All Chapters of 見つからないパズルピース: Chapter 21 - Chapter 30

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20

「あら、喜介君。今日は一人? 草薙社長はどうしたの?」 その週の金曜日、僕はもう一度、今度は一人でクラブ・夜香蝶にきた。麗香ママは僕を覚えていて、洋輔さんパワーの名残で僕は上座のテーブルに案内された。クラブの二番人気の女性に奥に案内される青二才。どこの御曹司かと探る客の目、僕は意図して堂々と振舞う。 「洋輔さんが来られないなんて残念だわ。また来てね、と伝えてね」「先日こちらで飲んで養父は大変楽しかったようで、飲みすぎてドクターストップです」「またまた」麗香ママは冗談だと思いつつも、でも満更でもなかったようで楽しそうに笑ったが、僕にとっては笑いごとではない。ドクターストップは本当のこと。飲みすぎても何も、洋輔さんは酒一杯でノックアウトする。森川唯が亡くなってからずっと、洋輔さんは粥しか食べられない。お祖母様が雇った栄養士資格を持つ料理人が栄養のある粥を作っているが、それでも健全な食生活とは言えない。でも、何も言えない。何か食べようならば吐いてしまう。僕が成人していくつか食事の席を代理できるようになったが、重要な席はやはり洋輔さんが出なければならず、食事をしたその日は洋輔さんのえづく声が深夜まで続き、それが終わると主治医が洋輔さんに点滴を施す。これが草薙家の日常。そんな体で摂取する酒は毒と変わらず、高い酒を入れさせようと店の女性が作る濃い酒など洋輔さんの体には耐えられない。おかげでこの五日間、洋輔さんはベッドの住民になり、お祖母様は心配そうにお小言を言っている。 そんな洋輔さんの療養のお供はトレゾア。最近のトレゾアはなぜか古代中国の所刑法に興味を持っており、洋輔さんはトレゾアの望むままにそれを教えている。トレゾアの基本的な人格みたいなものは僕と同じ年の女性をベースにしている。草薙家にきて一番最初に与えられた役割が、トレゾアの話し相手だった。今日は何をしたのか。いま学校ではどんなものが流行っているのか。洋輔さんは僕に与えてくれたのと違う愛情をトレゾアに与えて”彼女”を育てた。最初は、森川唯をバーチャル上に作るのだと思っていた。次は、森川唯との間に生まれた子をバーチャル上に作るのだと思った。でも、違う。トレゾアは洋輔さんの欲の塊。あの二人にこうしてあげたかった、洋輔さんのそんな欲を満たす存在。洋輔
last updateLast Updated : 2026-01-20
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「今日、僕がここに来たのはこの人のことを聞きたいからなんです」僕がトレゾアの画面を見せると、麗香ママの顔は少しだけ考えるものになって「そうか」と察した顔になった。先日も思ったが、流石一流のクラブの麗香ママとなると内蔵されている人間の情報量が半端ない。僕が聞いたこの人は「田沢壮一」。僕の養母である綾子夫人の父親。大量の写真データから田沢壮一を見つけ出したのはトレゾアである。僕も洋一さんも田沢壮一を探し出せとは言っていないが、トレゾアが綾子夫人と実家である田沢家について調べていることは薄々気づいてはいた。 「田沢さんも曜子さんも写真嫌いだったから、大丈夫だと思っていたのに……年甲斐もなく、シンデレラストーリーに燥いでしまったみたいですね」「誤解しないでください。僕はこの写真を、養母や田沢夫人に知らせる気は一切ありません」肩を落とした麗香ママの僕を見る顔は、信じていない。「ご存知でしょう? 僕の養父母の夫婦仲は最悪です。政略だから離婚しないだけで、養父と養母は、夫婦の情どころか義理さえないような関係になっています」洋輔さんもお祖母様も、綾子さんのことは一切隠していない。一応理由は「草薙グループの社長夫人の重圧に耐えきれず、心を壊して療養中」となっているが、綾子さんが狂い始めた当初は草薙家に何度も警察がきていたし、”祈祷師”なんて怪しい人物が出入りしていることは有名な話。療養で押し通すには無理がありそうなのに、実際にそれで十年近く押し通している。草薙家だけでなく、田沢家も同じく。嫁にいった娘は療養していると、表に顔を出すどころか実家にも一度も帰省しない娘は放置状態。この田沢家も草薙家同様に変な家だ。僕に言わせると、田沢家は、正妻と愛人の血が一つの屋根の下に集められた家。 当主の田沢壮一には、三人の子どもがいる。長男の曜一、長女の綾子、次男の曜二。綾子さんは、田沢壮一の妻である綾音夫人の娘。曜一さんと曜二さんは、田沢壮一の初恋であり恋人、そして愛人だった曜子の息子。曜子の実家である菊水家は、曜子が十七歳のときに破産したものの元は名家で、田沢壮一と菊水曜子は幼少期から互いに好意を持っており許嫁だった。しかし曜子が十七歳のときに家は事業に失敗して破産、父親は自
