Semua Bab 皮膚とインクの形而上学 ~背徳の希少本修復師と死にゆく貴族の淫らな契約~: Bab 1 - Bab 10

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第一章 カルトンの牢獄

 世界は、分厚い雨の膜に包まれていた。 フランス・ロワール地方の深い森。昼下がりだというのに、空は古い羊皮紙のように黄ばんでくすんでいる。 相沢透子を乗せた黒塗りのセダンは、鬱蒼とした木々のトンネルを、まるで巨大な獣の食道へと滑り落ちていく異物のように、音もなく進んでいた。 窓ガラスを無数の雨粒が叩く。その一つ一つが、透子には世界から拒絶される打音のようにも、あるいは内側へ閉じ込めようとする檻の格子のようにも感じられた。 ガラスに映る二十八歳の自分の顔。 黒髪は一本の乱れもなくひっつめられ、銀縁の眼鏡の奥には、感情を凍結させたような理知的な瞳がある。古書修復師。パリのマレ地区に工房を構え、業界では「氷の針」とあだ名されるほどの精密さと冷徹さで知られる女。 それが、相沢透子という女の表紙だった。 だが、装丁の下にある本文が、どのようなインクで書かれているかを知る者はいない。白衣の下で脈打つ皮膚が、常に満たされない渇きに震え、誰かに乱暴にページを捲られる瞬間を待ちわびていることを、彼女自身ですら認めることを恐れていた。「到着いたしました、マドモアゼル・アイザワ」 運転席の老人が、抑揚のない声で告げた。 ワイパーが雨を拭うたび、視界の先にその異形が浮かび上がった。「影の城」。 地図にも載らないその古城は、湿った森の深奥に、墓標のように、あるいは巨大な男根のように聳え立っていた。苔生した石壁は黒ずみ、何世紀もの間、風雨と、そして城の中で繰り広げられたであろう無数の秘密を吸い込み続けてきたかのような、重苦しい威圧感を放っている。 透子は重い革の鞄を手に、車を降りた。 湿った空気が、不躾に肺を満たす。 それは、ただの雨の匂いではない。腐葉土の甘い腐敗臭、濡れた石の冷気、そして微かに漂う鉄錆の匂い。さらに、どこからともなく流れてくる濃厚な百合の香りが、鼻腔の粘膜をねっとりと撫でた。 聖なる花でありながら、その極限において腐臭にも似たエロスを放つ百合の香り。その芳香だけで、透子の下腹部に微かな熱が灯った。 重厚なオークの扉が、油の切れた蝶番の悲鳴を上げて開く。 エントランスホールは、時間の止まった空間だった。 床は黒と白の大理石で市松模様を描き、高い天井からは巨大なシャンデリアが
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-11
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第二章 解体

