Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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第1話

エアコンは26度に設定されているのに、私の心はどんどん冷えていくのを感じていた。手には、まだプレゼント用に包装できていない、陽性反応が出たばかりの妊娠検査薬があった。ほんの数分前まで、私はこのサプライズを知ったら前田勲(まえだ いさお)がどんな顔をするか、ワクワクしながら想像していたのに。きっとプロポーズの時みたいに、目を潤ませて私を抱きしめてくれるはず。そして、まだ何も聞こえないって分かっていても、そっと私のお腹に耳を当てるんだろうな。だって、勲は誰もが認めるほどの愛妻家なんだから。私が「南区のケーキが食べたいな」ってつぶやいただけで、土砂降りの中でも彼は、2時間も車を走らせて買って来てくれていた。胃が痛いと言えば、わざわざ胃に優しいレシピを探してきては手料理を作ってくれたりもした。極めつけは、私たちの結婚式のために、60億円もの契約を断って、自ら海外までウェディングドレスを選びに行ってくれたことだ。それなのに……半開きになった書斎のドアの前に立った私は、隙間から漏れ聞こえてくる会話を、聞いてしまったんだ。「上田家との話はついたのか?」勲の声は、私が今まで聞いたこともないほど冷たかった。「社長、上田さんの検査結果が届きました。体外受精は成功です」秘書の小野哲也(おの てつや)の声は緊張しているみたいだった。「しかし……これは、上田さんがあまりにもお気の毒です。それに、もし石田(いしだ)さんがお知りになったら……」「黙れ」勲は哲也の言葉を、冷たく遮った。「美羽には重い遺伝病があって、自然に子供を授かるのは難しい。それでも彼女は子供が欲しいって言うし、そして俺も、上田家に恩を返さなければならないから、これは取引だ」その話し声と共にカチッ、とライターの音がして、タバコの匂いが漂ってきた。「生まれた子は上田家の籍に入れる。俺は恩を返し、向こうは子供を手に入れる。これでチャラになる」勲はそう言って煙を吐き出しながら、まるで仕事の話でもするように淡々と続けた。「遥のことは……」そこまで聞いて、私は、息をするのも忘れていた。「遥は純粋すぎる。こんな汚い話は、絶対に知られてはいけない」勲の声は少しだけ優しくなった。でも、その言葉には私がぞっとするような、恐ろしい独占欲が潜んでいるようだった。「結婚式も近いんだ
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第2話

朝の7時。ダイニングテーブルに座っていると、タブレットに共有カレンダーの通知が表示された。勲が共有設定を切るのを忘れていたみたいだ。【9:30東都私立病院、東都不妊治療センター、VIP診察室3、上田さん・再診。備考:関係者用通路は避けること】その通知画面を私は数秒見つめてから、無表情でスワイプした。それから階段から足音がして、勲が下りてきた。仕立てのいいスーツを着て、手には老舗の紙袋を提げている彼の額にはうっすらと汗も滲んでいた。「遥、起きてたのか?」勲は紙袋を私の前に置いた。その眼差しは溺れてしまいそうなほど優しい。「3つ先の通りまで走って買ってきたクリームパンだ。温かいうちに早く食べて」私はそれを手に取って、一口かじった。だが、甘ったるいクリームが舌の上でとろけるのを感じて、胃のムカムカが一向に治まらなかった。「こんなに朝早くから、疲れないの?」私は目を伏せたまま、淡々とした口調で尋ねた。「お前のためなら、大したことないさ」と勲は笑い、ブラックコーヒーを一口飲むと話を続けた。「そうだ遥、会社で最近、西区の大きなプロジェクトを受注したんだ。取引先が厄介でね。しばらく残業しなきゃいけないから、夜ご飯は外で済ませてくるよ」西区のプロジェクト……東都病院も、西区にある。そう思って私は食べ物を飲み込んで、勲を見上げて言った。「そんなに大事なプロジェクトなの?」