All Chapters of 消去するモレッティ夫人: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話

夫の愛人からの挑発は、二か月前に始まった。ベッドの上で絡み合っている写真。彼女の身体に溺れてる、とでも言いたげな生々しい文章。不倫している事実を、毎回これでもかと突きつけてくる。私はダンテを問い詰めなかった。黙って新しい身分の手配を進めた。そして自分で期限を切る――あと七日。シカゴ西部の廃倉庫。点滅する電球が、薄い黄色の光を落としていた。私は分厚い札束をテーブルの向こうへ滑らせ、フラットキャップの男に突き出す。「新しい身分が必要なの。名前はアヴァ」だだっ広い空間に、私の声が響き渡る。男は札を慣れた手つきで弾くように数え、ぱさぱさと乾いた音を立てる。「パスポート、免許証、全部ってことか?」「全部よ」私は膝の上の革のバッグを握ったまま、短く頷いた。「クレジット履歴付きの口座も」「倍だな」男が顔を上げる。薄暗い光の中で金歯がきらりと光った。私は迷わず、もう一束を差し出した。男はそれをジャケットに押し込み、身を乗り出して声を落とす。「一週間だ……だが忠告しとく。新しいIDを使った瞬間、過去のお前は死んだことになる」低い声が、空気を冷たくした。「モレッティ家の者は、この国のどこにでも潜伏している。痕跡を一つでも残せば、必ず辿り着く」私は立ち上がり、ヒールでコンクリートを鋭く鳴らした。「分かってる」決意はもう、鋼みたいに固まっていた。……二十分後。私はプライベートのタトゥーサロンのベッドに横たわっていた。除去レーザーの甲高い音が、胸の奥の鈍い痛みに不釣り合いなほど響く。鎖骨の鷲の紋章が、少しずつ、確実に消えていく。熱した鉄棒を何度も押し当てられるように痛い。それでも私は歯を食いしばって、声を出さなかった。五年間の記憶と、ダンテへの愛情が――ただインクと共に焼け失せていく気がした、それだけだった。……夜十一時。リンカーン・パークの屋敷へ戻った。八百万ドルのヴィクトリア朝の大邸宅。結婚祝いに贈られたはずの場所は、今の私には金ピカの檻でしかなかった。テレビをつけると、シカゴ・トリビューンの「マン・オブ・ザ・イヤー」インタビューの再放送が流れている。画面の中のダンテは、完璧に整えた黒髪をオールバックにし、深い茶色の瞳でカメラをまっすぐ射抜いていた。生まれつき支配者側の空気が、映像越しでも滲んでいる。
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第2話

「……うっかり火傷しちゃって、ガーゼをあてたの」自分でも驚くほど、声が冷たく響いた。ダンテの手が宙で止まる。かつて私が見つめるだけで迷い込んだ、あの茶色の瞳が疑念に揺れた。でも、もう違う。私は五年前の、世間知らずな音大生じゃない。モレッティ家の晩餐で完璧な笑顔を貼り付ける術も、血と裏切りの渦の中で、気品を失わずに生き延びる術も――もう身につけた。「プレゼントがあるの」ソファに置いてあった、深い青の箱を手に取り、テーブルの上を滑らせる。箱は軽い。中身は、私たちの結婚写真――爪ほどの大きさにまで、細かく切り刻まれていた。ダンテは箱を手に取り、驚きに満ちた表情で首を傾げる。「今日って、何かあったっけ?もしかして俺、何か忘れてる?」箱は開けず、そのままテーブルに置くと、彼は私の頬に手を伸ばしてきた。私は一歩下がる。完璧な笑顔は崩さないまま。「本当に覚えてないの、ダンテ?今日は、私たちの結婚五周年の記念日よ」まるで平手打ちでも食らったみたいに、彼の顔が強張った。一瞬だけ浮かぶ、嘘が露見した男特有の焦りと罪悪感。「アレッシア……ああ……」彼は私に手を伸ばす。「最近ファミリーのことでゴタゴタしてて、完全に――」「大丈夫よ」彼の体から漂う、別の女の匂いを吸い込まないよう、さりげなく身を引く。「分かってるわ」「いや、それで済むわけがない」彼は私の手を掴んだ。