最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜

最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜

last updateLast Updated : 2026-03-13
By:  ひなた翠Completed
Language: Japanese
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避難場所だった隣家。 和服姿で原稿を書く先生の背中は、紗那の唯一の居場所だった。 けれど高校卒業の冬、彼の膝上にいた女性を見て、子どもの立場を思い知らされる。 大人だと嘘をつき、猛暑の夏に結ばれた夜――翌日、先生は紗那を拒絶し姿を消した。五年後、シングルマザーとなった紗那の前に、性格に難ありの大物作家として再び現れたのは、あの人だった。

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Chapter 1

第一話「蝉の声と先生の背中」

 蝉が鳴いていた。

 耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。

 八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。

 先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。

 汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。

「お前――まじで暑いから離れろ」

 先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。

「エアコンつけてよ」

 パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。

「じゃあ、我慢するしかないね」

 私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。

「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」

「こっちも課題がやばいんだけど」

「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」

 先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。

 都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。

「それ、先生もじゃん」

 キーボードを打つ手を止めないまま言い返すと、先生が鼻を鳴らした。

「俺は毎日やってた」

「それでも進んでなかったんでしょう?」

 意地悪く突っ込むと、ペン先が原稿用紙の上で硬い音を立てた。万年筆を持ったまま、先生がわずかに肩を竦めるのが背中の動きでわかる。

「大人にはそういうときもあんの」

「子どもにもそういうときがあるんで〜」

 語尾を間延びさせて返事をしながら、私は先生の背中にもう少しだけ体重を預けた。先生の和服の背中が汗で湿っていて、薄い生地を通して体温が肌に直接触れるような感覚がある。

――暑い。

 わかっている。わかっているけれど、先生と離れたくなかった。

「それに先生の背中にくっついてると課題が進むんだよね。エネルギーをもらえるっていうのかなあ」

 自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあった。先生の背中に触れていると指が動くとか、万年筆の音を聞いていると集中できるとか。ただ一緒にいたいだけの言い訳にすぎない。

 先生の家の、畳の匂いと煙草の残り香が混じった空気の中で、万年筆がカリカリと原稿を埋めていく音を聞きながら、自分のやるべきことに向き合っている時間が、ただ好きだった。

「やる気パワーをバンパイアしてんじゃねえぞ、こらぁ」

 先生が巻き舌気味に吐き捨てた。怒っているように見せかけているだけの声色だった。本気で嫌がるときの先生はもっと低く、もっと短い言葉を選ぶ。私はそれを六年間の付き合いで知っている。

「えー? 子どもだからわかんなーい」

 わざとらしく甘えた声を出すと、先生の背中が大きく揺れた。身体ごとこちらに向きかけて、振り返るのをやめたような中途半端な動きだった。

「都合いいときに子どもぶってんじゃねえよ。大学生が」

 万年筆を握り直す音がした。先生の手は大きくて、指が長くて、ペンだこのせいで中指の第二関節がぼこりと膨らんでいた。何千枚もの原稿を手書きで仕上げてきた手だ。私がまだ小学生だった頃から、ずっと同じ万年筆を使い続けていた。

「まだガキでいてくれって言うから、先生が」

 口を衝いて出た言葉に、自分で少しだけ驚いた。軽口のつもりだった。いつもの、先生との掛け合いの延長線上にある、お茶らけた返答……。

 でも先生の万年筆が止まった。

 蝉の声だけが部屋を満たしていた。窓の外では入道雲が空の半分を覆い、陽射しが庭の緑を白く焼いている。汗が背中を伝い、先生の和服の生地に染みていくのがわかった。

「は? 俺が大人になれって言えば、お前は大人になんのかよ」

 先生の声が、さっきまでとは違う温度を帯びていた。怒りでも呆れでもない、掴みどころのない低い声だった。万年筆を座卓に置く気配はなく、ペン先が原稿用紙に触れたまま宙に浮いているような、緊張を孕んだ静けさが背中の向こう側から伝わってくる。

 私は唇を舐めた。汗の味がした。

 何か気の利いた軽口で返して、いつもの距離に戻さなければいけない。近所のガキが避難所にしているだけ――その立ち位置を崩したら、先生はきっと「ここに来るな」と言うだろうと、ずっと前からわかっていた。

