All Chapters of 裏切り恋人にさようなら: Chapter 1 - Chapter 9

誰もが知っている。林田文彦（はやしだ ふみひこ）は、私が二十歳になって彼の嫁になるのを、ただひたすら待っている。彼は心底から私を愛している。忠誠の証として自らGPSを渡し、居場所を常に把握させてくれた。それが、婚約パーティーのそのすぐ傍の部屋で。文彦は色っぽい女を抱き、狂ったように身体を交わらせていた。GPSの内蔵通信から、彼の荒い息遣いが流れてくる。「蕾（つぼみ）……今度は、コンドーム五箱全部、使い切ってやる」私は心が冷め切った。システムを呼び出した。「任務をやめた。この世界から脱出させて」耳元で、冷たい電子音が響く。「任務失敗。脱出まで残り3日」＊携帯から聞こえる断続的な声が、鈍いナイフのように私の心臓をじわじわと刻みつける。女が小さな声で尋ねた。「文彦さん……私のこと、好きなんでしょ？」文彦の荒い息遣いと、ねっとりとした返事が重なり合う。「ああ……お前の淫らなところが好きだ」「じゃあ、霞（かすみ）さんと私と、どちらが好きなの」その声には、泣き濡れたような切なさと、答えを伺うような響きがにじんでいた。次の瞬間、文彦の声は氷を合わせたように冷たくなった。「比べるな。お前ごときが彼女に並ぶと思っているのか？霞は触れてはいけない存在だから、お前で用を済ませているだけだ」続く淫らな音声に耐えられず、私は震える手でアプリを閉じ、録音ファイルをクラウドに保存した。今日は、私と彼の婚約を祝うはずの日だった。本来は、心も体も、全てを彼に捧げようと決めていた。それなのに、披露宴が終わるとすぐ、彼は「会社に緊急の用事がある」と嘘をつき、慌てた様子でどこかへ消えてしまった。この日のために、彼はとっくに仕事の段取りをすべて済ませていたはずなのに。拙っぽい嘘だったのに、私は何も疑わず、馬鹿のように信じ込んでいた。もしあの時、見知らぬ番号から【文彦の居場所を確かめて】というメッセージが届かなかったら、私は今でも、彼の甘い嘘にまんまと踊らされ続けていたかもしれない。最も大切な日に、最も愛した人がくれた「サプライズ」とは、こんなことだった。文彦が戻ってきたのは、真夜中を過ぎていた。彼が背後から抱き寄せた時、鼻についたのは、いつもの家のボディソープの香りだった。ここまで入念に痕

「どうした？どこにぶつけた？」蕾は無垢で痛々しい表情で私を指さしながら、言った。「文彦さん、霞さんを責めないで。さっきお話しようとしたら、突然押されてしまったなんて。霞さん、何か誤解していらっしゃるのでしょうか。でも本当に痛いです」彼女は手を差し出した。白い腕には細長い引っかき傷が走っており、まるで爪でわざとつけたように見えた。文彦はたしなめるような目で私を見つめた。「霞、いくら何でもやりすぎだ」私は失望の眼差しを返し、問い直した。「私が押したと思っているの？」いつの間にか、彼は真実を見極める目まで失っていたのか。十年以上も共に過ごしてきたのに、こんな明らかな芝居を信じるとは。私のまっすぐな視線に、文彦の表情にわずかな動揺が走った。その時、蕾が突然痛そうに声をあげた。「あっ……痛いよ！骨が折れたかもしれない……」下唇を噛みしめ、目に涙を浮かべて、蕾は耐えきれない苦痛を演じた。文彦の意識はたちまち彼女に引き戻され、慌てて言った。「とりあえず蕾を病院に連れて行く。先に食事をしておいてくれ」そう言うと、蕾を支えて玄関へ向かった。私の青ざめた顔や額ににじむ冷や汗には、まったく気づかなっかた。以前なら、私のわずかな変化でも、真っ先に気づいたはずなのに。去り際、蕾は私に一瞥を投げた。その口元に浮かんだ勝ち誇った笑みは、紛れもない勝利の宣言だった。私はもう体を支えきれず、眼前が暗転すると、その場に気を失った。気づけば、病院のベッドの上だった。隣人のおばさんが心配そうに傍らに座っている。「あら、本当に怖い思いをさせられたわよ！料理作って火を消し忘れたんだって？幸い私が異臭に気付いて……」おばさんは胸を撫で下ろしながら、ありったけのことを話してくれた。私の家からガス漏れの臭いがするのを感じ、救急車を呼んでくれたらしい。高熱で意識を失い倒れている私を発見され、一酸化炭素中毒で一日中救命処置を受けたという。話すうちに、おばさんの口調に少し悔しさが滲んだ。「だって以前はご主人があなたを随分大切にしていたじゃない。ちょっとした風邪でも四六時中付き添っていたのに。今回は救命室に運ばれたってのに、一度も姿を見せないなんて！携帯にも何の連絡もないし、家にも誰もいないし

