Alle Kapitel von 嘘とまどろみの月: Kapitel 11 – Kapitel 20

23 Kapitel

第11話

一瞬にして、すべての視線が一点に集中した。先ほどまで狂ったように新婦を探し回っていた樹も、動きを止めてレッドカーペットの入り口を見つめた。まさか、夫婦揃って手の込んだ演出をしていたのか?ゲストたちの困惑をよそに、樹の瞳には熱い期待の光が宿った。「詩音……」彼女が来てくれた。それさえ事実なら、これまでの遅刻も、連絡がつかなかったことも、すべて些細な誤解だ。彼女はやっぱり俺を愛しているんだ。これからは今まで以上に大切にして、罪滅ぼしをしよう。裾の長いウェディングドレスを纏った人影が、ゆっくりと、しかし確実にレッドカーペットの上を進んでくる。長身で、スタイルは抜群。顔は厚手のベールで覆われており、濃いメイクの輪郭がおぼろげに見える程度だ。だが、この状況でウェディングドレスを着て現れる人物など、新婦以外にいるはずがない。樹も、ゲストたちも、疑いようがなかった。バイトの時間が終わって帰ろうとしていた「サクラ」のブライズメイドたちも、新婦の登場を見て慌てて駆け寄った。乱れた花びらを踏みしめながら、長いトレーンを整え、付き従う。樹はもう、式の段取りなどどうでもよかった。彼はバージンロードを駆け下りて新婦の元へ行き、その手を宝物のように恭しく取った。感極まって、声が震える。「来てくれると信じてたよ」新婦は何も言わなかった。ベールの下の表情も読み取れない。まるで人形のように、ただ無機質にそこに立っているだけだ。壇上の司会者は、自分のキャリアが終わる危機から脱したことに安堵し、額の汗を拭いながら声を張り上げた。「さあ皆様!新郎新婦が揃いました!これより結婚式を執り行います!」その声に合わせて、牧師やフラワーガールたちも再び位置についた。樹にとって、先ほどの騒動は悪夢のような一瞬だったが、今はもう過ぎ去ったことだ。彼は詩音の左手を固く握りしめ、片時も離そうとしなかった。牧師の問いかけに、樹は力強く「誓います」と答えた。そしてフラワーガールから指輪を受け取り、詩音の薬指に嵌める。「詩音。これでやっと、俺たちは夫婦だ」続いて、彼は自分の左手を差し出した。「さあ、詩音。今度は君が俺に指輪を嵌めてくれ」しかし、新婦は動かなかった。沈黙が流れる。樹は焦りと苛立ちを感じ、声を潜めて囁いた。
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第12話

会場の混乱は収まるどころか、加速度的に悪化していった。樹の顔色は、怒りと屈辱でどす黒く染まっていた。彼は血管が切れそうなほど絶叫した。「止めろ!今すぐ動画を止めろ!!」舞台袖からスタッフの悲鳴に近い報告が飛んできた。「ダメです!再生システムが何者かに乗っ取られています!こちらの操作を受け付けません!」「乗っ取りだと!?」「はい!外部から強力なハッキングを受けており、制御不能です。あらゆる手段を試しましたが、権限を取り戻せません!」「なら電源を落とせ!元から断て!」「それも試しましたが、ホテルの電力管理システムごとハッキングされています……」「クソッ!」樹は汚い言葉を吐き捨てた。「じゃあ手立てなしか?この動画が垂れ流されるのを指を咥えて見てろって言うのか!?お前らにいくら払ってると思ってるんだ、役立たずが!」スタッフが小声でぼやいた。「自分たちが蒔いた種じゃないですか……自分たちがやったことでしょうに、逆ギレされても困りますよ」樹の怒りは頂点に達した。彼は目の前に立つロボットの「新婦」を、力任せに蹴り飛ばした。ガシャンッ!激しい音と共に「新婦」が倒れ、衝撃でパーツがバラバラに砕け散った。ドレスの裂け目からは、剥き出しになった回路基板や配線が覗いている。だが、ロボットを破壊しても無意味だった。スクリーン上の動画は止まらない。むしろ、男女の絡み合いは佳境に入り、会場にはさらに恥ずかしい喘ぎ声が大音量で響き渡った。もはや収拾がつかない。その時、客席から一人の女が悠然とステージに上がってきた。玲奈だ。樹が眉を寄せる。「玲奈、何をする気だ?」玲奈は悪びれる様子もなく言った。「こうなったら仕方ないわ。もうここまでバレちゃったんだもの。いっそこのまま、私があなたの花嫁になってあげる」樹は耳を疑った。「正気か?」玲奈は猫なで声で、わざとらしいほど甘ったるく答えた。「あら、私が新婦になった方がお似合いじゃない?せっかく結婚式に来てあげたんだから、これが茶番で終わるなんて見過ごせないわ」「茶番だと?」「そうよ。詩音は逃げたの。おまけにこんな手の込んだ嫌がらせを残してね。私が尻拭いをしてあげるって言ってるのよ。ほら、ぐずぐずしないで。さっさと式を終わらせてちょうだい、着替えてくるから」
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第13話