 蝉の声が、一段と大きくなった気がした。

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第一話「蝉の声と先生の背中」
 蝉が鳴いていた。 耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。 八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。 先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。 汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。「お前――まじで暑いから離れろ」 先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。「エアコンつけてよ」 パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。「じゃあ、我慢するしかないね」 私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」「こっちも課題がやばいんだけど」「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」 先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。 都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。「それ、先生もじゃん」 キー
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第二話「嘘をついた代償」
「――私、もう大人だし。知らないのは先生だけ。子どもでいてほしいだけでしょう?」 口にした瞬間、空気が変わった。蝉の声は相変わらず鳴り続けているのに、部屋の中だけが真空になったような静寂が落ちてくる。先生の背中が硬くなったのが、寄りかかっている肩越しに伝わってきた。 万年筆がかたん、と座卓に置かれた。いつも指先で静かに離す先生が、音を立てて万年筆を手放すのは珍しかった。「はあ?」 低い声が、腹の底から押し出されるようにして響いた。先生がゆっくりと身体の向きを変え、振り返る気配がする。私は先生の背中から身体を離し、畳の上に膝をついたまま、先生と向き合った。 先生の目が、真っ直ぐに私を捉えていた。普段の呆れたような眼差しでも、面倒くさそうに細めた目でもない。温度の読めない、奥の見えない目だった。「見る? 胸元のキスマーク」 自分の声が妙に平坦に聞こえた。心臓は激しく跳ねているのに、口だけが勝手に動いている。立ち上がり、キャミソールの裾を掴んで、一息に頭の上まで引き抜いた。脱いだキャミソールが畳の上に落ちて、くしゃりと小さな音を立てる。 胸の谷間に、紫がかった痕が残っていた。大学のサークルの飲み会で、酔った男につけられた痕だった。カラオケの薄暗い個室で、やり目だとわかった瞬間に相手の股間を蹴り上げて逃げたから、キスマークだけで済んだ。ただ、先生にそんな経緯を説明する気はなかった。 ただ伝えたい。 ――私はもう子どもじゃないんだと。 先生の視線が、鎖骨の下へと降りた。谷間に残る紫色の痕を見つめて、先生の喉がわずかに上下する。和服の襟元から覗く首筋に、汗が一筋伝っていくのが見えた。 半年前の光景が、脳裏にちらついた。高校三年の冬、書斎の障子を開けた先に見た、先生の膝の上に跨る女性の姿。髪を振り乱し、先生の唇を貪るように塞いでいた編集者の後ろ姿。あのとき先生は言った。大人の世界は単純明快だと。反応するかしないかだと。 私は膝で畳を擦りながら先生に近づき、座っている先生の和服の合わせ目に手を伸ばした。帯の下、太腿の付け根のあたりに手のひらを当てると、布越しに硬く熱いものが指先に触れた。先生の身体がびくりと震えて、私の手首を掴もうとする動きが一瞬遅れた。「奪った分のやる気、返そうか?」 先生の目が見開かれた。掴みかけた手首が力を失い、宙で止まる。先生
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第四話「初恋と失恋」
