All Chapters of 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜: Chapter 21 - Chapter 30

30 Chapters

第二十一話 君のいない部屋

 朝、湊より早く起きて朝食の準備をする。 その何気ない毎日が、雄一にとって今までにないほどの幸せだった。 ようやく手に入れた、愛する人。「湊……」 彼の名前を口の中で転がすだけで、胸の中がじんわりと温かくなる。 もう何年も、恋い焦がれた人だ。湊を手に入れるために、どんな手段でも使った。湊が傷つくと分かっていても、だ。 湊がこの部屋に来て、三か月が経った。 すっかりここでの生活リズムも整い、雄一が起こしに行かなくても、湊は自分で起きてくるようになった。ふたりで朝ご飯を食べ、仕事に行き、夜を過ごす。 四六時中、湊と一緒にいられる。 その事実に、どれだけ胸がときめいたか分からない。* 雄一は、小さいころから表情の乏しい子供だった。 うれしくて仕方ないのに、「うれしくないの?」とよく言われた。怒っていても、「鷹宮はそんなことじゃ怒らない」と、気づいてもらえなかった。 そうこうするうちに、本当に自分の気持ちを表にだす方法を忘れてしまった。 どうせ本気で怒っても、喜んでも、誰も気づいてくれない。 だから、無表情でいるほうが、楽だった。 感情を殺して、冷静に、理性的に。それが、雄一の生き方になった。 けれど、湊と生活するうちに、それができなくなった。 自分でも驚くほど、表情が豊かになった。うれしいと口元が緩む。目元が下がる。湊の顔を見るだけで、頬が熱くなる。 そして湊は、それを感じ取ってくれた。 雄一の小さな表情の変化を、読み取ってくれた。 そのことが、いつも心を温かくした。 やっと、分かってくれる人に出会えた。 やっと、自分を見てくれる人に出会えた。 湊さえいれば、他にはなにもいらない。 会社にも行かず、湊を腕の中でずっと抱きしめていたいとさえ思う。 けれど雄一の立場上、それは無理な話だった。 会社には行かなければならな
last updateLast Updated : 2026-02-21
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第二十二話 声

 山田から引き受けた仕事は、それほど難しいものではなかった。 家出した子供たちの行方を、警察が入手したログから解析するというものだった。 交通系ICカードの改札通過履歴、防犯カメラの通過時刻、コンビニでの決済記録、街中に溢れている無料Wi-Fiへの接続記録、SNSへの投稿時刻。 これらのデータを見るだけで、その人の生活リズムが見えてくる。 何時に家を出て、どこで乗り換えて、どこで買い物をして、何時にどこにいたか。デジタルの足跡は、嘘をつかない。 家出した子供のスマートフォンへ直接侵入するのが一番手っ取り早い。だが、それは違法になる。ホワイトハッカーである湊には技術があるものの、実行はできない。 だから、合法的に入手できるデータだけで、行方を追う。 それが、湊の仕事だった。 レンタルオフィスでデータに向き合っていると、あっという間に時間が過ぎた。 これほど集中して仕事をしたのは、いつ以来だろう。 雄一の会社で秘書をしていたときは、仕事らしい仕事はほとんどなかった。ただ座っているだけ。ただ雄一のそばにいるだけ。 でも今は違う。 自分のスキルを使っている。自分の頭を使っている。誰かの役に立っている。 その実感が、胸を満たした。 気晴らしに、窓辺に行って外を眺めた。 ビルの下には、多くの車や人が行き交っている。会社員、学生、主婦、子供連れ。みんな、それぞれの目的地に向かって歩いている。 みんな、今を一生懸命生きているのだ。 湊も、今を生きている。 その喜びを、噛みしめた。 こんなにも充実していて、いいのだろうか。 思い切り息を吸い込むと、新鮮な空気が肺を満たした。気分が落ち着く。身体の隅々まで、酸素が行き渡っていく。 自由だ。 生きている。 そう実感した。 しばらく下を眺めていると、ビルの前に黒い車が横付けした。 湊の心臓が、跳ねた。 まさか、雄一ではないだろ
last updateLast Updated : 2026-02-22
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第二十三話 連れ戻される

