INICIAR SESIÓN前田グループの社長、前田勲(まえだ いさお)は私にぞっこん。みんなからは「彼は奥さんの言いなりだ」と噂されるほど、私をこよなく愛していた。 そして結婚式を明日に控えた日。妊娠検査薬に浮かび上がった陽性のサインを見て、勲を驚かせようと私は胸を弾ませていた。 でも、書斎のドアの前で、勲の氷のように冷たい声が聞こえてきたんだ。 「美羽(みう)は体が弱い。上田家の血筋を絶やさないためには、子供が必要なんだ。 体外受精がうまくいったことは絶対に遥(はるか)には知られてはならない」 それを聞いて、私の手から妊娠検査薬が滑り落ちた。そこでようやく悟ったのだ。勲の愛は、大きな利益の前では、所詮後回しにされてしまうのだ。 そう思って私はその夜のうちに自分の痕跡をすべて消し去ったあと、お腹に宿したまだ2ヶ月ほどの双子と一緒に、アフロテラ共同体へ向かう支援プロジェクトの飛行機に乗り込んだ。 それから5年後。国際ニュースに映る私は、世界に名を知られる記者になっていた。 一方、あれだけ私を見下していた勲は、血眼になって世界中で私を捜し回り、ついには200億円もの懸賞金をかけるほどになっていた。
Ver más時というのは、もっとも残酷で、そして何よりの薬でもある。3年。千を超える日があれば、荒地も再び芽吹くこともあるだろうし、思い出も次第に塗り替えられるだろうから。私と純一との結婚式は、現地の小さな教会で挙げた。マスコミのカメラもないし、何十億円もかけるような派手な演出もない。ウェディングドレスさえ、前の職場の同僚が送ってくれたシンプルなものだった。けれど、教会には私たちが治療した人たちがいっぱいに座っていた。聖歌隊は、地元の子供たちが引き受けてくれた。「石田さん、斉藤さんを夫とし、貧しいときも、富めるときも、病めるときも、健やかなるときも……」「はい、誓います」私は純一を見つめた。これまで何度も、危険な瞬間に身を挺して私を守ってくれた男性だ。目の奥が、じんと熱くなった。そんな中で瞳と涼太は、フラワーガールとフラワーボーイの衣装を着て、後ろで嬉しそうに花びらをまいているのだった。涼太は背がずいぶん伸びた。顔立ちは、ますます勲に似てきたけれど、性格は純一に似て、落ち着いていて、穏やかだ。その日の夜、純一が新聞を手に部屋へ入ってきた。どこか複雑な表情をしていた。「遥、これを見て」それは国内の新聞だった。片隅に、ぼやけた写真が一枚載っている。写真には、雑草の生い茂る庭のブランコに、一人の男性が座っていた。彼はライターを手に、くしゃくしゃの紙を燃やしているところだった。横顔しか写っていなかったけど、私はすぐにそれが勲だとわかった。勲が燃やしていたのは、5年前に私が偽造した中絶同意書だった。その瞬間、心の中が僅かにうずいたように感じたが、もう痛みを感じることはなかった。勲はもう、あの嘘にこだわってはいない。血の繋がりを盾に、私たちを縛りつけようともしていないんだ。燃やしたのは、ただの紙切れじゃない。彼の、あの病的なまでの独占欲だ。勲はこの秘密を胸の内にしまい、沈黙することで、私と子供たちの今の穏やかな生活を守ってくれたのだ。一方で「ずいぶん老けたな」と、純一がそっと言った。「うん」私は新聞を畳んで、脇に置いた。「お休み。明日は授賞式なんだから」今の私はユネスコの平和大使を務めているので、明日はその授賞式があるのだ。……授賞式の会場は、きらびやかな照明に照らされていた。私はステージの
それから医療用テントの中では、人工呼吸器が規則正しいリズムを刻んでいた。純一がマスクを外した。充血した目には疲労の色が浮かんでいたけど、どこかホッとしているようにも見えた。「バイタルは安定したよ。肋骨が4本折れてて、内臓も損傷してる。でも、運が良かった。死にはしなかった」私はテントの入り口に寄りかかりながら、ベッドに横たわる勲を見ていた。意識がないというのに、勲の眉間には深いしわが刻まれていた。その手は、何か掴めないものを必死に掴もうとしているかのように、ゆるく握られていた。「ありがとう」私は体を起こすと、汗でぐっしょりと濡れたメモを、勲のベッドサイドテーブルに置いた。【勲、これで終わりよ。もう私たちを探さないで】その乱雑な文字には、すべてを断ち切るという強い決意が込められていた。「今すぐ行くのかい?」純一は白み始めた空を一瞥し、ためらいがちに言った。「前田社長のプライベートジェットはまだ隣国にある。目が覚めて君がいなかったら……」「もう追ってこないわ」私は純一の言葉を遮り、荷物を持ち上げた。「かつての勲は分かっていなかった。私がただ駄々をこねているだけだと思ってたの。でも、昨日あの鉄骨が落ちてきた時、やっと分かったはずよ」私はもう、勲を恨んでいない。でも、ただそれだけ。それが、勲に対する私の精一杯の情け。そして、自分自身への最後のけじめでもあるのだ。ジープが黄色い砂埃を巻き上げて走り出す。私はバックミラーで、荒野に佇むキャンプ地を一瞥した。あそこは、勲が死にかけ、そして私の彼への最後の執着が葬られた場所だ。後部座席では瞳と涼太が眠っていて、車の揺れに合わせて小さく体を揺らしている。そっと二人の顔に触れると、手のひらに伝わる温もりが、なによりも確かなものに感じられた。さようなら、勲。もう、二度と会うことはない。……こうして新しい支援拠点に戻ると、また慌ただしくも穏やかな日常が始まった。勲からの連絡が途絶え、世界がずっと静かになったように感じた。ただ、時々、深夜になると、血に染まったシャツや、瓦礫の中で泣き叫んでいた彼の姿を思い出すことがあった。2週間後、キャンプ地にスーツ姿の男が現れた。迷彩服と消毒液の匂いが充満するこの場所で、その姿はひどく場違いに見えた。「石田さん、私は前田社
