All Chapters of その刃は、声なきままに首を断つ: Chapter 11 - Chapter 13

13 Chapters

幕十 ギルドの扉は軋む

 ルメア中央ギルド《コモン・リスト》。 白い石造りの本館には、連盟登録の冒険者と市民が日夜出入りしている。 その建物の裏手。 看板も、扉札も、鍵穴すらない古い鉄扉がある。 誰も気に留めないその扉は、ただの壁のように沈黙していた。 ……だが、女が近づくと、鉄が軋む音を立ててゆっくりと開いた。 押しても叩いても開かないそれが、音を立てたのは―― アラーナ・ノクターンただ一人を迎え入れる合図だった。 石段を下りる。 硬質音が、静寂の空気にひとつずつ刻まれていく。 冷たい空気が、声帯の存在すら忘れさせる。 灯りはない。けれど、彼女は迷わない。 歩幅も、手の位置も変えずに――まるで日課のように、ただ降りる。 数日前の夜。 仕事を終えた裏路地で、黒衣の男が近づいてきた。 言葉はない。 薄い封書を差し出すと、音もなく去っていった。 アラーナはそれを受け取り、封を切る。 中には、ひとことだけが記されていた。 首を預ける場所。《オーケストラ》。 それだけ。 地下の扉が開くと、石造りの小部屋が現れた。 窓もなく、声もない。 金属製の抽斗が整然と並ぶ。 契約を飲み込むための無数の口。 ひとつの抽斗が開いていた。 中には、小ぶりの封蝋袋が納められている。 赤い蝋で封じられた袋は、開封すれば即座に痕跡が残る仕立てだった。 蝋面には、五線譜を模した歪な刻印。 それだけで、ここが何を“演奏”する場所かが分かる。 アラーナは袋を取り出し、封を切る。 ルメア銀貨が規定通り十枚。 契約書には「年齢不詳・片眼・右手に火傷痕」とだけ記されていた。 名前はない。 依頼人の記録もない。 だが報酬だけは、確かに先に置かれていた。 先払い。それが条件。 結果より先に、金が動く。 それを理解できる者だけが、アラーナ・ノクターンに依頼できる。 封を閉じ、アラーナは袋を抽斗の脇に戻す。 ベルトの背に差した小鎌を抜く。 黒く光る刃先は、まだ沈黙を保ったまま空気すら切らない。 柄の端で金属台を一突き。 甲高い音が室内に跳ね、すぐに消える。 声の代わりに――それが了承の合図。 抽斗の奥で帳票が一枚抜かれ、赤い印が押される。 誰が依頼したかも、なぜかも、記されることはない。 ただ、“死神が動いた”という記録だけが残る。
last updateLast Updated : 2026-01-10
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幕十一 名も声もない依頼

