気づいたら後輩に飼われてた

気づいたら後輩に飼われてた

last updateLast Updated : 2026-03-31
By:  海野雫Completed
Language: Japanese
goodnovel18goodnovel
Not enough ratings
29Chapters
779views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

残業続きで終電を逃した夜, 平凡な営業マンの夏目直はなぜか後輩の神谷理人に世話を焼かれるようになる。弁当、体調管理、送り迎え――気づけば生活のあちこちに入り込まれていた。距離が近すぎる後輩に戸惑いながらも、その居心地のよさに慣れていく直。だが、神谷の態度は“親切”の域を少しずつ越えていき……。

View More

Chapter 1

第一話 徹夜明け

 オフィスは静寂に包まれていた。

 カタカタカタカタ。

 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。

 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。

 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。

「……なんか寒くね?」

 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。

 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。

 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。

「やべっ……終電、終わってる」

 がくりと項垂れた。

 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。

 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。

 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。

 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。

 開き直って、モニターに向き直った。

 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。

 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。

 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。

 わかってる。段取りが悪いんだ。

 わかってるけど、直せない。

 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。

 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。

 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。

 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。

 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。

 ――もう限界だ。十分だけ。十分だけ寝よう。

 机にうつ伏せになった。腕を枕にして目を閉じる。デスクの硬さが額に当たる。こんな姿勢で寝たら首をやるな、と思った瞬間、意識はあっけなく闇に沈んでいった。

 コーヒーの匂いがした。

 誰かが近くにいる気配がする。あたたかくて、どこか懐かしい。

 ああ、そうだ。こんな朝が、あったな。

 朝ごはんを作ってくれる誰かがいたころ。たった二か月で終わったけど、前もその前も長くて三か月だった。

 告白されて、断れなくて、付き合って。「私のこと好きじゃないでしょ」と言われて、終わる。毎回そうだった。

 俺って、本気で誰かを好きになったこと、あったっけ。

 ――二十七にもなって、初恋もまだとか、笑えないな。

 まあいいか。どうせ今は、ひとりだ。

 肩を揺さぶられている。やめろって、まだ寝かせてくれ――。

「先輩」

 低い声が、鼓膜を揺らした。

 男の声だ。

 ゆっくり瞼を持ち上げると、すぐ目の前に、整った顔があった。

「うおっ……!」

 驚きのあまり、椅子ごと後ろにのけぞった。心臓がうるさい。

「なっ……なんだお前!」

