逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜

逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜

last updateآخر تحديث : 2026-02-28
بواسطة:  海野雫مكتمل
لغة: Japanese
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借金の肩代わり条件は、「住み込みで働くこと」。 雇い主は、若く、成功していて、完璧で。
そして、俺にだけ距離が異常に近かった。 仕事のはずだった。
生活のための取引のはずだった。 だが気づけば、交友関係は制限され、
外泊は禁止され、
帰る場所は彼の部屋だけになっていた。 「君は俺の管理下にある」 それは保護か、それとも監禁か。
優しさと檻の区別がつかなくなったとき、恋はもう逃げ場を失う。

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الفصل الأول

第一話 逃げ場がなくなった日

 ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。

 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。

 朝倉湊あさくらそうは、その顔から目を逸らした。

 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。

 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。

「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」

 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 行く当てなど、どこにもない。

 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。

 どこに行けばいいのだろう。

 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。

 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。

 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。

 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。

 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。

 いや、違う。

 全部、自分が悪い。

 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。

 だから、こんなことになっている。

 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。

 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。

 帰る家もない。仕事もない。頼れる人もいない。

 これからどうやって生きていけばいいのか、まったく見えない。

 胃がキリキリと痛み出した。ここ数日、まともな食事をしていない。コンビニのおにぎりを一日一個食べられればいい方で、昨日は水しか口にしていない。

 きちんと食べていないからか、眠りも浅い。身体は疲れているのに、目を閉じると不安ばかりが押し寄せてきて、意識が落ちない。

 何もかもが、悪い方向に転がっている。

 ――もう、寝よう。

 目を閉じた。でも、思考は止まらない。明日のこと、来週のこと、来月のこと。考えたくないのに、頭の中でぐるぐると回り続ける。

 何度も寝返りを打った。狭いスペースで身体の向きを変えるたびに、どこかがぶつかる。膝が壁に当たり、肘が床を擦る。

 疲れているのに、眠れない。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 心臓が跳ねた。

 ビクッと身体を起こして、画面を確認する。

 ――知らない番号。

 指先が冷たくなった。

 嫌な予感がする。いや、予感というより、確信に近い。この番号が何を意味するか、もう分かっている。

 画面を伏せて、目を閉じた。

 着信音は鳴り続けている。震える音が、静かな個室に響く。逃げ場のない空間で、その音はやけに大きく聞こえた。

 やがて、振動が止まった。

 湊は息を吐いた。でも、安堵は長くは続かない。また鳴るだろう。明日も、明後日も。逃げている限り、ずっと追いかけてくる。

 逃げ道は、たぶん最初からなかった。

 何が一番怖いって――明日が来ることだ。

             *

 次の日の朝、目を覚ますと身体中が痛かった。

 首が固まっている。腰が軋む。何日も狭い空間で眠り続けているせいで、身体のあちこちが悲鳴を上げていた。

 重い瞼を持ち上げて、時計を見る。八時を回っていた。

 延長しなければ。

 財布を開いた。千円札が一枚。これを使えば、今夜はもう泊まれない。

 湊はため息をついた。

 仕方がない。今日中にどこか、寝る場所を探さないと。

 のろのろと立ち上がり、荷物をまとめた。といっても、リュックひとつだ。着替え二組と充電器、空っぽの財布。それだけが、今の湊の全財産だった。

 店を出た瞬間、太陽の光が目を刺した。

 眩しい。

 思わず立ち止まって、目頭を押さえた。視界がちかちかする。貧血だろうか。足元がふらつく感覚がある。

 ゆっくりと目を開けると――目の前に、二人の男が立っていた。

 スーツ姿。一人は背が高く、涼しい顔をしている。もう一人はがっちりした体格で、色の濃いサングラスをかけていた。

 背の高い男が、一歩近づいてきた。

「朝倉さん」

 その声を聞いた瞬間、湊の身体は勝手に動いていた。

 振り返って、走り出す。

 人混みを縫うように、駅の方へ向かう。後ろから足音が追ってくる。

 逃げなければ。

 でも、身体が重い。足が上がらない。何日もまともに食べていないせいで、すぐ息が上がる。心臓がばくばくと音を立てて、視界の端が暗くなる。

 細い路地に入り込んだ。

 人通りが少ない。まずい、と思った瞬間には、もう追いつかれていた。

「なんで逃げるんですか」

 背の高い男が、湊の腕を掴んだ。

 息一つ乱していない。涼しい顔のまま、まるで当然のことのように湊を捕まえている。湊だけが、はあはあと荒い息を吐いていた。

「約束しましたよね。連絡がつかないと困るんですけど」

「……すみません。今、仕事を……」

 男は大きなため息をついた。目は笑っていなかった。

「その『今』、もう何回目ですかね? 本当に探してるんですか、仕事」

 嘘でも肯定しなければならない。湊は無理やり首を縦に振った。

「は、はい……探してます」

 声が震えていた。自分でも分かるほど、情けない声だった。

 もう一人の男――サングラスの男が、ゆっくりと近づいてきた。

「朝倉さん」

 低い声。関西訛りが混じっている。その声には、妙な粘りがあった。

「逃げ回るんは別にええんですよ。こっちも仕事やから、追いかけるだけやし。でもな、返さなあかんもんは返してもらわなあかんのですわ。そうせんと、あんたが大変なことになるで。分かってますか?」

