All Chapters of 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第一話 逃げ場がなくなった日

 ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。 朝倉湊は、その顔から目を逸らした。 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 行く当てなど、どこにもない。 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。 どこに行けばいいのだろう。 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。 いや、違う。 全部、自分が悪い。 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。 だから、こんなことになっている。 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。 帰る家もない。仕事もない
last updateLast Updated : 2026-02-01
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第二話 雇用契約

 食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。 俺は今、どんな人の家にいるんだ。 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。 これほどの高層階に住める人間なのだ。 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。「朝倉くん」 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」「……はい」 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。「座って」 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。 言われるまま、
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第三話 ここで暮らすということ

 コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。「はい……。よく眠れました」 嘘ではなかった。 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。 久しぶりに、ちゃんと眠れた。「そうか。それはよかった」 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」「……わかりました」 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。 起こされた。 時間を決められた。 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。 ――いや、これは普通のことだ。 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第四話 外出申告制

 鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。 ――休日でも、服は決められているのか。 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。 今日の朝食は、和食だった。 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。「……おいしいです」 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。「そうか。口に合ったようでよかった」 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第五話 必要な連絡先

 あれから一週間が過ぎた。 鷹宮から連絡先の整理を促されることもなく、平穏な日々が続いていた。あのとき「ゆっくりやっていこう」と言ってくれたのは本当だったらしい。「強制ではない」とも言っていた。しつこく迫ってくる性格ではないのだと分かり、湊は少し安心していた。 平日の仕事を淡々とこなし、二度目の週末を迎えた。 朝食の席で、鷹宮がいつものように聞いてきた。「今日の予定は?」 先週と同じ質問だった。でも、今週は答えが違う。「今日は……どこへも行く予定はありません」 本当に、どこにも行きたいと思わなかった。先週、鷹宮と一緒に出かけたときのことを思い出す。自分のペースで歩けなかった。気になる店があっても立ち止まれず、服も鷹宮の好みで選ばれた。 また同じことになるくらいなら、出かけない方がいい。 そう思っていたことに、自分でも気づいていなかった。「本当にどこも行かなくていいのか?」 鷹宮が、心配そうに覗き込んだ。「もし必要なものがあれば、買いに行けばいい」「はい。先週買っていただいたもので十分です」「本当に?」 なぜか食い下がってくる。その様子がおかしくて、湊は小さく笑った。「本当です。ありがとうございます」「そうか」 鷹宮が、眉を下げた。残念そうな顔をしている。 その表情を見ると、胸の奥がぎゅっと締まった。なんだか、出かけないことが悪いことのように思えてくる。「鷹宮さんこそ、どこかに出かけないんですか?」 話題を変えようとして、つい聞いた。 鷹宮が、目を見開いた。一瞬、驚いたような顔をする。「僕は、特に出かける用事はない」 そして、湊をまっすぐに見つめて言った。「君がどこも行かないのであれば、僕も出る必要はない」 その言葉が、胸に落ちた。 ――俺に予定を合わせている。 鷹宮には鷹宮の生活があるはずだ。
last updateLast Updated : 2026-02-05
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第六話 逃げる理由がなくなった

 朝、目が覚めると最初にすることがある。 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。 通知は、ない。 以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。 今はもう、何も届かない。 連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。 困らないはずなのに、なぜかあれ以来、通知を待っている自分がいた。 西村からのメッセージが届いたとき、胸が温かくなった。久しぶりに、鷹宮以外の誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけで、息ができるような気がした。 でも同時に、鷹宮の隣であのメッセージを受け取ったとき、背中を冷たいものが滑り落ちたのも確かだった。 だったら、誰からも何も届かない方がいい。 鷹宮に詮索されるのが嫌なわけではない。ただ、面倒ごとは避けたかった。波風を立てたくなかった。ここでの暮らしを、壊したくなかった。 湊はベッドの上でスマートフォンの画面を眺めていた。何も表示されていない静かな画面だ。それを見つめているだけなのに、何か悪いことをしているような気がして落ち着かない。 きょろきょろと部屋の中を見回した。 誰もいない。見られていない。 それを確認して、ようやく息を吐いた。 おかしい。 自分の部屋で、自分のスマートフォンを見ているだけなのに。誰かに見つかることを恐れている。 いつからこうなったのだろう。いつから、自分の行動を監視されていることが当たり前になったのだろう。 廊下から、足音が聞こえた。 規則正しい、迷いのない歩調。鷹宮だ。湊を起こしに来たのだろう。毎朝、同じ時間に、同じリズムで。 予想通り、ドアがノックされた。「おはよう。今日はもう起きていたのか」 鷹宮が部屋に入ってきた。
last updateLast Updated : 2026-02-06
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第七話 檻の内側