強い力で。「ちゃんと祝おう。今すぐ馬場に行こう。お前、あそこが好きだろ?昔みたいに馬に乗って、日の出を見るんだ」――昔、ね。一緒に乗馬したのは三年前が最後。あの頃の彼は、耳元にキスして「お前は俺の女王だ」と囁いていた。今の彼は、結婚記念日すら覚えていない。それでも私は頷いた。「……うん。いいわね」逃げる準備を整えるには、愚かな妻を演じ続けるしかなかった。午前四時。ダンテは無理やりロマンスを演出するかのように車を走らせ、私たちの結婚式の曲――「ラ・ヴィ・アン・ローズ」を流す。「忘れてて本当にごめん、ベイビー」ちらりと私を見る。「俺がお前をどれだけ愛してるか、分かってるだろ?」私は答えなかった。助手席のドアポケットに手が触れ、布の感触がした。引き出すと、安っぽい黒のレースのタンガが落ちてきた。……
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第3話

「ベイビー、きっと何か変なものを食べたんだ」ダンテはそう言って、私を車に戻し、水のボトルを差し出した。「病院に行こう」私は弱々しく首を振る。「大丈夫……最近、ちょっとストレスが溜まってただけ」彼は少し考え込み、それから言った。「明日の夜、ガラパーティーがある。気晴らしには丁度いいかもしれない」一拍置いて、わざとらしく微笑む。「モレッティ夫人。俺と一緒に来てくれる?」その瞬間、頭の中に鋭く冷たい考えが浮かんだ。私は微笑み返す。「もちろん。場所はウェスティンがいいな。あそこの料理、好きなの」ダンテの目に、一瞬だけ焦りが走る。けれどすぐに消えた。「もちろんだよ、ベイビー。お前の望むままに」すぐに部下に手配させる、と付け加える。彼の考えは、手に取るように分かっていた。私たちが同じホテルに現れたら、愛人と鉢合わせる危険が高すぎる。でも――体調の悪い妻のささやかなお願いを、断れるはずがない。屋敷に戻ると、ダンテは異様なほど甲斐甲斐しかった。スープを作り、ベッドから動くなと言い、毎時間、様子を見に来る。まさに完璧な夫と呼べるほどの振る舞いだ。けれど、彼の予備スマホには、はっきり残っていた。【予定変更だ。明日20時半、地下のプライベート・ワインセラーで会おう。人目がない。もっとスリリングだ。高級な赤ワインに囲まれながら抱き合うところを想像してみろ……】【最高!あなたの好みのあの赤いドレス着ていくね。下は何も着ない】シャワーの水音が止まり、私は現実に引き戻された。急いでスマホを元に戻す。タオル一枚を腰に巻いただけのダンテが出てくる。水滴が、鍛え上げられた胸を伝う。――五年前なら、心臓が激しく上下していたであろう。でも今は、ただ嫌悪しか生まれない。「少しは良くなったか?」ベッドの端に腰掛け、私の額に手を当てる。私は頷き、ふと思い出したように言った。「そうだ。渡し忘れてた」ナイトテーブルから、あの青い箱を取り上げる。「結婚記念日のプレゼント。渡すの、すごく楽しみにしてたんだ」彼が開けようとした、その瞬間。「――待って」私は彼の頬に指を滑らせる。「一週間、待ってからね。ちょっとしたサプライズだから」困惑した顔。「なんで一週間?」意味
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第4話

「後部座席に座りたいの」ホテルへ向かう車の中でそう言うと、ダンテは少し意外そうに私を見た。「どうして?いつも助手席だろ」――あの席に、彼の愛人が何度も座っていたと思うと耐えられなかった。ジェナがそこに腰を下ろし、甘えた声で囁き、途中で車を止めさせて体を求めていた光景を想像するだけで、胃の奥がきしんだ。でも、口にしたのは簡単な理由だけ。「今日は、少し広く使いたい気分なの」ダンテは深く考えなかった。彼にとって、私の違和感は取るに足らないものだった。ホテルに入ると、彼はいつものように私の腰に腕を回し、堂々とエスコートする。周囲の視線が集まる。