 あれから何度も、湊の耳の奥で雄一の声がこだましている。「湊」 低く、冷たい声。 それを聞くと背中が粟立ち、そのたびに周りをきょろきょろと見渡してしまう。誰もいない。誰も湊を呼んでいない。それなのに、声だけが聞こえる。 もう、病気だな。 自分でもそう思う。まるでなにかに取り憑かれているようだった。 雄一のもとを出て、自由になったはずなのに、自由になれた気がしない。どこにいても、なにをしていても、雄一の気配を感じる。ずっと雄一の大きな囲いの中にいるようだった。見えない檻の中で、自由の夢を見ているだけのような気がする。 たまに、雄一がどうしてこれほど湊に執着するのだろうか、と考えることがある。 湊と雄一は、取り立て屋に追われていたとき、初めて会った。少なくとも、湊の記憶ではそうだ。 けれど雄一は、以前から湊のことを知っているかのように話すことがあった。「やっと手に入れた」とか、「何年も待った」とか、そういう言葉を時々口にしていた。 どこかで会ったのだろうか。 中学、高校、大学――。 思い出してみるが、思い出せない。あんなに品の良い男とは、今まで関わり合いなど一切なかった。湊の周りにいたのは、もっと庶民的な人間ばかりだ。雄一のような、上流階級の人間とは無縁だった。 わからない。わからないけれど、雄一にとって湊は、特別な存在らしい。 その理由が、湊には見えなかった。* その日も、仕事をするためにレンタルオフィスへと向かっていた。 周りを行き交う人々は、忙しなく過ぎていく。みんな、それぞれの目的地に向かって歩いている。 湊は、隣を過ぎゆく人々を眺めていた。 すれ違う人たちは、自分のことで精一杯で、湊のことを見る人など誰もいない。湊がどこから来て、どこに行くのか、誰も興味がない。 これでいいのだ。 誰からも気にされず、ひっそりとここで息を潜めて生きる。雄一のもとを去るときに、そう決めたはずだ。 それなのに、なぜだろう。
last updateLast Updated : 2026-02-23
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第二十四話 戻ってきた場所

 湊と雄一の乗った車は、静かにマンションの地下駐車場に入った。 エンジンが止まり、運転手がドアを開ける。雄一が先に降りて、湊に手を差し伸べた。 湊はその手を取って、車から降りた。 雄一は湊の腰にそっと手を回して、エレベーターホールへと向かった。 腰に回された手は、湊を縛りつけるものではなかった。ただ、そっと置かれているだけ。大切なものを扱うように。壊れ物を持つように。 やさしい手だった。 でも、そのやさしさが、湊には重かった。* エレベーターが最上階に到着した。 腰を抱かれたまま、部屋の前まで来た。雄一がカードキーを取り出し、ドアにかざした。 ピッと電子音が鳴る。 雄一がドアを開けた。「おかえり」 その言葉に、湊は一瞬、固まった。 おかえり。 まるで、湊がここに帰ってくるのが当然のような言い方だった。ここが湊の家であるかのように。 雄一は、湊を部屋に入るように促した。 この中に入ったら、また以前の生活に戻るのだ。 外出禁止。仕事もない。誰とも話せない。雄一だけの世界。 まるで、この扉が外の世界との境界線に思えた。ここを越えたら、もう戻れない。 湊はふと、室内を見た。 見慣れた床。見慣れた壁。見慣れた家具。 西村の家とは違う、上品な香りがどこからともなく漂ってくる。アロマディフューザーの匂いだろうか。清潔で、整然として、完璧な空間。 以前と同じ風景なのに、息を吸い込むと、空気が澱んでいるのが分かった。 重い空気。停滞した空気。動かない空気。 それはきっと、雄一からにじみ出たものなのだろう。湊がいない間、ここでひとりで待っていた雄一の孤独と不安が染み付いた空気だった。 ああ、とうとう帰ってきた。 いや、帰ってきたのではない。戻されたのだ。いるべきところに。 玄関に入ると、背後でドアが閉まった。 鍵のかかる音が
last updateLast Updated : 2026-02-24
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第二十五話 檻の中の日常

 雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第二十六話 処理された過去

 もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
last updateLast Updated : 2026-02-26
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第二十七話 選ぶこと

 目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
last updateLast Updated : 2026-02-26
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第二十八話 囲う理由

 ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
last updateLast Updated : 2026-02-27
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第二十九話 それでもここにいる

 湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
last updateLast Updated : 2026-02-28
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第三十話 逃げられると思っていた

 朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
last updateLast Updated : 2026-02-28
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