「なんだお前、じゃないですよ」

 神谷理人。二年後輩の、同じ営業二課。切れ長の目が、静かにこちらを見ている。鼻筋の通った端正な顔は、寝起きの頭にはいささか刺激が強い。

「先輩、会社に泊まったんですか」

 責めるような口調ではなかった。ただ、静かに確認している。それがかえって居心地悪い。

「……気づいたら終電終わってたんだよ」

「泊まり込みは禁止ですよ」

「知ってるけど……帰る手段なかったんだよ」

「タクシーという手段はあったはずですけど」

「……金ねえんだよ」

 理人の目が、ほんの少し細くなった。呆れなのか、心配なのか、その無表情からは読みきれない。

「はい、これ」

 差し出されたのは、紙カップのコーヒーだった。湯気が立ち昇って、ふわりと香りが広がる。

「あと、朝食です」

 コーヒーの横に、ベーカリーの紙袋が置かれた。紙袋の口から覗くと、中にはサンドイッチが入っていた。

「……え。いいのか?」

「どうせ朝食、食べてないでしょう。毎日」

「うっ……」

 図星だった。毎朝コアタイムぎりぎりまで寝て、朝食は抜き。昼もまともに取れないことが多い。

「……悪いな」

「いいですよ」

 理人がふっと目元を緩めた。無表情が多いぶん、その一瞬の変化がやけに目に残る。長い睫毛が窓からの光を受けて、薄い影を頬に落としていた。

 その美しさに思わず見惚れてしまった。

 やばい。男相手になに見てんだ。寝ぼけてるにもほどがある。

 直は両手で頬を叩いて、目を覚ました。

「俺も一緒に食べていいですか」

「……え? ああ、いいけど」

 理人は直の隣の席から椅子を引っ張ってきて、当たり前のように座った。距離が近い。肘がぶつかりそうなぐらい近い。

「ここで食うの?」

「一緒に食べたほうがいいでしょう」

 理人は自分のサンドイッチの包みを開けた。直も諦めて紙袋に手を伸ばした。

 雑穀入りのハードパンに、シャキッとしたレタスとにんじん、サラダチキンに卵。酢玉ねぎのアクセントが効いている。シンプルな構成なのに、口に入れた瞬間、目が覚めた。

「……うまっ。なにこれ」

「気に入りましたか」

「うまいなこれ。どこの?」

「家の近くのベーカリーです。ハードパンがいいんですよ」

「へえ。俺パン好きなんだよな。今度買いに行こうかな」

「案内しますよ。ただ、閉店早いんで」

「……どのぐらい?」

「十八時です」

 十八時。直がまだオフィスでメールと格闘している時間だった。

「……努力する」

「してください。じゃないと、案内できませんから」

 淡々と返されて、言葉に詰まった。でも、嫌な感じはしなかった。

 ひとりで食べるコンビニのおにぎりとは、なにかが違う。パンのうまさだけじゃない。隣に誰かがいて、同じものを食べている。ただそれだけのことが、朝の空気を変えている。

 ――あれ。誰かと一緒に朝ごはん食べるの、いつ振りだろう。

 思い出そうとして、思い出せなかった。

 そのとき、オフィスの扉が開いた。

 びっくりして振り返ると、警備員が立っていた。

「わっ……こんな時間にいらっしゃるとは」

「すみません、昨日終電逃して、そのまま……」

「ああ、そうでしたか。いやあ、ここの会社さんは大体八時頃の出社でしょう? この時間にフロアに人がいたことがないもので、驚きました」

 ――この時間に、人がいたことがない。つまり、七時半にオフィスにいること自体が異常なのだ。泊まり込んだ自分はもちろん。

 ちらりと隣を見た。理人は何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。この男は自主的に七時半に出社しているのだ。同じ会社の、同じ部署で。

「あの、昨夜空調が止まってたんですけど……」

「ああ、二十四時で自動停止です。そんな時間まで残られる方、普通はいらっしゃらないので」

 普通はいない。

 わかっていたことだ。でも、他人の口から聞くのは堪えた。

「特に変わったことがなければ、これで」

「はい……ありがとうございます」

 警備員が去った。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

「……やっぱ俺だけなんだな」

 つぶくと、理人がコーヒーのカップを置いた。

「この会社、遅くまで残る人ほとんどいませんよ」

「いや……営業はこんなもんだろ」

「違います」

 短く否定された。

「先輩が抱えすぎです」

 返す言葉がなかった。理人の声に苛立ちはない。ただの事実を述べている、という温度だった。それが余計にきつい。

 朝日がオフィスの窓から差し込んでいた。整然と並んだ無人のデスクが、白い光に照らされている。ここに毎晩ひとりで残っているのは、自分だけだ。改めてそう思い知らされた。

