最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜

最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜

last updateDernière mise à jour : 2026-03-13
Par:  ひなた翠Complété
Langue: Japanese
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避難場所だった隣家。 和服姿で原稿を書く先生の背中は、紗那の唯一の居場所だった。 けれど高校卒業の冬、彼の膝上にいた女性を見て、子どもの立場を思い知らされる。 大人だと嘘をつき、猛暑の夏に結ばれた夜――翌日、先生は紗那を拒絶し姿を消した。五年後、シングルマザーとなった紗那の前に、性格に難ありの大物作家として再び現れたのは、あの人だった。

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Chapitre 1

第一話「蝉の声と先生の背中」

 蝉が鳴いていた。

 耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。

 八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。

 先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。

 汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。

「お前――まじで暑いから離れろ」

 先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。

「エアコンつけてよ」

 パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。

「じゃあ、我慢するしかないね」

 私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。

「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」

「こっちも課題がやばいんだけど」

「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」

 先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。

 都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。

「それ、先生もじゃん」

 キーボードを打つ手を止めないまま言い返すと、先生が鼻を鳴らした。

「俺は毎日やってた」

「それでも進んでなかったんでしょう?」

 意地悪く突っ込むと、ペン先が原稿用紙の上で硬い音を立てた。万年筆を持ったまま、先生がわずかに肩を竦めるのが背中の動きでわかる。

「大人にはそういうときもあんの」

「子どもにもそういうときがあるんで〜」

 語尾を間延びさせて返事をしながら、私は先生の背中にもう少しだけ体重を預けた。先生の和服の背中が汗で湿っていて、薄い生地を通して体温が肌に直接触れるような感覚がある。

――暑い。

 わかっている。わかっているけれど、先生と離れたくなかった。

「それに先生の背中にくっついてると課題が進むんだよね。エネルギーをもらえるっていうのかなあ」

 自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあった。先生の背中に触れていると指が動くとか、万年筆の音を聞いていると集中できるとか。ただ一緒にいたいだけの言い訳にすぎない。

 先生の家の、畳の匂いと煙草の残り香が混じった空気の中で、万年筆がカリカリと原稿を埋めていく音を聞きながら、自分のやるべきことに向き合っている時間が、ただ好きだった。

「やる気パワーをバンパイアしてんじゃねえぞ、こらぁ」

 先生が巻き舌気味に吐き捨てた。怒っているように見せかけているだけの声色だった。本気で嫌がるときの先生はもっと低く、もっと短い言葉を選ぶ。私はそれを六年間の付き合いで知っている。

「えー? 子どもだからわかんなーい」

 わざとらしく甘えた声を出すと、先生の背中が大きく揺れた。身体ごとこちらに向きかけて、振り返るのをやめたような中途半端な動きだった。

「都合いいときに子どもぶってんじゃねえよ。大学生が」

 万年筆を握り直す音がした。先生の手は大きくて、指が長くて、ペンだこのせいで中指の第二関節がぼこりと膨らんでいた。何千枚もの原稿を手書きで仕上げてきた手だ。私がまだ小学生だった頃から、ずっと同じ万年筆を使い続けていた。

「まだガキでいてくれって言うから、先生が」

 口を衝いて出た言葉に、自分で少しだけ驚いた。軽口のつもりだった。いつもの、先生との掛け合いの延長線上にある、お茶らけた返答……。

 でも先生の万年筆が止まった。

 蝉の声だけが部屋を満たしていた。窓の外では入道雲が空の半分を覆い、陽射しが庭の緑を白く焼いている。汗が背中を伝い、先生の和服の生地に染みていくのがわかった。

「は? 俺が大人になれって言えば、お前は大人になんのかよ」

 先生の声が、さっきまでとは違う温度を帯びていた。怒りでも呆れでもない、掴みどころのない低い声だった。万年筆を座卓に置く気配はなく、ペン先が原稿用紙に触れたまま宙に浮いているような、緊張を孕んだ静けさが背中の向こう側から伝わってくる。

 私は唇を舐めた。汗の味がした。

 何か気の利いた軽口で返して、いつもの距離に戻さなければいけない。近所のガキが避難所にしているだけ――その立ち位置を崩したら、先生はきっと「ここに来るな」と言うだろうと、ずっと前からわかっていた。