last updateLast Updated : 2026-01-20
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「喜介君、どうして田沢さんのことを調べているの?」麗香ママの問いは柔らかいけれど、探る色を隠してはいなかった。「この前お話しを聞いたときにちょっと違和感がありまして。洋輔さん自身はこれ以上藪を突くのはよくないかもしれないからって、確かめてこいって僕がここに来たんです」「藪?」「洋輔さんはこれから会社の接待にここのクラブを使いたいらしいのですが……」そこで、言葉を切った。交渉の場では、小休止を挟むことで相手に“考えさせる時間”を与える。それが洋輔さんの教えだ。 「躊躇している理由は、綾音夫人かしら」「いいえ」洋輔さんの勘は当たった。麗香ママはここで出すなら、「綾子夫人」にするべきだった。洋輔さんの妻は綾子夫人だから。洋輔さんが接待とはいえ、女性の歓待を受けるこの店に通うのを躊躇う理由にするなら、それは綾子さんにするべきだった。でも、麗香ママは「綾音夫人」といった。綾音夫人の夫は、田沢壮一。そして、田沢壮一が気を使う目の持ち主は、綾音夫人の生家。その中でもとりわけ気にしたであろう人は……。 「風花さんに愛人疑惑が出た山内太一さん――彼をこの店に連れてきたのは、綾音夫人の御父上ではありませんか?」僕の言葉に麗香ママが息を飲むのが分かった。 「AIの分析って……そこまで分かるものなのね」……いいえ、違います。これは「刑事の勘だ」という浩市さんの当てずっぽうと、「外れたらそれまでだから、レッツゴー」と洋輔さんの無責任な押し付けです。洋輔さんはいい年だけど、僕も「間違えちゃった、ごめんなさい」ですむ年ではないと思うのだけど。そろそろ新しい突破口が欲しい。確かに、それは事実。だから洋輔さんは、外れたらそれまでで、無理やりこじ開けてみることにした。そして、開いた。綾子さんと風間太一を結ぶ道ができた。 「あともう一つ、よろしいですか?」「ダメと言っても、また来るのでしょう? ビール一本でこの一番の席をまた占拠されては堪らないわ」「すみません。成人したてで酒の飲み方がまだ分からなくて」成人したて、と麗香ママが笑いながら僕の手に触れる。厭らしさは感じない。ただ、言うわけにはいかないけれど、お祖母様に触れられたときのような純粋に愛でているだけのような手の感触。「喜介君の知りたいこと、当ててあげましょうか」揶揄われ
last updateLast Updated : 2026-01-21
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「昔ね、可愛がっていた子がいるの」麗香ママが突然話はじめた。何の繋がりもない会話のはじめだけど、僕は黙って聞くことにした。「同郷で、年も私の弟と同じで、何となく妹分って感じで……要領は悪いんだけど愛嬌があって、その子が失敗しても笑って誤魔化されちゃうっていうか、いい子だった。優しくて、可愛くて」その子を思い出しているのだろう。麗香ママの目が遠くを見るものになった。洋輔さんと、同じ目。もしかして、彼女は……。「生きてるわよ」「あ、ごめんなさい」勝手に死人にしたことを詫びると、麗香ママは楽しそうに笑った。その顔が一気に悲し気になる。「あれで生きているというならだけど、ね」 麗香ママのいう“あの子”は、ある会社の社長の愛人になると言ってこの店を辞めたという。その社長はあまり評判のいい男ではなく、麗香ママはやめたほうがいいと引き留めたが、”あの子”の決意は固く引き留めきることができなかった。「”あの子”は、あの男を愛していると言った。嘘だとすぐに分かったわ。嘘の上手な子じゃなかったから。でも、”あの子”は頑なだった。あの男を愛している、放っておいてほしい。どう見ても、あの男を嫌悪して、助けてほしいという感じなのに、どうしてそんなことを言うのか私には分からないまま、”あの子”が店を辞めていくのを止めることができなかった」そして”あの子”は、五年ほど前にその社長を殺した。 「”あの子”はあの男を包丁で刺し殺していた。何度も、何度も、絶命するまで。自分の手で殺す、そう決めていたんでしょうね。だから”あの子”は何年もあの男の愛人だった。あの男は常にボディガードを傍においていたから、嘘が下手だったから、あの男がボディーガードなんていらないと油断するまで時間がかかったんでしょうね」嘘が下手な”あの子”は、一生懸命に男を愛する振りをした。それでも、信じてもらえない。愛している振りでだめなら、愛すればいい。本当に愛すれば、男も自分を信用するようになるだろう。 「”あの子”の心はとっくに壊れていた。愛する男を殺すんだと思い込んだ結果、愛した男を殺してしまったと悔やんで、いまは警察の精神病院に入院しているの。ときどき会いに行くの、今日はどっちかなって、思いながらね」「どっち?」「二重人格っていうのかな。一人はあの男を愛しているの。もう一人は
