸は裂けそうになる。彼女は足取りを固めてその店に入り、結菜のためにあのワンピースを買い付けると同時に、結菜を必ず自分の元に連れ戻すと心に決める。だが少し離れたマタニティショップの前で、重人と菜月の姿を見つけてしまう。重人は菜月をしっかり庇い、片手で彼女の腹を支え、もう片方で落ちた髪を耳にかけてやる。菜月が少しでも目を向けた品物は、彼は迷いなく全部買っていく。彼の視線は菜月だけに注がれ、柚希に気づいたのは、ほとんどぶつかりそうになってからだ。重人は眉をひそめ、叱ろうと顔を上げる。しかし目が合った瞬間、菜月の手をつないでいた彼の指が条件反射のように離れ、喉仏が強く上下する。「柚希……ここで何をしている」涙がこぼれそうになるが、柚希は指先を掌に押し込み、無理に唇を持ち上げる。「あなたに会いたくて、S市までサプライズしに来た」けれど重人にとって、この再会は驚喜ではなく驚愕だけだ。ビジネス界では
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第3話

菜月は縋るように押し返しながら囁いた。「やめて……奥さんが隣の部屋にいるのよ」「彼女?奥さん?」重人は菜月の腰を抱き上げ、そのまま壁に押しつけた。「そんなに俺と線を引きたい?」「ただ、小栗先生に誤解されてあなたが困るのが怖いだけ……本当は誰より苦しいの……」菜月は涙を含んだ声で訴えた。「あなたを失いたくないだけ」重人の喉が上下し、次の瞬間、彼は彼女の唇を深く塞ぐ。菜月の甘い声が途切れなく漏れる。彼は低く笑い、息を荒くした。「ここがいい?」菜月はかすれた艶を帯びた声で言った。「だめよ……お腹に赤ちゃんがいる」「妊娠中でもできる」重人の声には濃い欲が滲む。「優しくするから、俺を放っておくな」壁一枚隔てた向こうで、菜月の声はますます甘く、必死の懇願に変わる。しかし重人はやめる気配もなく、壁は激しく揺れる。柚希はその場に座り込み、呼吸すら痛みを伴う。彼がベッドではいつも紳士で、少しでも眉を寄せればすぐ動きを止め、何度も優しく体勢を変えてくれたことを覚えている。なのに今の彼は、あんな乱れた言葉で、別の女を激しく求めている。もう聞いていられなくて、柚希はふらつきながら立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出す。豪奢な別荘はどこを見ても菜月への愛情で満ちている。柚希はすぐに道に迷うが、歩くほどに目に映る高価な品々が妙に見覚えのあるものばかりだと気づいた。菜月が冷えないようにと敷き詰められた敷物は、柚希が記念日に重人から贈られた手袋と同じ素材だった。菜月のコレクションルームに並ぶ宝石の数々。柚希は何度も自分から口にして、やっと婚約指輪をもらったのに。廊下に飾られた、重人が菜月のために描いた肖像画。柚希との結婚写真は、頼み込んでやっと撮ったものなのに。胸の鼓動は乱れ、肋骨にぶつかるたび痛みが走り、柚希の目元が熱くなる。自分が宝物だと思っていたものは、全部菜月のお下がりだった。朦朧と歩き続けていると、廊下の奥からかすかな音が聞こえる。何かと思い近づいた瞬間、小さな影が飛び込んできた。月明かりが映したその顔を見て、柚希の涙が一気に溢れた。結菜、彼女の娘だ。結菜は警戒した目で柚希を見つめ、カビたパンを背中に隠した。抱きしめようと手を伸ばすと、結菜はすぐに膝をつき、額を床にこすりつけて懇願した。
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第4話