スクリーンに映し出されたのは、樹と玲奈のLINEのトーク履歴だった。二人の会話は、どこを切り取っても情事の匂わせや、露骨な愛の言葉で埋め尽くされていた。言い逃れようのない、不貞の証拠だ。ゲストたちは汚いものを見るような目で二人を見つめた。その視線には、軽蔑の色が濃く滲んでいる。これほど早くから関係を持っていたなら、なぜわざわざ詩音を巻き込んだのか。彼女をピエロにして楽しんでいたのか。その悪趣味さに反吐が出る。樹を非難する声が四方八方から上がった。ある友人が核心を突いた。「藤堂社長。詩音さんが逃げ出した理由がよく分かったよ。こんな仕打ち、プライドのある人間なら誰だって耐えられない!」玲奈は顔を真っ赤にして反論した。「樹は悪くないわ!詩音が勝手に式を放り出したんでしょう?私たちは被害者よ!」「道徳的にアウトだって言ってるんだ。二股どころか、結婚詐欺に近いじゃないか」「詐欺ですって?まだ結婚してないんだから詐欺じゃないわよ!」「江原さんのお姉さん、あんたも目を覚ました方がいい。妹を平気で裏切る男だぞ?いつかあんたも捨てられるのがオチだ。せいぜい泣きを見ないように気をつけるんだな」忠告してくれたゲストたちは、玲奈が聞く耳を持たず、あくまで樹を庇おうとする姿に呆れ果てた。これ以上ここにいても時間の無駄だ。彼らが今まで残っていたのは、単に野次馬根性からだったが、もう十分に見世物は堪能した。樹は押し黙ったままだし、玲奈のヒステリックな声など聞きたくもない。食事が出る気配もないし、潮時だ。ゲストたちは潮が引くように席を立ち、冷ややかな視線を残して会場を去っていった。盛大に行われるはずだった結婚式は、完全に崩壊し、街中の笑い話へと成り下がった。玲奈は悔し涙を浮かべ、樹の腕に縋りついた。「樹、どうにかしてよ!あなたを助けるために出て行ったのに、みんな誤解して私たちが悪いって……」だが、樹の口から出たのは、冷え切った言葉だった。「誤解じゃない。俺たちが彼女にしたことは、間違いなく裏切りだ」玲奈は言葉を失った。樹は彼女の手を振りほどき、何か言おうとする彼女を無視して歩き出した。今の彼に、玲奈の機嫌を取る余裕など微塵もなかった。頭の中は、一つの焦燥感で埋め尽くされていた。今すぐ、詩音を探さなければ。
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第14話