 翌朝、透子が意識を取り戻したとき、そこは見知らぬ天井だった。 豪奢だが冷ややかな天蓋付きのベッド。重厚なカーテンの隙間から、鉛色の光が細い針のように差し込んでいる。 記憶が、泥の中から気泡が浮かぶように蘇る。雨、古城、契約書、そしてインクの匂い。 彼女は上体を起こし、周囲を見渡した。扉には外から鍵がかけられ、窓には美しい装飾が施された鉄格子が嵌まっている。ここは客室ではなく、優雅な牢獄だった。 サイドテーブルに、一枚のメモと、奇妙な布の塊が置かれていることに気づいた。『地下のアトリエへ来たまえ。ただし、身につけるのはこれだけだ』 流麗で、刃物で刻んだような筆跡。アランのものだ。 透子は布を広げた。 そこにあったのは、極薄の白絹で仕立てられたシュミーズが一枚と、使い込まれた重い革のエプロンだけだった。 ブラジャーも、ショーツもない。 透子は唇を噛んだ。これは試されているのだ。あるいは、職人としての尊厳を剥ぎ取り、ただの肉塊として彼に従う準備ができているかを問われている。 拒否することはできた。ドアを叩き、服を要求し、人権を叫ぶこともできたはずだ。 だが、透子は震える手で、自分のパジャマ代わりのシャツを脱ぎ捨てた。 鏡の中の裸体。白く、起伏の乏しい身体。そこに、透けるようなシルクの布を頭から被る。 布地は驚くほど薄く、まるで水膜を纏ったかのように肌に張り付いた。乳首の突起や、アンダーヘアの微かな陰影さえも、隠すというよりは、その存在を強調しているように見える。 その上に、革のエプロンをつけた。 ずしりとした重量感。革の裏側のザラザラとした起毛が、敏感になった素肌に直接触れる。 獣の皮と、虫の吐き出した糸。 二つの異質な有機物に挟まれ、透子の皮膚は異様な熱を持ち始めていた。動くたびに、革が擦れる粗野な感触と、シルクが滑る滑らかな感触が交互に襲いかかる。それはまるで、乱暴な愛撫と優しいキスを同時に与えられているような錯覚を抱かせた。 冷たい石の廊下を、裸足で歩く。 足の裏から伝わる冷気が、背骨を駆け上がり、脳髄を痺れさせる。 解錠された扉を抜け、地下へと続く螺旋階段を降りる。一段降りるごとに、日常の倫理観が遠のき、地下の闇が口を開けて待つ非日常へと飲み込まれていく。 地下アトリエの扉を開けると、そこは手術室のような静謐さと、図
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第三章 水浴と膠

 城の三階にある浴室は、それ自体が白亜の神殿であり、同時に巨大な実験槽でもあった。 床も壁も、血管のような模様が走る白大理石で覆われている。高い天井からは湯気が滞留し、乳白色の雲となって空間を支配していた。 透子は、中央に鎮座する猫足のついた巨大なバスタブの縁に腰掛け、力なく湯面を見つめていた。 湯は琥珀色に染まっている。アランが調合させた数種類のドライハーブと、鉱泉の成分が溶け出しているのだ。そこから立ち上るのは、硫黄のツンとする刺激臭と、ローズマリーや没食子を煮出したような、薬草園の複雑な香りだった。 地下アトリエでの「解体」の後、彼女はここに連れてこられた。 革のエプロンも、汗と愛液で汚れた薄絹のシュミーズも、脱衣所の籠に捨てた。 今の透子は、生まれたままの姿だ。 湿った空気が、敏感になった皮膚にまとわりつく。鏡に映る自分の身体は、どこか見知らぬ他人のもののように見えた。 白い臀部には、アランの手形が赤い紅葉のように焼き付いている。胸には、彼が鷲掴みにした指の跡が、薄紫色のあざとなって浮き上がっていた。 それは暴力の痕跡だった。しかし、透子の目には、それが所有を示す「蔵書印」のように見え、胸の奥が甘く締め付けられるのを止められなかった。 ――私は、何を期待しているのだろう。 論理的思考が、遅まきながら抗議の声を上げる。これは異常だ。職人としてのプライドを捨て、ただの雌として扱われることに悦びを感じるなど、精神の均衡が崩れている証拠だ。 だが、思考とは裏腹に、身体は正直だった。地下室での興奮の余韻が、血液の中で燻り続け、火照りを帯びた皮膚は、まだ彼の冷たい感触を求めて脈打っていた。 ガチャリ。 重厚な真鍮のドアノブが回る音が、浴室の反響音となって鼓膜を叩いた。 アランが入ってきた。 彼は上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を肘まで捲り上げていた。その腕は白く、筋肉がしなやかに引き締まっている。 手には、海底から引き上げたばかりのような粗い海綿のスポンジと、琥珀色の液体が入ったクリスタルガラスの瓶を持っていた。「入浴の許可は出していないはずだが?」
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第四章 背徳の晩餐