その言葉を聞いた瞬間、重人はほとんど気づかれないほど、ふっと息を吐いた。彼は柚希の肩を抱き寄せ、低い声で説明する。「菜月は心根の優しい子なんだ。小さい頃から結菜を引き取って育ててきた。でも妊娠してからは思うように動けなくて、どうしても世話が行き届かない時がある」そのとき、結菜は悪夢を見ているかのように、小さな声で「ママ」と繰り返していた。重人の大きな掌が、彼女の背をやさしく撫でる。まなざしには温もりしかない。月明かりが、三人の上に柔らかく降りそそぐそれは、柚希が何度も夢に見た光景だった。「もし私たちの子がまだ生きていたら、きっと今ごろ同じくらいの年だったよね」彼女の声は、かすかに震えていた。重人の手が空中で止まり、瞳の奥に一瞬だけ罪悪感が過った。「生まれ変わったら、誰かが必ずあの子を大事にしてくれる」そう言って彼は柚希の手を握り、柔らかく慰める。「俺の責任は君を守ることだ」柚希は彼の瞳を見上げた。深く、揺るぎなく自分を見つめてくるその眼差し。しかし彼女の胸の中の虚しさは、どうしても消えなかった。「じゃあ、大城のことは?」彼女は一本一本、彼の指をほどくように離していく。「大城のこともあなたは守るの?」重人は数秒きょとんとし、すぐに彼女の嫉妬だと決めつけたように、甘く微笑んだ。「俺と菜月はただの友達だ。彼女は身重で、しかも独り身だ。当時、祖母を救ってくれた恩人でもある。慣れない異国で頼る場所もない。世話をしないわけにはいかないだろう」ベッドの中まで世話する?柚希は喉までこみ上げた反論を、ぎゅっと飲み込んだ。もうすぐ出て行くつもりの自分が、何を言い争う必要がある?重人は彼女の疲れた表情を見て、そっと眉間に口づけ、明かりを一番弱い光に落とした。「寝ろ。俺がそばにいる」柚希は結菜を抱きしめ、目を閉じて眠ったふりをする。そのとき、突然の轟音が耳元に響き、彼女の身体がびくりと震えた。稲光が走り、白い光が重人の冷たい横顔を切り裂く。直後、隣室から甲高い悲鳴が聞こえ、彼の冷静さは完全に砕け散った。柚希の静かな寝息を確かめると、彼は身を起こし、彼女と結菜の布団を丁寧にかけ直し、慌ただしく部屋を出た。扉がそっと閉じられた瞬間、柚希の唇の端を、涙が静かに伝った。翌朝、彼女が目を開けた途端、重人は彼女
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第5話

結菜はいつの間にかついてきて、小さな体で柚希を必死に守っていた。しかし最後の一発は容赦なく重く、結菜はまるで布切れのように空中に投げ飛ばされる。痛みに声を上げる力もなく、意識を失って倒れた。柚希は身の重みがなくなったことに気づき、辛うじてまぶたを開けると、結菜が血の海の中に倒れ、背中から鮮血が流れているのを見た。慌てて近づこうとするが、ボディガードに心臓のあたりを蹴られ、髪を掴まれ、仰向けにされて菜月が指示した映像を見せられる。画面の中では、重人が片膝をつき、真剣な表情で彼女の腫れた足首を揉んでいる。菜月はそのサービスを心から楽しんでいるかのように、可愛らしく微笑む。柚希は顔を背けて見たくなかったが、ボディガードに平手打ちされ、無理やり見せられる。彼がぶどうを剥いて自分で菜月に食べさせたこと、胎児に早期教育の読み聞かせをしていること、菜月が「あなた」と呼ぶたびに彼がキスをすること。一枚見るごとに、柚希の心は刃でえぐられるように痛む。雨は唇の血を洗い流し、重人への最後のわずかな愛情も消し去る。それも当然だ、自分と結菜の命は、重人にとって一匹の犬よりも価値がないから。ボディガードが突然手を離し、柚希は泥に倒れ込む。しかし痛みを感じることもなく、結菜を抱きしめ続ける。結菜の熱い額に触れ、指先は震えが止まらない。抱きかかえながら低く身をかがめ、謝り懇願するが、誰一人として救急車を呼んでくれず、解熱薬さえ渡してくれない。結菜の呼吸は弱くなり、絶望の中、電話が鳴る。相手は菜月で、嘲笑の声で言った。「この子を死なせたくないなら、おとなしく私の前に来なさい」柚希は彼女の悪意を理解しつつ、結菜の青ざめた顔を見て、泥の中を必死に踏みしめながら抱えて走り出した。温かいベビールームで、菜月はお腹を撫でながらマタニティ運動をしている。「パパはママの細い腰が一番好きって。ママは体型を維持してパパを喜ばせなきゃ……」柚希が泥だらけで現れると、菜月は嘲るように笑った。「あなたとこの子の命もなかなかしぶといわね。でもあなたが罰を受けている間、重人は私の雷が怖いのを心配して、一晩中私と赤ちゃんをあやしてくれたのよ」柚希は結菜を抱き締め、声を震わせながら行った。「結菜を助けて」菜月は手にした薬瓶を弄び、ゆっくり揺らして言