 サングラスの奥で、細い目が光った。獲物を見つけた獣のような、底光りのする視線だった。

「わ、分かってます。仕事が決まったら、必ずお返ししますから……もう少しだけ、待ってください。お願いします」

 湊は腰を九十度に折って、頭を下げた。アスファルトの地面が視界いっぱいに広がる。自分のつま先と、男たちの革靴が見える。

 屈辱で、顔が熱くなった。

「それはそうと」

 サングラスの男が、何気ない調子で言った。

「あんたの結婚するゆうてた相手、どないしたん?」

 湊の心臓が、一瞬止まった。

「あれ、あの人がこさえた借金やろ? どこ行ったん、あの人」

「それは……」

 声が出なかった。

 喉が塞がる。答えようとしても、言葉が形にならない。

 ゆっくりと顔を上げた。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。

 サングラスの男は、にやりと笑った。

「まあ、あんたが返してくれたらそれでええんやけどな。もし返せへんゆうんやったら、ええ仕事紹介したるけど。どないする?」

 湊は息を呑んだ。

 身体が震えた。恐怖で、足に力が入らない。

 逃げ場がない。

 そう思った、そのときだった。

 路地の入口に、黒い車が止まった。

 高級車だ。艶のあるボディが、朝の光を反射している。こんな裏路地には似つかわしくない、明らかに場違いな存在感。

 二人の男が、車の方を振り返った。

 後部座席の窓が、静かに下りた。

「――すみません」

 聞こえてきたのは、低く落ち着いた声だった。

「その方、僕に用事があるんです」

 湊は、その声の主を見た。

 黒髪を短く整えた男が、車の中からこちらを見ていた。三十代半ばくらいだろうか。切れ長の目は冷静で、感情が読めない。シンプルだが明らかに高価なスーツを着ている。

 静かな声だった。穏やかとすら言える声だった。

 なのに――譲る気配が、まったくなかった。

 サングラスの男が、眉をひそめた。

「はあ? あんた誰や。関係ない――」

「鷹宮です」

 男は名刺を差し出した。

鷹宮雄一たかみやゆういち。彼とは、少し話があるんです」

 その名前を聞いた瞬間、空気が変わった。

 背の高い男の顔色が、明らかに変わった。サングラスの男も、わずかに身じろぎした。

「鷹宮……? タカミヤホールディングスの……」

「ご存知でしたか」

 男――鷹宮は、薄く微笑んだ。笑っているのに、目は笑っていなかった。

「金銭の話であれば、僕が聞きます。詳細を整理して、後日お伝えしましょう。今日のところは、彼を預からせてください」

 命令ではなかった。お願いの形をしていた。

 なのに、断れる空気ではなかった。

 サングラスの男は、しばらく鷹宮を睨んでいた。でも、やがて舌打ちをして、湊の腕を離した。

「……チッ。まあええわ。ほな、よろしゅう頼みますわ」

 二人の男は、足早に路地を去っていった。

 残されたのは、湊と――車の中の男だけだった。

 緊張が解けた瞬間、膝から力が抜けた。

 その場にへたり込みそうになる。壁に手をついて、なんとか身体を支えた。

 助かった。

 ――助かった?

 何が起きたのか、まだ頭が追いついていない。誰だ、この人は。なぜ助けてくれた。どうして自分のことを知っている。

 混乱する思考の中で、一つだけ確かなことがあった。

 見られた。

 こんな惨めな姿を、見られてしまった。

 恥ずかしさで、顔が熱くなった。逃げて、追われて、情けなく許しを請う姿を、見ず知らずの人間に見られた。

「大丈夫ですか」

 鷹宮が、車から降りてきた。

 近くで見ると、さらに存在感があった。百八十センチは超えているだろう。細身だが、スーツの下には筋肉がついているのが分かる。全身から漂う空気が、普通の会社員とはまるで違った。

「乗りますか」

 鷹宮が、後部座席のドアを開けた。

 湊は、その手を見た。長い指。手入れの行き届いた爪。高価そうな腕時計。

 ――乗ってはいけない。

 そう思った。知らない人の車に乗るなんて、危険に決まっている。

 でも、他に選択肢がなかった。

 ここで断って、どこに行けばいい。財布の中には、もうほとんど何も残っていない。今夜泊まる場所すらない。

 ゆっくりと、車に乗り込んだ。

 車内は静かだった。革張りのシートが、疲れた身体をやわらかく受け止める。冷房が効いていて、汗ばんだ肌に心地よかった。

 ドアが閉まった。

 外の音が、遠くなった。

 鷹宮が隣に座った。近い。狭い車内で二人きりだ。逃げ場がない。

「君、ちゃんと食べてないね」

 唐突に、そう言われた。

 湊は目を逸らした。答えられなかった。

「住所は?」

「……ありません」

「仕事は」

「……失いました」

「借金は」

 湊は黙った。喉が詰まって、声が出なかった。

 鷹宮は静かに湊を見ていた。責めるような目ではない。ただ、観察しているような目だ。まるですべてを見透かしているようだった。

「結婚する予定だった人がいた、と聞いたけど」

 心臓が跳ねた。

 どうして知っている。さっきの会話を、聞いていたのか。

「……婚約していた相手が、消えました」

 やっとのことで、それだけ言った。

 それ以上は、言えなかった。言葉にすると、すべてが現実になってしまう気がした。愛していた人に騙されていたこと。信じていた未来がすべて嘘だったこと。自分がどれだけ愚かだったか、認めなければならなくなる。