「前田家の下半期の株価を左右するからな」勲の表情は真剣そのものだった。「俺たちの未来のためだ。頑張らないと」昔の私なら、きっと勲を抱きしめて、無理しないでねって言っていたはずだ。でも今は、「仕事熱心」で「愛情深い」って書いてあるみたいなその顔を見てるだけで、吐き気がするほど嘘くさく感じて仕方がないのだ。だから、「あまり無理しないでね」と私はただそう言ってティッシュで口を拭いた。勲は私の素直な態度に満足したのか、身を乗り出して手を握ってきた。「このプロジェクトが終わったら、新婚旅行に行こう。好きな場所を選んでいい。俺が全部手配するから」その手は乾いていて温かい。かつてそれは、私にとって一番の安らぎだった。でも今は、それに嫌悪感しか感じないのだ。「どこでもいいよ」私はさりげなく手を引き、ごまかすように牛乳のカップを持ち上げた。「ねえ、勲。私たち、いつ子供
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第3話

そして午後には、アフロテラ共同体支援プロジェクトへの参加申請を済ませた私は、近くのカフェに座り、留守番中の猫の様子を見ようと、遠隔で監視カメラをつけた。すると、午後3時40分、玄関に人の気配があった。勲がドアを開けて入ってきた。靴も脱がず、慌てた様子だった。そしてすぐに、彼の腕に絡みつく一本の手が見えた。美羽は、私が前に欲しがった服を着ていた。露出が多すぎると勲に反対されて諦めた、あのキャミソールドレスだ。美羽はそれを着て、堂々と私の家に上がり込んだ。「勲さん、今すぐ取りに戻らないとダメなの?誰かに頼めばいいじゃない?」と、美羽が甘ったるい声を出した。「例の輸入薬なんだけど、家の保冷庫にしか置けないんだよ」勲の声は少し苛立っていた。でも、彼は美羽を支えながら、私がいつも座っているソファに座らせた。「座って、動くなよ。先生も言ってたろ、安静にしてないと、お腹の子が危ないって」一方、私はその画面を見つめながら、「通話」ボタンに指を置いた。これを押せば、すぐに問い詰められる。そう思ったが、私は指を離した。今ここで問い詰めても、「家のためのことだ」とか言われるだけ。最悪、「物分かりの悪い女」だと逆ギレされるかもしれない。私がしたいのは、ただの口喧嘩じゃない。一撃で息の根を止めて、あと腐れがないようにすることだ。しばらくして、画面の中では、勲がすぐに携帯用の保冷ケースを持って現れた。「行くぞ」「やだ。喉が渇いたし、なんか気持ち悪い」美羽はソファから動こうとしない。そして、挑発するように、私のテリトリーを見回した。「わがまま言うな。遥は、他人に自分のものを触られるのが嫌いなんだ」勲は眉をひそめた。「どうせいないんだから、いいじゃない。何をそんなに怖がってるの?」美羽は口をとがらせた。勲は黙り込んでしまった。そして、本当に美羽のために水を取りに行った。その瞬間、私は勲が汚らわしいだけじゃなく、惨めなくらい情けない男だと思った。そのあと二人が家を出てから、私はカメラの電源を切った。そしてあのソファも、この家も、すべてが気持ち悪く思えた。夜10時。いつものように、勲から電話がかかってきた。「遥、もう寝たかい?」その声に、風の音が混じっていた。「ううん、まだ。本を読んでる」私はベッドにもたれ、二人の
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第4話

