All Chapters of 気づいたら後輩に飼われてた: Chapter 1 - Chapter 10

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第一話 徹夜明け

 オフィスは静寂に包まれていた。 カタカタカタカタ。 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。「……なんか寒くね?」 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。「やべっ……終電、終わってる」 がくりと項垂れた。 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。 開き直って、モニターに向き直った。 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。 わかってる。段取りが悪いんだ。 わかってるけど、直せない。 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。 ――もう限界だ。十分だけ
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第二話 弁当の理由

 理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。 夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。「先輩、帰る時間です」「は? まだ仕事中なんだけど」「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」 理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。「あとちょっとだけ……」「ダメです」 短い否定。そして、絶対だった。「……わかったよ」 渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。 帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。「お疲れさまでした」 理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。 エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。「いつまで掴んでんだよ」「先輩が電車に乗るまでです」 有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。「明日は九時出勤でお願いします」 文句をいう間もなかった。 結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。「ざいまーす……」 営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。「先輩。九時って、いいましたよね」「ああ……そうだっけ」「そうだっけ、じゃありません」 短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。「明日から朝、電話します」「は? なんで」「起きられないなら、起こします。席についてください」 反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。 朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。 気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。 昼ごはんを
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第三話 休日の侵入

 理人の管理が始まって一週間が経った。 変わったことがある。食生活だ。毎日、手作り弁当が届く。メニューは毎回違っていて、どれも手が込んでいた。唐揚げをリクエストした翌日には、ちゃんと唐揚げが入っていた。二種類の衣で揚げ分けるというこだわりようだった。 夕飯も作りにくると理人は言ったが、それはさすがに断った。弁当だけで十分すぎる。その代わり、教わった通り、スーパーやコンビニで弁当や惣菜を買うときはサラダを足すようになった。 おかげで体調はいい。朝の目覚めが前より楽になった。午後の眠気も減って、仕事が前より捗る。今まで土日も出勤していたのが嘘みたいだ。 久しぶりに予定のない土曜日。ゆっくり寝るぞ、と思っていた。 それなのに。 スマートフォンが鳴っている。枕元で、しつこく、鳴り続けている。「……うるせえな」 布団の中で唸った。無視してみるが、切れる気配がない。十回、二十回。あきらめる様子がまるでない。直はイライラしながら、画面も確認せずに電話に出た。「……もしもし」「先輩、おはようございます」 爽やかな声が耳に飛び込んできた。理人だ。「あ? 神谷か……。今何時だよ」「九時前です」「九時前って……。休みだぞ今日」「はい。だから電話しました」 意味がわからなかった。「起きましたよね。準備して出てきてください」「は?」「買い物に行きます」「……なんで」「先輩の服を買いに行くんです」「服? 俺、服いらないけど」「いります」 なぜか断言された。意味がわからない。 直は布団の中で目をこすった。なんで休日の朝に後輩から電話がかかってきて、服を買いに行くと言われているのか。脳が追いつかない。「俺は行かねえ。寝る」「もう、
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第四話 生活指導

 理人に管理されるようになって二週間。変わったのは、食事だけじゃなかった。 肌の調子がいい。寝不足のくまが薄くなった。午後に襲ってくる眠気もない。理人に言われた通り、昼は野菜から食べるようにした。すると食後に頭がぼんやりしなくなった。血糖値の上がり方が違うのかもしれない。 おかげで仕事も順調だった。残業はこのところしていないし、ミスもない。以前の自分が嘘みたいだ。 そんな調子のいい日に限って、問題が起きる。◆「夏目」 モニターに集中していると、横から声をかけられた。顔を上げると、久我恒星が立っていた。同じ営業二課で、理人と同期。直より二つ年下だが、営業成績は課内トップだ。「恒星か。どうした」「これ、データ間違ってるぞ」 久我が書類を直の前に置いた。共有フォルダにアップした提案資料だった。「嘘。そんなはず……」「去年のデータ使ってる。最新版に差し替えてくれって言われてなかったか」 直は書類をひったくって確認した。確かに、数字が古い。去年度の納入実績がそのまま残っている。差し替えたつもりだったのに、古いファイルを上書きしてしまったらしい。「……すまん。差し替え忘れてた」「このデータで明日の朝イチ、クライアントにだすんだ。間違ったままだしたら会社の信用に関わる」「わかってる。すぐ直す」「頼むぞ」 久我は短く言って、自分の席に戻っていった。怒っているわけではない。ただ淡々と事実を伝えて、修正を求めている。それが余計にきつかった。 直は机の上の書類をかき分けながら、最新データの元ファイルを探した。見つからない。共有フォルダの中にあるはずだが、どのフォルダに入れたか思い出せない。デスクトップにも保存したはずなのに、ファイル名が似たものが並んでいて、どれが最新版かわからなくなっている。「くそっ……」 焦りが手の動きを鈍くする。落ち着け、と自分に言い聞かせるが、頭の中がぐちゃぐち
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第五話 社内の誤解