 鷹宮は、それ以上追及しなかった。

 ただ、静かに言った。

「家に来るといい」

「――え?」

「今夜、泊まる場所がないんだろう」

 車が動き出した。

 外の景色が流れていく。見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。

 湊は、何も言えなかった。断る言葉が、出てこなかった。

 ありがたい、と思った。

 でも、怖い。

 この人は、なぜこんなことをしてくれるのだろう。見ず知らずの、こんな惨めな人間を、なぜ助けるのだろう。

 答えは出ないまま、車は高層ビルの立ち並ぶエリアへと入っていった。

             *

 車が止まったのは、タワーマンションの地下駐車場だった。

 エレベーターで上へ上がる。階数表示が、どんどん増えていく。三十階を超えた。四十階を超えた。

 最上階で、扉が開いた。

 廊下は静かだった。足音が吸い込まれるような、厚いカーペット。壁には絵画が飾られている。他に人の気配はない。

 場違いだ。

 自分がここにいること自体が、間違っている気がした。

 汚れた服。くたびれたリュック。何日も風呂に入っていない身体。すべてが、この空間に似つかわしくない。

 鷹宮が、部屋のドアを開けた。

「入って」

 促されるまま、中に足を踏み入れた。

 広い。

 リビングだけで、湊が以前住んでいたアパートの三倍はある。窓からは都心の夜景が一望できる。家具は少ないが、どれも高価そうだった。

 現実感がない。夢の中にいるみたいだ。

「シャワーを浴びるといい。服は用意してある」

 鷹宮が、脱衣所の方を指した。

「出たら、少し話そう」

 湊は頷いた。他に、できることがなかった。

 シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。

 この人は、何者なのだろう。なぜ自分を助けたのだろう。何を求めているのだろう。

 温かい湯が、冷えた身体を温めていく。何日ぶりかのシャワーは、信じられないほど気持ちよかった。

 脱衣所には、新品の服が置いてあった。シンプルなシャツと、ゆったりしたパンツ。サイズは、ぴったりだった。

 ――どうしてサイズを知っている?