  その夜、透子に与えられたのは、衣服というよりは、皮膚の上に塗るもう一層の「闇」だった。 部屋に届けられたのは、漆黒のベルベットで仕立てられたイブニングドレス。 正面から見れば、喉元まで詰まったスタンドカラーに長袖という、修道女のように禁欲的なデザインに見える。しかし、その実態はアランの歪んだ美学が凝縮された拘束具だった。 背中側は、うなじから腰の窪み、臀部の割れ目が始まるギリギリのラインまで、刃物で切り取ったように大胆にカットされ、脊椎のラインが完全に白日の下に晒される構造になっていた。 そして何より、このドレスの下に身につけるための下着は、一切用意されていなかった。 透子は姿見の前で立ち尽くした。 重厚なベルベットの起毛が、敏感になった素肌にまとわりつく。動くたびに、ドレスの裏地が乳首を擦り、裾が太腿の内側を撫で上げる。 布の重みと、肌の熱。 歩くたびに、秘所に冷たい空気が触れる感覚は、彼女に「自分は今、中身のないただの器である」という事実を突きつけた。それはまるで、製本される前の、表紙だけを被せられた仮綴じの本のようだった。 中身は、これからあの男によって書き込まれるのだ。 案内されたダイニングルームは、現世と冥界の境界にあるような幻想的な空間だった。 照明は落とされ、銀の燭台に灯された蝋燭の炎だけが揺らめいている。壁に掛けられた古いタペストリーの影が、生き物のように蠢いて見えた。 長い、あまりにも長いマホガニーのテーブル。 その端と端という距離は、物理的な隔たりよりも、圧倒的な支配関係を象徴していた。「よく似合っている。最高級の黒革の装丁のようだ」 上座に座るアランが、クリスタルのグラスを傾けながら言った。 彼もまた、夜そのものを切り取ったような漆黒のタキシードを纏っている。白いシャツとのコントラストが、彼の顔色の蒼白さと、瞳の鋭さを際立たせていた。「……食事がしにくい服装です」 透子は抗議めいた視線を向けたが、その声は微かに震えていた。 椅子の背もたれに触れる背中の肌
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第五章 百合の腐敗

 翌朝、透子が目を覚ますと、世界から音が消えていた。 連日降り続いていた雨が上がり、重い雲の隙間から、病的なまでに白い陽光が差し込んでいる。 だが、その静寂は平和の訪れではなかった。嵐の去った後の清々しさなど微塵もない。むしろ、気圧が急激に下がったときのような、耳の奥を圧迫する不穏な空気が城全体を支配していた。 透子は身支度を整え、部屋を出た。 地下アトリエへ向かうために回廊を歩き始めたとき、異変はまず「匂い」として襲いかかってきた。 それは、空気の粒子そのものが粘り気を帯びたかのような、圧倒的な質量を持った芳香だった。 甘く、重く、そしてどこか生臭い。 香水のような洗練された香りではない。何千もの花が一斉に呼吸し、そして一斉に死に向かっているような、生命の過剰と腐敗の匂い。 透子は眉をひそめ、ハンカチで口元を覆った。 匂いの源流は、エントランスホールだ。 彼女は手すりに身を乗り出し、階下を見下ろした。 息を呑んだ。「……何、これ?」 そこは、もう石畳の床ではなかった。 白一色。 視界を埋め尽くすほどの、夥しい数の白百合が、ホールを埋葬していた。 花瓶に生けられた美しい装飾ではない。茎ごと刈り取られた花々が、無造作に、あるいは悪意を持って投げ出され、膝の高さまで積み上げられている。数百、いや数千本はあるだろうか。 白い花弁の海。だが、よく見ればその純白はすでに穢れ始めていた。 重なり合った花々は互いの重みで潰れ、傷ついた箇所から茶色く変色し始めている。そこから立ち上る濃厚なインドール臭――ジャスミンや百合に含まれる芳香成分だが、濃度が高まれば排泄物や腐敗臭にも似るその匂い――が、城中の酸素を駆逐し、代わりに甘美な毒ガスを充満させていた。 これは花園ではない。植物の集団墓地だ。「気に入らないか?」 背後から、声がした。 硝子を爪で引っ掻いたような、神経質な響き。 透子は弾かれたように振り返った。 アランが立っていた。 だが、そこにいたの
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第六章 偽りの真実