羨望と畏敬が入り混じった、あの視線。この世界でモレッティ夫人であることは、多くの女にとって夢だ――その代償を、知らなければ。一族の幹部たちが次々と挨拶に来る。ダンテは私の背中から手を離さず、ワインを注ぎ、耳元で囁いた。「このボトルは二万ドルもする。だがそれでもお前の美しさには敵わない」昔なら、きっと頬を染めていた。今は、ただ滑稽に思えるだけ。彼の中で、私の価値は――二十二歳のバーテンダー以下なのだから。表向きでは、ディナーは何事もなく進んだ。ダンテは組織の話をし、ときどき私に意見を求める。私は完璧な妻を演じ続けた。上品で、聡明で、決して出しゃばらない女。20時20分。ダンテが腕時計にちらりと目をやる。「ベイビー、少し下に降りて取引先と会ってくる。三十分もかからない」「ええ、もちろん」私は微笑んだ。「ゆっくりどうぞ」数分後、気分が悪いふりをして席を立ち、ボールルームを出ると、私はダンテに電話をかけた。三回目のコールで出る。「どうした、ベイビー?」少し息が上がった声。「少しふらついて……」弱った妻を演じる。「いつ戻る?」「すぐ……あと十五分だけ」声がこもる。何かを必死に抑えているようだった。――そのとき、聞こえた。女の低い笑い声。甘く、粘つくような声。そして、小さな鈴の音。チリン、チリン。「ダンテ?どこにいるの?」心配そうな口調を崩さない。「オフィス……だ」荒い息。「取引先が今、来た」「ん……ダンテ……」背後で、女の喘ぎ声。私はスマホを握る手に力を込めた。その声は、間違いなくジェナだった。「声、変
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第5話

私は小さく笑った。まるで、彼が間の抜けた質問でもしたかのように。「友だちのマリアよ。ヨーロッパに行きたいんだけど、パスポートの期限が切れてて。更新の手続きについて聞かれただけ」声は軽く、自然だった。嘘の匂いは、どこにもない。「ほら、あの子ってこういうこと本当に疎いでしょ?」ダンテの表情はすぐに緩んだ。むしろ、少し照れたようにさえ見える。「ごめん、ベイビー」苦笑して言う。「一瞬さ……お前が俺の側からいなくなるつもりなのかと思った」その言葉に、近くのテーブルにいた他の妻たちが一斉にこちらを見る。――なんて深い愛情なのかしら、モレッティ夫人が羨ましいわ。私はワイングラスの向こうで、冷たい笑みを隠した。外から見れば、私たちは今も完璧な夫婦。少なくとも、そう見える。22時半。ディナーパーティーは終盤に差しかかり、レストランには私たち二人だけが残っていた。ダンテは近づき、私を抱き寄せる。「今夜は完璧だったな」その瞬間、とある匂いが鼻を突いた。葉巻の煙。高級ウイスキー。そして――安っぽいジャスミンの香水。ジェナの匂いだ。胸が焼けつくほど甘ったるいその香りが、夫の襟元や袖口から立ち上っていた。隠そうともしていない。それとも、自分がどれほど彼女の匂いを纏っているか、気づいていないのか。胃の奥が、激しくかき回される。私は彼を突き飛ばし、口を押さえてトイレへ走った。「アレッシア?ベイビー?」ダンテが追いかけてくる。便器の前に膝をつき、激しくえづく。胃は空っぽなのに、苦い胆汁と、抑えきれない怒りが込み上げる。「どうした?」彼は隣にしゃがみ込み、起こそうとする。「シーフードに当たったのか?それともワインの飲みすぎか?」彼の匂い――彼女の匂いが、また一気に押し寄せた。「……触らないで!」私は彼の手を振り払った。体が震える。「俺についた煙のせいか?」眉をひそめる。「打ち合わせで葉巻を何本か吸ったんだ。悪かった」その嘘を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗う。鏡越しに見る彼の目には、無垢な心配の色が映っていた。――本当に、何も分かっていないみたいに。「葉巻?」声は低く、唸るようだった。「これが何のことか……