 小さな違和感が、胸の奥に引っかかった。

 リビングに戻ると、テーブルに食事が用意されていた。

 温かいスープ。パン。サラダ。シンプルだが、ちゃんとした食事だった。

「食べて」

 鷹宮が、椅子を引いた。

 湊は座った。スプーンを手に取った。一口食べた瞬間、身体の奥から力が湧いてくるような感覚があった。

 美味しい。

 温かい。

 それだけで、泣きそうになった。

 鷹宮は、向かいの椅子に座って、静かに湊を見ていた。

「落ち着いたら、聞いてほしいことがある」

 湊は顔を上げた。

 鷹宮の目は、相変わらず感情が読めなかった。冷静で、静かで、どこか遠い。

「助けることは、簡単だ」

 鷹宮は言った。

「借金の整理も、住む場所の確保も、仕事の紹介も。僕にできないことはない」

 淡々とした声だった。事実を述べているだけの声。

「でも、条件がある」

 湊の心臓が、どくりと鳴った。

「条件……?」

「雇用契約を結んでほしい。住み込みで僕の元で働く。生活は僕が管理する」

 管理。

 その言葉が、妙に引っかかった。

「君には選択肢がないことは分かっている」

 鷹宮は、静かに続けた。

「だから、悪い話ではないはずだ。衣食住は保証する。借金も、僕が立て替える。君は、僕のために働けばいい」

 湊は、何も言えなかった。

 断る理由が、見つからない。

 断ったところで、どこに行けばいい。明日の宿代すらない。仕事もない。頼れる人もいない。

 今、この人の手を離したら――たぶん、本当に終わりだ。

「……分かりました」

 声が震えていた。

「お願い、します」

 鷹宮は、薄く微笑んだ。

「いい子だ」

 その言葉が、なぜか背筋をぞくりとさせた。

「大丈夫。君の明日は、僕が用意する」

 窓の外では、都会の夜景がきらめいていた。

 その光がどれだけ美しくても、湊には分かった。

 自分は今、何かの檻に――足を踏み入れたのだと。

 救いなのか、罠なのか。

 それすら判断できないまま、湊は鷹宮の視線の中で、身動きが取れなくなっていた。

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第一話 逃げ場がなくなった日
 ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。 朝倉湊は、その顔から目を逸らした。 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 行く当てなど、どこにもない。 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。 どこに行けばいいのだろう。 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。 いや、違う。 全部、自分が悪い。 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。 だから、こんなことになっている。 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。 帰る家もない。仕事もない
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第二話 雇用契約
 食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。 俺は今、どんな人の家にいるんだ。 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。 これほどの高層階に住める人間なのだ。 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。「朝倉くん」 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」「……はい」 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。「座って」 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。 言われるまま、
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第三話 ここで暮らすということ
 コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。「はい……。よく眠れました」 嘘ではなかった。 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。 久しぶりに、ちゃんと眠れた。「そうか。それはよかった」 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」「……わかりました」 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。 起こされた。 時間を決められた。 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。 ――いや、これは普通のことだ。 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
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第四話 外出申告制
 鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。 ――休日でも、服は決められているのか。 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。 今日の朝食は、和食だった。 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。「……おいしいです」 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。「そうか。口に合ったようでよかった」 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方
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第五話 必要な連絡先
 あれから一週間が過ぎた。 鷹宮から連絡先の整理を促されることもなく、平穏な日々が続いていた。あのとき「ゆっくりやっていこう」と言ってくれたのは本当だったらしい。「強制ではない」とも言っていた。しつこく迫ってくる性格ではないのだと分かり、湊は少し安心していた。 平日の仕事を淡々とこなし、二度目の週末を迎えた。 朝食の席で、鷹宮がいつものように聞いてきた。「今日の予定は?」 先週と同じ質問だった。でも、今週は答えが違う。「今日は……どこへも行く予定はありません」 本当に、どこにも行きたいと思わなかった。先週、鷹宮と一緒に出かけたときのことを思い出す。自分のペースで歩けなかった。気になる店があっても立ち止まれず、服も鷹宮の好みで選ばれた。 また同じことになるくらいなら、出かけない方がいい。 そう思っていたことに、自分でも気づいていなかった。「本当にどこも行かなくていいのか?」 鷹宮が、心配そうに覗き込んだ。「もし必要なものがあれば、買いに行けばいい」「はい。先週買っていただいたもので十分です」「本当に?」 なぜか食い下がってくる。その様子がおかしくて、湊は小さく笑った。「本当です。ありがとうございます」「そうか」 鷹宮が、眉を下げた。残念そうな顔をしている。 その表情を見ると、胸の奥がぎゅっと締まった。なんだか、出かけないことが悪いことのように思えてくる。「鷹宮さんこそ、どこかに出かけないんですか?」 話題を変えようとして、つい聞いた。 鷹宮が、目を見開いた。一瞬、驚いたような顔をする。「僕は、特に出かける用事はない」 そして、湊をまっすぐに見つめて言った。「君がどこも行かないのであれば、僕も出る必要はない」 その言葉が、胸に落ちた。 ――俺に予定を合わせている。 鷹宮には鷹宮の生活があるはずだ。
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第六話 逃げる理由がなくなった
 朝、目が覚めると最初にすることがある。 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。 通知は、ない。 以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。 今はもう、何も届かない。 連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。 困らないはずなのに、なぜかあれ以来、通知を待っている自分がいた。 西村からのメッセージが届いたとき、胸が温かくなった。久しぶりに、鷹宮以外の誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけで、息ができるような気がした。 