 エントランスホールを埋め尽くしていた数百本の百合が撤去されてから、三日が過ぎた。 城の空気は浄化されたはずだった。あのむせ返るような腐敗臭とインドールの毒気は、業務用の強力なオゾン脱臭機と、執事たちが撒いたミントの洗浄液によって完全に拭い去られた。 だが、透子にはわかっていた。 匂いが消えた分だけ、城の静寂は以前よりも鋭く、そして冷たく研ぎ澄まされていることを。それは、嵐の前の気圧低下が鼓膜を圧迫するように、皮膚の毛穴一つ一つを収縮させるような不穏な静けさだった。 アランは変わった。 いや、正確には「以前よりも完璧で、残酷な支配者」へと、自らを再構築した。 あの朝、百合の山の中で見せた幼児のような脆さを、彼はなかったことにしようとしていた。その記憶を透子の脳内から削除するかのように、彼はおぞましいほど冷徹な仮面を被り直したのだ。「遅い。繊維の方向が揃っていない」 地下アトリエの冷たい空気を、アランの叱責が切り裂く。 彼は部屋の隅にある革張りの安楽椅子に深く腰掛け、アンティークのバカラグラスを片手に透子の作業を監視していた。 その顔色は、高級なボーンチャイナのように白く硬質で、表情筋一つ動かない。灰色の瞳は、透子という人間を見ているのではなく、機能する機械部品の動作確認をしているような無機質さを湛えていた。「申し訳ありません」 透子は短く謝罪し、手元の竹べらを握り直した。 現在は、洗浄したページの破れや虫食い穴を塞ぐ、「喰い裂き」と呼ばれる補修作業の最中だ。 極薄の典具帖紙に水を引いて手でちぎり、繊維を毛羽立たせたものを、傷口に合わせて移植していく。紙の繊維同士を絡ませ、傷をなかったことにする緻密な外科手術。 だが、透子の指先は微かに震えていた。 それはアランの視線が痛いからではない。 彼が、触れてくれないからだ。 あの日以来、アランは透子を寝室に呼ばなくなった。夜ごとの「教育」も、肌を合わせる食事も、すべてが唐突に遮断された。 彼は透子の半径二メートル以内に近づこうとしない。 まるで、透子が汚染源であるかのように。ある
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-15
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第七章 暗号の栞

 その夜、ロワールの森は轟音に包まれていた。 大西洋から流れ込んだ低気圧が猛烈な嵐となり、古城を根こそぎ揺さぶっている。 窓ガラスを叩く雨は、もはや液体ではなく無数の礫のようだった。時折、闇を切り裂く稲妻が、アトリエの無機質な空間を一瞬だけ青白く照らし出し、すぐにまた深い影の底へと沈める。 透子は自室には戻っていなかった。アランからの「部屋で待機せよ」という命令は、もはや彼女にとって守るべき規律ではなく、破るために存在する薄い膜でしかなかった。 地下アトリエの作業台。 無影灯の白い光の下で、透子は顕微鏡を覗き込んでいた。 目の前には、背表紙を剥がされ、背骨を露わにした『マルキ・ド・サドの祈祷書』が横たわっている。 透子はピンセットを手に、本の背にこびりついた古い膠と、補強用の芯紙を慎重に除去していた。 通常、十八世紀の製本において、背の補強には反故紙や書き損じの手紙が再利用されることが多い。修復師にとって、そこは歴史の堆積物が眠るタイムカプセルであり、過去の職人の息遣いが聞こえる場所だ。 だが、今夜透子が探しているのは、歴史的遺物ではない。 アラン・ド・ヴァルモンという男の、隠された意図だ。 昼間、彼が落とした一滴の血。その味が、透子の舌の上でまだ鉄錆のように燻っている。彼の身体が発していた、死にゆく星のような崩壊の熱。 ――彼は何かを遺しているはずだ。 あの用意周到で、傲慢な支配者が、ただ黙って消え去るわけがない。彼は必ず、自分の不在を埋めるための「楔」をどこかに打ち込んでいる。 作業を進める透子の指先が、不意に止まった。 違和感。 何層にも重ねられた補強紙の最深部、本の中身と背表紙が接するギリギリの場所に貼られた一枚の紙片。 その質感だけが、周囲の十八世紀の紙とは決定的に異なっていた。 指の腹で撫でる。 微かなざらつきと、湿り気を吸い込むような弾力。これは当時の手漉き紙ではない。現代の最高級コットンペーパーだ。 透子は息を呑み、その紙片にメスを入れた。 癒着した部分を傷つけないよう、皮膚移植の手術
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-16
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第八章 停電の檻