「はよーっす」

 オフィスの扉が開いて、聞き慣れた声が響いた。

 水城遼。直より二つ上の先輩で、同じ営業二課。ドライだが面倒見は悪くない、飲みに行く仲の先輩だ。

「あれ? 夏目、今日やけに早いじゃん」

「水城さん、おはようございます」

 直が口を開くより先に、理人が立ち上がって挨拶した。

「ああ、神谷か。おはよう。――って、なに。お前らふたりで朝飯食ってんの?」

 水城が足を止めた。デスクの上のコーヒーとサンドイッチの残骸を見て、目を細める。

「そんなに仲よかったっけ、お前ら」

「別に、たまたまだよ。神谷が早く来てて――」

「ええ、仲いいですよ。俺たち」

 理人がさらりと言った。そして当然のように、直の肩に手を置いてきた。

「ちょ……近いって」

 反射的に身を引こうとしたが、理人の手は動かなかった。コーヒーの匂いに混じって、かすかにシャンプーの香りがした。思ったより近くに理人の顔があり、鼻先が触れそうな距離だった。形のいい唇がほんのり潤んでいて、思わずドキッとする。

 ――いやいや、待て。なにを見てるんだ俺は。

「お前ら、距離バグってない?」

 水城が腕を組んだ。呆れた顔をしている。

「バグってねえよ」

「バグってるだろ。後輩が先輩の肩に手置いて朝飯一緒って、普通じゃないからな」

「水城さん、考えすぎですよ」

 理人はすました顔でサンドイッチの包み紙を片付けていた。なにが「考えすぎ」なのか、直にはよくわからなかった。

「まあいいけど。始業前に片付けとけよ」

「はい」

 理人がようやく手を離した。離れた途端、肩のあたりがすっと冷えた。別にさみしいわけじゃない。ただ、手のひらの温度が残っているのが妙に気になった。

 水城が自分の席に向かう。三歩ほど歩いたところで、ちらりとこちらを振り返った。

「……つーか夏目、お前シャツしわくちゃだな。まさか泊まったのか?」

「…………」

 沈黙が答えだった。

「お前なあ……。またか」

「また、って。初めてだよ泊まったのは……」

「つーか、終電までいるのは毎日だろ。いつかこうなると思ってた」

 水城はそれだけ言って、席についた。

 直は小さくなりながら、残りのサンドイッチを口に押し込んだ。理人をちらりと見ると、目が合った。なにか言いたげな目だった。

「……なんだよ」

「別に」

 理人はコーヒーを一口啜り、前を向いた。

「先輩」

 水城が席について画面を立ち上げているのをぼんやり見ていると、理人がまっすぐこちらを見た。

「先輩って、生活破綻してますよね」

「……急だな」

「毎日終電。朝食抜き。シャツにアイロンかかってない。寝癖ついてる」

 一つずつ指折り数えられた。全部事実だから、一つも否定できない。

「部屋の掃除も、してないでしょう」

「……悪いかよ」

「食事はコンビニですか」

 長い前髪の隙間から覗く目がじっとこちらを見ている。目を合わせていられなくて、視線を逸らした。

「……毎日じゃねえよ」

「毎日でしょう」

「…………」

 答えられずにいると、理人が黙った。

 その沈黙が、なにより怖かった。

「ダメです」

 低い声だった。冗談で言っているんじゃないと、空気でわかる。

「食事を摂らないから、疲れが抜けないんです。睡眠も浅くなる。仕事の効率も落ちる。悪循環ですよ」

「そ、それは……わかってるけど……」

「わかってないから、こうなってるんです」

 ぐうの音も出なかった。少し離れた席で水城が何事かとこちらを伺っていたが、直はもう気にする余裕がなかった。

 理人が小さく息を吐いた。それから、直の目をまっすぐ見た。

「だから、これから俺が先輩を管理します」

「……は?」

「生活管理です。食事。睡眠。仕事の段取り。全部」

「いやいやいや。管理って、なんでお前にそこまで――」

「必要だからです」

 遮るように、短く言い切られた。

 理人は拳で、とん、と自分の胸を叩いた。

「任せてください」

 自信に満ちた声。有無を言わせない目。

 反論しようとして、口を開いたが言葉がでなかった。こういうとき断れないのが、自分の悪い癖だと知っている。でも今回は、断れないのとは少し違う気がした。

 理人がなぜそこまで言うのか。後輩が先輩の生活を管理するなんて、普通はしない。それは水城が指摘した通り「普通じゃない」ことのはずだ。

 なのに、理人の顔にはためらいがなかった。

