All Chapters of 偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

「あの、何かの冗談ですよね?水瀬一花が西園寺グループのって……」「そうです。柏木さん、西園寺一花さんは確かに西園寺グループの重要なポジションにいる人です。そういえば、以前、あなたとはとても深い縁があったんですよね?」茉白が隙を見て、陸斗に代わって親切そうに綾芽の疑惑を肯定した。茉白はクズ人間が恥をかくのを見るのが本当に面白くて好物だった。「……」すると綾芽はまるで苦虫を嚙み潰したような顔つきをしていた。綾芽は言葉が出ず、動揺するように瞳を揺らし、自分の体なのに言うことがきかないかのようになっていた。茉白は腕を胸の前に組んだ。「そういえば、彼女がまだ西園寺グループに来る前、柏木さんにかなりいじめられていたとか?噂では……あなたは男女の仲を引き裂くのが趣味のようで?どうしてギャロップのような大企業が、こんな下品な人を寄越して、うちと提携を結ぼうとできるのかしら?こんなことをすれば、西園寺グループはギャロップが本気でうちと提携しようとは思っていないって思っちゃいますよ。それに、ギャロップの社員がこんなに恥知らずだなんて、その影響は……かなり悪くなるんじゃないでしょうか」茉白の最後の一言は、完全にさっき綾芽が彼女に侮辱した言葉をそのまま反撃として返した。そして周りも茉白の言葉で白熱した議論となっていた。茉白がこんなふうに言って、彼女を徹底的に追い詰めようとしているのは明らかだったが、彼女にはそれから逃げる術がないのだ。一花が西園寺グループの管理職であるという情報だけでも、綾芽の思考を停止させてしまうほど、衝撃的なことだった。綾芽はこの時、茉白に腹を立てる力すらなかった。「二階堂さん、ここで発言をしていいと言ったおぼえはないけど。あまり調子に乗らないでもらえるかな」陸斗は歯ぎしりしながら、冷ややかに茉白を注意した。しかし、茉白は全く気になどしなかった。どうせ、今ここには侑李がいるのだから、彼女は陸斗など怖くなかった。侑李も彼女が話すのを制止することはなかったので、彼女は陸斗に白目をむくだけだった。周りに野次馬が増えていくのを見て、自家の醜態を外部に晒すわけにはいかず、陸斗と侑李はほぼ同時に部下に合図を送り、見物に来た社員たちを仕事に戻らせた。陸斗と侑李は意見が一致したらしく、綾芽たちを連れてすぐに
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第502話

「それに関しては僕のことを心配してくれる必要はないよ」侑李の声は穏やかだった。それに全く焦る様子を一つも見せず、ぞっとするほどに落ち着き払っている。彼は一花のアシスタントからUSBを受け取った。綾芽はそれを見た瞬間、驚きで動揺した。彼女は見間違いなのではないかと思った……あれは……一花のデータが入っているUSBでは?綾芽はそれを慶から貸してもらい、後でまた彼に返していた。しかし、これは一つしかなくて、一花のところにバックアップが残っていないはずじゃないのか!一花の卒業プロジェクトでのデータは、教授と結果が間違いないと確かめて、海外の大企業からオファーをもらっていた。これが就職活動に大いに役立つものだと考え、一花はそのデータを論文発表してはいなかった。そして結局、黒崎グループに就職することを決めたため、これを使うことが今までなかったのだ。綾芽はこの一花の論文データは発表されておらず、一花のものだと証明されていないことを知り、大胆にも盗用したのだった。しかし……もし、一花のところにバックアップデータがあったのだとしたら、終わりじゃないか?それはギャロップだけではない……これは他人のデータを盗用した罪で綾芽が起訴されかねない……「柏木さんは、もう長い間会社での仕事経験はないとお聞きしました。ギャロップへも突然就職されていますよね。ここまで短い期間でギャロップの南関支社の代表となった。つまりあなたはかなりの能力があるというわけですよね?」