last updateLast Updated : 2026-01-21
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「お帰り、喜介」「……お祖母様」家の門をくぐると、お祖母様が庭で花を切っていた。名家の午後の風景って感じがする――離れから読経が聞こえなければだけど。 先ほどママからお坊さんの話を聞いたからだろうか。いつもは気にならないお経が妙に気になる。……そう言えば、祈祷師もお経なのか。幽霊相手というのは、一緒だからか? 「また来ているんですね」「そうね。すっかり聞き慣れてしまったわ。知り合いの葬儀の席で一緒に口ずさめそうよ」「あれ、ちゃんとしたやつなんですか?」「そうみたいよ、洋輔がそう言っていたから」「洋輔さんが?」あの人、神様とか仏様とか信じてなさそうなのに。 「ネットで検索したみたい。怨みに対して怨みで報いても怨みは晴れない、みたいなことを言っていたみたい。説教された感じで、耳が痛いとか何とか言っていたわ」「……ああ」「罪も憎んで、人も憎んでいそうなあの子には耳の痛い話よね。喜介、あなたは大丈夫?」「まあ、なんとか……やっぱり、分かりますか?」「ええ……喜介、ちょっといらっしゃい」「お祖母様?」「心底聞きたくないけれど、洋輔のことをあなたに任せて知らんぷりってわけにはいかないから……心底聞きたくないけれどね」母親って大変だわ、と他人事のようにいうお祖母様に思わず笑ってしまい、重苦しかった心が少しだけ軽くなった。 お祖母様は僕を連れて温室に向かった。お祖母様の夫、つまり僕にとっては祖父に当たる人は体が弱く、人生のほとんどをベッドの上で過ごしたと言っても過言ではないらしい。そんな祖父のために作られた温室。奥にあるベッドの脇には木が植わっており、ここ
last updateLast Updated : 2026-01-26
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ずっと探していた唯を見つけた。『やあああああああっ!!』映像の中の唯の悲鳴が、俺の脳を揺さぶる。『やめて……助けて……』男二人に犯されながら、唯は泣いていた。ボロボロになった唯の体が揺さぶられるたび、くぐもった鈴の音が聞こえた。その鈴のことを、俺は覚えていた。いつかは忘れたけれど、自宅の鍵を探すのに手間取っていた唯に、音がなれば探しやすいのではないかと思って俺が渡したものだった。高価なものではない。ふと目に入った雑貨屋の店頭で、これならいいのではと軽い思い付きで買ったもの。『洋輔さん……』唯の縋るように俺を呼ぶ声に、鈴の音が重なる。 ピロン非現実な映像の中で、俺の聞き慣れたスマホの音がした。動画の撮影を停止する音。『あとは好きにして』綾子の声。『約束のお金は?』三沢加奈の声。『ちゃんと渡すわ。風間さん、そっちの映像は好きにして。私はこれがあれば十分だから』これとは、スマホで撮った動画のことだろう。『これの稼ぎは別だ。報酬はちゃんと払ってもらうぞ』『分かってるわよ。森川唯、これに懲りたらもう洋輔さんに近づかないで』俺の名前に、映像の中でぼんやりとしていた唯の顔に生気が戻った。『待って!』『うわっ!』唯が抵抗しなくなったと思って油断していたのだろう。唯に押しのけられて、墨田聡が無様に転がった。這って、おそらく綾子を追いかけようとした唯の髪を風間太一が乱暴につかんで引き摺り倒す。痛かったのだろう。唯が頭を押さえて、そんな唯を風間太一が笑う。『どっかに消えて。さもないと、この映像を洋輔に見せるわよ』綾子の声。『やめてっ!』三沢加奈、あともう一人、多分風間奈美の笑い声。『くっそ』墨田聡が唯に圧し掛かり、唯の頬を思いきり張った。男の強い力で思いきり脳が揺さぶられたのだろう。唯の目が焦点を失った。 コン……コン、コン気遣いを感じるノックの音に、俺はパソコンの時計を確認した。一時間という約束が、五分ほど過ぎてしまっている。もう少しだけと思うが、この一時間だって特例中の特例だ。正直言えば、助かったとも思った。全てを見届けると思って意気込んでいたのに、俺はもう見ることができなかった。俺はパソコンからSDカードを取り出すと、ケースに入れ、そのまま俺のバッグに入れた。そしてパソコンをバッグにしまう