 少し離れた席で、水城がこちらをちらりと見ていた。腕を組んで、なにか言いたげな顔をしている。目が合うと、水城は小さく首を振って、画面に向き直った。

 管理、という言葉が、やけに耳に残った。

 世話を焼かれているだけだ。後輩が先輩を心配してくれている。――たぶん、それだけだ。

 その「たぶん」が、少しだけ引っかかった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
29 Chapters
第一話 徹夜明け
 オフィスは静寂に包まれていた。 カタカタカタカタ。 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。「……なんか寒くね?」 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。「やべっ……終電、終わってる」 がくりと項垂れた。 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。 開き直って、モニターに向き直った。 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。 わかってる。段取りが悪いんだ。 わかってるけど、直せない。 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。 ――もう限界だ。十分だけ
Read more
第二話 弁当の理由
 理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。 夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。「先輩、帰る時間です」「は? まだ仕事中なんだけど」「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」 理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。「あとちょっとだけ……」「ダメです」 短い否定。そして、絶対だった。「……わかったよ」 渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。 帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。「お疲れさまでした」 理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。 エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。「いつまで掴んでんだよ」「先輩が電車に乗るまでです」 有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。「明日は九時出勤でお願いします」 文句をいう間もなかった。 結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。「ざいまーす……」 営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。「先輩。九時って、いいましたよね」「ああ……そうだっけ」「そうだっけ、じゃありません」 短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。「明日から朝、電話します」「は? なんで」「起きられないなら、起こします。席についてください」 反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。 朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。 気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。 昼ごはんを
Read more
第三話 休日の侵入