 翌朝、いつものように縁側に回った。 サンダルで庭の砂利を踏み、先生の家の裏手へと歩いていく。朝の八時を過ぎたばかりで、蝉はまだ鳴き始めたばかりだった。昨日の猛暑が嘘のように、朝の空気はほんの少しだけ涼しくて、庭木の葉先に溜まった夜露が朝日にきらきらと光っていた。 縁側の窓の前で足が止まった。 ガラス戸の枠に手をかけて、右にスライドさせようとする。動かなかった。もう一度、力を込めて引く。びくともしなかった。鍵がかかっている。六年間、一度も施錠されたことのなかった縁側の窓に、鍵がかかっていた。 隣の窓を確かめた。鍵がかかっていた。平屋建ての家のすべての窓が、一つ残らず閉じられて、鍵がかけられていた。真夏にエアコンを使わない先生の家で、窓という窓が完全に塞がれている。 玄関に回り、呼び鈴を押した。チャイムの音が家の中に響くのが聞こえる。応答はなかった。もう一度押した。 先生は出てこなかった。 玄関の引き戸に額をつけた。金属の枠がひんやりと冷たくて、火照った肌に心地よかった。目を閉じると、昨日の先生の声が鼓膜の奥で反響した。 ――もうお前は来るな。 ――ここはもうお前の避難場所じゃない。 額を引き戸に押し当てたまま、私は長い間そこに立っていた。蝉の声がだんだんと大きくなり、朝の涼しさが夏の熱気に呑み込まれていくのを、肌で感じる。 先生のあの言葉は本気だったんだと痛感する。 一週間後、先生の家の門扉に、不動産会社の看板が立てかけられていた。白地に青い文字で「売物件」と書かれた看板が、朝の陽射しを受けて乾いた光を放っている。 門の前に立ち、看板の文字を見つめた。売物件という三文字が、視界の中で異様に大きく映って、ほかの景色を全部押し退けていた。庭の草は一週間分だけ伸びていて、手入れする人がいなくなった花壇の縁に、雑草が顔を出し始めていた。縁側の窓ガラスに朝日が反射して、中の様子は見えなかった。 ――終わった……。 私の儚い片想いは、無駄な虚勢を張ったがために泡沫に消えた。 キスマークを見せて、先生の身体に触れて、「やる気を返そうか」なんて馬鹿なこと言わなければ良かった。こんなことになるくらいなら、まだ素直に「好きだ」と告白していたほうが望みがあったかもしれない。 下手に大人ぶって、嘘ついて――。大人の関係で先生を縛ろうとした結果がコレだ。
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第五話「高校三年の冬」
 高校三年の二月、大学の合格通知が届いた。 白い封筒を郵便受けから取り出したとき、指先がかじかんでいて、封を切るのに手間取った。中から折り畳まれた紙を引き抜き、最初の一行を読んだ瞬間、冬の冷気が一瞬だけ遠のいた。合格の二文字が、朝日に照らされて滲んで見えた。 真っ先に伝えたい相手は、一人しかいなかった。 サンダルを突っかけて家を飛び出し、隣の家の裏手に回った。冬枯れの庭は夏とは別の場所のように閑散としていて、蝉の代わりに北風が耳元を吹き抜けていく。吐く息が白く煙り、鼻先が冷たさで痺れていた。縁側のガラス戸に手をかけると、いつものように鍵は開いていて、するりと横に滑った。「先生!」 縁側から上がり、障子の前に立ち、勢いよく引き開けた。 先生の上に、女の人が座っていた。 ――え? 先生が座卓の前に座り、女の人がその膝の上に跨るようにして先生の顔に覆いかぶさっている。女の人の髪が振り乱されて先生の肩にかかり、唇と唇が重なっていた。先生の和服の前がはだけて、鎖骨から胸元が露わになっている。女の人の手が先生の襟元を掴んでいて、先生の大きな手は――万年筆を持ったまま、座卓の上で止まっていた。 障子を開けた音に、女の人が弾かれたように顔を上げた。乱れた髪の隙間から覗いた目は、驚きと羞恥で大きく見開かれていた。 女の人が慌てて先生の膝から降りた。スカートの裾を整え、座卓の上に置いてあった茶封筒を掴むと、私を見ずに目を逸らして「原稿、受け取りましたので」と早口に告げた。小走りに私の横をすり抜けて廊下に出ていき、玄関の引き戸が開閉する音が響いた。ヒールが玄関先の砂利を急ぎ足で踏む音が、冬の空気に乾いて響いて、やがて遠ざかっていった。 玄関の音が消えて、ようやく自分が何を見たのか理解が追いついてきた。頭の中が真っ白になっていた時間がどれくらいあったのか、わからなかった。障子の縁を掴んだまま、書斎の入口に突っ立っている自分がいた。「――あ、ごめん」 小さく謝った。声が自分のものではないみたいに、薄く平たく聞こえた。 先生は座卓の前に座ったまま、はだけた和服の襟を直していた。乱れた襟元を左右から引き寄せ、帯の上で合わせ直す手つきは、驚くほど落ち着いていた。まるで何事もなかったかのように、万年筆を握り直して原稿用紙に視線を落とす。「大学に合格したのか?」 声に
