世界は、分厚い雨の膜に包まれていた。 フランス・ロワール地方の深い森。昼下がりだというのに、空は古い羊皮紙のように黄ばんでくすんでいる。 相沢透子を乗せた黒塗りのセダンは、鬱蒼とした木々のトンネルを、まるで巨大な獣の食道へと滑り落ちていく異物のように、音もなく進んでいた。 窓ガラスを無数の雨粒が叩く。その一つ一つが、透子には世界から拒絶される打音のようにも、あるいは内側へ閉じ込めようとする檻の格子のようにも感じられた。 ガラスに映る二十八歳の自分の顔。 黒髪は一本の乱れもなくひっつめられ、銀縁の眼鏡の奥には、感情を凍結させたような理知的な瞳がある。古書修復師。パリのマレ地区に工房を構え、業界では「氷の針」とあだ名されるほどの精密さと冷徹さで知られる女。 それが、相沢透子という女の表紙だった。 だが、装丁の下にある本文が、どのようなインクで書かれているかを知る者はいない。白衣の下で脈打つ皮膚が、常に満たされない渇きに震え、誰かに乱暴にページを捲られる瞬間を待ちわびていることを、彼女自身ですら認めることを恐れていた。「到着いたしました、マドモアゼル・アイザワ」 運転席の老人が、抑揚のない声で告げた。 ワイパーが雨を拭うたび、視界の先にその異形が浮かび上がった。「影の城」。 地図にも載らないその古城は、湿った森の深奥に、墓標のように、あるいは巨大な男根のように聳え立っていた。苔生した石壁は黒ずみ、何世紀もの間、風雨と、そして城の中で繰り広げられたであろう無数の秘密を吸い込み続けてきたかのような、重苦しい威圧感を放っている。 透子は重い革の鞄を手に、車を降りた。 湿った空気が、不躾に肺を満たす。 それは、ただの雨の匂いではない。腐葉土の甘い腐敗臭、濡れた石の冷気、そして微かに漂う鉄錆の匂い。さらに、どこからともなく流れてくる濃厚な百合の香りが、鼻腔の粘膜をねっとりと撫でた。 聖なる花でありながら、その極限において腐臭にも似たエロスを放つ百合の香り。その芳香だけで、透子の下腹部に微かな熱が灯った。 重厚なオークの扉が、油の切れた蝶番の悲鳴を上げて開く。 エントランスホールは、時間の止まった空間だった。 床は黒と白の大理石で市松模様を描き、高い天井からは巨大なシャンデリアが
Terakhir Diperbarui : 2025-12-11 Baca selengkapnya