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第6話

すぐに、もう一通のメッセージが届いた――エコー写真だった。白黒の画像には、小さな胎嚢がはっきりと写っている。右上には【8週間】の文字。【驚いた?ダンテに知らせたとき、彼、露骨に喜んでたわ、獣みたいにね。それにね、彼って本当に獣なの。あなたといるとのように……退屈じゃないのよ。ねえ、いつもあんなに抑えてるの?あなたには触りたいとも思わないからでしょ?でも私には……ああ、あの情熱、受け止めきれないわ】私は窓にもたれ、世界がぐらりと回るのを感じた。五年間、二人で願い続けた子ども。それが今、彼の愛人の腹の中で育っている。――祝福してあげるべきかしら。さらにメッセージが届く。【そうそう、明日ラスベガスに連れて行ってくれるの。まさにロマンチックな旅行!ってね】私はスマホの電源を切り、医師の方を向いた。「先生、もう帰らせてください」「でも、ご主人が――」「自分で伝えます」私は弁護士事務所へ向かった。必要なのは、離婚協議書。「財産分与について、ご希望は?」弁護士が尋ねる。モレッティ家の力をよく理解している私は、金のために長引く争いなど望んでいなかった。「婚姻期間中の共有財産、法的に認められた額の50%だけで結構です。そのお金が口座に入ったら、全額寄付してください」欲しいのは、自由だけ。弁護士の目に一瞬驚きが浮かんだが、すぐにうなずいた。二時間後、私は離婚書類を手に事務所を出た。シカゴの空は重く曇り、嵐を予感させている。スマホが鳴った。ダンテ。「ベイビー、本当にごめん。仕事が思ったより長引いて……今どこだ?」「家よ」私は嘘をついた。「分かった、すぐ戻る。でも……」彼の声がためらう。「明日、急なファミリーの用事でラスベガスに行かないといけないかもしれない。複雑な案件で、来週まで戻れないかも」――彼とジェナのロマンチックな旅行。「分かった」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「怒ってないのか?」ダンテは意外そうだ。「タイミングは悪いけど、ファミリーの仕事だし……分かってくれるよな」「分かってる」「アレッシア」彼の声が急に優しくなる。「愛してる。分かってるよな?」私は手にした離婚書類を見下ろし、最後の質問をした。「ダンテ」静かに。「あなたが他の人を愛することって、あり得る?」
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第7話

――残り三日。私は化粧台の前に座り、鏡の中の自分を見つめていた。長い黒髪、完璧に整えたメイク、首元にはダンテが贈ったダイヤのネックレス。すべてが完璧で――すべてが嘘だった。スマホがまた震える。写真が送られてきた。ラスベガスの高級スイートで、ダンテとジェナが絡み合っている写真だ。シャンパン、バラの花びら、裸の身体。【私と赤ちゃんには、これくらい豪華なホテルじゃなきゃって言ってくれたの。あなたのハネムーンスイートより素敵でしょ?】私は無視して、スイスのプライベートバンクにいる個人アドバイザーへ電話をかけた。「モレッティ夫人、お電話ありがとうございます」「口座内の資金をすべて、現金と持ち運び可能な資産に換えて。今日中に」――残り二日。私はマリアと最後の別れをした。彼女は、私にとって唯一の本当の友人だった。「アレッシア……顔色、よくないわ」マリアは心配そうに私を見る。「シカゴを離れるの」私は回りくどいことを言わなかった。「出張?」「永遠に」マリアは一瞬黙り、それから静かにうなずいた。「そう……手伝えることは?」それが、私が彼女を愛していた理由。詮索せず、ただ支えようとする。「別に。でも……」私は小さな包みを手渡した。「これは、あなたに」マリアが開けると、中には二十万ドル相当のエメラルドのネックレス。「アレッシア、こんなの……」「親友への贈り物よ」私は彼女を抱きしめた。