Semua Bab 最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜: Bab 11 - Bab 20

25 Bab

第十一話「先生との大人の関係」

 それから四ヶ月が経った。 原稿の受け取りは月に一度。先生が指定した日時にマンションを訪問し、手書き原稿を受け取って帰る――はずだった。 四ヶ月で四回。同じことが繰り返された。 二回目は十月の半ばだった。本来の指定日より一週間早く、先生から連絡が来た。「原稿が上がった。取りに来い」。萌木さんの担当時代のスケジュール表を見れば、先生がこんなに早く書き上げることは一度もなかったとわかる。なのに、一週間も早い。 マンションに着くと、先生はリビングのソファに座って珈琲を飲んでいた。テーブルの上に茶封筒はない。原稿はどこだろう、と部屋を見回す私に、先生が珈琲カップを置いて立ち上がった。「先生、原稿」「ほしいならわかるだろ?」 先生は何もしなかった。ソファの傍に立ったまま、私を見下ろしている。前回は先生がボタンを外した。今回は違った。先生は自分からは触れてこない。わかるだろ、という言葉が意味するところを理解した瞬間、指先が冷たくなった。 自分で、ワイシャツのボタンに手をかけた。一つ、二つ。先生の目の前で、自分の指で服を脱いでいく。先生の視線が鎖骨に落ちて、ほくろの上で止まった。あとは前回と同じだった。先生の唇がほくろに触れ、胸に吸い付き、ソファの上で抱かれた。違うのは、服を脱いだのが私自身の手だということだけだった。 原稿がほしいから、自分の意思で服を脱いだ。そのことが、前回よりもずっと深く胸に刺さった。 三回目は十一月の頭。また指定日より一週間早い連絡だった。「原稿が上がった」。同じ文面。同じ呼び出し。マンションのドアを開けた先生は、いつもの黒シャツではなくラフなカットソー姿だった。「先生、原稿」「ほしいなら……わかるだろ」 もう迷わなかった。自分でボタンを外し始めると、先生が私の手首を掴んだ。リビングではなく、廊下の奥へと引かれていく。初めて通される部屋だった。先生の寝室だ。カーテンが半分閉められた薄暗い部屋に、大きなベッドが据えられている。シーツの匂いに先生の体臭が混じっていて、心臓が跳ねた。 ベッドの上に押し倒された。三回目の先生は、今までで一番激しかった。服を剥ぐように脱がされ、ベッドの上で何度も体勢を変えられ、深く、強く、執拗に求められた。先生の荒い息が首筋にかかり、名前を呼ばれるたびに身体の奥が蕩けていく。シーツを掴む指が震えて、先生の
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第十二話「変わる筆致と名札」

 先生のマンションを出て、オフィスに戻った。 十二月に入って、編集部は年末進行に追われていた。雑誌の合併号に向けて締め切りが前倒しになり、校正紙の山がデスクの上に積み上がっている。十二月の東京は乾燥して、指先が荒れてページをめくるたびに紙の端で皮膚が切れそうになった。加湿器が欲しいと編集長に訴えたら、「予算? ないわよ」と一蹴された。 午後四時、校正作業の合間にデスクで先生の原稿に目を通していた。今日受け取ったばかりの手書き原稿を活字に起こす前に、まず一読しておく。先生の万年筆で書かれた文字は癖があり、活字化の段階で誤変換が混じることがある。それを一つずつ拾い上げるのが、私の仕事だった。「さなちゃん」 隣のデスクから萌木さんが声をかけてきた。椅子をくるりと回してこちらを向いている。手元には先生の雑誌掲載分のコピーがあった。「さなちゃんが担当になってから、先生の執筆速度と作風が変わったね」「え?」 顔を上げると、萌木さんが掲載誌のコピーを私のデスクに広げた。付箋が何枚も貼られていて、蛍光ペンで線が引かれている。萌木さんらしい几帳面な読み込み方だった。「やっぱりそう? そう思ってたのよ!」 二つ向こうのデスクから編集長が身を乗り出してきた。コーヒーカップを片手に、目を輝かせている。恋愛小説の話になると、この二人はスイッチが入ったように熱くなる。「そうですか? 私にはよくわからないんですけど……」「まず執筆速度がかなり上がってる。私が担当してた頃は、締め切りぎりぎりに仕上がることが多かったの。でもさなちゃんが担当になってからは、指定日より一週間も早く呼び出されるんでしょう?」 執筆速度はたまたまだと思う。作家の先生によっては、筆が乗っていて、言葉がすらすら出てきて早く書けたという人もいるから。 先生もただ単にそういうターンに入っているだけかもしれない。「それに、甘さと切なさのバランスが変わったの」 萌木さんが蛍光ペンで線を引いた箇所を指差した。「今までは甘さが多かったの。ヒーローがヒロインに甘い言葉を囁いて、ヒロインがときめいて、幸せな空気に包まれる。先生の甘い描写は業界随一だから、それで十分すぎるくらい良かったんだけど」「でも切なさの割合が増えたのよね。それも、ただ切ないんじゃなくて……なんて言うのかしら」 編集長が椅子ごとこちらに
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第十三話「大きな勘違い」