サイレンがけたたましく夜空に鳴り響いた時、私は瞳に絵本を読んであげていた。耳をつんざくような警報と、近くからの砲撃音が混じり合って、地面が揺れていた。純一が真っ先にテントへ飛び込んできて、まだ目をこすっている涼太を抱き上げた。「遥、瞳を連れて早く!暴動だ!」それを聞いて私は何も言わずに、非常用持ち出し袋を掴み、瞳をしっかり抱きしめて外へ飛び出した。外はすでに大混乱だった。「地下シェルターへ走れ!」純一はそう叫ぶと、私の背中を押して物資倉庫のほうへ走らせた。私たちがシェルターに飛び込む寸前、流れ弾がそばの貯水塔に命中した。巨大な鉄塔は、嫌な音を立ててねじ曲がり、まっすぐ私たちの頭上へ倒れてきた。その瞬間、まるで時間が引き伸ばされたかのようだった。黒い影が覆いかぶさってくるのを見ながら、私はとっさに瞳と涼太を地面に押し倒し、自分の背中で衝撃を受け止めようとした。けれど、覚悟していたはずの激しい痛みはやってこなかった。代わりに、頭の上で獣のような低いうめき声が響いた。私ははっと顔を上げた。すぐ上で、勲がひざまずいていた。数百キロはありそうな鉄骨を、両腕で必死に支えている。彼の膝は、すでに地面に深くめり込んでいた。額からは、血が止めどなく流れていた。「勲……」「行け……」勲は歯を食いしばりながら、言葉を絞り出した。一言発するたびに口から血が溢れる。「斉藤先生!遥たちを連れて行け!」純一もこの突然の出来事に呆然としていた。彼は崩れかかった瓦礫を一瞥すると、片手で瞳を抱き上げ、もう片方で涼太の手を引いた。「遥、早くこっちへ!前田社長はそう長くもたないはずだ!」それを聞いて私は勲を見た。勲の両腕は、激しく震えていた。「嫌だ、行かない……」涼太は怯えて泣き出した。「おじさん、血が出てる」「早く行け!」勲は突然、獣のように吼えると、充血した目で私を睨みつけた。「遥、もし俺の子供たちに傷がついたらお前を絶対に許さないからな!」勲がこの5年で、私にこんな強い口調で話したのは初めてだった。それを聞いて純一は私の腕を掴むと、力ずくで危険な場所から引きずり出した。私たちがそこから転がり出たと同時に、すさまじい轟音が響き渡った。鉄骨は完全に崩れ落ち、砂埃が舞い上がる。勲の姿は、あっという間に瓦礫の
「遅かったじゃないか。検問はなかったかい?」それは低く優しい男性の声だった。斉藤純一(さいとう じゅんいち)は白衣を着ていた。砂埃が舞うこんな環境でも、彼らしい上品さと清潔さを保っているのだ。純一は私たちの医療チームのリーダーだ。そしてこの5年間、ずっと私のそばにいてくれた人でもある。「パパ!」瞳は純一を見つけると、すぐに私の手を離した。そして歓声をあげて、彼の胸に飛び込んだ。純一はポケットからきれいなハンカチを取り出した。そして、しゃがんで瞳の顔についた泥を優しく拭ってあげた。「帽子はちゃんとかぶってなきゃって言っただろう?ここの紫外線は強いんだ」純一の口調は咎めるようだったけど、少しも怒っているようには聞こえない。彼は瞳の鼻を軽くつんつんした。「真っ黒になったら、誰だかわからなくなるじゃないか」「パパが私をわからなくなるわけないもん」瞳はくすくす笑った。そして自然に純一の首に腕を回して、彼の頬にすり寄った。この「パパ」という一言は、勲がなんとか取り繕っていた気力を粉々にした。「遥……」勲はなんとか崩れないようにしたが、膝が震えて立つのもままならなかった。「そいつは、誰だ?」しかし、私は勲を無視して、純一が差し出したカルテの束を受け取った。「3号区のマラリアは抑え込んだけど、抗生物質がもってあと2日だ」純一は立ち上がりながら、勲にちらりと目をやった。「新しく来た物資担当の人。名前は前田勲よ」私は淡々と紹介した。純一は眼鏡を押し上げた。口元には礼儀正しいけど、どこか他人行儀な笑みを浮かべていた。「ああ、前田社長ですか。お噂はかねがね伺っておりました。まさかこんな場所でお会いするとは」勲はよろよろと立ち尽くし、乱れた襟元を直した。なんとかいつもの威厳を取り戻そうとしているようだ。「斉藤先生、か」勲の声はかすれていて、必死に抑えた敵意が滲んでいた。「この子たちは俺の子で、本国に連れて帰る。こんなひどい場所に、前田家の子供を置いておくわけにはいかない」そう言いながら、いつもの癖でスーツの内ポケットから小切手帳を取り出そうとした。しかし、その手は空を切った。その動きは宙で止まり、気まずい空気が流れた。勲は歯を食いしばり、腕から高級腕時計を外した。「ここの物資は全部俺が出す。隣国にプライベートジェット