last updateLast Updated : 2026-01-26
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醜悪な伏魔殿。無類の本好きで、推理小説が特に好きだという柳瀬浩市は、随分と詩的な例えをする。 埼玉との県境に近い町の一角にある会員制クラブ。外観は何の特徴もない、ピンク色と紫色の看板、灯りに照らされた料金プラン、よくあるクラブの見た目だが、中はロードサイドでたまに見かける個人DVD鑑賞施設。店内はカラオケボックスのように小さく部屋に区切られており、各個室にはモニターやリクライニングチェアがあった。そこで鑑賞する映像というのが、風間太一たちが撮ったもの。確認したメニューの中には唯の映像もあった。 この施設の管理人から出資者まで、かなり巧妙に隠されていた。喜介から風間太一をクラブ・夜香蝶に連れてきたのが綾子の母・綾音夫人の父親だと知った母が、綾音夫人の母方の代議士の地盤を洗って見つけたのがこの施設。川を渡れば埼玉、風間夫婦が服毒死した彼らの自宅とも離れていなかった。「草薙さん、綾音夫人は我々が保護しています」だから馬鹿な真似はしないように。そう言いたいであろう柳瀬浩市の言葉に、俺は内心苦笑した。「ありがとうございます、迎えにいきますよ。俺は綾子の夫ですからね」夫。反吐が出るような肩書きだが、俺の頭の冷めた部分がこの日のために綾子の夫でいたのだと感じさせた。「もしかして保護という名目の逮捕ですか? それならばうちの弁護士と共に伺います」「それは……」「逮捕なら、何の罪ですか? 綾子は何もしていませんよ」 北海道の警察の捜査で、唯の事故は「事故」と立証されている。三沢加奈、墨田聡、風間夫妻が死んだときも、綾子にはアリバイがある。綾子は警察に捕まるようなことは何もやっていない。俺の見たあの映像を使えば、強制性交等罪の教唆犯として逮捕できるかもしれないが、綾子以外が被害者の唯も含めて全員死んでいるとなると何年の罪になるか。仮に二十年の懲役刑が出たとしても、二十年過ぎて「償った」と綾子が思うと想像すると血が沸騰するような怒りを感じる。絶対に許せない。 「もしかして、私が妻に何かするとでも思っていますか?」「それは……」柳瀬浩市が言葉に困ったとき、「柳瀬さん!」と同僚が柳瀬浩市を焦った声で呼んだ。柳瀬浩市は明らかにホッとした顔で「ここだ」と答える。「すみません、ちょっと……」「いいえ、構いませんよ」それは、本当
last updateLast Updated : 2026-01-26
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「草薙綾子さんで間違いありませんか」警察官が遺体安置所で白い布を捲ると、そこに現れたのは綾子の顔だった。同じ死体でも、焼け焦げた唯とは違う。一見すると眠っているような死体は、「きれい」と言われる類の死体なのだろう。しかし、血の気の失せた肌や真っ青な唇など『死』をまざまざと見せつける綾子の死体。どこか作り物めいていた唯の死体よりも、俺には不気味に感じた。 「間違いありません」その後、所持品の確認が行われたが、綾子の所持品など知らない。全てに「多分」と答えたが、それで問題なかったのは、綾子が警察に保護されているという特異的な環境下で殺されたからだろう。多分綾子の所持品であるそれらを俺は渡されたが、スマホ以外は戸惑うだけで、一緒にきた母さんが処分について引き受けてくれた。 「こちら、死体検案書と検視調書になります。奥さんの遺体はこのあと司法解剖をすることになります。解剖には数日かかります。終わりましたら草薙さんにご連絡いたします」警察官の説明は淡々としている。その慣れた様子に、こういうのが普通なのだと考えさせられた。司法解剖が終われば、ほぼすぐに引き渡し。葬儀社に連絡をすれば、警察の安置所から葬儀社の霊安室まで搬送すると簡単に請け負ってくれる。その手続きの全てが、警察から交付された書類と俺の運転免許証ですむ。「夫婦」という肩書きがあるだけで、これだけ迅速にことが進むのか。写真探しとか、家庭裁判所とか。唯のときとは大違いだ。 葬儀の日程が決まると、俺は綾子の実家である田沢家に知らせた。綾子の死を報せたときは、母親である綾音夫人が泣いたくらいで、父親も兄たちも「そうか」と淡々としたものだった。これについては、俺も似たようなものだから彼らを責めてはいない。むしろ彼らからは「お前が殺さなかったのか」というような目を向けられ、苦笑してしまった。通夜と告別式の準備は、火