 先生に強く引き寄せられた。 掴まれた手首が先生の胸元に引き込まれて、身体が前のめりに傾く。バランスを崩した私を支えるように先生のもう片方の腕が背中に回って、次の瞬間、唇を塞がれた。 激しかった。 甘さのかけらもない、貪るようなキスだ。先生の唇が私の唇を押し潰すようにぶつかって、歯と歯がかちりと鳴った。舌が強引に侵入してきて、口の中を蹂躙する。息ができない。鼻から吸おうとしても、先生の吐息が熱くて、酸素の代わりに先生の息が肺に流れ込んでくる。 先生の手が後頭部を掴んでいた。髪の中に指を差し込んで、頭を固定している。逃がさない、という力が指先に込められていた。唇を離そうとしても離れない。舌が絡みつき、唾液が混じり合い、喉の奥で嚥下する音が応接室の沈黙に響いた。 マンションの寝室で抱かれたときとは、まるで違った。あのときの先生は冷静で、手順を踏んで、身体を開かせていった。今の先生には余裕がなかった。震えているのがわかった。私を抱きしめている腕が、微かに震えていた。 唇が離れた。糸を引いた唾液が切れて、冷たい空気が濡れた唇を撫でた。先生の息が荒い。額に汗が浮いていて、目の奥に、あの寝室で見たのとは全く別の感情が揺れていた。 頬を叩きたかったが、叩けなかった。代わりに、先生の胸を両手で押した。「――何するんですか」 声が震えた。怒りではなかった。怒りたいのに、唇に残る先生の感触が消えなくて、怒りの形にならなかった。「奥さんがいるオフィスで……何、考えてるんです?」 先生の表情が、固まった。「は?」「たった一枚、ドアの向こうに奥さんがいるって言ったんです!」 声が大きくなった。応接室の薄い壁の向こうには編集部がある。萌木さんがいる。先生の妻が。「――え? 俺は独身だが」 先生が言った。静かな声だった。「……はい?」「紗那は何を言ってるんだ?」 先生が眉を寄せた。本気でわからないという顔をしていた。困惑と、微かな苛立ちが混じっている。「先生こそ、萌木さんと結婚してるんですよね?」 先生の眉がさらに深く寄った。「萌木さん、大ファンだった作家先生と結婚して子どももいるって」「萌木にはたくさん好きな作家がいるぞ」 先生が即答した。「だいたいどの先生にも大ファンだと話すが? 恋愛小説が好き過ぎて、すごい量の本を読んでるから。そこら中に
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第十四話「聖域を侵さぬための嘘」

 年が明けた。 あの日から二週間、先生と連絡を取らなかった。逆に先生からはメッセージが毎日届いていた。最初は「話がしたい」、次は着信のあとに「電話に出ろ」と。 その次は「紗那、会いたい」とだけ届き、それでも返事をしないでいると毎朝同じ時間に「おはよう」と一言だけが送られるようになった。 毎朝届く、先生からメッセージを見ながら、先生らしくないと感じた。 自分に子どもがいると知って、責任を取ろうとしているのは伝わってくる。 でも私は先生に責任をとってもらおうとは思っていない。律希の父親になってと強要もしたくない。(勝手に産んだのは私だし) 好きな人との子を産みたかったから。 それに今は一年で数回しかない長期休みの貴重な時間。息子と一日中一緒にいられるのだから、スマホのメッセージで、自分の感情の波を荒立てたくない。 大晦日に年越しそばを作って、元旦に近所の神社に初詣に行って、三が日は律希とずっと家にいた。テレビを見ながらみかんを食べて、こたつの中で律希の足が私の太腿にくっついてきて、その小さな足が妙に熱かった。「りっくん、顔赤いよ?」 額に手を当てると、熱かった。体温計を差し込むと三十八度七分。慌てて布団を敷いて、水枕を作って、救急の小児科に電話をかけた。年末年始の当番医を調べて、タクシーで連れていって、薬をもらって帰ってきた頃には夜の十時を回っていた。 律希が眠った後、汗で湿ったパジャマを着替えさせて、額の汗を拭いて、掛布団を直した。小さな寝息を確認してから、台所で洗い物をした。シンクに溜まった食器を洗いながら、ふと手が止まった。 スマートフォンが台所のカウンターの上で光った。先生からの通知だ。一日一通しか届かないのに、今日に限って夜の十一時にも届いた。『律希は元気か』 スマートフォンを裏返しにして、カウンターの上に伏せた。 翌朝、律希の熱は下がった。子どもの回復力はすごい。代わりに、夕方から私の喉が痛くなった。 次は私が三十八度の熱を出した。律希が「ママ、だいじょうぶ?」と額に小さな手を当ててくれるのが、嬉しくて、少しだけ泣いた。 先生からの「おはよう」が、毎朝七時ちょうどに届いていた。「電子機器類が苦手な人なのに」 スマホを握りしめながら、思わず微笑んだ。毎朝、七時きっかりに送信できるように待機している先生を想像すると、おか
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第十五話「スランプ」