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第6話

柚希は結菜をしっかり抱き締め、恐怖で頭が真っ白になりながら、途切れ途切れに声を絞り出した。「だれか……だれか、この子を助けて」広い部屋には、そのか細い声さえ空気に吸い込まれてしまうほど心細さが漂う。彼女は歯を食いしばり、嵐の中を駆け抜けるように、青ざめた顔の結菜を抱え、病院へと走る。産婦人科専門の病院は三上家の私立病院だ。入口に立つ警備員が彼女を制し、きつい声を上げる。「三上夫人が切迫している。三上様の指示で部外者は入れない」「黙りなさい」入口を見張っていた重人の秘書が状況を察し、慌てて走り寄り、警備員を蹴り倒した。「こいつ、新人で何もわかってないんです」秘書がは気が引けたように笑った。「奥さまとお嬢さんを中へご案内します」柚希は込み上げる痛みを飲み込み、焦りのまま手術室の外に待機する。すると少し離れた場所で、重人が菜月と指を絡めている姿が目に入った。十数人の主任医師が菜月を囲み、気遣いの言葉をかけている。重人は眉を寄せ、医師に何度も再検査を求めている。柚希は痛む胸を押さえ、無意識に一歩後ずさりしたが、バランスを崩して階段から転落してしまった。そして結菜の救命が失敗する悪夢にうなされながら目を覚ました。跳ね起きた彼女は、自分が病室のベッドに横たわっていることに気付いた。少し首を傾けると、結菜が全身に医療機器をつけて眠っている。体を起こそうとするが力が入らず、倒れ込みそうになった瞬間、温かい掌が彼女の腰を支える。「柚希、気がついたんだね」重人がベッドの背を上げ、声には失ったものを取り戻した喜びがにじんでいた。「よかった。君も結菜も無事で」柚希はゆっくり顔を上げ、彼の切なげな視線とぶつかる。彼はシャツ姿で、上着は柚希の体に掛けられている。意識を失う前、彼女は重人の恐怖に満ちた瞳と、彼がこの上着で自分をしっかりと包み込んだことを覚えていた。「菜月は……」重人は一瞬言葉を止める。「妊娠中なので気持ちが揺れやすいんだ。君も、あんな態度はよくないよ」懐かしい杉の香りを感じながら、柚希の心は少しずつどん底に落ちていった。「菜月は優しい人だ。君を責めたりしない」重人は彼女を見つめながら言った。「ただ、君が産科医だと知って、しばらくそばで世話をしてほしいらしい」涙が柚希の目にじわりと溜まる。「もし……
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第7話

二百度に熱した皿が柚希の前腕に落ち、容赦なく重く叩きつけられ、真っ赤な水ぶくれが浮かび上がる。何があったのかという声とともに、重人が足早に入ってきた。彼は柚希に視線を向けることもなく、菜月のもとへ一直線に進み、心配を滲ませる。菜月は見開いた瞳を無邪気に揺らした。「わからないわ……」重人が家政婦に向き直り、彼女の動揺した表情を見て眉をひそめた。「手に何を隠している?」家政婦は隠そうとするが、菜月が腹を抱えながら前へ出た。家政婦の手から物を取り上げた瞬間、菜月は青ざめ、思わず数歩後ずさりし、重人の胸にぶつかった。「経口中絶薬!どうしてこれを?誰に命じられてこんな真似をしたの!」家政婦は口を押さえて泣きながら首を振るが、重人の冷酷な眼光に膝から崩れ落ち、床に額をつけるようにひれ伏した。「小栗先生の仕業です!私に大城様が食べるケーキに薬を混ぜるよう強要しました!あの子は父親のいない出来損ないで、大城様が小栗先生と三上様の仲を邪魔しているから始末しろと!私がためらうと、両親に手を出すと脅し、大城様は誰もが蔑む愛人に過ぎないから、真実を口外するなと……」菜月は重人の胸に伏せて、息もつけないほど泣きじゃくった。「重人、小栗先生の言う通りよ、全部私が悪いの。私と子供がいなくなればいい」そう言うと彼女は重人を押しのけ、拳で自分の腹を強く叩き始めた。「私が小栗先生の邪魔になるのが悪いんだ……」柚希は思わず弁解しようとするが、重人の凍りつくような眼差しが言葉を奪う。