侑李はパソコンを開いてデータをロードしながら、そう言った。侑李は綾芽のほうを見ていなかったが、彼女はもう居ても立っても居られなかった。彼女は侑李のパソコンを見つめ、無理に唾を飲み込んだ。陸斗はこの時、何かおかしいことに気づき、眉を吊り上げた。彼らは一体何をやっているのか。それに柏木綾芽は一花とライバルなはずでは?一花が西園寺の人間だと分かった瞬間、ここまで度肝を抜かして、何も言えなくなってしまうものなのか?大したことない人間なのか。「焦らないでいいですよ。あなたと一花君の怨念は、ただ個人的な問題でしょう。今日ここへギャロップの代表として契約しに来ただけなんですから」陸斗は小声で綾芽にそう伝えた。綾芽が完全に無力な様子で自分を見つめるので、陸斗はしぶしぶ侑
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第503話

「あなたが一体どうやって、ギャロップからここまでの重責を担うことになったのか。そして、今回の提携において、どんな問題があるのかを説明してほしいと言っているのです」侑李は綾芽を直視していた。彼は昔からずっと変わらず優しい声をしているが、この時のその穏やかな声は聞く者に半端なく威圧感を与えた。彼は微かに笑っていた。「もし、柏木さんが本気で思い出せないようでしたら、僕から説明してあげましょう。今回の件、僕の従妹であり、西園寺グループの重役である一花さんに関係しているのでね」侑李はさらに声を低くし、パソコンからUSBを引き抜いた。引き抜かれた音がまるで綾芽の神経をへこませてしまうかのように響いた。彼女はこの時の圧力に耐えかね、急いで立ち上がるとこう言った。「どんな証拠があるっていうんですか!今までそのデータはこの世に発表されていないのだから、誰もあの女のものなのか、私のものなのか判断できないじゃない!」それを聞いて陸斗は驚いていた。侑李はやはり落ち着いていた。「柏木さん、つまり認めるということですね?」「わ、私は……」綾芽の興奮で真っ赤になった顔が一気に青ざめた。その場の全員が自分を見つめているのを見て、我慢していた涙が溢れそうになった。「一体何をおっしゃっているのか分かりません!」「分からないというなら、私が教えてあげようか?あなたは一花さんのものを盗用して、それを使ってギャロップとの契約に結び付けたのよ。柏木さん、あなたって本当に度胸があるのね。これって、法的責任を追究させてもらわないといけないんじゃない?」茉白は綾芽を同情する目では一切見なかった。綾芽が泣きそうになっているのを見ると、茉白は嬉しくなってくる。この時、陸斗がもうこのままでいられなくなった。もし、茉白たちが言ったことが本当だったとしたら、この契約には問題が生じる。侑李が契約を阻止しようとする行為は逆に会社が損失を被るのを防ぐ行為だ。「そ……そんなことしてません。二階堂さん、あなた、勝手に罪をなすりつけようとしないでくれませんか!」この時の綾芽は完全に慌ててしまっていた。口では反論しているが、もう泣き声になっている。そんな狼狽した様子では、認めなくても事実は明らかだろう。陸斗は額を押さえていた。綾芽の見るに堪えない様子に、無関係の人間でさえ
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第504話

綾芽はこの時、恐怖心も忘れ、巨大な挫折感と、羞恥心に襲われていた。彼女は穴があったら入りたい思いだった。さらに力を込めて自分の太ももをつねり、自分にこれはただの悪夢だと言い聞かせてしまいたかった。しかし、いくら彼女が無駄にあがこうと思っても、刻一刻と時間が過ぎるほどに彼女の心を痛めつけていった。綾芽は視線を一花から逸らすことができなかった。相手は自分のことなど一目すらも見たがらないというのに。一花の様子もかなり変わってしまっていた。しかし、この時の二人の実力差はまるで天と地ほどの差があり、越えることができない溝となってしまっている。