LOGIN借金の肩代わり条件は、「住み込みで働くこと」。 雇い主は、若く、成功していて、完璧で。 そして、俺にだけ距離が異常に近かった。 仕事のはずだった。 生活のための取引のはずだった。 だが気づけば、交友関係は制限され、 外泊は禁止され、 帰る場所は彼の部屋だけになっていた。 「君は俺の管理下にある」 それは保護か、それとも監禁か。 優しさと檻の区別がつかなくなったとき、恋はもう逃げ場を失う。
View Moreネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。
電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。
ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。
財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。
「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
行く当てなど、どこにもない。
友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。
どこに行けばいいのだろう。
思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。
ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。
考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。
どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。
でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。
いや、違う。
全部、自分が悪い。
判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。
だから、こんなことになっている。
もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。
考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。
帰る家もない。仕事もない。頼れる人もいない。
これからどうやって生きていけばいいのか、まったく見えない。
胃がキリキリと痛み出した。ここ数日、まともな食事をしていない。コンビニのおにぎりを一日一個食べられればいい方で、昨日は水しか口にしていない。
きちんと食べていないからか、眠りも浅い。身体は疲れているのに、目を閉じると不安ばかりが押し寄せてきて、意識が落ちない。
何もかもが、悪い方向に転がっている。
――もう、寝よう。
目を閉じた。でも、思考は止まらない。明日のこと、来週のこと、来月のこと。考えたくないのに、頭の中でぐるぐると回り続ける。
何度も寝返りを打った。狭いスペースで身体の向きを変えるたびに、どこかがぶつかる。膝が壁に当たり、肘が床を擦る。
疲れているのに、眠れない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
心臓が跳ねた。
ビクッと身体を起こして、画面を確認する。
――知らない番号。
指先が冷たくなった。
嫌な予感がする。いや、予感というより、確信に近い。この番号が何を意味するか、もう分かっている。
画面を伏せて、目を閉じた。
着信音は鳴り続けている。震える音が、静かな個室に響く。逃げ場のない空間で、その音はやけに大きく聞こえた。
やがて、振動が止まった。
湊は息を吐いた。でも、安堵は長くは続かない。また鳴るだろう。明日も、明後日も。逃げている限り、ずっと追いかけてくる。
逃げ道は、たぶん最初からなかった。
何が一番怖いって――明日が来ることだ。
*
次の日の朝、目を覚ますと身体中が痛かった。
首が固まっている。腰が軋む。何日も狭い空間で眠り続けているせいで、身体のあちこちが悲鳴を上げていた。
重い瞼を持ち上げて、時計を見る。八時を回っていた。
延長しなければ。
財布を開いた。千円札が一枚。これを使えば、今夜はもう泊まれない。
湊はため息をついた。
仕方がない。今日中にどこか、寝る場所を探さないと。
のろのろと立ち上がり、荷物をまとめた。といっても、リュックひとつだ。着替え二組と充電器、空っぽの財布。それだけが、今の湊の全財産だった。
店を出た瞬間、太陽の光が目を刺した。
眩しい。
思わず立ち止まって、目頭を押さえた。視界がちかちかする。貧血だろうか。足元がふらつく感覚がある。
ゆっくりと目を開けると――目の前に、二人の男が立っていた。
スーツ姿。一人は背が高く、涼しい顔をしている。もう一人はがっちりした体格で、色の濃いサングラスをかけていた。
背の高い男が、一歩近づいてきた。
「朝倉さん」
その声を聞いた瞬間、湊の身体は勝手に動いていた。
振り返って、走り出す。
人混みを縫うように、駅の方へ向かう。後ろから足音が追ってくる。
逃げなければ。
でも、身体が重い。足が上がらない。何日もまともに食べていないせいで、すぐ息が上がる。心臓がばくばくと音を立てて、視界の端が暗くなる。
細い路地に入り込んだ。
人通りが少ない。まずい、と思った瞬間には、もう追いつかれていた。
「なんで逃げるんですか」
背の高い男が、湊の腕を掴んだ。
息一つ乱していない。涼しい顔のまま、まるで当然のことのように湊を捕まえている。湊だけが、はあはあと荒い息を吐いていた。
「約束しましたよね。連絡がつかないと困るんですけど」
「……すみません。今、仕事を……」
男は大きなため息をついた。目は笑っていなかった。
「その『今』、もう何回目ですかね? 本当に探してるんですか、仕事」
嘘でも肯定しなければならない。湊は無理やり首を縦に振った。
「は、はい……探してます」
声が震えていた。自分でも分かるほど、情けない声だった。
もう一人の男――サングラスの男が、ゆっくりと近づいてきた。
「朝倉さん」
低い声。関西訛りが混じっている。その声には、妙な粘りがあった。
「逃げ回るんは別にええんですよ。こっちも仕事やから、追いかけるだけやし。でもな、返さなあかんもんは返してもらわなあかんのですわ。そうせんと、あんたが大変なことになるで。分かってますか?」