 目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。 それだけで、心が凪いだ。 よかった。まだ、ここにいる。 鷹宮の家で目覚めることに、安堵している自分がいた。毎朝、同じ天井を確認しては、同じ安心を得ている。ここにいられる。まだ追い出されていない。 この場所を失ったら、今度こそ終わりだ。路上に戻る勇気も、ネットカフェで生き延びる体力も、もう残っていない。 だから、なんとしてもここにいなければならない。 今日は、鷹宮が部屋に来る前に起き上がった。自分から動いた方がいいし、言われる前にやった方がいい。そうすれば、必要とされる。そうすれば、ここにいられる。 部屋を出て廊下を歩くと、キッチンから物音がした。朝食の準備をしている鷹宮の背中が見えた。「おはようございます」 控えめに声をかけると、鷹宮の肩がびくりと揺れた。振り返った顔には、驚きが浮かんでいた。「今日は早いな」「はい。よく眠れたので。シャワー浴びてきますね」「ああ、わかった。朝食の準備をしておく」 鷹宮の頬が、ふわりと緩んだ。 その表情を見て、湊の胸も温かくなった。機嫌がいい。喜んでもらえた。それだけで、朝から気分がよかった。 シャワーを浴びて、用意された服を着て、ダイニングへ向かった。 鷹宮はすでに席についていた。けれど、さっきまでの穏やかな空気が消えていた。 タブレット端末を、睨むように見つめていた。眉間には深い皺が刻まれ、口元は引き結ばれていた。 ――なにがあった。 湊の心臓が、どくりと跳ねた。 シャワーを浴びる前は、あんなに機嫌がよさそうだったのに。なにが変わったのだろう。自分がなにかしたのだろうか。 ――俺、なんかやった? 不安が、じわりと胸に広がった。 湊は、びくびくと怯えるように椅子に座った。「いただきます」と小さく言ったが、鷹宮は応えなかった。視線はタブレット端末に注がれたままだ。 食事の間、長い沈黙が続いた。 普
last updateLast Updated : 2026-02-07
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第八話 体温

 あの日から、なにかが変わった。 頬に触れた、柔らかい感触。唇の温度。思い出すだけで、その部分がかっと熱くなる。 額だった。 頬ではなく、額。でも、それだけのことで、湊の心臓はずっと騒いでいた。 初心なわけではない。元婚約者とは、当然そういう関係だった。それなのに、鷹宮に触れられただけで、こんなにも動揺している。 理由は、分からなかった。分からないまま、日々が過ぎていった。 あれ以来、鷹宮の態度が少し変わったように思う。 今まで以上に、湊のことを気にかけるようになった。世話を焼きたがる。会社ではいつも通りクールな社長を演じているけれど、家に帰ると表情が和らぐ。 湊を見るときの目が、柔らかくなった。 それに気づいてしまってから、湊はますます落ち着かなくなっていた。* 仕事を終えて、マンションに戻った。 コーヒーを飲もうと思って、キッチンに向かった。 すると、後ろから足音がついてきた。振り返らなくても分かる。鷹宮だ。「なにか必要か?」 すぐ後ろから、声がかかった。「あ……と、コーヒーを飲もうかと……」「なら僕が淹れる。君はソファで待っていて」「……はい」 断る間もなかった。 湊は言われた通りにソファに座った。キッチンから、カップを取り出す音が聞こえる。豆を挽く音。お湯を注ぐ音。 今までも、朝食や夕食は鷹宮が作ってくれていた。でも、それ以外の時間は、基本的に自由だった。飲み物が欲しければ自分で用意していたし、それを止められることもなかった。 それが、あの日から変わった。 鷹宮は、湊のすることに先回りするようになった。なにかをしようとすると、「僕がやる」と言われる。手を出そうとすると、「君は座っていて」と止められる。 ――まるで、恋人みたいだ。 その考えが浮かんで、すぐに打ち消した。
last updateLast Updated : 2026-02-08
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第九話 熱に紛れて