 光を失った世界には、質量があった。 城内のすべての照明が落ちた回廊は、たんなる暗闇ではなく、黒い羊水のような粘度の高い液体で満たされているようだった。 窓の外で炸裂する雷光だけが、数秒おきに世界を暴き出す。その青白いフラッシュの中で、長い廊下の彫像たちが、苦悶の表情を浮かべて浮かび上がっては、また虚無の底へと沈んでいく。 透子は走った。 ハイヒールはとうに脱ぎ捨てていた。裸足の裏が冷たい石の床を蹴るたびに、氷のような冷気が脚を伝って心臓まで駆け上がる。だが、その冷たさが逆に、透子の内側で燃え盛る激情の炎を煽り立てていた。 アランはどこにいる。 書斎の扉を開け放つ。いない。 主寝室のベッドには、誰も寝た形跡がない。 透子の直感が、背筋を焦がすような確信となって方角を示した。 北塔。 この城で最も古く、最も高く、そして最も孤独な場所。彼だけが使うことを許された、旧式のエレベーターがある場所だ。 彼は逃げようとしたのではないか。地を這う獣のように無様な死に様を晒すくらいなら、天に近い場所で、あるいは昇降する鉄の箱の中で、誰にも知られずに息絶えることを選んだのではないか。 そんな美学は認めない。 そんな綺麗な結末なんて、私が破り捨ててやる。 透子はドレスの裾を翻し、北塔への渡り廊下を疾走した。呼吸は乱れ、喉の奥から血の味がした。それは自身の血の味であり、同時に、幻覚のように漂うアランの血の味でもあった。 北塔のエレベーターホールに辿り着いたとき、そこは墓所のような静寂に包まれていた。 真鍮で装飾された重厚な扉は、硬く閉ざされている。階数表示のアナログな針は、動力を失って停止している。 だが、透子の鋭敏な感覚は捉えていた。 扉の隙間から漏れ出す、微かな、しかし決定的な「死」の匂いを。 雨の匂いにも、古い石の匂いにも消されない、鉄錆と甘い腐敗が混じった生温かい香り。 そして、耳を澄ませば聞こえてくる、湿った布が擦れるような音。 ゴホッ、ゴホッ……。 地底から響くような、弱々しい咳
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-17
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第九章 魂の製本