 理人の管理が始まって一週間が経った。 変わったことがある。食生活だ。毎日、手作り弁当が届く。メニューは毎回違っていて、どれも手が込んでいた。唐揚げをリクエストした翌日には、ちゃんと唐揚げが入っていた。二種類の衣で揚げ分けるというこだわりようだった。 夕飯も作りにくると理人は言ったが、それはさすがに断った。弁当だけで十分すぎる。その代わり、教わった通り、スーパーやコンビニで弁当や惣菜を買うときはサラダを足すようになった。 おかげで体調はいい。朝の目覚めが前より楽になった。午後の眠気も減って、仕事が前より捗る。今まで土日も出勤していたのが嘘みたいだ。 久しぶりに予定のない土曜日。ゆっくり寝るぞ、と思っていた。 それなのに。 スマートフォンが鳴っている。枕元で、しつこく、鳴り続けている。「……うるせえな」 布団の中で唸った。無視してみるが、切れる気配がない。十回、二十回。あきらめる様子がまるでない。直はイライラしながら、画面も確認せずに電話に出た。「……もしもし」「先輩、おはようございます」 爽やかな声が耳に飛び込んできた。理人だ。「あ? 神谷か……。今何時だよ」「九時前です」「九時前って……。休みだぞ今日」「はい。だから電話しました」 意味がわからなかった。「起きましたよね。準備して出てきてください」「は?」「買い物に行きます」「……なんで」「先輩の服を買いに行くんです」「服? 俺、服いらないけど」「いります」 なぜか断言された。意味がわからない。 直は布団の中で目をこすった。なんで休日の朝に後輩から電話がかかってきて、服を買いに行くと言われているのか。脳が追いつかない。「俺は行かねえ。寝る」「もう、
Read more
第四話 生活指導
 理人に管理されるようになって二週間。変わったのは、食事だけじゃなかった。 肌の調子がいい。寝不足のくまが薄くなった。午後に襲ってくる眠気もない。理人に言われた通り、昼は野菜から食べるようにした。すると食後に頭がぼんやりしなくなった。血糖値の上がり方が違うのかもしれない。 おかげで仕事も順調だった。残業はこのところしていないし、ミスもない。以前の自分が嘘みたいだ。 そんな調子のいい日に限って、問題が起きる。◆「夏目」 モニターに集中していると、横から声をかけられた。顔を上げると、久我恒星が立っていた。同じ営業二課で、理人と同期。直より二つ年下だが、営業成績は課内トップだ。「恒星か。どうした」「これ、データ間違ってるぞ」 久我が書類を直の前に置いた。共有フォルダにアップした提案資料だった。「嘘。そんなはず……」「去年のデータ使ってる。最新版に差し替えてくれって言われてなかったか」 直は書類をひったくって確認した。確かに、数字が古い。去年度の納入実績がそのまま残っている。差し替えたつもりだったのに、古いファイルを上書きしてしまったらしい。「……すまん。差し替え忘れてた」「このデータで明日の朝イチ、クライアントにだすんだ。間違ったままだしたら会社の信用に関わる」「わかってる。すぐ直す」「頼むぞ」 久我は短く言って、自分の席に戻っていった。怒っているわけではない。ただ淡々と事実を伝えて、修正を求めている。それが余計にきつかった。 直は机の上の書類をかき分けながら、最新データの元ファイルを探した。見つからない。共有フォルダの中にあるはずだが、どのフォルダに入れたか思い出せない。デスクトップにも保存したはずなのに、ファイル名が似たものが並んでいて、どれが最新版かわからなくなっている。「くそっ……」 焦りが手の動きを鈍くする。落ち着け、と自分に言い聞かせるが、頭の中がぐちゃぐち
Read more
第五話 社内の誤解
 理人に管理されるようになって一か月が経った。 弁当は毎日届く。週末は一緒に過ごし、水曜日には家に来て夕飯と作り置きを作ってくれる。おかげで平日にコンビニ弁当を買うことはなくなった。 体調はいいし、仕事も順調だ。残業しなくなった分、夜の時間が増えた。ぼんやりテレビを見ていると、一か月前までの自分が嘘みたいだった。終電で帰って、コンビニ飯を流し込んで、散らかった部屋で寝落ちしていたあのころが。 すべて理人のおかげだと、わかっている。わかっているのに、それが当たり前になりつつあることにも気づいている。 水曜日の午後三時。モニターに向かっていると、理人がコーヒーを差し出してきた。「三時です。休憩してください」「おう。いつもサンキュ」 カップを受け取って、ひとくち飲む。午後のコーヒーも、もう日課になっている。「今日、くるだろ?」「はい。そのつもりです」「今日のメニューなに?」「今日は――」 理人が顔を少し近づけたとき、背後から声がかかった。「おい、夏目。ちょっとこい」 水城だった。 直は振り返った。水城の表情がいつもと違う。普段はドライな男が、珍しく困ったような顔をしている。「なんだよ」「ここじゃあれだ。ちょっと来い。神谷も一緒に」 水城は目で給湯室を示した。理人を見ると、理人は不思議そうな顔をしていた。三人で給湯室に向かった。◆ 給湯室のドアを閉めると、水城が声をひそめた。「お前ら、付き合ってるって噂が流れてるぞ」「はあ?」 直の声が裏返った。「なんだよそれ。誰が言ってんだ」「出どころはわからん。けど、もうけっこう広がってる」「なんで……」「いや、思い当たるだろ。毎日弁当作ってもらって、屋上でふたりで食ってて、帰りも一緒。傍から見たらそう見えるって」「それは、俺の食生活が乱れてるから神谷が――」