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 二十五歳になった。 都内でバリバリ働くキャリアウーマン――と言いたいところだが、実態はただの社畜だった。朝九時に出社して、校正紙とゲラの山に埋もれて、気がつけば時計の短針が一周している。昼食は自分のデスクでコンビニのおにぎりを齧りながら原稿を読み、退社時刻を過ぎてからが本番のような日もある。それでも好きな会社の、好きな部署で働いているから、毎日が幸せだった。 出版社の編集部は、雑居ビルの六階にあった。窓から見える景色はビルの谷間で、夏になると西日がデスクの上を容赦なく焼いて、年季の入ったエアコンが喘ぐように唸る。壁一面の本棚には自社刊行物がぎっしりと並び、棚に入りきらない校正刷りやゲラの束が段ボール箱に詰められて通路を塞いでいた。デスクの上には付箋だらけの原稿、赤ペン、蛍光マーカー、飲みかけのペットボトル、食べかけのチョコレート。整頓されているとは言い難い空間だが、インクと紙と埃の匂いが染みついた空気は、二年も通えばすっかり自分の居場所の匂いになった。 ここは恋愛小説を中心に扱う編集部で、月刊の文芸誌と単行本の刊行を担っている。恋愛小説の編集者というと華やかな響きだが、実際にやっているのは校正紙に赤を入れる地道な作業と、締め切りに追われる作家の機嫌を取る気苦労の連続だった。恋愛にときめく暇は全くない。皮肉なことに、恋愛小説を読めば読むほど、自分自身の恋愛感情には鈍くなっていく気がする。登場人物が胸を高鳴らせるシーンを校正しながら、「この表現、三行前と被ってます」と赤ペンを走らせているような人間に、きゅんとかときめきとか期待しないでほしい。「さなっち、原稿は?」 編集長の声がデスクの向こう側から飛んできた。髭面に体格のいい男性が、ラフなジャケットの袖をまくり上げて腕を組んでいる。見た目だけなら建設現場の親方か何かに見えるのに、口を開くと途端に印象が裏切られるのが、熊谷大輔という人だった。「昨日受け取って、現在、校正しています。原稿は来週の月曜には校正が終わる予定です」「りょ〜。進行表も更新しといてね」「もう更新してあります」「仕事が早い。百点。さなっちにはボーナスで焼肉おごるわ」「本当ですか?」「嘘。ボーナスが出たらの話ね。出なかったら牛丼にランクダウン」 編集長が間延びした声で言いながら、デスクに積まれたゲラの束を片手で押しやって、もう片
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第七話「保育園のお迎え」
 保育園の門をくぐると、園庭に夕日が長い影を引いていた。砂場の脇にあるブランコが風に揺れて、誰も乗っていない座面がきいきいと小さな音を立てている。お迎えラッシュの終わり際で、園庭には数人の子どもが残っているだけだった。 教室の入口で保育士さんに「お疲れ様です」と声をかけると、部屋の奥に息子の姿が見えた。他の子が園庭で走り回っているなか、一人で絵本棚の前にしゃがみ込んで、大判の絵本を膝に乗せてページをめくっている。「りっくん、ママ来たよ〜」 保育士さんが声をかけると、律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して立ち上がり、とことこと走ってくる。「ママ、おかえり」「ただいま。ごめんね、ぎりぎりだった」 しゃがんで律希を抱きしめると、汗ばんだ小さな身体がぎゅっとしがみついてきた。日焼け止めと砂と、子ども特有の甘い汗の匂いが鼻をくすぐる。 律希は五歳になった。 先生に、よく似ている。私が見るたびにどきりとするほど、面影が重なる瞬間がある。額の生え際の形、眉の角度、少し垂れ気味の目尻。表情はおっとりしていて先生の無愛想さとは似ても似つかないのに、何かに集中しているときだけ口元がきゅっと引き結ばれて、あの人と同じ顔になる。