サングラスの奥で、細い目が光った。獲物を見つけた獣のような、底光りのする視線だった。
「わ、分かってます。仕事が決まったら、必ずお返ししますから……もう少しだけ、待ってください。お願いします」
湊は腰を九十度に折って、頭を下げた。アスファルトの地面が視界いっぱいに広がる。自分のつま先と、男たちの革靴が見える。
屈辱で、顔が熱くなった。
「それはそうと」
サングラスの男が、何気ない調子で言った。
「あんたの結婚するゆうてた相手、どないしたん?」
湊の心臓が、一瞬止まった。
「あれ、あの人がこさえた借金やろ? どこ行ったん、あの人」
「それは……」
声が出なかった。
喉が塞がる。答えようとしても、言葉が形にならない。
ゆっくりと顔を上げた。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
サングラスの男は、にやりと笑った。
「まあ、あんたが返してくれたらそれでええんやけどな。もし返せへんゆうんやったら、ええ仕事紹介したるけど。どないする?」
湊は息を呑んだ。
身体が震えた。恐怖で、足に力が入らない。
逃げ場がない。
そう思った、そのときだった。
路地の入口に、黒い車が止まった。
高級車だ。艶のあるボディが、朝の光を反射している。こんな裏路地には似つかわしくない、明らかに場違いな存在感。
二人の男が、車の方を振り返った。
後部座席の窓が、静かに下りた。
「――すみません」
聞こえてきたのは、低く落ち着いた声だった。
「その方、僕に用事があるんです」
湊は、その声の主を見た。
黒髪を短く整えた男が、車の中からこちらを見ていた。三十代半ばくらいだろうか。切れ長の目は冷静で、感情が読めない。シンプルだが明らかに高価なスーツを着ている。
静かな声だった。穏やかとすら言える声だった。
なのに――譲る気配が、まったくなかった。
サングラスの男が、眉をひそめた。
「はあ? あんた誰や。関係ない――」
「鷹宮です」
男は名刺を差し出した。
「
その名前を聞いた瞬間、空気が変わった。
背の高い男の顔色が、明らかに変わった。サングラスの男も、わずかに身じろぎした。
「鷹宮……? タカミヤホールディングスの……」
「ご存知でしたか」
男――鷹宮は、薄く微笑んだ。笑っているのに、目は笑っていなかった。
「金銭の話であれば、僕が聞きます。詳細を整理して、後日お伝えしましょう。今日のところは、彼を預からせてください」
命令ではなかった。お願いの形をしていた。
なのに、断れる空気ではなかった。
サングラスの男は、しばらく鷹宮を睨んでいた。でも、やがて舌打ちをして、湊の腕を離した。
「……チッ。まあええわ。ほな、よろしゅう頼みますわ」
二人の男は、足早に路地を去っていった。
残されたのは、湊と――車の中の男だけだった。
緊張が解けた瞬間、膝から力が抜けた。
その場にへたり込みそうになる。壁に手をついて、なんとか身体を支えた。
助かった。
――助かった?
何が起きたのか、まだ頭が追いついていない。誰だ、この人は。なぜ助けてくれた。どうして自分のことを知っている。
混乱する思考の中で、一つだけ確かなことがあった。
見られた。
こんな惨めな姿を、見られてしまった。
恥ずかしさで、顔が熱くなった。逃げて、追われて、情けなく許しを請う姿を、見ず知らずの人間に見られた。
「大丈夫ですか」
鷹宮が、車から降りてきた。
近くで見ると、さらに存在感があった。百八十センチは超えているだろう。細身だが、スーツの下には筋肉がついているのが分かる。全身から漂う空気が、普通の会社員とはまるで違った。
「乗りますか」
鷹宮が、後部座席のドアを開けた。
湊は、その手を見た。長い指。手入れの行き届いた爪。高価そうな腕時計。
――乗ってはいけない。
そう思った。知らない人の車に乗るなんて、危険に決まっている。
でも、他に選択肢がなかった。
ここで断って、どこに行けばいい。財布の中には、もうほとんど何も残っていない。今夜泊まる場所すらない。
ゆっくりと、車に乗り込んだ。
車内は静かだった。革張りのシートが、疲れた身体をやわらかく受け止める。冷房が効いていて、汗ばんだ肌に心地よかった。
ドアが閉まった。
外の音が、遠くなった。
鷹宮が隣に座った。近い。狭い車内で二人きりだ。逃げ場がない。
「君、ちゃんと食べてないね」
唐突に、そう言われた。
湊は目を逸らした。答えられなかった。
「住所は?」
「……ありません」
「仕事は」
「……失いました」
「借金は」
湊は黙った。喉が詰まって、声が出なかった。
鷹宮は静かに湊を見ていた。責めるような目ではない。ただ、観察しているような目だ。まるですべてを見透かしているようだった。
「結婚する予定だった人がいた、と聞いたけど」
心臓が跳ねた。
どうして知っている。さっきの会話を、聞いていたのか。
「……婚約していた相手が、消えました」
やっとのことで、それだけ言った。
それ以上は、言えなかった。言葉にすると、すべてが現実になってしまう気がした。愛していた人に騙されていたこと。信じていた未来がすべて嘘だったこと。自分がどれだけ愚かだったか、認めなければならなくなる。
鷹宮は、それ以上追及しなかった。
ただ、静かに言った。
「家に来るといい」
「――え?」
「今夜、泊まる場所がないんだろう」
車が動き出した。
外の景色が流れていく。見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
湊は、何も言えなかった。断る言葉が、出てこなかった。
ありがたい、と思った。
でも、怖い。
この人は、なぜこんなことをしてくれるのだろう。見ず知らずの、こんな惨めな人間を、なぜ助けるのだろう。
答えは出ないまま、車は高層ビルの立ち並ぶエリアへと入っていった。
*
車が止まったのは、タワーマンションの地下駐車場だった。
エレベーターで上へ上がる。階数表示が、どんどん増えていく。三十階を超えた。四十階を超えた。
最上階で、扉が開いた。
廊下は静かだった。足音が吸い込まれるような、厚いカーペット。壁には絵画が飾られている。他に人の気配はない。
場違いだ。
自分がここにいること自体が、間違っている気がした。
汚れた服。くたびれたリュック。何日も風呂に入っていない身体。すべてが、この空間に似つかわしくない。
鷹宮が、部屋のドアを開けた。
「入って」