 一月の最終週、先生から原稿が届かない。予定では明日か明後日には完成の報告メールと受け取り日時を知らせる連絡があるはずのだが――。 以前であれば一週間前には連絡があった。今回は全く連絡がなかった。 こちらからメッセージを送ると、既読はつくが返信がない。電話をかけると、三コールで切れた。かけ直しても同じだった。「先生、原稿の進捗を確認したいのですが」 三度目の電話で、ようやく繋がった。先生の声は低く、抑揚がなかった。「書けてない」「……締め切りは明後日です」「わかってる」「いつ頃あがりそうですか?」「わからない」 それだけ言って、電話が切れた。 締切予定日になっても先生からの完成報告はくることはなく、二月に入っても、原稿は届かなかった。 先生のマンションを訪ねた。インターフォンを鳴らすと、しばらくして先生がドアを開けた。黒いカットソーに、皺だらけのスラックス。髪はセットされておらず、前髪が額に垂れている。目の下の隈が、十二月にカフェで会ったときよりも濃くなっていた。「原稿の件でお伺いしました」「書けてない」「拝見させてください。途中のものでも構いません。方向性だけでも確認させていただければ」「途中もない。一行も書けてない」 先生がドアの枠に肩を預けて、私を見下ろした。視線に力がなかった。いつもの鋭い目が、ぼんやりと曇っていた。「書けないものは書けない。帰れ」 ドアが閉まった。 廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。     ◇◇◇「さなっち、ちょっと」 編集長に呼ばれて、給湯室に入った。編集長がマグカップにコーヒーを注ぎながら、いつものオネエ口調ではなく、低い声で切り出した。「先生の原稿、どうなってる?」「止まっています。一行も書けていないと」「一行も?」 編集長のマグカップを持つ手が止まった。コーヒーの湯気が、小さな給湯室の蛍光灯に照らされて白く漂っている。「……珍しい」 編集長が唸り声をあげた。「申し訳ありません」「さなっちが謝ることじゃないわ。あの馬鹿が書けないなんて。先生が原稿を止めたのは、過去に一度だけ。引っ越しのときに三ヶ月落としたきりよ。それ以外は必ず仕上げてきた」 ――引っ越してから三ヶ月間、書けなかった? 知らない先生の過去を耳にして驚いた。先生はどんなときでも淡々と執筆ができる作
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第十六話「指先が綴る嘘」