さっき絵本を読んでいたときの横顔が、まさにそうだった。「今日はなんの絵本読んでたの?」 手を繋いで園を出ながら聞くと、律希が空いているほうの手を振って答えた。「くまさんのやつ。くまさんがお手紙を書くの。でもね、届かないの。届けてくれる人が寝ちゃったから」「かたつむりくんね」「そう! ママ知ってるの?」「有名なお話だよ。ママも子どものとき読んだ」 律希が「ふうん」と言って、夕暮れの商店街をきょろきょろと見回した。八月の夕方は日が長くて、空はまだ明るい。商店街のアーケードに提灯が下がっていて、お盆の飾りつけが賑やかだった。八百屋の前を通りかかると、律希が店先のスイカをじっと見つめて足を止めた。「食べたい?」「……うん」「ちょっとだけね」 カットスイカのパックを一つ買った。三百八十円。今月の食費のやりくりを頭の中で計算しながら、レジ袋を受け取る。律希がレジ袋の中を覗き込んで、赤い果肉を確認して満足そうに頷いた。 アパートまでの帰り道は、保育園から歩いて十五分ほどだった。古い住宅街の坂道を登り、突き当たりを左に曲がると、二階建ての
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第八話「原稿を取りに」
 午前中の校正作業がひと段落した頃、隣のデスクで萌木さんの携帯が鳴った。 萌木さんが「はい、萌木です」と出て、数秒後に表情が変わった。眉が下がり、口元が引き締まって、「わかりました。すぐ行きます」と短く答えて電話を切った。「さなちゃん、ごめん」 萌木さんが椅子を回してこちらを向いた。申し訳なさそうな顔をしている。「子どもが保育園で熱出しちゃって、お迎えに行かなくちゃいけなくなったの。それで……今日の午後、原稿を取りに行く予定が入ってたんだけど、代わりに行ってもらえないかな」「もちろんです。大丈夫ですよ」「ありがとう。住所は今メッセージで送るね。手書きの原稿だから、折り曲げないように気をつけて」 萌木さんが慌ただしくパソコンをシャットダウンし、トートバッグに荷物を詰め込み始めた。携帯を操作して、私のスマホにメッセージを送ってくれる。マンションの住所と部屋番号が表示された。「先生には連絡しておくから! 二時の約束なの。エントランスのインターフォンを鳴らせば開けてくれるはず」「わかりました。お子さん、お大事にしてくださいね」「ごめんね、本当に。助かる」 萌木さんが足早にオフィスを出ていった。ドアが閉まった後、編集長がコーヒーカップを持ったまま私のデスクに歩み寄ってきた。「さなっち、もえっちの代わりに原稿取りに行くの?」「はい。二時に伺うと約束してあるそうです」「あー、あの先生ね」 編集長が意味ありげに眉を上げた。コーヒーを一口飲んでから、声のトーンを少し落とした。「忠告しとくわ。仕事は素晴らしいのよ。文句なしの一流。ただ、性格にちょっと難ありだから」「難あり、ですか」「愛想がないっていうか、必要最低限しか喋らないタイプなの。だから余計なことは言わず、原稿を受け取って、さっと帰ってきなさい」 性格に難あり。大物作家の原稿を取りに行く、それだけのことなのに、妙に気が重くなった。私はまだ入社三年目の下っ端で、大物作家と直接やり取りをした経験はほとんどない。担当の萌木さんがいるから成り立っている関係に、見知らぬ人間がのこのこ出向いて、気分を害されないだろうか。「あの……大物の先生なら、編集長か先輩が行ったほうがいいんじゃないですか?」「私は三時から印刷所と校了の打ち合わせで動けないの。山岸は取材で外、加藤は今週休み。消去法でさなっちしか
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第九話「指名」
 あれから一週間が過ぎた。 あの日以来、先生のことを考えない日はなかった。仕事中にゲラの文字を追っていても、ふとした瞬間に黒いシャツの袖からのぞいていた腕が脳裏をよぎる。夜、律希を寝かしつけた後の静かな部屋で校正紙に向かっていると、茶封筒を渡されたときに触れた指先の温度を、思い出してしまう。 それでも日常は回る。先生のことを考えている暇があるなら、校正紙の赤入れを一行でも進めたほうがいい。そう自分に言い聞かせて、一週間が過ぎていった。 月曜日の朝、出社してデスクについた直後に編集長が歩み寄ってきた。何やらいつもと顔つきが違う。