額の血管が浮き上がり、重人はゆっくり近づいてくる。大きな手が彼女の喉元を締め上げる。「柚希、言っただろう。菜月に一指でも触れば、容赦しないと」菜月は彼の背後で挑発的に口元を歪め、しかし泣きながら必死に彼の腕を押さえて制止するふりをする。「小栗先生がシロちゃんを殺し、結菜に私の悪口を仕込んだとしても、それに……中絶薬を盛ろうとしたとしても」彼女は苦い笑みを浮かべた。「彼女はあなたの妻で、私はただお婆様を救っただけ。私の子供がどれだけ大事でも、あなたに正義を求める資格はない」彼女は自分の腹に手を当て、深い痛みを宿した目を伏せる。その言葉に、重人の罪悪感が溢れ落ちそうになる。彼は指先に力を込め、柚希を見つめる瞳は血走り、まるで鬼のようだ。「国に帰れ。
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第8話

柚希は悪夢にうなされ、息を呑んで目を覚ました。血に染まった結菜の小さな体が腕の中で縮こまり、薄れていく瞳には、彼女の怯えきった顔が映っていた。結菜は残る力を振り絞り、小さな両手で涙だらけの柚希の頬を包んだ。「次の人生でも、結菜のママでいてくれる?」「小栗さん?小栗さん!」医師の呼びかけが彼女を夢の底から無理やり引き戻した。柚希ははっと目を見開き、見知らぬ病室を見回し、隣へ手を伸ばすが、空っぽのベッドに一瞬で血の気が引いた。「結菜?」起き上がろうとして、肋骨の傷を引きずり、ベッドから転げ落ちた。「私の結菜はどこ?」点滴の針が抜け、傷だらけの手の甲に新しい血が滲んだ。少し離れたソファでは、脚を組んだ男が眉をひそめ、看護師に彼女を起こさせる。「あの女の子のことなら、今は霊安室にいる」柚希の全身に震えが走る。彼女はその威厳ある男を疑念の目で見つめる。「あなたは大城菜月の差し金か?欲しいものがあるなら何でも渡すから、結菜を返して」精神の限界に追い詰められた彼女は、その場に膝をつき、患者服を脱ぎ始めた。白石理斗(しらいし りと)が驚いて、彼女の手を押さえ、力強く抱きとめる。「落ち着け。俺は大城菜月なんて知らない」彼の合図で医師が駆け寄り、柚希に鎮静剤を注射した。薬が身体に回ると、柚希は理斗の腕の中で力を失った。彼女は声を上げて泣き、乱れた髪が額にはりつき、肩を激しく震わせ、弱々しく哀れな姿だ。産科医として、彼女はこれまで幾度となく生死を見届けてきた。手術後に隠れて泣いていると、重人はいつも彼女を抱きしめ、何度も慰めてくれた。重人がそばにいないのはこれが初めてだ。結菜を再び失ったのもこれが二度目だ。理斗の肩は、彼女の涙でじわりと濡れていく。彼は身体を硬くしながらも、柚希を突き放すことはしない。子を失った母親は、かつて母を失った自分と同じ。皆、哀れな存在だ。やがて柚希の呼吸が落ち着くと、彼女はそっと距離を取り、かすれた声で言った。「結菜に会いに行きたい」理斗は拒まない。彼女を優しく車椅子に抱き上げ、自ら霊安室へと押していく。真夏であっても、霊安室は骨の髄まで冷たかった。彼女が白布をめくると、結菜の血の気のない顔が現れる。柚希の頬を涙が次々とこぼれ落ち、結菜の冷たい首筋に落ちていく
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第9話

理斗の深い瞳に、かすかな光が揺れた。「言っていることが分からない」柚希は掌をぎゅっと握りしめ、長い沈黙のあとで口を開く。「結菜は、重人のせいで死にました」理斗の目に驚きがよぎるが、すぐにその色が隠れていく。「確か、君と三上の子どもは出産の日に亡くなったはずだよ。結菜は大城が引き取った子だろう」彼は柚希を見つめ、探るような表情になる。「無関係の子にそこまでよくするなんて、単に優しいだけなのか」柚希は視線を落とし、苦い笑みを浮かべた。「結菜は、私の亡くなった子です。重人が大城に託しました。当時、三上家の祖母を救った礼としてね」理斗は背もたれに寄せていた身体を一気に起こし、わずかに寄っていた眉がさらに深くなる。