「元気でね、マリア」美術館を出た瞬間、またメッセージが届く。【今夜のオークションで、三百万ドルのブレスレット買ってもらったの。綺麗でしょ?モレッティ夫人でいられる残りの日々を、せいぜい楽しんで】私はその番号をブロックした。――最後の日。午前三時。屋敷は墓場のように静まり返っていた。ウォークインクローゼットに立ち、何百万ドル分もの服や宝石、バッグを見渡す。エルメスのバーキン、シャネルのスーツ、カルティエのダイヤ。かつては、成功した女の証だと思っていた。今はただ、金色の檻にしか見えない。四時きっかりに、慈善団体のスタッフが来た。私はすべてをトラックに積み込むのを手伝った。「モレッティ夫人、本当に全部寄付なさるんですか?」若いボランティアが目を見開く。「これ……値段なんて付けられないのに」「だからこそよ。必
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第8話

ダンテは、まっすぐ屋敷に戻るつもりだった。――少なくとも、車に乗り込むまでは。背後から、ジェナの腕が腰に絡みつく。柔らかい体温と、甘ったるい声。「まだ行かないで……遊び足りないの」耳元で囁かれ、指先が彼の胸にゆっくりと模様を描く。「あなた、言ってたでしょ?奥さんは退屈な陶器人形のようだって。もう一晩くらい、なんてことないよね?明日帰ればいいじゃない」ダンテは、一瞬だけ迷った。確かにそうだ。アレッシアは、こんなふうに引き止めたりしない。五年間の結婚生活で、彼女はいつも黙って待っていた。夜遅く帰ろうが、出張が続こうが、不満を口にしたことは一度もない。――それが、当たり前だと思っていた。「……分かった」ダンテは荷物を床に置いた。「でも数時間だけだ。今夜中にシカゴへ戻る」数時間後。セックスとシャンパンに溺れた意識が浮上したとき、窓の外はすでに白み始めていた。「……くそ」腕時計を見て、ダンテは跳ね起きる。慌ててアレッシアに電話をかける。【おかけになった番号は、現在使われておりません】……使われていない?そんなはずはない。モレッティ夫人の電話は、二十四時間つながる。それがファミリーの暗黙のルールだ。胃の奥に、嫌な感覚が広がった。「どうしたの、ダーリン?」シルクのローブを羽織ったジェナが、気だるそうに近づく。「ひどい顔してる」「アレッシアに繋がらない」眉をひそめ、もう一度発信する。「寝てるだけじゃない?」ジェナは肩をすくめる。「それか、あのヴァイオリンの練習。あなた、いつも言ってたでしょ。あの人、つまらない趣味が大好きだって」だが胸のざわめきは消えない。ダンテは無言で服を掴み、着替え始めた。「私を置いて行くの?」ジェナの声が鋭くなる。「さっきまであんなことしてたのに、彼女のところへ戻るの?」「彼女は俺の妻だ」振り返りもせず、ダンテは言い捨てる。「帰らなきゃならない」「妻?」ジェナは嘲笑った。「ベッドの中じゃ、そんなこと言ってなかったわ。冷たい、退屈、ただの飾りだって――」「もういい」ダンテが振り向いた瞬間、部屋の空気が凍る。危険な光を宿した視線。そのとき、スマホが鳴った。コンシリエーレだ。「ボス。八時からカ
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第9話

ダンテは、人気のないリビングの中央に立ち尽くした。イタリア製のレザーソファ。値段の付けようもないシャンデリア。壁に掛けられた名画。すべて、あるべき場所にある。――なのに、空気だけが違う。アレッシアの香水。あの、微かだが彼女だけの匂いが、どこにもない。五年間、その香りは家の隅々まで染み込み、ここを「家」にしてきた。今あるのは、清掃用洗剤の無機質な匂いだけ。ダンテはインターホンを叩き、スタッフ棟を呼び出す。「……はい?」若いメイドの声。「アレッシアはどこだ」「え……ボス?」戸惑いが滲む。「もう夜の十一時です。いつもなら、この時間は書斎にいらっしゃいますが……」「いつ出て行った」「分かりません。