Read more
第六話 気になる距離
 フィールクラフト株式会社の小さな会議室で、直は企画書を広げていた。 アーク・ブリッジの仕事は、法人向けの業務効率化システムの提案と導入だ。フィールクラフトはインテリアや生活雑貨を扱う会社だ。事業が急成長している一方で、在庫管理や受注処理が追いついていないという。直はその改善策を提案するために訪問した。 初対面の相手との商談はいつも緊張する。今日も、会議室に通されてから担当者がくるまでの数分間、胃のあたりがきゅっと締まっていた。「失礼します。お待たせしました」 入ってきたのは、穏やかな顔立ちの男性だった。直と歳が近いように見える。「経営企画部の相沢恒一です。今日はわざわざお越しいただいてありがとうございます」「アーク・ブリッジの夏目です。こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」 名刺を交換して、席についた。 相沢は企画書に目を通しながら、時折頷いたり、ペンで印をつけたりしていた。真剣に読んでくれているのがわかる。「なるほど。うちの課題、かなり的確に拾っていただいてますね」「ありがとうございます。ここからさらに御社の実情に合わせて詰めていけますので、よろしくお願いします」「いいですね。在庫回転率のところ、もう少し掘り下げていただけると助かります。うち、季節商材が多いので」「承知しました。データをいただければ、次回までに反映します」 相沢は頷いて、ペンを置いた。そして、ふっと表情を緩めた。「夏目さん、説明がすごくわかりやすいですね。専門用語をこちらにもわかる言葉に言い換えてくれるから、話が早い」「いえ、そんな……」「いや、本当に。前の業者さんは横文字ばっかりで、正直きつかったんですよ」 相沢が笑うと、会議室の空気がやわらかくなった。直もつられて肩の力が抜けた。初対面の相手とここまでスムーズに話が進んだのは珍しい。「企画が通ったら、ぜひ現場も見ていただきたいです。倉庫や店舗など、実際に見ていただいたほうが、よりよい提案ができると思いますので」
Read more
第七話 境界線
 金曜日の夜。久しぶりに課のメンバーで飲みに行くことになった。 とはいえ、集まったのは水城と直、それに二課の後輩がふたりだった。理人はクライアント訪問が長引き、来られないと連絡があった。久我も予定があるらしい。課長は「俺がいると気ぃ遣うだろ」と遠慮した。 後輩ふたりは一時間ほどで「彼女と約束があるんで」と帰っていき、結局残ったのは水城と直のふたりだった。「まあ、気楽でいいわ」 水城がジョッキを傾けた。「だな。気遣わなくていいし」 直もハイボールを飲んだ。水城と飲むのは楽だ。仕事の愚痴も、くだらない話も、なんでも言える。気を遣わなくていい相手というのは貴重だ。「で、最近どうよ。神谷との関係」「関係って。別に変わんねえよ」「嘘つけ。朝迎えに来てるらしいじゃねえか」「なんで知ってんだよ」「社内の噂、舐めんなよ。お前ら、朝一緒に出社してるの目撃されてんぞ」 水城がにやりと笑った。「あのな、別に変な意味じゃなくて――」「わかってるって。お前が変な意味じゃないと思ってるのも知ってる。問題は、周りがどう見るかだ」「……それ、前も言ってたな」「何回でも言う。事実だから」 直はハイボールを一口飲んだ。返す言葉がなかった。「でもまあ、お前が楽しそうなのは悪いことじゃない」「楽しそう? 俺が?」「ああ。前よりいい顔してる。飯ちゃんと食って、寝て、仕事も回ってる。去年まで終電の常連だった夏目とは別人だよ」「……まあ。それは間違いなく神谷のおかげだな」「だろ。ただな」 水城がグラスを置いた。表情が少し変わった。「いつかは自分でどうにかしないとな。神谷がいなくなったらどうすんだ」「……いなくなるって」「異動とか、転職とか。あいつだって自分の人生がある。いつまでもお前の隣にいるとは限らないだろ」
Read more
第八話 看病
 朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六月に入ったばかりで、梅雨の走りのような空だった。折りたたみ傘はバッグに入れてあった。けれど最寄り駅を出たところで、軒下に雨宿りしている大学生ぐらいの青年がいた。傘を持っていない様子で、スマートフォンを見ながら困った顔をしていた。薄着で、腕をさすっていた。「よかったらこれ使いな」 気づいたら傘を差し出していた。青年は驚いた顔をしたが、直が「いいから」と言って押し付けるように渡すと、何度も頭を下げて受け取ってくれた。 駅から直のアパートまでは歩いて十分ほどだ。走れば五分もかからない。そう思って走り出したが、雨は思った以上に強かった。家に着いたころにはびしょ濡れだった。 湯船にお湯を張って身体を温めればよかったのに、面倒になってシャワーで済ませた。結局、それが裏目に出た。 直は時計を見た。まだ七時前。会社に連絡するには早い。 まず水城にメッセージを入れた。「熱出た。今日休む」。 そして理人にも送った。毎朝迎えに来てくれているのだ。無駄足を運ばせるわけにはいかない。『熱でた。会社休む。迎えは大丈夫だから』 送信して、ベッドに潜り込んだ。目を閉じようとすると、すぐにスマートフォンが震えた。『今から行きます』「……いや、来なくていいって」 返信を打とうとしたが、画面がぼやけた。熱のせいで目の焦点が合わない。指が思うように動かなかった。 仕方なく、スマートフォ
Read more
第九話 空白
 熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。『わかった。会社でな』 既読はすぐについた。返信はなかった。 いつもなら、「了解です」とか「気をつけて」とか、ひとことは返ってくる。それがない。 直はスマートフォンの画面を見つめた。来ないとわかっているのに、返信を待ってしまう。画面から目が離せなかった。 一分。二分。なにも来ない。 理人が迎えに来ない朝は、こんなに静かなのか。インターホンが鳴る時間を過ぎても、部屋には自分しかいない。テレビの音だけが響いていた。 直はひとりで家を出た。駅までの道を歩く。いつもなら理人と並んで歩いている道だ。朝の空気が澄んでいる。隣に誰もいない。歩幅を合わせる必要がない。楽なはずなのに、なぜか自分のペースが掴めなかった。◆「おい、夏目。もう大丈夫なのかよ」 出社すると、水城が声をかけてきた。「おう。なんとかな」「けど、まだ顔色悪いぞ。微熱あるんじゃねえか?」「多分大丈夫……」「無理すんなよ」「サンキュ」 自席に向かう途中、理人の横を通った。斜め後ろの席で、すでにモニターに向かっている。「昨日はありがとな」 少し屈んで、理人にだけ聞こえるように言った。「いえ」 それだけだった。 顔を上げない。直のほうを見ない。キーボードを打つ手も止めない。
Read more
第十話 元カノ
 理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。  その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?」 元カノだった。半年前に別れた相手。偶然とはいえ、こんなところで会うとは思わなかった。「久しぶり。仕事帰り?」「ああ。そっちも?」「うん。外回りの帰りで、このへん通りかかったの。元気にしてた?」「まあ、それなりに」「なにそれ。相変わらず曖昧な返事」 あゆみが笑った。少しだけ気持ちが軽くなった。この人はいつもこうだ。軽くて、明るくて、一緒にいると気が楽になる。「ねえ、もしよかったら、ちょっとお茶でもしない? 久しぶりだし」「……おう。いいよ」 断る理由もなかった。◆ 近くのカフェに入った。窓際の席で、向かい合わせに座った。注文を済ませて、あゆみが頬杖をついた。「直くん、なんか雰囲気変わったね」「そうか?」「うん。前より顔色いいし、服もこぎれいになった。前はヨレヨレのシャツにくたびれたパンツだったのに」「……そんなにひどかったか」「ひどかったよ。でも今は、ちゃんとしてる。誰かに見られることを意識してるっていうか」 理人に選んでもらった服を着ている。それを「誰かに見られることを意識してる」と言われると、少し照れた。「ごはんちゃんと食べてるの?」「ああ。野菜も食べるようになった」「えっ。野菜嫌いだっ
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status