でも同時に、鷹宮の隣であのメッセージを受け取ったとき、背中を冷たいものが滑り落ちたのも確かだった。 だったら、誰からも何も届かない方がいい。 鷹宮に詮索されるのが嫌なわけではない。ただ、面倒ごとは避けたかった。波風を立てたくなかった。ここでの暮らしを、壊したくなかった。 湊はベッドの上でスマートフォンの画面を眺めていた。何も表示されていない静かな画面だ。それを見つめているだけなのに、何か悪いことをしているような気がして落ち着かない。 きょろきょろと部屋の中を見回した。 誰もいない。見られていない。 それを確認して、ようやく息を吐いた。 おかしい。 自分の部屋で、自分のスマートフォンを見ているだけなのに。誰かに見つかることを恐れている。 いつからこうなったのだろう。いつから、自分の行動を監視されていることが当たり前になったのだろう。 廊下から、足音が聞こえた。 規則正しい、迷いのない歩調。鷹宮だ。湊を起こしに来たのだろう。毎朝、同じ時間に、同じリズムで。 予想通り、ドアがノックされた。「おはよう。今日はもう起きていたのか」 鷹宮が部屋に入ってきた。
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第七話 檻の内側
 目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。 それだけで、心が凪いだ。 よかった。まだ、ここにいる。 鷹宮の家で目覚めることに、安堵している自分がいた。毎朝、同じ天井を確認しては、同じ安心を得ている。ここにいられる。まだ追い出されていない。 この場所を失ったら、今度こそ終わりだ。路上に戻る勇気も、ネットカフェで生き延びる体力も、もう残っていない。 だから、なんとしてもここにいなければならない。 今日は、鷹宮が部屋に来る前に起き上がった。自分から動いた方がいいし、言われる前にやった方がいい。そうすれば、必要とされる。そうすれば、ここにいられる。 部屋を出て廊下を歩くと、キッチンから物音がした。朝食の準備をしている鷹宮の背中が見えた。「おはようございます」 控えめに声をかけると、鷹宮の肩がびくりと揺れた。振り返った顔には、驚きが浮かんでいた。「今日は早いな」「はい。よく眠れたので。シャワー浴びてきますね」「ああ、わかった。朝食の準備をしておく」 鷹宮の頬が、ふわりと緩んだ。 その表情を見て、湊の胸も温かくなった。機嫌がいい。喜んでもらえた。それだけで、朝から気分がよかった。 シャワーを浴びて、用意された服を着て、ダイニングへ向かった。 鷹宮はすでに席についていた。けれど、さっきまでの穏やかな空気が消えていた。 タブレット端末を、睨むように見つめていた。眉間には深い皺が刻まれ、口元は引き結ばれていた。 ――なにがあった。 湊の心臓が、どくりと跳ねた。 シャワーを浴びる前は、あんなに機嫌がよさそうだったのに。なにが変わったのだろう。自分がなにかしたのだろうか。 ――俺、なんかやった? 不安が、じわりと胸に広がった。 湊は、びくびくと怯えるように椅子に座った。「いただきます」と小さく言ったが、鷹宮は応えなかった。視線はタブレット端末に注がれたままだ。 食事の間、長い沈黙が続いた。 普
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第八話 体温
 あの日から、なにかが変わった。 頬に触れた、柔らかい感触。唇の温度。思い出すだけで、その部分がかっと熱くなる。 額だった。 頬ではなく、額。でも、それだけのことで、湊の心臓はずっと騒いでいた。 初心なわけではない。元婚約者とは、当然そういう関係だった。それなのに、鷹宮に触れられただけで、こんなにも動揺している。 理由は、分からなかった。分からないまま、日々が過ぎていった。 あれ以来、鷹宮の態度が少し変わったように思う。 今まで以上に、湊のことを気にかけるようになった。世話を焼きたがる。会社ではいつも通りクールな社長を演じているけれど、家に帰ると表情が和らぐ。 湊を見るときの目が、柔らかくなった。 それに気づいてしまってから、湊はますます落ち着かなくなっていた。* 仕事を終えて、マンションに戻った。 コーヒーを飲もうと思って、キッチンに向かった。 すると、後ろから足音がついてきた。振り返らなくても分かる。鷹宮だ。「なにか必要か?」 すぐ後ろから、声がかかった。「あ……と、コーヒーを飲もうかと……」「なら僕が淹れる。君はソファで待っていて」「……はい」 断る間もなかった。 湊は言われた通りにソファに座った。キッチンから、カップを取り出す音が聞こえる。豆を挽く音。お湯を注ぐ音。 今までも、朝食や夕食は鷹宮が作ってくれていた。でも、それ以外の時間は、基本的に自由だった。飲み物が欲しければ自分で用意していたし、それを止められることもなかった。 それが、あの日から変わった。 鷹宮は、湊のすることに先回りするようになった。なにかをしようとすると、「僕がやる」と言われる。手を出そうとすると、「君は座っていて」と止められる。 ――まるで、恋人みたいだ。 その考えが浮かんで、すぐに打ち消した。