私は一日中ランドリーにいまして……」通話を切り、ダンテは階段を駆け上がった。一段ごとに、胸の奥が重くなる。書斎――暗い。音楽室――空。主寝室の扉が、わずかに開いていた。化粧台へ向かう。そこにあるはずのものが、何もない。ジュエリーも、写真も、スキンケア用品も。代わりに、磨き上げられた木目の中央に、写真一枚と、折りたたまれた紙。ダンテは写真を手に取り、息を呑んだ。アレッシアの鎖骨の写真だ。そこにあったはずのモレッティ家の紋章は、消えている。残っているのは、薄く白い傷跡だけ。――消されたのだ。完全に。震える指で、紙を開く。【あなたとジェナのことは知っている。もう終わりよ】署名も、日付もない。冷たく、整った文字。まるで契約解除の通知書だった。「……あり得ない……」ウォークインクローゼットを開ける。服はある。――彼のものだけが。彼女のドレスも、バッグも、スリッパさえも、すべて消えていた。残っているのは、虚しく揺れるハンガーだけ。ダンテは狂ったように電話をかける。【おかけになった番号は、現在使われておりません】何度かけても、結果は同じだった。マリアにかける。「あなたは彼女の夫でしょ?」冷たい声。「あなたが知らないのに、どうして私が知ってると思うの?」通話が切れる。ようやく気づく。五年も結婚していたのに、彼は妻のことを、ほとんど何も知らなかった。「マルコ」声は掠れ、低く唸る。「持てるものすべて使え。二十四時間以
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第10話

ダンテはソファから跳ね起きた。――金だ。金を送ればいい。大金を。少なくとも一千万ドル。彼女がどこにいようと、どんな生活を選ぼうと、金は必要になる。アレッシアがどこかで困っているかもしれない――そう思うだけで、胸が耐え難く締めつけられた。そして、もしかしたら。もしかしたら、その金が彼女の怒りを少しだけ和らげるかもしれない。この善意が、連絡を取らせるきっかけになるかもしれない。ダンテは迷いなく、アレッシア名義の極秘口座番号を打ち込んだ。モレッティ・ファミリーの中枢だけが知る、彼女専用の口座だ。――次の瞬間。画面に、エラーメッセージがポップアップ表示された。【送金失敗:送金先口座は永久に閉鎖されています】ダンテは、画面を見つめたまま動けなくなった。まるで、二人をつないでいた最後の細い糸が、音もなく切れたようだった。指先が震え、心臓が肋骨を打ち破りそうなほど激しく脈打つ。今感じているのは、これまで味わったことのない恐怖。ビジネスで命を賭けた交渉の緊張でもない。ファミリーの抗争で追い詰められたときの焦燥でもない。ただひたすら、底の見えない、純粋な恐怖だった。――彼女は、ただ去ったのではない。自分が存在していた痕跡そのものを、消そうとしている。ふと、思い出す。アレッシアは昔、個人ブログを書いていた。もしや……そこに何か残っているかもしれない。一時間後、雇っているハッカーの一人からリンクが届いた。最初の投稿は、六年前。【今日、とても興味深い男性に出会った。彼は自分をビジネスマンだと言うけれど、私には夜空の星みたいに見える。遠くて、謎めいていて、でも目が離せない】【Dがヴィヴァルディの『四季』を聴きに連れて行ってくれた。コンサートのあと、ミシガン湖のほとりを長い時間歩いた。『誰かとクラシックを聴いたのは初めてだ』と彼は言った。もしかしたら、私は彼の人生で初めてになることが、たくさんあるのかもしれない】【私たちは結婚した。Dはゴールドコーストのヴィラで、小さな式を用意してくれた。派手な装飾も、複雑な儀式もなく、私たちと神父だけ。『お前だけでいい。他に立ち会う人はいらない』と言われた瞬間、私は世界一幸せな女だと思った】……ダンテは、次から次へと読み進めた。出会い。恋。結婚初期の穏やか
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