一花はあっという間に、軽々と輝かしい大富豪家の令嬢になってしまった。彼女の身分は綾芽がいくら努力したところで得られるものではない!綾芽は大学時代、あの三人の運命が交錯した午後を思い返した。一花はまだ素朴で、美しい顔にはまだ子供っぽさが残っていた。今のように魂を震わせるほどの美しさとは言えなかった。綾芽も以前、このような美人の原石には感嘆を漏らした。しかし、残念なことに彼女は頼れる者もいない孤児だった。慶が綾芽との恋を隠すために一花を巻き込んだ時、一花の努力と能力を目の当たりにしてしまった。綾芽は自分を慰めた。一花はただ自分より少しだけ賢いが、馬鹿な女だ。それでは男性から愛を勝ち取ることなど完全に不可能だ。しかしそれが今……それは今や綾芽自身のことになってしまった。綾芽は最初から一花と自分を比べていた。しかし、この瞬間彼女は一花の相手にもならず、完全に負けてしまっている。すると一花はやっと綾芽に氷のように冷たい視線を投げかけた。その落ち着いた表情が余計に人を恐怖に陥れる。「柏木さん、また会ったわね。本当にあなたがここに来るなんて」「……」綾芽は体を震わせ、堂々と口を開いてそれに答えようとしたが、必死にテーブルの角を抑えて何度か息を飲み込み、なんと返せばいいのか分からなくなった。彼女はこんな状況になるとは思っておらず心の準備など一切していなかった。ギャロップの社員や、西園寺グループの社員たちがいる中、彼女は自分が異質な存在で、プライドが粉々に打ち砕かれるのを感じていた。しかし、微かに残っている冷静な部分が、無理やり彼女を落ち着かせた。彼女は再び一花
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第505話

綾芽はもうあまりの衝撃で崩壊寸前のところまで来ていて、口を開くと攻撃する言葉しか出てこなかった。彼女は目を真っ赤にさせて、その言葉を出すときも怖くて声を震わせていた。しかし、一花への恨みのほうが勝っていた。茉白が冷笑して言った。「尻尾を振った犬みたいだって?それはあんたを形容するのに相応しいと思うけど。男に尻尾振ってご機嫌取りしてるのは一体どこのどいつよ。黒崎慶って男のために、他人のものを盗むなんて。醜態を大勢の前で晒したってのに、図々しくもまだそれを認めないって?ねえ、柏木おばさん」この会議室の中で最も攻撃力が高い最強の存在はきっと茉白だろう。彼女が最後に吐いた「おばさん」という言葉に、綾芽はもう怒りで卒倒しそうなくらいだった。今まで年齢で攻撃してきた奴なんていない!確かに綾芽は彼女たちよりも、五、六歳年上だが、彼女は肌の手入れをしっかりしていて、スタイルや容姿も整っている。二十過ぎたばかりの女にも一切引けを取っていない!しかし、茉白のあの「おばさん」の一言が、彼女のプライドをズタズタに傷つけてしまった。侑李も茉白は少しいき過ぎていると思い、彼女のほうへ顔を傾け、ぷらぷらと揺らしている彼女の足をテーブルの下で軽く叩いた。侑李から注意されて、茉白はまるで親に指摘された子供のように、しぶしぶ口を閉じた。「柏木さん、最後にもう一度だけ聞くけど、ギャロップのプロジェクトは、私の論文のデータをそのまま使った。そうよね?」一花は視線を背け、何かを考えているかのように、USBを軽くテーブルに押し当て、小さな音を立てた。会議室は水を打ったように静まりかえった。綾芽は冷たく鼻で笑った。一花がまだ自分にチャンスを与えようとしているのを見て、綾芽は一花が自分に圧力をかけているのだと確信した。一花が善良な気持ちでチャンスを与えようとするはずはない。「あなた、私があんたのデータを盗んだと言うけど、その証拠はあるわけ?その証拠が出せないのなら、西園寺グループを名誉棄損で訴えるわよ」「侑李さん」綾芽のその言葉を聞いて、一花はもうためらわなかった。侑李はパソコンの向きを変え、スクリーンに繋げた。「……」スクリーンには、一花の論文データと、ギャロップのプロジェクトのデータが比較される形で映し出されている。そして