文彦の世界は、その瞬間から音もなく崩れ始めた。彼は霞が倒れ、鮮血を止めどなく吐き続ける姿を、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。救急救命室の赤い灯りが消えた時、彼はまるで自分の魂までが抜けていくような感覚に襲われた。医師が力なく首を振り、死亡を告げる。文彦は足元が崩れるように後退り、視界が霞み、耳の奥で金属音が鳴り響いた。世界が色を失い、音を奪われたようだった。よろめきながら病室に入ると、霞が静かに横たわっていた。顔は蝋のように白く、命の灯は完全に消えていた。震える指先で、彼女の冷たくなった頬に触れた。涙が熱く、無言で頬を伝う。「霞……」声は涙に咽び、ただ嗄れる。「どうして勝手に逝ってしまうんだ。結婚するって、二人で家を作るって約束したじゃないか……」後ろから近づいてきた蕾の瞳に、一瞬、ねたみと憎しみが走った。「文彦さん、そんなにお悲しまないで。人の命は天が決めるものですから。霞さんには、ただ運がなかっただけです」「黙れ！」文彦の真っ赤になった目が、ゆっくりと蕾に向けられた。それはまるで、彼女を血肉ごと食い尽くさんとするような視線だった。「運がないのはお前だ！俺の霞はこの世で一番幸せな女になるはずだった」その目線が、蕾のわずかに膨らんだ腹へと滑り落ちる。その目には、感情の一片もなかった。「全部お前のせいだ。お前が勝手に産めだなんて言い出さなきゃ、霞は何も知らずに！」文彦の声は涙に潰え、言葉は跡形もなく消えた。蕾は彼の眼差しに押され、思わず後退った。足の裏から這い上がる冷たさが、背骨を駆け上がる。何かがおかしい――鋭い違和感が蕾の胸を刺す。「文彦さん、私だって、こんなつもりじゃ……霞さんが病院にいるなんて知らなくて……」文彦の脳裏に、霞の最期の姿が焼き付く。あの時、彼女の顔は土気色で、唇には血の気がなかった。自分は蕾の傷ばかりに気を奪われ、霞の異変に目を向けさえしなかった。気づくべきだった。彼女が苦しんでいたかもしれないのに。以前の自分なら、絶対に見逃さなかった。後悔の念が怒涛のように胸を襲う。文彦は突然立ち上がると、蕾が反応する間もなく、その腹を蹴り上げた。さらに、足の裏で腹を押しつぶすように、一度、二度、三度……「きゃぁ――！」蕾の悲鳴が