 蝉の声が、一段と大きくなった気がした。

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第一話「蝉の声と先生の背中」
 蝉が鳴いていた。 耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。 八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。 先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。 汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。「お前――まじで暑いから離れろ」 先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。「エアコンつけてよ」 パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。「じゃあ、我慢するしかないね」 私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」「こっちも課題がやばいんだけど」「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」 先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。 都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。「それ、先生もじゃん」 キー
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第四話「初恋と失恋」
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第七話「保育園のお迎え」
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第八話「原稿を取りに」
 午前中の校正作業がひと段落した頃、隣のデスクで萌木さんの携帯が鳴った。 萌木さんが「はい、萌木です」と出て、数秒後に表情が変わった。眉が下がり、口元が引き締まって、「わかりました。すぐ行きます」と短く答えて電話を切った。「さなちゃん、ごめん」 萌木さんが椅子を回してこちらを向いた。申し訳なさそうな顔をしている。「子どもが保育園で熱出しちゃって、お迎えに行かなくちゃいけなくなったの。それで……今日の午後、原稿を取りに行く予定が入ってたんだけど、代わりに行ってもらえないかな」「もちろんです。大丈夫ですよ」「ありがとう。住所は今メッセージで送るね。手書きの原稿だから、折り曲げないように気をつけて」 萌木さんが慌ただしくパソコンをシャットダウンし、トートバッグに荷物を詰め込み始めた。携帯を操作して、私のスマホにメッセージを送ってくれる。マンションの住所と部屋番号が表示された。「先生には連絡しておくから! 二時の約束なの。エントランスのインターフォンを鳴らせば開けてくれるはず」「わかりました。お子さん、お大事にしてくださいね」「ごめんね、本当に。助かる」 萌木さんが足早にオフィスを出ていった。ドアが閉まった後、編集長がコーヒーカップを持ったまま私のデスクに歩み寄ってきた。「さなっち、もえっちの代わりに原稿取りに行くの?」「はい。二時に伺うと約束してあるそうです」「あー、あの先生ね」 編集長が意味ありげに眉を上げた。コーヒーを一口飲んでから、声のトーンを少し落とした。「忠告しとくわ。仕事は素晴らしいのよ。文句なしの一流。ただ、性格にちょっと難ありだから」「難あり、ですか」「愛想がないっていうか、必要最低限しか喋らないタイプなの。だから余計なことは言わず、原稿を受け取って、さっと帰ってきなさい」 性格に難あり。大物作家の原稿を取りに行く、それだけのことなのに、妙に気が重くなった。私はまだ入社三年目の下っ端で、大物作家と直接やり取りをした経験はほとんどない。担当の萌木さんがいるから成り立っている関係に、見知らぬ人間がのこのこ出向いて、気分を害されないだろうか。「あの……大物の先生なら、編集長か先輩が行ったほうがいいんじゃないですか?」「私は三時から印刷所と校了の打ち合わせで動けないの。山岸は取材で外、加藤は今週休み。消去法でさなっちしか
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第九話「指名」
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第十話「原稿と引き換えに」
 担当になって最初の原稿受け取りは、九月の頭だった。 萌木さんから引き継いだファイルには、先生の原稿スケジュールが几帳面にまとめられていた。月に一度、指定された日時にマンションを訪問し、手書き原稿を受け取る。日時は先生側から指定される。変更は基本的にない。訪問時は余計なことを喋らず、原稿を受け取ったら速やかに帰ること――萌木さんの引き継ぎメモには、そう書かれていた。 萌木さんの字は丸くて柔らかい。メモの端に小さく「先生は気分屋なので、機嫌が悪いときは余計な話をせずに、玄関先で原稿だけ受け取って、即帰ってOK」と添えてあった。 先生が気分屋なのは初めて知った。口は確かに悪いが、なんだかんだと優しかった記憶しかない。 先生からの受け取りに指定された日時は、水曜日の午後二時だった。 電車に乗りながら、自分に言い聞かせた。原稿を受け取るだけ。前回はまともに挨拶すらできなかったから、今回はきちんと編集者として挨拶をして帰宅してこよう。 マンションのエントランスでインターフォンを押す。前回と同じように声はなく、無言で自動ドアが開いた。エレベーターで上がり、部屋の前に立つ。深呼吸を一つしてからインターフォンを押した。 ドアがゆっくりと開いた。 前回と同じ黒いシャツにスラックス。腕まくりした袖から覗く前腕の筋が、うっすらと汗で光っている。煙草とインクの匂いが、開いたドアの隙間から漂ってきた。さらに室内からふわっと冷気が流れ込んでくる。(涼しい……エアコンつけてる?)「お疲れ様です。原稿を受け取りに参りました」 前回よりずっとましな挨拶ができた。声も震えなかった。先生は私の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。何かを値踏みするような、あるいは確認するような目だった。「上がれ。もう少しで終わる」「あ、玄関でお待ちして――」「リビングにいろ。すぐ終わる」 先生はそれだけ言うと、もうドアを開け放して奥に戻っていった。廊下の突き当たりの部屋に入り、ドアが閉まる。書斎だろう。玄関に突っ立ったまま先生を待つのも不自然で、靴を脱いでスリッパに足を入れた。 廊下の左手にリビングがあった。広いワンルームのような空間で、窓が大きく、九月の午後の光がたっぷりと差し込んでいる。壁一面の本棚に背表紙がぎっしりと並び、窓際にダークブラウンのソファが置かれていた。テーブルの上に灰皿と飲み
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