真剣な顔をして、こちらに来るから私もつい肩に力が入ってしまう。「さなっちともえっち、ちょっといい?」「はい」 編集長が隣のデスクにいる萌木さんにもちらりと目をやって、それから私に向き直った。「凄いことになったわよ。あの大先生が、直々にさなっちを担当に指名してきたの」「……はい?」 意味がわからなかった。大先生。先週、原稿を取りに行った先生のことだろうか。私はあの日、名刺を差し出して名前を名乗りかけて、まともに挨拶すらできずに原稿を受け取って帰っただけだった。五分もいなかった。会話らしい会話は一言も交わしていない。指名される理由が、何一つ思いつかなかった。「指名って……私をですか?」「そう。さなっちを。あの先生が担当を指名するなんて初めてよ」 編集長が腕を組んで、感心と困惑が混じったような顔をしている。隣のデスクで萌木さんがこちらを向いた。驚いた顔はしていなかった。むしろ、何かを納得したような穏やかな表情だった。「実はね、さなちゃん」 萌木さんが椅子を回してこちらに向き直った。「ちょうど旦那と相談してたところなの。二人目がほしいねって話になっていて。担当している作家さんの数を少し調整しようかなって、編集長にも相談し始めてたの」「二人目……」「うん。だから先生の担当を誰かに引き継ごうかって思ってたところに、先生から指名が来て。タイミングが良いというか……さなちゃん、どうかな?」 萌木さんの声は穏やかだった。笑顔の奥に、少しだけ申し訳なさが混じっている。大物作家の担当を入社二年目の後輩に渡すことへの後ろめたさもあるのだろう。 頭の中が、ぐるぐると回っていた。 先生の担当編集者になる。それは、定期的に先生に会え
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第十話「原稿と引き換えに」
 担当になって最初の原稿受け取りは、九月の頭だった。 萌木さんから引き継いだファイルには、先生の原稿スケジュールが几帳面にまとめられていた。月に一度、指定された日時にマンションを訪問し、手書き原稿を受け取る。日時は先生側から指定される。変更は基本的にない。訪問時は余計なことを喋らず、原稿を受け取ったら速やかに帰ること――萌木さんの引き継ぎメモには、そう書かれていた。 萌木さんの字は丸くて柔らかい。メモの端に小さく「先生は気分屋なので、機嫌が悪いときは余計な話をせずに、玄関先で原稿だけ受け取って、即帰ってOK」と添えてあった。 先生が気分屋なのは初めて知った。口は確かに悪いが、なんだかんだと優しかった記憶しかない。 先生からの受け取りに指定された日時は、水曜日の午後二時だった。 電車に乗りながら、自分に言い聞かせた。原稿を受け取るだけ。前回はまともに挨拶すらできなかったから、今回はきちんと編集者として挨拶をして帰宅してこよう。 マンションのエントランスでインターフォンを押す。前回と同じように声はなく、無言で自動ドアが開いた。エレベーターで上がり、部屋の前に立つ。深呼吸を一つしてからインターフォンを押した。 ドアがゆっくりと開いた。 前回と同じ黒いシャツにスラックス。腕まくりした袖から覗く前腕の筋が、うっすらと汗で光っている。煙草とインクの匂いが、開いたドアの隙間から漂ってきた。さらに室内からふわっと冷気が流れ込んでくる。(涼しい……エアコンつけてる?)「お疲れ様です。原稿を受け取りに参りました」 前回よりずっとましな挨拶ができた。声も震えなかった。先生は私の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。何かを値踏みするような、あるいは確認するような目だった。「上がれ。もう少しで終わる」「あ、玄関でお待ちして――」「リビングにいろ。すぐ終わる」 先生はそれだけ言うと、もうドアを開け放して奥に戻っていった。廊下の突き当たりの部屋に入り、ドアが閉まる。書斎だろう。玄関に突っ立ったまま先生を待つのも不自然で、靴を脱いでスリッパに足を入れた。 廊下の左手にリビングがあった。広いワンルームのような空間で、窓が大きく、九月の午後の光がたっぷりと差し込んでいる。壁一面の本棚に背表紙がぎっしりと並び、窓際にダークブラウンのソファが置かれていた。テーブルの上に灰皿と飲み
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