白い布の下にある膨らみは、ただの輪郭に過ぎない。だが、それだけで樹の心臓を鷲掴みにするには十分だった。彼は本能的な恐怖に駆られ、後ずさりしたくなった。検視官に促され、樹は重い足取りで遺体のそばへと近づいた。そして、たった一目見ただけで、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。遺体は長期間水に浸かっていたらしく、腐敗ガスで膨張し、生前の面影など微塵も残っていない。顔は判別不能なほど崩れている。だが、その醜い肉塊が纏っている衣服には見覚えがあった。確かに、詩音が着ていた服だ。立ち会った警察官は、樹の反応を見て察したようだった。だが、手続きとして確認しなければならない。彼は検視官と共に、腰を抜かした樹を抱え起こした。「藤堂さん。この遺体に……見覚えは?」樹は電気ショックを受けたように激しく首を振った。「違う……こんなの知らない!これは詩音じゃない!あいつは生きてるんだ、今日は俺と結婚式を挙げるはずだったんだ……そうだ、俺はこんな所にいちゃいけない、式場に戻らないと……」意味の通らない否定の言葉が、逆に残酷な現実を物語っていた。警察官は、彼がこれ以上ショックを受けないよう、水辺から引き離そうとした。だが、樹の感情が決壊した。彼は独り言を呟いたかと思うと、突然糸が切れた人形のように膝から崩れ落ち、泥土の上に跪いた。「ごめん……詩音、ごめん……ッ!」地面を拳で殴りつけ、子供のように泣き叫ぶ。嗚咽と共に、懺悔の言葉が口から溢れ出る。だが、どれだけ泣いても、どれだけ悔やんでも、もう遅い。彼女が残したのは、一生消えることのない後悔と苦痛だけだ。樹は長い間、ダム湖のほとりで跪き続けていた。現場検証が終わり、警察が引き上げようとしても動かなかった。最終的に、警官たちに説得され、半ば無理やり連れ帰らされるまで、彼はそこを動こうとしなかった。どうやって帰宅したのか、記憶が定かではない。気づけば、自宅の玄関で鍵を探していた。詩音は死んだ。この家にはもう誰もいないはずだ。そう思ってドアを開けた樹の目に飛び込んできたのは、煌々と明かりがついたリビングだった。もしかして、今までのことは全部悪夢だったのか?詩音が帰ってきて、待っていてくれたのか?樹は靴も脱がずにリビングへ駆け込んだ。だが、ソファに座って
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第15話

樹は、自分がそんなゴミを捨てた記憶はなかった。ならば、このSIMカードを捨てたのは詩音しかいない。あの時、彼女はここで荷物を整理し、不要なものを処分していた。これがその一つだとしたら、彼女は意図的に「過去」を切り捨てていったことになる。玲奈は、樹が床に這いつくばってゴミを漁っているのを見て、ヒステリックに叫んだ。「ねえ、聞いてるの?そんな汚いもの拾ってどうするのよ!家政婦を呼んで片付けさせればいいじゃない!」樹は彼女の言葉を無視した。何かに憑かれたように、震える手で自分のスマホからSIMトレイを引き出し、拾ったカードを挿入する。再起動した画面にアンテナが立つと同時に、通知音が鳴り止まないほどの勢いで着信履歴やメッセージが流れ込んできた。その多くは、結婚式当日に連絡が取れなくなった詩音を心配する友人や、騒動の真相を尋ねる知人からのものだった。樹自身がかけた数十件の不在着信の通知も埋もれている。だが、それらの中に混じっていたある「人物」からのメッセージ履歴を開いた瞬間、樹の全身の血が凍りついた。送信者は「お姉ちゃん」。つまり、今目の前で喚いている玲奈だ。そこには、樹が全く知らなかった「裏の会話」が、数え切れないほど保存されていた。彼が必死に隠し通せていると思っていた浮気の事実は、玲奈自身の手によって、逐一詩音に報告されていたのだ。それも、最も残酷で、悪意に満ちた言葉を添えて。樹は汗を垂らしながら、画面をスクロールした。【今夜、樹が星を見に連れて行ってくれるの。会社で残業があるから遅くなるって言ってたでしょ?あはは、そんな見え透いた嘘を信じるなんて、あんたって本当に哀れな女ね】【樹が言ってたわ。あんたはただの寂しさを埋めるための道具だって。彼の本当の愛は私にあるの】【どうしよう、雷が怖くて眠れないって言ったら、樹ったら土砂降りの中を駆けつけてくれたわ。あんたを一人家に置き去りにしてね。まさか本当に急な出張だなんて思ってないわよね?】【恋愛において、愛されていない方こそが「お邪魔虫」なのよ。詩音、あんたは一生私には勝てない】【愛されるなんて、実はすっごく簡単なことなの。あんたの友達も、知り合いも……ううん、私がその気になれば、あんたの大事な彼氏だって、すぐに私の旦那様に変えてみせるわ】【この哀れな負け犬さん
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第16話