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第506話

勇は今海外にいる。もし、侑李が仕事を放り出して臨時で駆けつけていなければ、他の人では陸斗を抑えることはできなかっただろう。茉白は侑李が帰ろうとしているのを見て、少し切なそうな顔をしていた。すると思わず、侑李が彼女の肩に手を置いた。「送って」茉白がためらっているのを見て、一花が言った。「二階堂さん、侑李さんの見送りをお願いできますか」そう言われて、ようやく茉白は立ち上がって後を追った。陸斗もその場に留まっていたくなかった。ギャロップの社員たちはお互いに目を合わせて彼が何かを言うことで、これからどうすべきかを考えようと思っていたが、まさか陸斗は何も言わず立ち上がって去ろうとした。陸斗は夏海の横を通り過ぎる時、彼女は意識してなのかどうか分からないが、ちょうど彼と目が合わないように顔を背けた。夏海の自分に対する態度に気づき、陸斗は会議室を出ると、傍らにあったゴミ箱を蹴り飛ばした。ちょうどそこに清掃員がいて、姿勢を正し、まっすぐに彼を睨みつけた。陸斗が顔を上げると彼女と視線が合い、彼はそれにイラっとして笑えてきた。「掃除しろ!」三十分後、西園寺グループの前には二台の警察車両が到着した。綾芽は会議室に残され、ギャロップの社員もそこで事情聴取を受けた。警察が来る前、彼らはちょうど外で電話をしていた。会議室の中には綾芽と一花だけだった。一花が出てきた時、ちょうど警察がやって来て、彼女は警察に簡単に説明すると、先に警察を中に通した。綾芽のこの時の状態も、前とは完全に違っていた。彼女は目を真っ赤にさせていて、一気に五、六歳老けたような顔をしている。顔を下に向けて辛気臭さを漂わせ、恐怖や怒りの表情はなく、形容し難いほどの悲しみと悲惨さを漂わせていた。警察が来たのを見て、綾芽は抵抗することなく、落ち着いた様子で立ち上がって出てきた。何か尋ねられると、まだ笑みを浮かべて返事することができた。この件に決着がつくと、一花はすぐに柊馬に電話をかけた。彼女は彼に、事情聴取を受けに警察署まで行き、その後家に帰ると伝えた。二人が南関に戻ってきてから、一花はそのまま西園寺グループに向かった。柊馬は一花に同行したかったが、旅の疲れを心配し、一花が彼を先に帰って休ませた。それに、今回の件は何も難しいことはない。一時間後、一
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第507話

もし綾芽に、本当にあの大企業のギャロップで働ける能力があるなら、一花が黒崎グループにいた時にこなしていた仕事が全く扱えないわけがないだろう。慶も同じだ。慶も綾芽も、知らず知らずのうちに、一花の策略にはまってしまっていた。慶は綾芽が今回、西園寺グループに提携を結びに来て、絶対にトラブルを起こすことが分かっていたのに、それをずっと黙っていた。黒崎家が落ちぶれ、祖母が亡くなった事。これには慶にも責任があるし、綾芽にも同じく責任がある。綾芽が彼を騙した瞬間から、この日が来る定めだったのだ。身から出た錆なのだから、他の誰かを責められまい。慶はタバコの火を消すと、振り返って一花がみんなに囲まれて警察署から出てくるのを見た。一花も彼を見ていた。慶が顔を下に向けて歩き出そうとしたところに、一花のボディーガードがまるで敵と対峙するかのように立ちはだかった。「一花」慶は視線を上げて、かすれた声で彼女の名前を呼んだ。彼女の名前なら今まで数えきれないほど何回と呼んできた。ただ、この時だけ、今までにないほど冷静で冷たかった。一花はもちろん慶を無視してもいい。この男には自分に助けを求める資格すらない。しかし、それでも彼女は足を止めた。慶はやつれ、ロングコートを身に纏っていた。髭を生やし、今までずっとこだわっていた髪型は乱れて無造作に目にかかっている。初めて出会った頃の爽やかな少年、優雅で自信溢れる社長、今の彼にはそのどれも当てはまらない。