促されるまま、中に足を踏み入れた。
広い。
リビングだけで、湊が以前住んでいたアパートの三倍はある。窓からは都心の夜景が一望できる。家具は少ないが、どれも高価そうだった。
現実感がない。夢の中にいるみたいだ。
「シャワーを浴びるといい。服は用意してある」
鷹宮が、脱衣所の方を指した。
「出たら、少し話そう」
湊は頷いた。他に、できることがなかった。
シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。
この人は、何者なのだろう。なぜ自分を助けたのだろう。何を求めているのだろう。
温かい湯が、冷えた身体を温めていく。何日ぶりかのシャワーは、信じられないほど気持ちよかった。
脱衣所には、新品の服が置いてあった。シンプルなシャツと、ゆったりしたパンツ。サイズは、ぴったりだった。
――どうしてサイズを知っている?
小さな違和感が、胸の奥に引っかかった。
リビングに戻ると、テーブルに食事が用意されていた。
温かいスープ。パン。サラダ。シンプルだが、ちゃんとした食事だった。
「食べて」
鷹宮が、椅子を引いた。
湊は座った。スプーンを手に取った。一口食べた瞬間、身体の奥から力が湧いてくるような感覚があった。
美味しい。
温かい。
それだけで、泣きそうになった。
鷹宮は、向かいの椅子に座って、静かに湊を見ていた。
「落ち着いたら、聞いてほしいことがある」
湊は顔を上げた。
鷹宮の目は、相変わらず感情が読めなかった。冷静で、静かで、どこか遠い。
「助けることは、簡単だ」
鷹宮は言った。
「借金の整理も、住む場所の確保も、仕事の紹介も。僕にできないことはない」
淡々とした声だった。事実を述べているだけの声。
「でも、条件がある」
湊の心臓が、どくりと鳴った。
「条件……?」
「雇用契約を結んでほしい。住み込みで僕の元で働く。生活は僕が管理する」
管理。
その言葉が、妙に引っかかった。
「君には選択肢がないことは分かっている」
鷹宮は、静かに続けた。
「だから、悪い話ではないはずだ。衣食住は保証する。借金も、僕が立て替える。君は、僕のために働けばいい」
湊は、何も言えなかった。
断る理由が、見つからない。
断ったところで、どこに行けばいい。明日の宿代すらない。仕事もない。頼れる人もいない。
今、この人の手を離したら――たぶん、本当に終わりだ。
「……分かりました」
声が震えていた。
「お願い、します」
鷹宮は、薄く微笑んだ。
「いい子だ」
その言葉が、なぜか背筋をぞくりとさせた。
「大丈夫。君の明日は、僕が用意する」
窓の外では、都会の夜景がきらめいていた。
その光がどれだけ美しくても、湊には分かった。
自分は今、何かの檻に――足を踏み入れたのだと。
救いなのか、罠なのか。
それすら判断できないまま、湊は鷹宮の視線の中で、身動きが取れなくなっていた。
鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。 ――休日でも、服は決められているのか。 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。 今日の朝食は、和食だった。 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。「……おいしいです」 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。「そうか。口に合ったようでよかった」 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方
コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。「はい……。よく眠れました」 嘘ではなかった。 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。 久しぶりに、ちゃんと眠れた。「そうか。それはよかった」 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」「……わかりました」 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。 起こされた。 時間を決められた。 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。 ――いや、これは普通のことだ。 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。 俺は今、どんな人の家にいるんだ。 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。 これほどの高層階に住める人間なのだ。 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。「朝倉くん」 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」「……はい」 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。「座って」 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。 言われるまま、
ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。 朝倉湊は、その顔から目を逸らした。 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 行く当てなど、どこにもない。 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。 どこに行けばいいのだろう。 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。 いや、違う。 全部、自分が悪い。 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。 だから、こんなことになっている。 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。 帰る家もない。仕事もない