ルメア中央ギルド《コモン・リスト》。 白い石造りの本館には、連盟登録の冒険者と市民が日夜出入りしている。 その建物の裏手。 看板も、扉札も、鍵穴すらない古い鉄扉がある。 誰も気に留めないその扉は、ただの壁のように沈黙していた。 ……だが、女が近づくと、鉄が軋む音を立ててゆっくりと開いた。 押しても叩いても開かないそれが、音を立てたのは―― アラーナ・ノクターンただ一人を迎え入れる合図だった。 石段を下りる。 硬質音が、静寂の空気にひとつずつ刻まれていく。 冷たい空気が、声帯の存在すら忘れさせる。 灯りはない。けれど、彼女は迷わない。 歩幅も、手の位置も変えずに――まるで日課のように、ただ降りる。 数日前の夜。 仕事を終えた裏路地で、黒衣の男が近づいてきた。 言葉はない。 薄い封書を差し出すと、音もなく去っていった。 アラーナはそれを受け取り、封を切る。 中には、ひとことだけが記されていた。 首を預ける場所。《オーケストラ》。 それだけ。 地下の扉が開くと、石造りの小部屋が現れた。 窓もなく、声もない。 金属製の抽斗が整然と並ぶ。 契約を飲み込むための無数の口。 ひとつの抽斗が開いていた。 中には、小ぶりの封蝋袋が納められている。 赤い蝋で封じられた袋は、開封すれば即座に痕跡が残る仕立てだった。 蝋面には、五線譜を模した歪な刻印。 それだけで、ここが何を“演奏”する場所かが分かる。 アラーナは袋を取り出し、封を切る。 ルメア銀貨が規定通り十枚。 契約書には「年齢不詳・片眼・右手に火傷痕」とだけ記されていた。 名前はない。 依頼人の記録もない。 だが報酬だけは、確かに先に置かれていた。 先払い。それが条件。 結果より先に、金が動く。 それを理解できる者だけが、アラーナ・ノクターンに依頼できる。 封を閉じ、アラーナは袋を抽斗の脇に戻す。 ベルトの背に差した小鎌を抜く。 黒く光る刃先は、まだ沈黙を保ったまま空気すら切らない。 柄の端で金属台を一突き。 甲高い音が室内に跳ね、すぐに消える。 声の代わりに――それが了承の合図。 抽斗の奥で帳票が一枚抜かれ、赤い印が押される。 誰が依頼したかも、なぜかも、記されることはない。 ただ、“死神が動いた”という記録だけが残る。
Last Updated : 2026-01-10 Read more