樹の絶叫は、一時的に玲奈を怯ませるのに十分だった。彼女は驚いてビクリと体を震わせ、後ずさりした。だがすぐに気を取り直し、いつものように甘えた声で媚びようとした。「樹、そんな大きな声出さないでよ、怖いじゃない。もう反省してるから、今回だけは許して?ね?」彼女は体をくねらせ、樹の体にすり寄ろうとする。しかし、触れることすら叶わなかった。樹が汚らわしいものを払いのけるように、冷徹に彼女の手を振り払ったからだ。今回、樹が彼女に向ける視線は、もはや人間に対するものではなかった。まるで道端の石か、生命のない物体を見るような、絶対零度の眼差し。玲奈は本能的な恐怖を感じ、背筋に寒気が走った。媚びが通用しないと悟ると、彼女は態度を一変させた。金切り声を上げ、逆ギレしたように喚き散らす。「なによ!私が謝ってるのに、いつまで根に持ってるつもり!?だいたい、詩音が勝手に逃げ出して、勝手に死んだんでしょ?私が殺したわけじゃないわ!私だって被害者よ!」玲奈は目元を拭うふりをしながら、嘘泣きを始めた。「結婚式だってめちゃくちゃにされて、私の名前は招待状にも載ってないし、ウェディングドレスだって着てないのよ?こんな惨めな思いをしてるのに、あなたは私を責めるわけ?」彼女は涙を流しながらも、その主張はあまりに身勝手で、白々しかった。玲奈は開き直ったように、金切り声でまくし立てた。「だいたい、もう手遅れよ!あんな動画が流れて、私の評判は地に落ちたわ。どうしてくれるの?もうここまで泥を被ったんだもの……いっそ開き直って、私がこのまま『藤堂の奥様』の座に収まるのが一番合理的でしょう!」樹はあまりの怒りに、ふっと乾いた笑いを漏らした。「合理的……?よくもそんな都合のいい妄想ができるな」彼の瞳は絶対零度のように冷たく、唇だけが笑っていた。その表情は徐々に憎悪で歪んでいき、鬼のような形相へと変わる。樹は吐き捨てるように、冷酷な声で告げた。「いいか、よく聞け。俺の妻は、死ぬまで、いや死んでもただ一人……詩音だけだ!」玲奈もまた、ヒステリーを起こして金切り声を上げた。「いい加減現実を見なさいよ!詩音は死んだの!もうこの世にいないのよ!」「嘘だ……あいつは生きてる!」「生きてる?じゃあ連れてきなさいよ!文句の一つも言ってやるわ。『私に勝ったつも
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第17話

樹は震える手でインターホンを操作し、マンションの警備室に連絡を入れた。数分後、駆けつけた警備員たちによって玲奈は引きずり出されていった。ドアの向こうから聞こえていた汚い罵り声と泣き叫ぶ声は、やがて遠ざかり、静寂だけが残った。樹は動かなかった。荒れ果てたリビングの床に座り込み、そのまま一睡もせずに朝を迎えた。翌朝、太陽が昇ると同時に、彼は憑かれたように動き出した。だが、部屋に戻って休むためではない。発狂したように家中のクローゼットや引き出しを開け放ち、詩音の痕跡を探し始めたのだ。昼過ぎ、警察署から電話が入った。ダム湖で見つかった遺体の身元確認が進まないため、状況証拠から詩音と断定し、遺体を引き取って葬儀の準備をするよう促す内容だった。樹は受話器に向かって激昂した。「違う!あれは人違いだ!妻は死んでいない、ただの失踪だ!捜索願を出しに行く、彼女を見つけ出してくれ!」彼が頑として遺体を認めないため、担当刑事も困り果てた。刑事は仕方なく、より確実なDNA鑑定を行うために、詩音の私物――ヘアブラシや歯ブラシといった日常用品の提出を求めた。だが、樹は沈黙した後、力なく首を振った。「……すまない。何もないんだ」警察は彼が現実逃避しているのだと思い、諭すように言った。「藤堂さん、お辛いのは分かりますが、これでは捜査が進みません。協力していただけないと我々も困ります。たとえ失踪だとしても、手掛かりが必要です」「誤解しないでくれ。協力しないんじゃない、できないんだ」樹は喉から血が出るような思いで、真実を絞り出した。「彼女が……家を出る前に身の回りの物をすべて処分していったから、あなたたちが必要としている物は、この家に一つも残っていないんだ」刑事は言葉を失ったが、同時にごく自然な、純粋な疑問を口にした。「すべて処分した?……藤堂さん、あなた方は結婚式を挙げる仲だったのでしょう?どうしてそこまで他人行儀なのですか?」その言葉は、まるで不意に横っ面を張り倒されたかのような衝撃となって樹を襲った。彼は顔を真っ赤にし、あまりの情けなさと後悔で、一言も言い返すことができなかった。通話を切った後、樹は顔を覆い、獣のような声を上げて激しく泣き叫んだ。詩音が消えてから、彼が彼女のために本当の意味で涙を流したのは、これが初めてだった。
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第18話