 季節は巡り、ロワール渓谷が最も濃密な生命力に覆われる初夏が訪れていた。 城を取り囲む森は、新緑というよりは深緑の海となり、窓から差し込む光さえもが緑色に染まっている。 しかし、地下のアトリエには季節はない。あるのは、一定に保たれた湿度と、数世紀前の空気が澱んだような静謐さだけだ。 だが、その静けさは以前のような張り詰めた冷たさではなかった。 そこは今、互いの呼吸のリズム、体温の揺らぎ、そして魂の形を知り尽くした共犯者たちだけが共有できる、羊水のように温かく、甘い安らぎの空間へと変貌していた。 透子は、作業台に向かっていた。 彼女の眼前には、三ヶ月に及ぶ修復作業を終えた『マルキ・ド・サドの祈祷書』が鎮座している。 かつてカビに侵され、背骨を砕かれていた瀕死の書物は、いまや透子の手によって完全に蘇生していた。 表紙は、深紅のモロッコ革で新調されている。それは凝固する直前の鮮血の色であり、あるいは興奮して充血した粘膜の色でもあった。元のボロボロだった革は、本の見返し部分に「記憶」として移植され、新しい皮膚の内側で静かに呼吸している。 残る工程はあと一つ。 画竜点睛。「箔押し」である。 透子はアルコールランプに火を灯した。 青白い炎が揺らめき、その先端が舐めるように真鍮製の鏝、フィロンを炙る。 チリチリ、と微かな音がする。金属が熱を孕んでいく音だ。 熱せられた金属特有の鋭い匂いと、革のタンパク質の匂い、そして接着剤として塗られた卵白の生臭さが混じり合い、アトリエの空気を官能的に引き締める。 それは、何かを決定的に変質させるための、儀式の匂いだった。「いい手つきだ」 背後から、アランの声がした。 以前よりも少し掠れているが、その分だけ深みを増し、耳の奥に心地よく沈殿する声。 彼は部屋の隅の革張り椅子に座り、膝に薄いブランケットを掛けていた。顔色はまだ陶器のように蒼白だが、その瞳には虚無の濁りはなく、透き通った灰色の光を湛えている。それは、死の淵を覗き込み、そこから生還した者だけが持つ、静かで強靭な光だった。「&h
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-18
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第十章 永遠の書架

 すべての工程は終了した。 地下アトリエの作業台の上には、一冊の書物が鎮座している。 かつてはカビに侵され、関節を外された死体のように無惨だった『マルキ・ド・サドの祈祷書』。それが今、透子の手によって完全な蘇生を遂げ、深紅のモロッコ革の衣を纏って輝いていた。 革の赤は、凝固する直前の動脈血の色であり、あるいは情事の後の充血した粘膜の色。 その背表紙には、透子が命を削って焼き付けた黄金のイニシャル『A.V.』が、薄暗い照明の下で鈍く、しかし決して消えることのない光を放っている。 それは修復された本であり、同時に、相沢透子という女が、アラン・ド・ヴァルモンという男に捧げた愛の聖典でもあった。「……連れて行ってあげて。彼の仲間たちの元へ」 透子は囁くように言った。 アランは無言で頷き、その本を手に取った。 彼の手つきは、新生児を抱くように慎重で、かつ王が王笏を握るように尊大だった。 二人はアトリエを出た。 長い螺旋階段を上る。地下の湿った空気から、地上の乾いた、埃っぽい匂いへと世界が変わる。 到着したのは、物語の始まりの場所――図書室だった。 天井まで届く巨大な書架。数万冊の蔵書が眠る、沈黙の神殿。 夜の帳が下りた室内には、月光だけが青白く差し込み、舞い上がる微細な塵を銀色の粉雪のように照らし出していた。 アランは迷いなく歩を進め、書架の一角、ガラス戸のついた特別な棚の前で立ち止まった。 そこは、彼が特に愛する稀覯本だけが収められた、禁断の領域。 彼はガラス戸を開き、サドの祈祷書を、その隙間へと滑り込ませた。 コトッ。 乾いた音が、広大な図書室に反響する。 それは、長い旅の終わりを告げる音であり、同時に、この本が永遠の眠りにつくための棺の蓋が閉じられた音でもあった。「終わったな」 アランがガラス戸に映る透子の顔を見つめながら言った。「契約完了だ。君は完璧な仕事をした。報酬は約束通り支払おう。……そして
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-19
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