翌日、ネットニュースに【前田グループの社長、東都不妊治療センターに頻繁に出入り。なにやらおめでたいニュースがあるかも?】という記事が一瞬だけ出て、すぐに削除された。その日家に帰ってきた勲は、わざわざワスレナグサの花束を買ってきた。ワスレナグサは「私を忘れないで」という意味で、勲が一番好きな花だった。「週刊誌の憶測だよ」勲はネクタイを緩めながら私の様子をうかがった。「あの病院へ行ったのは、最新の不妊治療ができると聞いたからだ。遥、俺たちの赤ちゃんのために、まず体を最高の状態に整えたいんだ」勲は花瓶に花を生けながら、愛おしそうに言った。「遥に、一番健康な赤ちゃんを産んでほしい。これって、間違ってるか?」ただ、勲のスマホで見た【勲さん、今日の検診、赤ちゃんは順調だった。ただ、ちょっと疲れちゃった】というメッセージを見ていなければ、私も彼の嘘を鵜呑みにできたのかもしれない。そう思いつつ私は言った。「あなたはいつも本当に気が利くわね」私は花束を受け取り、指先で花のトゲに触れた。「『私たちの家庭』のために、あなたも大変ね」それを聞いて、勲は明らかにほっとした様子で、私の肩を抱きしめた。「お前が喜んでくれるなら、これくらいどうってことないさ」次の日、勲が会社に行っている間に、私は実家に寄った。実家の庭は花の甘い香りに満ちていた。両親は楽しそうに新婚旅行の計画を立てていた。「遥、この島はどうかしら?私たちはもう計画も立てているのよね」母は満面の笑みだった。両親の白髪まじりの髪を見て、私は胸が締め付けられ、必死に涙をこらえた。「母さん、新婚旅行は急がなくていいから」私は分厚いファイルを取り出し、一緒に来てもらった弁護士に渡した。「陣内(じんない)先生、これは勲が私にくれた資産の証明書です。全権を委任しますので、すべて私の両親名義の信託口座に移して、先生に管理をお願いしたいんです」彼は驚いた。「石田さん、これは一体……」「もし……私がすごく遠い場所で仕事をすることになって、管理ができなくなった時のための……私の両親の老後のための資産です」そう言って私は父のゴツゴツした手を握った。「父さん、母さん、私は叶えたい夢があるの。だからすごく遠くて、電波も届きにくいかもしれない場所へ行く予定よ。でも、心配しないで。私は元気にやっていくか
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第5話

そして、退職の手続きをした日は、冷たい雨が降っていた。編集長は戦場記者への派遣申請書を私に差し出し、深いため息をついた。「石田さん、本当に決めたのか?あそこは、本当に命の保証がない場所だぞ」「覚悟はできています」私はためらうことなく、書類にサインをした。編集部を出ると、同僚たちが噂話をしようと集まってきた。「遥さん、寿退社して妊活に入るって本当?前田社長って優しいのね。デスクがお花でいっぱいじゃない?」私は自分のデスクの隅に目をやった。そこは勲から贈られた花で埋め尽くされている。でも、2週間前に贈られた胡蝶蘭は、手入れもされずに黄色く枯れ、花びらがはらりと落ちていた。まるで死んだ蝶のようで、まるで、私たちの結婚を物語っているようだった。「ええ」私は微笑んだ。「盛大な結婚式にするつもりだから、みなさんもぜひ来てくださいね」そう言うと、私はその場を後にした。そして家に着くと、勲が眉間にしわを寄せて立っていた。「遥、悪い知らせがある」勲は私の手を握り、重い口調で言った。「海外から空輸したメインのウェディングドレスが、輸送中にレースがほつれてしまったらしい。修理が終わるのは、結婚式の当日になるそうだ」私は、失望に満ちた目で勲を見つめた。だが、つい10分前、私は彼の車のドライブレコーダーの映像を見てしまったのだ。郊外のプライベートスタジオで、勲は私たちの結婚式のためにオーダーメイドした白いタキシードを着て、美羽のウェディングベールを直してあげていた。美羽はオフショルダーのサテンのドレスを着て、楽しそうに笑いながら、勲に寄りかかっていた。一方勲も美羽を突き放すどころか、愛おしそうに彼女の鼻をツンとつつくだけだった。その優しい眼差しは、私にプロポーズしてくれた時にも見たものだった。そう思い巡らせながら、「大丈夫よ」私はそう言って勲の手を握り返したが、指先は氷のように冷たかった。「急いでないから」すると勲はきょとんとして、申し訳なさそうな顔をした。「遥、お前は本当に物分かりがいいな」彼はしゃがみこむと、私の足を自分の膝の上に乗せた。「仕事でまた足が浮腫んだんだろう?マッサージしてあげるよ」勲の指は長くて、力加減もちょうどいい。私のために、わざわざ覚えてくれたマッサージだ。「力加減はいかが?」勲は顔を上げ、優