樹は顔を戻し、再び一心不乱に謝罪の手紙を書き続けた。まるで永遠に終わらない作業のように。専務は困り果て、もう一度尋ねた。「では、会社のことはどうするのですか?社長、全社員があなたの帰りを待っているんです。皆の生活がかかっているんですよ」人として、最低限の責任は負うべきだ。だが、樹の心は微塵も動かなかった。彼は自分の世界に閉じこもったまま、顔も上げずに言った。「会社のことは好きにしてくれ。俺は株と配当さえあればいい……以前は仕事に時間を使いすぎたのが間違いだったんだ。もっと詩音と一緒にいてやるべきだった」そう言っている間も、彼の手からペンが離れることはなかった。専務は彼が完全に狂気に取り憑かれていると悟り、これ以上時間を無駄にするのをやめた。会社に戻るとすぐにその決定を発表し、事態は樹の望み通りに進んでいった。樹が部屋中を謝罪の手紙で埋め尽くす頃には、会社に彼の居場所はなくなっていた。業界内で彼の話題が出ても、人々が面白おかしく語るのは、あの茶番劇のような結婚式のことだけだった。彼は家から一歩も出ずに引きこもり、手紙を出しに行く以外は外との接触を完全に断った。家政婦でさえ、彼の姿を見ることはほとんどなくなった。彼女は一日三食を寝室のドアの外に置き、手つかずであろうとなかろうと、決まった時間に食器を下げるだけの日々が続いた。やがて、その異変を聞きつけた両親が駆けつけてきた。だが、変わり果てた息子を前に、彼らもまた無力だった。ただ泣いて、立ち直ってくれとすがるように頼むことしかできなかった。「樹、私たちにはあんたしかいないんだよ。もしあんたに何かあったら、お父さんとお母さんはどうやって生きていけばいいの?今の自分の姿を見てごらん。親の私たちが、入ってきた時に誰だか分からなかったくらい変わり果てて……」母は、部屋に閉じこもり、食事も摂らずに痩せ衰えていく息子を見て、気を失わんばかりに泣き崩れた。父の反応はそこまで激しくはなかったが、それでも胸を痛めているのは明らかだった。「一体どうしたいんだ?事情は全部聞いた。詩音さんのことは本当に不憫だと思う。だが、彼女はもういないんだ。本当にお前が後悔して償いたいなら、せめて彼女を安らかに眠らせてやるべきじゃ……」父は現実的な視点から真剣に諭した。だが、樹はそれを頑として受け入れな
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第19話