 ルメア旧整備区画。 建物の骨組みだけが残った、半壊の住宅群。 雨はもう降っていない。 けれど、空気はまだ濡れていた。 錆びた配管からは絶え間なく水が滴り、壁は剥がれている。 窓という概念すら、この区画からは消えかけていた。 ここでは、誰が死んでも通報はされない。 腐食と崩壊の速度のほうが、生命よりも早い。 そんな瓦礫の路地のひとつ。 灯りの切れた廊下に、ひとりの男がいた。 片眼に黒布、右腕には火傷痕。 契約書に記されていた特徴と、一致していた。 男は壁にもたれ、しゃがみ込むように座っていた。 背の後ろの影が、泥の床に長く伸びている。 彼の指先は、何かをいじっていた―― だがそれが何であるかは、もう意味を持たなかった。 アラーナは音を立てずに近づく。 靴底のの接地音が、かすかに泥を押しつぶす。 背に届く距離。呼吸の気配はない。 ただ、体温だけがこの場所に“まだ生きている”ことを知らせていた。 腰のベルトにかけた小鎌に、指を添える。 刃は音もなく抜かれた。 黒い金属の弧が、夜の湿気を切り裂き、 空気がひとつだけ震えた。 振り返る動作が完了するより早く、男の首が傾いた。 時間差で身体が沈み、泥に濡れた地面へと崩れ落ちる。 音も、叫びも、何も残らなかった。 処理は完了。 その中で――ひとつだけ、かすかな動きがあった。 切断された口元が、震えていた。「……マ……ナ……」 風にかき消されるような、あるいは、ただの痙攣だったのかもしれない。 アラーナの目が、ほんの一瞬だけ動く。 視線の焦点がわずかにぶれる。 “呼ばれた”という感覚。それが何を意味するのか、彼女には分からない。 アラーナは、視線を戻した。 何も聞かず、何も拾わず、踵を返す。 背後では、倒れた身体が泥に沈み、黒布が水を吸って重く垂れていた。 この街の空気は、すべての死を“沈黙”の形に変える。 通りには灯りもなく、風もなかった。 ただ、遠くで鉄管の水が滴る音がした。 アラーナの足音が、それと交互に響く。 生者と死者の区別が曖昧な街。 歩けば歩くほど、境界が薄れていく。 だがアラーナにとって、それは恐怖でも痛みでもなかった。 “仕事”という言葉のほうが、現実に近い。 彼女は、何も持ち帰らなかった。 必要がない。 結果は常
last updateLast Updated : 2026-01-10
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幕十二 老人の願い

 扉が軋む音が、沈黙に満ちた地下室に落ちた。 ルメア大通り、その裏手にある古い鉄扉。 看板も札もなく、錆びたその扉は、ただひとりの訪問を待っていた。 階段を下りる足音が、石壁に吸い込まれていく。 その音も、数歩のうちに静寂に呑まれた。 冷たく、乾いた空気。 この地下では、声すら息と同じ速度で消える。 名を告げる者も、名を呼ぶ者もいない世界。 だが――アラーナ・ノクターンが足を踏み入れたとき、空気がかすかに変わった。 灯りはない。 窓もない。 けれど、その空間の中央、契約の抽斗《ひきだし》の脇に据えられた古椅子に、ひとりの老人が座っていた。 誰の気配もないはずの場所に、確かに“居た”。 背は丸く、着込んだコートは年季を帯びて色を失っている。 両手を膝に置いたまま動かず、ただ呼吸だけが生を示していた。 まるで、永い間そこに座って待っていたように。 アラーナは足を止める。 瞳を動かさず、その存在を確認。 老人はゆっくりと顔を上げた。 その動作に、時間が一瞬、引き延ばされた。「……声を、奪われたんです」 低く、震える声。 だが、その語尾だけが妙に確かだった。「……あの子は、もう声が出せない……」「……だから、代わりに……お願いしたいんです……」「……どうか……あの子を……」 声が途切れるたびに、空気が沈む。 その沈黙の深さに、アラーナは呼吸を一拍遅らせた。 彼女は一歩も動かず、それを受けていた。 言葉を返す理由はない。 老人は足元の鞄を開け、ゆっくりと袋を取り出した。 赤い封蝋が施されていたが、印は滲み、かろうじて輪郭を保っていた。 押されたはずの紋章はもう崩れ、ただの汚れにしか見えない。 袋の内には契約書が一枚――だが、それは白紙だった。 そして、ルメア銀貨が十枚。 それだけが、確かに揃っていた。「……このままで――名前も、書けませんでした……」 アラーナは、静かに歩み寄る。 足音は、空気に吸い込まれるたびに形を失っていく。 銀貨が揃っている――それがすべて。 この世界で契約が成立するのは、印でも署名でもない。 “支払いがある”という事実だけが、それを証明する。 それでも――袋を取ろうとした瞬間、彼女の指がわずかに止まった。 依頼の条件は、確かに満たされている。 だが、この銀貨には“
last updateLast Updated : 2026-01-10
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