「許して……許して……」と、泣きじゃくるように繰り返した。その声は引き裂かれるような絶望に満ちていた。彼が地獄の苦しみにもがく様を、私はただ滑稽に眺めていた。浮気すると決めた時、結末は分かっていたはずだ。それでも彼は踏み外した。今さらの後悔など、焼け石に水も同然だった。文彦は結局、現実を受け入れた。私の身体を永久に保存し、身近に置いておきたいという願いを抱きながらも。生きている者は、生きている世界に戻らなければならない。彼は最高の葬儀社を手配し、これ以上ないほど豪華な葬儀と告別式を執り行った。彼は自分の手でボタンを押し、私の身体を火葬炉へと送った。炎が燃え上がる瞬間、彼の脳裏を駆け巡ったのは、私のかつての笑顔ばかりだった。彼は最高の職人を探し出し、私の遺灰を特別に調合された指輪の中に永久に封じ込めた。肌に触れるその冷たさが、私がもういないという現実を、絶えず彼に刻みつける。その後、文彦は公の場で私と結婚式を執り行うと高らかに宣言した。この報が流れるやいなや、世間は騒然となった。「林田社長は正気ですか？亡くなった方と結婚だなんて」「ただのパフォーマンスでしょう！注目を集めるためなら手段を選ばない！」「あらまあ、彼女への愛は本物だったのね。亡くなった今でも離さないなんて」様々な憶測と中傷が波のように押し寄せたが、文彦は一切耳を貸そうとしなかった。友人たち数人がメディアを通じ、「二人は互いの初恋であり、幼馴染であり、固い契りを交わしていた」と証言した。ネット上では、人々がこぞって恋愛評論家と化し、文彦の一連の行動を「深愛の証」と分析し、称賛する声が広がった。「うわっ……泣ける！これが究極の愛ってやつだ！」「羨ましすぎる……私にもこんな深い愛が欲しい！」私はあきれて目をむき、もう目をむいて天を仰ぎたい気分だった。情深い男を演じ切って彼は満足だろうが、私は心底うんざりだった。この忌まわしい任務のせいで、私はこんな駄目男に貴重な時間を費やした。結婚式当日、文彦はことのほか豪華な式場を用意した。花とイルミネーションに埋め尽くされ、まるで本当の結婚式を祝うかのようだった。彼は黒のタキシードに身を包み、胸に白いバラを飾り、私の遺影の前で深い愛情を込めて誓いの言葉を述べた。「霞、愛し

おばさんは深くため息をついた。「ええ、火を消し忘れてね。あの子、本当にうっかりやさんで……まあ、あなた……どうしてそんなに？」子供のように泣き崩れる男を前に、王おばさんはただ茫然とするしかなかった。文彦は顔を覆い、激しい嗚咽に体を震わせていた。押し寄せる後悔の波が、彼を完全に飲み込んでいく。霞を死なせてしまった――彼は紛れもない罪人だ。「霞……ごめん、本当にごめん……」声は涙に濡れ、かすれていた。私はその背後に浮かび、彼が泣き崩れる様を冷ややかに見下ろしていた。心のどこかで、小さな痛快な感情が湧いた。真心を裏切る者は、万の矢で心を穿たれて当然なのだ。長い待機時間を経て、システムからの報酬がようやく支給された。健康そのものの体と、五百万円という追加報酬。体中を血液が駆け巡る感覚。忘れかけていた活力が、再び体内に満ちていく。何よりも、私は高校三年生の時代に戻っていた。かつては文彦に合わせ、嫌々ながら金融の道を選んだ。数字とグラフの日々は、まさに悪夢でしかなかった。今、私は初めて自分の夢――化学へと歩みを進められる。神秘的な分子式、目を見張るような化学反応を思うだけで、胸が高鳴った。志望校合格へ向け、私は狂ったように勉強に打ち込んだ。食事と睡眠以外は全て問題演習。教室と図書館と寮を往復する、単調ながら芯の充実した日々。文彦とあの任務世界のことは、どこか遠い荒唐無稽な夢のように感じられた。大学入試が終わり、私の得点は最難関には届かなかったものの、十分に優秀な大学の化学科へ進学できる水準に達していた。合格通知書を受け取った日、私は飛び上がらんばかりに嬉しかった。これからは平凡で平和な日々が続くのだろう――そう思っていた。ある日、冷たいシステム音が再び私の耳に響いた。「警告：任務世界が崩壊しました」私は一瞬固まり、急いで記録映像を開いた。画面には、文彦のやつれ果てた顔が映し出されていた。ボロ布のようなコートに身を包み、路地の隅で小さくうずくまっている。髪はぼさぼさで鳥の巣のようだった。ニュースの見出しがそれを説明していた。【新進気鋭の実業家、路上に転落 精神の均衡を失う】会社破産後、彼の生活は想像以上に悲惨なものだった。巨額の負債が残り、所有していた資産はすべ