考えれば考えるほど、樹にはその選択が正しいことのように思えてきた。彼は一歩、また一歩と水辺へ近づいていく。心の中で、音のない声で詩音に語りかける――待っててくれ。今、行くから。彼が覚悟を決め、まさにその身を水面へと投げ出そうとした瞬間だった。少し離れた場所で釣りをしていた男性が異変に気づき、釣竿を放り出して猛ダッシュで駆け寄ってきた。男性は樹の体を後ろから羽交い締めにし、大声で叫んだ。「誰か来てくれ!飛び込み自殺だ!」「放せ!」樹は死に物狂いで暴れた。「邪魔をするな!俺は詩音のところへ行くんだ!」二人は水際で激しく揉み合いになり、あわや二人とも転落かという危険な状態になった。幸い、昼間だったこともあり、近くの集落の住人が通りがかった。叫び声を聞いた人々が一斉に駆け寄り、大人数で樹を取り押さえ、安全な土手の上まで引きずり戻した。死ねなかった。樹は、遠ざかっていく水面を見て絶望し、獣のような悲鳴を上げた。そして、通報を受けた警察が到着する前に、極度の興奮と疲労で意識を失ってしまった。ダム湖付近でまた自殺未遂があったとの通報を受け、警察が現場に急行した。彼らは保護した男が、あの行方不明事件の夫である樹だと気づき、呆れと困惑を感じながらも、大至急市内の病院へと搬送した。樹が再び目を開けた時、ベッドの脇には見張り番の警察官が立っていた。樹は彼と目が合うと、うわごとのように呟いた。「……詩音は、俺に会いたくないと言っているのか?」彼の記憶は、詩音に会いに行こうとして誰かに止められたところで途切れている。警察官は彼の精神状態が尋常でないことを察し、刺激しないように静かに尋ねた。「藤堂さん、自分が何をしたか分かっていますか?通りがかりの親切な人が引き止めてくれなかったら、あなたは今頃、水底で冷たくなっていたんですよ」郊外にあるそのダム湖では、毎年何人もの水死者が出る。警察はそこの水深の深さと、一度沈めば発見がいかに困難かを知り尽くしていた。樹はその言葉を聞いていたが、全く響いていない様子だった。彼は虚空を見つめ、焦点の合わない目で言った。「俺は死ぬつもりなんてなかった。ただ、詩音が呼ぶ声が聞こえたから、迎えに行こうとしただけだ。あいつは俺の裏切りを恨んで出ていったんだ。だから俺が命を懸けて彼女を選べば、きっと戻って
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第20話

警察官のその言葉は、樹がこれまで目を背け続けてきた真実を、あまりにも残酷に突きつけた。捜査は遅々として進まなかったが、樹の不眠症だけは時間の経過とともに悪化の一途をたどっていた。家に帰っても、一睡もできない夜が続く。深夜、静寂が訪れると、決まって幻聴が聞こえ始める。すぐそばで、詩音が優しく自分の名前を呼んでいる気がするのだ。だが、ハッとして目を開け、焦って彼女の姿を探しても、そこにあるのは冷たい空気だけ。結局、彼はひとりぼっちだった。ついに、樹はこの孤独と拷問のような日々に耐えられなくなった。謝罪の手紙で埋め尽くされ、足の踏み場もなくなった家を飛び出し、彷徨える亡霊のように街へと繰り出した。警察が役に立たないなら、自分で詩音を見つけるしかない。あんなに深く愛し合った二人だ。顔を見れば、きっと少しは情が湧くはずだ。賑わう歩行者天国の人混みは、樹の呼吸を困難にさせた。詩音がどこへ行ったのかも、どんな姿で去ったのかも分からない。心に残っているのは「彼女を見つけなければならない」という強迫観念だけだった。その時、詩音によく似た後ろ姿が視界に入った。樹は何も考えず、人を掻き分けて突進した。そのまま彼女を背後から強く抱きしめ、震える声で訴えた。「ごめん……!頼む、いや、お願いだ、許してくれ……!」抱きつかれた女性は彼のことなど知るはずもない。悲鳴を上げ、顔面蒼白になって周囲に助けを求めた。「きゃああっ!助けて!知らない男がいきなり……痴漢よ!」今の樹に、かつての洗練されたエリートのような面影は微塵もなかった。痩せこけた体に骨が浮き、手入れされていない髪はボサボサ。無精髭が伸びた顔は青白く、誰が見てもただの不審者かホームレスにしか見えなかった。「どうして知らないなんて言うんだ?俺だよ、樹だ。詩音、ずっと一緒にいようって言ったじゃないか。さあ、帰ろう……」彼は完全に自分の妄想の中にいた。通行人たちは関わり合いになるのを恐れて遠巻きに見ていたが、逃がさないように道は塞いでいた。機転の利く者がすでに警察に通報している。その時、近くでタピオカミルクティーを買う列に並んでいた女性の彼氏が、騒ぎに気づいて駆けつけてきた。自分の彼女が絡まれているのを見た男は、問答無用で拳を固め、樹の顔面を殴りつけた。精神が衰弱しきって
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