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第6話

次の日、哲也が美羽を送り届けてきたのは、ちょうど日が暮れた頃だった。「遥」勲は申し訳なさそうに笑いながら、もみ手をしていた。「こちら美羽、上田グループの会長のお嬢さんなんだ。最近ちょっと塞ぎ込んでて、医者からも一人にしないようにって言われててね。上田会長に数日預かってほしいと頼まれたんだ。新居は静かだし、ちょうどいいと思って」そう言われ私はソファに座ったまま、すっかり冷めてしまった水を手に、美羽のことを見つめていた。ベージュのニットに、ヒールのない柔らかな靴。顔色も良いみたい。「石田さん、お邪魔します」美羽はか細い声で言った。「勲さんから、石田さんは穏やかな方だからと聞いていましたので、きっと受けいれてくださるんですよね」そう言われ、私が置いたグラスが、テーブルの上でカチャンと乾いた音を立てた。「ええ、もちろんお構いなく」私は立ち上がるとスカートの裾を整え、感情のこもらない笑みを浮かべた。「山下さん、2階の南向きのゲストルームの用意をお願い」それを聞いて勲はほっと肩の力を抜き、感動したような顔で言った。「遥、ありがとう。お前が一番物分かりがいいって、わかってたよ」勲が私を抱きしめようとしたけど、美羽の「あっ」という声に遮られた。「勲さん、なんだかクラクラする……」美羽は玄関の棚に手をつき、今にも倒れそうに体を揺らした。すると、私に向かって伸ばされた勲の手は、くるりと向きを変え、大股で美羽を支えに行った。「貧血かな?早くソファに座って」寄り添いあう二人の後ろ姿を見て、私はまるで自分が邪魔者みたいに感じた。さらに、夕食のメニューまで、明らかに勲が前もって決めていたもののようで、テーブルには、野菜のおひたし、魚の蒸し物、鶏と野菜の煮込みといった、あっさりしたものばかりが並んでいた。辛いものが大好きな私の前には、白ごはんの入ったお茶碗が一つだけ。「美羽は体が弱っているから、味の濃いものは食べられないんだ。だから、ここ数日は薄味でお願い」そう言って勲は料理を取り分けつつ、続けた。「遥、お前も胃を休めなよ」しかし、私はそれを見ていると、胃がむかむかしてきた。「勲さん、本当に優しいのね」一方、美羽は料理を受け取ると、挑発するように私に視線を投げた。「石田さんも気にかけてあげてくださいね。勲さんたら、私の病気のこと
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第7話

それから30日になると、勲は隣県へ出張だと言ってきた。「日帰りだ。戻ったら、お前のウェディングドレスの最終フィッティングに付き合うから」玄関で靴を履き替えながら、勲は慌ただしい口調で言った。別れのキスも、どこか上の空だった。一方玄関から出ていくその後ろ姿を見送ってから、私はくるりと向きを変え、2階へ上がった。美羽は私を見ると、挑発するような視線を向けてきた。「石田さん、本気で勲さんがあなたのことを愛してると思ってるんですか?本当に愛してる男が、こうも毎回あなたを放っておけるわけないじゃないですか」そう言われ私は足を止め、振り返った。「だから、何です?」「身の程をわきまえてるなら、自分から出ていくべきだって言っているのよ」そう言って美羽は階段のところまで来て続けた。「勲さんの将来の妻は、私なんですから」嫉妬で歪んだ美羽の顔を見ていると、なんだかおかしくなってきた。「そんなの私にとってはどうでもいいものよ。あなたが欲しいなら、どうぞ」そう言って、私は背を向けた。その時、玄関の電子ロックがピッという音を立てた。美羽の表情がさっと変わり、持っていた赤ワインを自分の顔に浴びせると、そのまま階段に座り込んだ。そして、甲高い悲鳴をあげた。「きゃあ!石田さん、押さないでください!」すると、勲は、手にしていた車のキーを床に落として叫んだ。「美羽!」すぐに勲は階段を駆け上がってくると、その目は焦りでいっぱいだった。