 理人に管理されるようになって一か月が経った。 弁当は毎日届く。週末は一緒に過ごし、水曜日には家に来て夕飯と作り置きを作ってくれる。おかげで平日にコンビニ弁当を買うことはなくなった。 体調はいいし、仕事も順調だ。残業しなくなった分、夜の時間が増えた。ぼんやりテレビを見ていると、一か月前までの自分が嘘みたいだった。終電で帰って、コンビニ飯を流し込んで、散らかった部屋で寝落ちしていたあのころが。 すべて理人のおかげだと、わかっている。わかっているのに、それが当たり前になりつつあることにも気づいている。 水曜日の午後三時。モニターに向かっていると、理人がコーヒーを差し出してきた。「三時です。休憩してください」「おう。いつもサンキュ」 カップを受け取って、ひとくち飲む。午後のコーヒーも、もう日課になっている。「今日、くるだろ?」「はい。そのつもりです」「今日のメニューなに?」「今日は――」 理人が顔を少し近づけたとき、背後から声がかかった。「おい、夏目。ちょっとこい」 水城だった。 直は振り返った。水城の表情がいつもと違う。普段はドライな男が、珍しく困ったような顔をしている。「なんだよ」「ここじゃあれだ。ちょっと来い。神谷も一緒に」 水城は目で給湯室を示した。理人を見ると、理人は不思議そうな顔をしていた。三人で給湯室に向かった。◆ 給湯室のドアを閉めると、水城が声をひそめた。「お前ら、付き合ってるって噂が流れてるぞ」「はあ?」 直の声が裏返った。「なんだよそれ。誰が言ってんだ」「出どころはわからん。けど、もうけっこう広がってる」「なんで……」「いや、思い当たるだろ。毎日弁当作ってもらって、屋上でふたりで食ってて、帰りも一緒。傍から見たらそう見えるって」「それは、俺の食生活が乱れてるから神谷が――」
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第六話 気になる距離

 フィールクラフト株式会社の小さな会議室で、直は企画書を広げていた。 アーク・ブリッジの仕事は、法人向けの業務効率化システムの提案と導入だ。フィールクラフトはインテリアや生活雑貨を扱う会社だ。事業が急成長している一方で、在庫管理や受注処理が追いついていないという。直はその改善策を提案するために訪問した。 初対面の相手との商談はいつも緊張する。今日も、会議室に通されてから担当者がくるまでの数分間、胃のあたりがきゅっと締まっていた。「失礼します。お待たせしました」 入ってきたのは、穏やかな顔立ちの男性だった。直と歳が近いように見える。「経営企画部の相沢恒一です。今日はわざわざお越しいただいてありがとうございます」「アーク・ブリッジの夏目です。こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」 名刺を交換して、席についた。 相沢は企画書に目を通しながら、時折頷いたり、ペンで印をつけたりしていた。真剣に読んでくれているのがわかる。「なるほど。うちの課題、かなり的確に拾っていただいてますね」「ありがとうございます。ここからさらに御社の実情に合わせて詰めていけますので、よろしくお願いします」「いいですね。在庫回転率のところ、もう少し掘り下げていただけると助かります。うち、季節商材が多いので」「承知しました。データをいただければ、次回までに反映します」 相沢は頷いて、ペンを置いた。そして、ふっと表情を緩めた。「夏目さん、説明がすごくわかりやすいですね。専門用語をこちらにもわかる言葉に言い換えてくれるから、話が早い」「いえ、そんな……」「いや、本当に。前の業者さんは横文字ばっかりで、正直きつかったんですよ」 相沢が笑うと、会議室の空気がやわらかくなった。直もつられて肩の力が抜けた。初対面の相手とここまでスムーズに話が進んだのは珍しい。「企画が通ったら、ぜひ現場も見ていただきたいです。倉庫や店舗など、実際に見ていただいたほうが、よりよい提案ができると思いますので」
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第七話 境界線

 金曜日の夜。久しぶりに課のメンバーで飲みに行くことになった。 とはいえ、集まったのは水城と直、それに二課の後輩がふたりだった。理人はクライアント訪問が長引き、来られないと連絡があった。久我も予定があるらしい。課長は「俺がいると気ぃ遣うだろ」と遠慮した。 後輩ふたりは一時間ほどで「彼女と約束があるんで」と帰っていき、結局残ったのは水城と直のふたりだった。「まあ、気楽でいいわ」 水城がジョッキを傾けた。「だな。気遣わなくていいし」 直もハイボールを飲んだ。水城と飲むのは楽だ。仕事の愚痴も、くだらない話も、なんでも言える。気を遣わなくていい相手というのは貴重だ。「で、最近どうよ。神谷との関係」「関係って。別に変わんねえよ」「嘘つけ。朝迎えに来てるらしいじゃねえか」「なんで知ってんだよ」「社内の噂、舐めんなよ。お前ら、朝一緒に出社してるの目撃されてんぞ」 水城がにやりと笑った。「あのな、別に変な意味じゃなくて――」「わかってるって。お前が変な意味じゃないと思ってるのも知ってる。問題は、周りがどう見るかだ」「……それ、前も言ってたな」「何回でも言う。事実だから」 直はハイボールを一口飲んだ。返す言葉がなかった。「でもまあ、お前が楽しそうなのは悪いことじゃない」「楽しそう? 俺が?」「ああ。前よりいい顔してる。飯ちゃんと食って、寝て、仕事も回ってる。去年まで終電の常連だった夏目とは別人だよ」「……まあ。それは間違いなく神谷のおかげだな」「だろ。ただな」 水城がグラスを置いた。表情が少し変わった。「いつかは自分でどうにかしないとな。神谷がいなくなったらどうすんだ」「……いなくなるって」「異動とか、転職とか。あいつだって自分の人生がある。いつまでもお前の隣にいるとは限らないだろ」
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第八話 看病

 朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六月に入ったばかりで、梅雨の走りのような空だった。折りたたみ傘はバッグに入れてあった。けれど最寄り駅を出たところで、軒下に雨宿りしている大学生ぐらいの青年がいた。傘を持っていない様子で、スマートフォンを見ながら困った顔をしていた。薄着で、腕をさすっていた。「よかったらこれ使いな」 気づいたら傘を差し出していた。青年は驚いた顔をしたが、直が「いいから」と言って押し付けるように渡すと、何度も頭を下げて受け取ってくれた。 駅から直のアパートまでは歩いて十分ほどだ。走れば五分もかからない。そう思って走り出したが、雨は思った以上に強かった。家に着いたころにはびしょ濡れだった。 湯船にお湯を張って身体を温めればよかったのに、面倒になってシャワーで済ませた。結局、それが裏目に出た。 直は時計を見た。まだ七時前。会社に連絡するには早い。 まず水城にメッセージを入れた。「熱出た。今日休む」。 そして理人にも送った。毎朝迎えに来てくれているのだ。無駄足を運ばせるわけにはいかない。『熱でた。会社休む。迎えは大丈夫だから』 送信して、ベッドに潜り込んだ。目を閉じようとすると、すぐにスマートフォンが震えた。『今から行きます』「……いや、来なくていいって」 返信を打とうとしたが、画面がぼやけた。熱のせいで目の焦点が合わない。指が思うように動かなかった。 仕方なく、スマートフォ
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第九話 空白

 熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。『わかった。会社でな』 既読はすぐについた。返信はなかった。 いつもなら、「了解です」とか「気をつけて」とか、ひとことは返ってくる。それがない。 直はスマートフォンの画面を見つめた。来ないとわかっているのに、返信を待ってしまう。画面から目が離せなかった。 一分。二分。なにも来ない。 理人が迎えに来ない朝は、こんなに静かなのか。インターホンが鳴る時間を過ぎても、部屋には自分しかいない。テレビの音だけが響いていた。 直はひとりで家を出た。駅までの道を歩く。いつもなら理人と並んで歩いている道だ。朝の空気が澄んでいる。隣に誰もいない。歩幅を合わせる必要がない。楽なはずなのに、なぜか自分のペースが掴めなかった。◆「おい、夏目。もう大丈夫なのかよ」 出社すると、水城が声をかけてきた。「おう。なんとかな」「けど、まだ顔色悪いぞ。微熱あるんじゃねえか?」「多分大丈夫……」「無理すんなよ」「サンキュ」 自席に向かう途中、理人の横を通った。斜め後ろの席で、すでにモニターに向かっている。「昨日はありがとな」 少し屈んで、理人にだけ聞こえるように言った。「いえ」 それだけだった。 顔を上げない。直のほうを見ない。キーボードを打つ手も止めない。
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第十話 元カノ

 理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。  その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?」 元カノだった。半年前に別れた相手。偶然とはいえ、こんなところで会うとは思わなかった。「久しぶり。仕事帰り?」「ああ。そっちも?」「うん。外回りの帰りで、このへん通りかかったの。元気にしてた?」「まあ、それなりに」「なにそれ。相変わらず曖昧な返事」 あゆみが笑った。少しだけ気持ちが軽くなった。この人はいつもこうだ。軽くて、明るくて、一緒にいると気が楽になる。「ねえ、もしよかったら、ちょっとお茶でもしない? 久しぶりだし」「……おう。いいよ」 断る理由もなかった。◆ 近くのカフェに入った。窓際の席で、向かい合わせに座った。注文を済ませて、あゆみが頬杖をついた。「直くん、なんか雰囲気変わったね」「そうか?」「うん。前より顔色いいし、服もこぎれいになった。前はヨレヨレのシャツにくたびれたパンツだったのに」「……そんなにひどかったか」「ひどかったよ。でも今は、ちゃんとしてる。誰かに見られることを意識してるっていうか」 理人に選んでもらった服を着ている。それを「誰かに見られることを意識してる」と言われると、少し照れた。「ごはんちゃんと食べてるの?」「ああ。野菜も食べるようになった」「えっ。野菜嫌いだっ
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