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第九話 熱に紛れて
 深夜、身体がベッドに沈み込むような感覚に襲われた。 重い。苦しい。何かに押しつぶされているようで、息ができない。 身体の奥で、鈍い痛みが脈打っている。刃物で刺されているわけではないのに、内側から何かに貫かれているような感覚。叫び出したいのに、声が出ない。 目の前に、人影が立っていた。 見覚えのある顔。見覚えのある笑み。 元婚約者の、相馬だった。『お前は本当に信じやすいんだな』 その声が、頭の中に響いた。『俺が本気でお前のこと、愛していたと思っているのか?』 違う。嘘だ。あの時間は本物だったはずだ。『お前はただの金づるだよ』 やめてくれ。聞きたくない。『お前なんて、俺に愛される資格ない』 その言葉が、胸の奥を抉った。 ――もう、やめてくれ。 本当に愛していたのに。心から信じていたのに。一緒に生きていくと思っていたのに。 全部、嘘だった。最初から騙すつもりだった。湊のことなど、何とも思っていなかった。 抱き合うとき、優しい声で「愛してる」と言ってくれていた。あの言葉も嘘だったのか。あの温もりも嘘だったのか。 思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる。 息が、浅くなっていく。胸が締め付けられて、苦しい。 もう、死にたい。こんなに苦しいなら、消えてしまいたい。生きている価値なんて、ない。 ――誰か。 助けて。 ひとりは嫌だ。* 瞼を開けると、目の奥がじんじんと痛んだ。 全身から汗が吹き出している。シーツが湿っている。喉がからからに渇いていた。 ――夢、だった。 また、あの夢だ。熱に浮かされるたび、過去が蘇ってくる。忘れたいのに、忘れさせてくれない。 ゆっくりと横を見た。 ベッドの隣は、空っぽだった。 鷹宮は、自分の部屋に戻ったらしい。さっきまで一緒にいたのに。腕の中にいたのに。
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第十話 関係の再定義
 熱が下がっても、身体はまだ重かった。 関節が痛む。頭がぼんやりする。ベッドから起き上がるだけで、息が切れる。 雄一から「念のため休め」と言われなければ、湊は無理をして出社していただろう。湊の仕事は書類整理やデータ入力といった単純なものだが、それでも集中しなければミスが出る。こんな状態で働いても、迷惑をかけるだけだ。 だから、今日は甘えていい。 そう自分に言い聞かせて、湊はベッドの中で目を閉じた。「……雄一さん」 その名前を、そっと口にした。 昨夜のことを思い出す。重なった唇の感触。触れただけの、優しいキス。 思い出しただけで、頬に熱が集まってきた。 自分が中学生みたいだと思った。ただのキスを思い出して真っ赤になるなんて、子供じゃあるまいし。でも、心臓がどきどきして落ち着かない。 今朝、雄一は出勤前に湊を抱きしめてくれた。「行ってくる」 そう言って、つむじに唇を落として出かけていった。 その感覚が、まだ身体に残っている。腕の温もり。胸の厚み。髪に触れた唇の柔らかさ。 こんなふうに甘やかされたことは、なかった。 元婚約者の相馬との関係では、湊が世話をする側だった。尽くして、我慢して、合わせて。それが当たり前だと思っていた。 でも、雄一は違う。 湊を大切に扱ってくれる。守ると言ってくれる。恋人だと言ってくれた。 ――ここにいればいい。 ――手放すつもりはない。 その言葉を思い出すと、胸がほっこりと温かくなった。 もう、苦しい思いをしなくていいのだ。ひとりで耐えなくていい。誰かがそばにいてくれる。 湊は掛け布団を顎まで引き上げて、目を閉じた。* どれくらい眠っていたのだろう。 目を開けると、陽が高くなっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、午後の色をしている。 湊は上体を起こして、伸びをした。まだ関節が痛むが、昨日より軽い。足元
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