そして私の横を通り過ぎるなり、躊躇なく私に平手打ちした。殴られた衝撃で顔が横に振られ、耳がキーンと鳴った。だが勲は私を一瞥もせず、膝をついて美羽を抱きかかえた。そして、震える声で尋ねた。「大丈夫か?どこか怪我は?」美羽は勲の腕の中で震えながら言った。「勲さん……石田さんを責めないで。きっと私のせいで、かっとなっちゃったのよ……私がここにいるのがいけないの。すぐに出ていくから……」「馬鹿なこと言うな!」勲は目を真っ赤にして、私を睨み上げた。その眼差しに優しさは微塵もなく、嫌悪と激しい怒りだけが宿っていた。「遥、いつからそんなに根性の悪い女になったんだ?美羽がうつ病だって言っただろうが、少しは思いやれないのか?それに、彼女がここに住むのは、お前も了承済みじゃないのか!」それを聞いて私はゆっくり
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第8話

翌日、東都大聖堂。長い廊下は、空輸された数千本のワスレナグサで埋め尽くされている。メディアもカメラを構えて準備万端だ。「前田社長、奥様は今日、さぞお美しいでしょうね?」と、記者がお世辞を言った。勲はそつなく微笑んで答えた。「彼女は、いつも美しいですよ」そう言って勲は腕時計に目を落とした。時刻は11時50分。もうすぐ、愛する女性を妻に迎えられる。結婚式が終わったら、美羽を海外で出産させよう。勲はそう心に決めていた。私が機嫌を損ねても、少しご機嫌をとって、家でも数軒プレゼントすれば、いつものように許してくれるはずだ。だって、私は、彼のことをあんなにも愛していたのだから、そう思っているのだろう。一方サイドドアの近くに、美羽が立っていた。デザイン性の高い白いドレスを着ていて、招待客の中でもひときわ目立っている。そのドレスは、ブライズメイドにしては豪華すぎるくらいで、ウェディングドレスだと言っても過言ではないほどのデザインだった。それを見て、勲は眉をひそめ、哲也に目配せして美羽を外へ連れ出すよう指示した。時刻は、11時58分になった。本来なら、教会の扉が大きく開かれ、花嫁が入場してくるはずの時間だ。しかし、重々しい扉は、固く閉ざされたままだった。その時、勲の背後にあった巨大なLEDスクリーンが、突然明るくなった。波形が画面で揺れ動き、勲の冷酷な声が聖堂に響き渡った。「美羽は体が弱い。上田家の血を継ぐ子供が必要なんだ。体外受精が成功したことは、絶対に遥には知られてはならない。子供が生まれても、別の場所で育てて、遥の前にさえ現れなければ、裏切りにはならないさ」その瞬間招待客たちの間に、どよめきが広がった。勲の顔から笑みが消えた。彼は音響ブースに向き直り、叫んだ。「消せ!今すぐ消すんだ!」しかし画面が切り替わり、今度は高画質の監視カメラの映像が流れ始めた。勲が跪いて美羽に靴を履かせたり、高級なデザートを食べさせたりしている場面だった。続いて、スライドショーのように次々と写真が映し出される。勲のサインが入った体外受精同意書、美羽の妊娠検査結果……すると会場は一斉にフラッシュの嵐となり、シャッター音が鳴り響いた。祭壇の上に立つ勲の顔は、真っ青だった。混乱する人々を前にして、彼は初めて、骨
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第9話

片や、勲は床にひざまずいた。「ありえない!遥が俺のもとを去るなんて……お腹の子を傷つけるはずがない!そうだ、身分証明だ。あれさえあれば、遥は東都からは出られない!」勲はふらつきながら、金庫へと這っていった。金庫が開いた瞬間、勲の手は震えていた。遥の身分証明を入れていた場所は、空っぽだった。そこには、薄っすらとほこりが積もっているだけだ。「ありえない……」喉が締め付けられるようだった。勲は隠し棚のふちに指をかける。「きっと俺を試してるだけだ。いつものように、怒っているだけなんだ……」その時、指先に硬いものが触れた。隠し棚の中にあったのは、きれいに畳まれた古いシャツだった。