 深夜、身体がベッドに沈み込むような感覚に襲われた。 重い。苦しい。何かに押しつぶされているようで、息ができない。 身体の奥で、鈍い痛みが脈打っている。刃物で刺されているわけではないのに、内側から何かに貫かれているような感覚。叫び出したいのに、声が出ない。 目の前に、人影が立っていた。 見覚えのある顔。見覚えのある笑み。 元婚約者の、相馬だった。『お前は本当に信じやすいんだな』 その声が、頭の中に響いた。『俺が本気でお前のこと、愛していたと思っているのか?』 違う。嘘だ。あの時間は本物だったはずだ。『お前はただの金づるだよ』 やめてくれ。聞きたくない。『お前なんて、俺に愛される資格ない』 その言葉が、胸の奥を抉った。 ――もう、やめてくれ。 本当に愛していたのに。心から信じていたのに。一緒に生きていくと思っていたのに。 全部、嘘だった。最初から騙すつもりだった。湊のことなど、何とも思っていなかった。 抱き合うとき、優しい声で「愛してる」と言ってくれていた。あの言葉も嘘だったのか。あの温もりも嘘だったのか。 思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる。 息が、浅くなっていく。胸が締め付けられて、苦しい。 もう、死にたい。こんなに苦しいなら、消えてしまいたい。生きている価値なんて、ない。 ――誰か。 助けて。 ひとりは嫌だ。* 瞼を開けると、目の奥がじんじんと痛んだ。 全身から汗が吹き出している。シーツが湿っている。喉がからからに渇いていた。 ――夢、だった。 また、あの夢だ。熱に浮かされるたび、過去が蘇ってくる。忘れたいのに、忘れさせてくれない。 ゆっくりと横を見た。 ベッドの隣は、空っぽだった。 鷹宮は、自分の部屋に戻ったらしい。さっきまで一緒にいたのに。腕の中にいたのに。
last updateLast Updated : 2026-02-09
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第十話 関係の再定義

 熱が下がっても、身体はまだ重かった。 関節が痛む。頭がぼんやりする。ベッドから起き上がるだけで、息が切れる。 雄一から「念のため休め」と言われなければ、湊は無理をして出社していただろう。湊の仕事は書類整理やデータ入力といった単純なものだが、それでも集中しなければミスが出る。こんな状態で働いても、迷惑をかけるだけだ。 だから、今日は甘えていい。 そう自分に言い聞かせて、湊はベッドの中で目を閉じた。「……雄一さん」 その名前を、そっと口にした。 昨夜のことを思い出す。重なった唇の感触。触れただけの、優しいキス。 思い出しただけで、頬に熱が集まってきた。 自分が中学生みたいだと思った。ただのキスを思い出して真っ赤になるなんて、子供じゃあるまいし。でも、心臓がどきどきして落ち着かない。 今朝、雄一は出勤前に湊を抱きしめてくれた。「行ってくる」 そう言って、つむじに唇を落として出かけていった。 その感覚が、まだ身体に残っている。腕の温もり。胸の厚み。髪に触れた唇の柔らかさ。 こんなふうに甘やかされたことは、なかった。 元婚約者の相馬との関係では、湊が世話をする側だった。尽くして、我慢して、合わせて。それが当たり前だと思っていた。 でも、雄一は違う。 湊を大切に扱ってくれる。守ると言ってくれる。恋人だと言ってくれた。 ――ここにいればいい。 ――手放すつもりはない。 その言葉を思い出すと、胸がほっこりと温かくなった。 もう、苦しい思いをしなくていいのだ。ひとりで耐えなくていい。誰かがそばにいてくれる。 湊は掛け布団を顎まで引き上げて、目を閉じた。* どれくらい眠っていたのだろう。 目を開けると、陽が高くなっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、午後の色をしている。 湊は上体を起こして、伸びをした。まだ関節が痛むが、昨日より軽い。足元
last updateLast Updated : 2026-02-10
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