彼は元々重人とそりが合わない。しかし、ここまで常軌を逸した真似をするとは思っていなかった。「少し考えさせてくれ」薄い唇が固く結ばれる。すぐには返事をしない「不倫の証拠があるなら、最強の離婚弁護士を紹介できる」「ありがとう。でも……」柚希は口元を引きつらせ、笑うより泣きに近い表情になる。「私と重人、そもそも籍を入れていないです」予想外の事実に、理斗の胸に言葉にできない感情が込み上げる。目の前の女性が、裏切りと子供を失った痛みを一身に抱えていたと知り、驚きと同情が押し寄せる。彼が柚希を助けたのは、重人の弱点を突くためにすぎなかった。なのに今、胸の奥がわずかに軋む。やつれた横顔を見つめ、慰めの言葉を探そうと指先がかすかに動いた、その時だった。車が急停止し、白石家の門前に着いた。執事が駆け寄ってきて、息を切らした声を上げた。「白石社長、大変です!」理斗は長い脚で車外へ踏み出した。「何があった」「お嬢さまの陣痛が始まったようで!」理斗の顔色が一変し、瞬きする間もなく邸内へ駆け込む。柚希もただならぬ様子を察し、すぐにあとを追う。リビングにたどり着いた時、理斗の妹はすでに分娩に入っていた。担当医は雨の渋滞に巻き込まれ、救急車を待てば母子ともに危険が大きい。柚希は迷うことなく前へ進み、白石晴子(しらいし はるこ)のそばに膝をついた。「私は産科医です。取り上げますよ!」理斗は状況の深刻さを理解していた。今、信頼できるのは彼女だけだ。彼は晴子の手を握りながら問いかけた。「必要なものは?」
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第10話

病院の個室で、菜月は横向きに身を縮めていた。頬を涙で濡らした。「痛い……」彼女の顔色は紙のように白く、細く整った指先はふくらみ始めた下腹に添えられ、その様子に重人の胸が締めつけられる。「重人、もし小栗先生が本当に薬を盛っていたら、私と赤ちゃんはもうとっくにここにいなかったのかな」菜月は赤くなった目で、ひどく傷ついたように震える声を出す。「私が死ぬのはいい。でも、赤ちゃんは何も悪くないよ……」「大丈夫。俺がいる」重人は指先で彼女の涙をそっと拭い、穏やかな声で慰める。「君を傷つけさせたりしない」彼は菜月が眠りにつくまで気持ちを整え、その静かな寝息を確認してから病室を出る。扉にもたれかかった瞬間、喉の奥から小さなため息が漏れる。柚希は……どうして、ここまで冷たくなれるんだ。スマホを取り出す。画面は静まり返っている。柚希からのメッセージは一つもない。助けを求める言葉も、後悔も、反論でさえない。彼は、異国の街角で行き場を失う彼女を放っておけず、部下に指示して自分名義の別荘へ連れて行かせ、国内へ戻す準備をした。五年間、たとえ偽りの夫婦だったとしても、過ごした相手に心が動かないはずがなかった。ただ、菜月の前だけは、筋を通さなければならない。重人は疲れたこめかみを揉みながら、二人の女性の間で揺れ動くことがこれほどまでの重圧になるとは思わなかった。その時、医師が検査結果を手に近づき、おずおずと口を開いた。「三上さん、結果が出ました。奥さまと赤ちゃんに大きな問題はありません」重人は結果を受け取り、怒りをはらんだ声で言い捨てる。「使えない連中だな。菜月が苦しいって言ってただろう」検査結果を医師に投げ返した。「ここの一番上手い産科医はどこにいる?」医師は慌てて汗をぬぐう。「小栗先生のことですか?少し前に退職されまして、まだ代わりが見つかっていないんです」「小栗先生?」重人の目が一瞬だけ揺れる。まるで答え合わせをするように、彼は低い声で確かめる。「小栗柚希のことか」「はい。京市から来られた先生です」医師がうなずいた。「奥さまの前回の検診も、小栗先生が担当しました」重人の眉間が深く寄り、声が急き立つ。「続けろ」医師は数秒考え、思い出したように続ける。「変な話ですが、小栗先生は旦那さんと離れて暮らすのが嫌
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