真っ白なシャツの袖口には、もうほつれてしまったワスレナグサの刺繍があった。5年前に、遥が一番気に入って着ていたものだ。遥はいつも「なくしちゃった」と言っていた。勲はシャツを広げた。カチャン。半分に割れたお守りが、床に転がり落ちた。それを見て勲は固まった。そして、彼は震える手でそれを拾い上げた。そして、スーツの内ポケットからもう半分の飾りを取り出す。この5年間、ずっとそれを肌身離さず持っていた。美羽が、自分を助けた時に首から引きちぎられたものだ、と言っていたからだ。2つに割れたお守りは、その断面がぴったりと重なった。ドン。記憶が、頭の中で爆発したように蘇った。5年前の雨の夜。西区環状線で起きた、玉突き事故。車は炎上し、意識が朦朧とするなか、誰かが必死に自分を車から引きずり出してくれた。割れたガラスがその人の腕を切りつけ、血がその女性の胸元のお守りを赤く染めていった……「勲!寝ないで!私を見て!」その人のかすれた泣き声が、雨の夜に響き渡った。しかし、目を覚ました時、ベッドのそばには美羽がいた。腕には真っ白な包帯が巻かれ、半分に割れたお守りを握りしめて泣いていた彼女は言った。「勲さん、あなたを見つけた時、本当に怖かった……」だから自分は信じた。美羽が自分の命の恩人だと、信じきっていた。それもあってあの後、美羽が「もうすぐ子供が産めなくなる」という診断書を手に泣きついてきた時、自分は頷いてしまったのだ。「美羽は命の恩人だ。子供のことで、その恩を返したい。このことは絶対に、遥には知られるな」しかし、そんな
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第10話

あの日を境に、冷徹な経営者として知られていた勲はいなくなり、代わりに狂人が一人増えたと噂された。5年。勲は毎朝、南区まで車を走らせていた。遥が好きだったクリームパンを買うためだ。パンは助手席に置かれ、いつしかすっかり冷めてしまうのだった。キッチンには体にいいとされる高級食材が山積みだった。勲はそれで料理を作っては、すぐに流しに捨ててしまうのを繰り返した。仕事場には、世界中から集めた不鮮明な写真が壁一面に貼られていて、そのたった一つの情報に、200億円もの懸賞金をかけるほどだった。それには「女一人のために、そこまでやる価値があるのか」と、陰で笑う者もいた。だが、それを聞いても勲は胸元にある、半分に割れたお守りをそっと撫でるだけで、何も言わなかった。そこまでする価値が、あるのか?分からなかった。ただ、遥のいないこの5年間の毎日が、じわじわと体を切り刻まれるような苦しみだったことだけは確かだった。前田グループ、社長室。哲也がドアを開けて入ってくると、声をひそめて報告した。「社長、上田家が破産しました。上田会長は飛び降りようとして失敗し、今は半身不随で寝たきりだそうです」それから哲也は一呼吸おいて、勲の顔色をうかがった。「上田さんですが……昨夜、会社の前で社長をお待ちしていたようです。石田さんの遺品があるので、お金にしてほしい、と。警備員に追い返されたそうですが、今は歩道橋の下で、ぶつぶつとあの体外受精同意書を呟いているらしく、精神的にも、かなり参っているようです」それを聞いて勲の手が、一瞬だけ止まった。哲也の目に、勲の心が一瞬でも揺れたように見えた。だが、勲は胸元のお守りに手を当てるだけで、淡々と言った。「そんなくだらない事、いちいち報告するな」「はい」かつての勲なら、美羽のためなら十億単位の契約ですらキャンセルしただろう。だが今、美羽が全てを失い路頭に迷っていても、勲は気にも留めていないのだ。今の勲にとって、遥以外の人間は、すべてがどうでもいいように思えるようだ。こうして彼が遥につながるたった一つの情報を求め、200億円の懸賞金がかけられた。その噂は、あらゆるメディアや裏社会の隅々にまで広まっていた。別れた妻のために、そこまでするなんて。勲は狂ったのだと、誰もが噂した。毎年、二人の結婚記
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