彼はまるで悲惨な目に遭ってきた中年男性で、輝かしいオーラなどこれっぽっちもなく、教養のない無様な人間のように見えた。一花はこの瞬間、どうして昔彼にときめいたのか全く思い出せなかった。黒崎慶という人間が、まるで知らない人間のように感じた。前世でだけ知り合いだったのではないかと思ってしまいたくなるほどだ。記憶ははっきりと残っているのに、ここにいる彼を見ていると、その記憶の中の人物とは全くの別人に映った。昔の面影はただの一つも見つけられない。「今さらだって分かってるが、俺は今でも一花を好きだと言っても、きっと信じてはくれないだろうな……だが、君に返すべきものは、俺も黒崎家もほとんど返してしまったはずだ。俺たちは本当に少しも可能性がないのか……」一花は慶が何か言いたいのだろうと
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第508話

この長年、一花がいくら慶によくしてあげても、彼が罪悪感を抱くようなことなどなかった。自分を犠牲にして相手の愛を得ようとすることは、この世で最も愚かな行為だと、慶が誰よりもよく分かっているのではなかったのか?一花は生まれて初めて人を愛した時の自分は非常に愚かだったと思った。思い返しただけでも恥ずかしくなる。しかし、一花は柊馬に出会うことができた。彼と出会っていなければ、彼女は「愛」は本来美しいものであるということを知ることは一生なかっただろう。この世の多くの人は自己中心的で真実の愛など持ち合わせていない。しかし、この世にはただ一緒にいるだけで、再び愛を信じさせ、過去の全てを許そうと思わせてくれる人がいるのだ。誠実な心を持ち、素直にありのまま感じ取ること。そうすれば、愛や憎しみなどの感情に振り回されて、満身創痍になっても……世界は温かく、真実の愛は永遠に続いていく。この時、一花はどんどん慶のことを憐れに思い、同情心が湧いてきた。彼女は今から帰って柊馬に会えることを思うと、その瞬間心の中にある怒りなど消えてしまった。「黒崎さん、あなたが死のうが私には関係のない話よ。あなたに裏切られていたと気づいたあの瞬間から、私たちはもう別々の道を歩み始めたの」黒崎慶が死んでも嬉しくも悲しくもない。一花は言い終わると、さっさとその場を去ろうとした。数歩ほど進んだところで、慶の少し高くなった声が聞こえた。「一花、俺たちの間には、本当に何一つ残っていないというのか?」彼は一花が自分を責める言葉を聞きたかった。一花を激怒させ、手ひどく復讐されるのも構わない。怒りも相手に対する関心だから、彼は一花の心の中に自分の存在がまだあると証明したかった。しかし、一花はもう足を止めることはなく、まるで慶の話など聞こえていないかのようにそのまま去っていった。慶は急いで彼女を追いかけようとした。長い時間をかけて心の準備をしていたが、結局無駄だった。彼女に会うと、どうやっても冷静ではいられなかった。するとそこにボディーガードが慶に近寄り、拳を振り下ろした。慶は腹部を何度か殴られ、痛みに涙を滲ませた。体を小さく縮こませて両足を曲げ、その場にしゃがみこんでしまった。彼は両手を地面について前方を見た。ぼんやりとする視界にはすでに
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第509話

医者たちが心配しているのはただ一つ。あのレントゲンにうつる影はもしかすると腫瘍ではないか、ということだ。柊馬自身はとても落ち着いていて、彼は数人に尋ねた。「毎年検査を受けていましたが、このようなことは初めてです」「ええ、このようなものは突発的な病変です。きっと以前の傷と関係があるのかと……」医者は落ち込んだ様子だった。「しかし、今はまだ確信が持てません。あまり心配しないほうがいいでしょう。生体検査をしてみないことには、はっきりしませんから」「……」柊馬が黙ってしまったのを見て、湊は急いで付け加えた。「最近体が弱っていたせいもあるのでしょうか。社長はずっと健康だったので」「ええ……その可能性も否定はできません」医者はぎこちなく頷いたが、あまり慰めるような言葉は出てこなかった。