 二月の半ば、日曜日。 律希と近くの公園に行こうと、アパートを出た。冬晴れの空は高くて、風はないが空気は冷たい。律希がダウンジャケットのフードを被って、私の手を握りながら歩いている。「ママ、今日はブランコ乗りたい」「わかった」 公園の入り口が見えた。いつもの小さな公園。遊具はブランコと滑り台と砂場だけの、住宅街にある何の変哲もない公園だ。 ベンチに人が座っていた。 黒いコート。長い脚を投げ出すように組んで、背もたれに体重を預けている。片手に何かを持っていた。細長いもの。金属の光沢がある。日曜の午前中の公園に場違いな男性が、ぼんやりと空を見上げている。 ――え? 先生? 足が止まった。律希の手を握る指に、無意識に力が入った。「ママ?」「りっくん、こっちの公園じゃなくて、駅の向こうの大きい公園に行こうか。あっちのほうが遊具いっぱいあるよ」「えー、遠い」「ちょっと歩くけど、あっちにはシーソーもあるし」 律希を引き返そうとした。先生はこちらに気づいていない。今ならまだ間に合う。踵を返して、この道を戻れば、先生と律希が会わずに済む。 律希の手が、するりと抜けた。「りっくん!」 律希が走っていた。公園の入り口を抜けて、まっすぐにベンチに向かって走っている。ダウンジャケットのフードが風で後ろに落ちて、先生と同じ黒い髪が揺れていた。「おじちゃん!」 律希の声が公園に響いた。先生がゆっくりと顔を上げた。「おじちゃん、そのペン……」 律希がベンチの前で立ち止まった。先生の手元を見つめている。先生の右手に握られた万年筆。黒い軸に金のクリップがついた、使い込まれた万年筆だ。「僕のパパと一緒だね」 先生の目が、律希を捉えた。一瞬驚いた表情になり、視線があがる。律希の後ろに立つ私に気づくと、真っ直ぐに見つめてきた。「すみません。息子が急に声をかけてしまって」 先生の顔から、さっきまでのぼんやりした表情が消えていた。 視線がまた動き、万年筆に釘付けになっている律希を見た。「紗那の子ども?」 先生が小声で呟くと、万年筆を見つめていた息子が不思議そうに首を傾げた。「ママのお友達?」 律希が私を見上げた。「……お仕事の人だよ」「ふうん」 律希はもう先生の万年筆に視線を戻していた。目が輝いている。先生が万年筆を律希の目の高さに差し出してく
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第十七話「恋愛下手な恋愛小説家」

 スランプだと結構、早い段階で気づいた。 どのような作品であっても、プロットさえきちんとできていればある程度の物語は紡ぐことはできる。 自分が恋愛小説家に向いているかどうかはさて置いて。文字を書くのは得意だ。自分が味わったことのない未知なる世界を味わえる。 読書よりもよりも鮮明に、心が揺れ、世界の中に没頭できた。 そのせいか……現実の俺の人生はなんの変哲もないクソつまらないものだ。書けるから、書く。求められるから、世界を紡ぐ。 ――人を煽てるのが上手なあいつのせいでもある。 紗那の上司である熊谷編集長。あいつとは腐れ縁だ。熊谷が俺の文章が好きだと熱く語り、恋愛小説家の道に道連れにされた。 顔と体型に似合わずロマンチストな熊谷に「こういうのが読みたいの。書きなさい」とまるで女王様気取りで命令してくる。あとは自身の辛い恋愛経験談を「ハッピーエンドにして昇華してちょうだい」と言ってきたこともあった。 それをネタに小説を執筆したら、気がついたら大物作家だと言われる地位になっていた。 ――不思議だ。 自分で何一つ恋愛経験などしてこなかったのに。恋愛小説の界隈では大物だと崇められる。若い頃にはそれなりの経験はしてきたが、自分から熱く滾るような恋愛の経験はたった一度だけ。 それも今、絶賛拒絶中にされている紗那だけ。 逃げた俺が悪い。 六年間、紗那が必死に子育てしてきた苦労を思えば、俺が今更関係を修復しようとするのはおこがましい話なのもわかっている。 でも……諦めきれない。 小説の中のヒーローのように振る舞えたらどんなにいいだろうと感じる。現実の俺は、小心者で意気地なしのクズな男。 好きな女性でさえも、原稿と引き換えでないと抱けないような――ダメなやつなんだ。『僕のパパと一緒だね』 公園で出会った少年の言葉に驚いた。見上げれば、背後には紗那が立っていた。初めて我が子を見た。幼少期の自分の顔に似ていると感じた。 自宅に戻って玄関に蹲ると、髪を掻きむしった。 あの夏、俺が逃げなければ――紗那と今頃夫婦になって、あの子を育てていたのだろうか。あのときの後悔が胸を深く抉る。 行き場をなくし自分を頼ってきた少女を、感情に流され、欲に抗えずに抱いた自分が意地汚い大人だと感じた。 頼る大人が自分しかいない世界で、あんな行為をしたら――。「根暗のど陰
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第十八話「先輩に聞くスランプの乗り越え方」