last updateLast Updated : 2026-01-27
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小林陽翔は、数ある寺院の中でも「名刹」と呼ばれる、由緒ある寺の次男だった。穏やかな気性で、同じ年代の子どもたちよりも大人びた小林陽翔は、その整った容姿もあって、跡取りのいない寺の婿へと縁談が数多く来ていたという。 あるとき、小林陽翔が十五歳のとき、寺に一人の女性が預けられた。彼女は交通事故で両親を亡くした資産家の娘で、心の傷を癒し、また地元有力者の元に嫁ぐ予定だった彼女は行儀見習いとして寺に預けられた形だった。しかし、その地元有力者は二十歳の彼女の倍近い年齢。過去に二回結婚し、どちらも暴力沙汰で離婚したという曰くつきの人物だった。彼女はそんな結婚を嫌がっていた。そんな状況で、自分に優しくしてくれる美少年の小林陽翔に彼女は恋をした。恋心なのか、それとも現実からの逃避か。彼女は小林陽翔を襲う形で関係を持った。計算して行為に及んだからか、その一夜で子を宿した。それが、唯だ。 彼女は妊娠したことで小林陽翔に結婚を迫った。しかし、小林陽翔には彼女に女性としての好意はなく、襲われたという事実もあって彼女との関係を否定した。彼女は小林陽翔の子どもだと言い張った。当時は母体の血液から胎児のDNAを抽出して鑑定する方法は確立していない。彼女は出産して小林陽翔に結婚を迫ることにしたが、その直前に彼女の幼馴染で婚約者だったという男性が彼女の人生に登場する。「迎えにいく」という彼の言葉に、彼女は小林陽翔への恋心など一切忘れた。その瞬間、彼女はお腹の中の子どもが邪魔になった。彼女は子どもを宿したという事実を、迎えにくる男に知られることを嫌がった。彼女は小林陽翔に堕胎したと言い、生まれた唯を公園に捨てて、迎えきた男と海外に行った。 唯が十二歳になる頃、小林陽翔の元に彼女の家で家政婦をしていた女性がきた。彼女は子どもは堕胎ではなく、産んで捨てたことを小林陽翔に告白した。
last updateLast Updated : 2026-01-27
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「結婚を考えている人がいる。そう書かれた唯からの手紙を受け取りました」それを思い出したのか、小林陽翔が顔を緩める。「手紙はいつもの白いシンプルなものだったのに、あのときは、花柄の便せんでした」ただ手持ちがそれだったという可能性もあるが、それだけ唯はその結婚を喜んでいるのだと、小林陽翔は思ったという。 「どんな人と結婚するのか。相手の男性に会ってみたいと思いましたが、まるで父親のようなことを言うのも憚られ、どうしたものかと考えているとき、突然唯が訪ねてきたのです」「それは、もしかして……」「そうです。当時の私は北海道にいました。私のところにきた唯は、ゲッソリとやつれていました。なにがあったのかと問えば、結婚はなくなったと。でもその男の子どもを妊娠しているから、産もうと思うと言っていました」寒いのが嫌いな唯が、なぜ北海道に行ったのかがこれで分かった。 「男女のことにいろいろあるのは、私も分かっています。住職として地方の寺にいたので、金を使うこともなく貯まっていたことから、寺にいてくれていいと唯には言いました。却下されましたけれどね。こんな山奥の寺で産気づくのは怖いと言ってね」「……山奥?」俺の問い掛けに、小林陽翔は遠い目をした。「北海道で私が派遣されたのは山奥にある寺でした。あの地は雪深く、春の雪解けまでは唯と会うことはできず、ただ時折届く『元気だ』というメッセージを信じていました」俺の頭に、唯が住んでいた北海道のアパートが浮かんだ。家具もないガランとした部屋。あった家電は据え付けのエアコンと炊飯器。冷蔵庫すらない部屋。「雪があらかた溶けて、寺の食料の買いだしも兼ねて唯に会いにいこうと思った矢先に、あの子が寺にきたのです。腹も大きく、何かあったらこんな山奥では不安だというあの子がなぜ来たのか」あの日は……。「SNSで、あなたの結婚式を見たそうです。一人ではいたくなかっ
last updateLast Updated : 2026-01-27
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