最近体が弱っていたからだという可能性はもちろんある。ただ、柊馬の今の状況を見るからに……その可能性はとても低い。「もし、先生たちが疑っているような病気でしたら、完治できるでしょうか?」暫くしてから、柊馬が低い声で尋ねた。それに対して医者が答えた。「それはあまり心配なさらないでください。腫瘍も良性か悪性に分かれていますし、それに腫瘍の広がり具合も見なければ。悪性でなければ……保存療法でも問題ありません」柊馬は今だいぶ体調が回復しているが、手術をするのは耐えられない。悪性であっても、良性であっても、治療を受けるしかない。「それなら……」柊馬の瞳が一瞬曇り、主治医のほうをしっかりと見つめた。「俺は死ぬのでしょうか?」生死に関して、彼は小さい頃から考えてきた。彼は誘拐されて監禁された時、死にたくないと思った。彼は自分自身に、生きてさえいられればいいと言い聞かせた。この世に生まれて背負っているものや、失ったもの、彼を嫌う人や、彼自身が嫌うもの、そんなもの全て重要ではない。彼はただ生きていたかった。生への渇望、死への恐怖。それが柊馬に如何なる安心感も持たせてはくれなかった。彼は努力して、何事ももっとよくこなし、もっと厳しく自分に要求し、律してきた。……もう二度と無力感に苛まれたくない。これが恐らく、彼を必死に努力させ、突き動かしてしまう原因なのだろう。一度死を覚悟した経験がある彼は、如何なる事も、もう苦しいとは
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第510話

「私に会いたかった?」一花は顎を彼の肩に置いた。家に帰ってすぐに甘えた。柊馬はソファに座り何もせず、彼女を長い間ずっと待っていたようだ。「うん、とても会いたかったよ」柊馬はそっと彼女を抱きしめて、細く柔らかな彼女の髪に触れた。「なぜか分からないけど、今日は特に君が恋しかった」「私も」一花は恥ずかしそうに小声でそう言うと、彼の耳元をかすめて不意に頬にキスを落とした。新婚のアツアツな時期を彼女はようやく経験できている。相手に甘えたい気持ちがどんどん増していく。二人は京原市ではほぼずっと離れず一緒にいて、今日も数時間ほど会っていなかっただけなのに、帰る途中、一花は彼に会いたくて会いたくてたまらなかった。そして今、思う存分柊馬に抱きついていちゃついたことで、彼女はやっと満足した。一花は彼の顔を両手で挟み、額を彼の額に当てて、体温が正常であることを確認してから言った。「今日はいろいろ買ってきたから、私が美味しいものを作るわね」「うん」柊馬は目尻に皺をつくって微笑んだ。「何かリクエストはある?」「君が作るものなら何だって好きだよ」柊馬がそう返事するのは予想済みで、一花は笑みを浮かべ、寝室に着替えに行った。普段、柊馬はまるで子犬のように家の中でもついて回る。今日は数時間離れていたせいか、その甘えっぷりが更に増していた。一花が寝室に戻って服を着替える時、彼はぴたりと傍にいてキスをしてきた。ただ部屋着に着替えるだけだというのに、四十分ほどかかってしまった。そしてキッチンに行っても、二人はどうしても離れたくなかった。柊馬は一花にエプロンをつけてあげて、彼女にぴったりとくっついていた。そして二人はキッチンの角でまた長い間いちゃいちゃしていた。そして料理の準備にとりかかった時には、外はすっかり暗くなっていた。一花は柊馬に向こうで休むように言ったが、彼は拒み、料理の手伝いをすると言ってきかなかった。彼は一花に苦労させたくない。料理は自分よりも手際よくできると分かっているものの、それでも執拗に手伝いたがった。家政婦を雇って毎日来てもらえば、かなり楽になるのだが、彼らは二人っきりの時間を邪魔されたくないのだ。柊馬がお腹を空かせるといけないので、本来一花は四品にスープを作る予定だったが、それを諦めて、おかず
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