 三月に入っても、先生のスランプは続いていた。毎週のようにマンションを訪ねて、インターフォン越しに進捗を聞いた。答えはいつも同じだった。「書けてない」。ストックの残りは一ヶ月を切っている。 編集部のデスクで先生の過去の原稿を読み返していると、隣の席の萌木さんがコーヒーを片手に覗き込んできた。「先生の原稿、まだ止まってるの?」「はい……」「そういえば前に一度、あったなあ」 萌木さんがぼそっと呟いた。コーヒーカップを両手で包んで、記憶を探るように視線を宙に泳がせている。 この前給湯室でちらっと編集長から聞いた。以前の二人はどうやってスランプを抜け出すきっかけを先生にあげたのだろうか。「先生が原稿を書けなかったのはあの時が初めてよ」 向かいのデスクから編集長が顔を上げた。「前のスランプって……」「確か……先生が田舎から今のところに引っ越したときですよね?」 萌木さんが編集長に確認するように視線を送ると、編集長が頷いた。 打開策を聞こうと思って口を開いたのだが、萌木さんは先生がスランプになった時期を答えた。「そうそう。あのときは三ヶ月くらい連載を落として、大変だったのよ。穴埋めの読み切りを何本手配したことか」 背中に冷たいものが流れた。先生が平屋を売り払って、私の隣から消えたときだ。窓に鍵をかけて、呼び鈴にも出ず、一週間後には家が売りに出されていた。 引っ越したあとにスラップになったというのなら、原因はきっと私とのこと――。「どうやって乗り越えたんですか?」 声が少し上擦った。萌木さんと編集長が顔を見合わせた。「……どうだったかしら?」 編集長は首を傾げて腕を組む。思い出そうと記憶を手繰り寄せてくれている。「私もあの頃はまだ担当になったばかりで、先生との距離もつかめてなかったし……あまりにも先生と連絡がつかないものだから、最後のほうは編集長に丸投げ状態だったんだよね」 萌木さんが「力になれなくてごめんね」と言わんばかりの表情になる。「ドスのきいた声で怒鳴り散らした記憶はあるんだけど……」 編集長がペンを回しながら天井を見上げた。「ただ、復活したときの原稿がやたら良かったのは覚えてるわ。スランプ前より格段に筆が乗ってて、読んだとき鳥肌が立ったのは覚えてる」「スランプ明けの短編小説がもうやばかったです!」「そうよね! もえっ
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第十九話「書斎の未発表原稿」

 翌日の朝、始業前に萌木さんに給湯室に呼び出された。「ちょっとだけ。編集長がいないうちに」 萌木さんが給湯室のドアを閉めて、声をひそめた。昨日のランチのときとは違う、真剣な顔だった。「思い出したの!」「――はい? 思い出したとは?」 萌木さんが私の手を握りしめると、キラキラした目で見つめてくる。「あのね、先生のスランプをどうやって乗り越えたか!」 私は目を大きく見開くと、萌木さんの手を強く握り返す。 ――打開策が見つけられるかも。「先生がスランプを抜けたのは、新しい作品を書いたのがきっかけ。それまでの連載とは別に、書き下ろしで一冊」「昨日、話してた復帰一作目の短編……ですか?」「そう。その作品がね」 萌木さんの目が輝き始めた。恋愛小説を語るときの萌木さんだ。先生の前で熱く語って膝の上に倒れたあの萌木さんの片鱗が、顔を覗かせている。「教師と生徒の禁断の恋を描いた話で。年の差恋愛でめっちゃ、きゅーーーーんってするのよ」(それってもしかして――)「夏の暑い日にね、生徒の女の子が嘘をつくの。大人の振りをして先生を挑発して。それで先生が――その、抱いちゃうんだけど」 ――ですよね! 私は顔から火が出そうなくらい熱くなった。「萌木さん」「抱いた後にね、その子がまだ未経験だったって知るの。畳に残った赤い血痕に気づいて。それが夏の夕方のシーンなんだけど、二人で汗だくになって求め合う描写がやけにリアルで……」「萌木さん」「蝉の声が聞こえる中で、和室で、平屋の窓が全部開いてて風が通り抜けるの。少女の甘い声がどこまでも切なく響いて、あれはもう読んでて……」「もう勘弁してください」 声が裏返った。顔が燃えるように熱い。給湯室の蛍光灯の下で、自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。 蝉の声。平屋。和室。畳。汗。夏の夕方。嘘をついた生徒。未経験。 全てがあの日の出来事と一致する。先生と私のあの日が、一冊の本になって小説になっていたなんて知らなかった。 萌木さんが私の顔を見て、ゆっくりと口角を上げた。「あ、やっぱり?」「……」「さなちゃんと経験済みな話だったのよねえ。やけにリアリティあると思った。あの描写は実体験じゃなきゃ書けないって、当時から思ってたのよ」 返す言葉がない。顔が熱くて、目を合わせられない。「その作品、連載の合間に
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第二十話「キスして、先生」

「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する
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