中村正一(なかむら しょういち)は私の退職願を見て、惜しそうな顔をした。「白川さん、本当にもう一度考え直してくれませんか?昇進の件なら、東堂社長にもう一度かけ合えます……副社長の席も、可能性がないわけじゃない」私・白川心(しらかわ こころ)はただ静かに首を振った。「中村さん、それは理由にはなりません」あるいは、それだけが理由じゃない、というべきか。今年で、東堂グループに入って十年目になる。東堂澪司(とうどう れいじ)と結婚して、七年目でもある。私はプロジェクトをひとつひとつ取り、穴をひとつひとつ埋めてきた。結婚後は、白川家から持ち込んだ人脈とリソースが、燃え尽きかけていた東堂家を蘇らせた。会社では、彼の最も忠実な部下。家では、彼の最も献身的な家政婦。けれど、彼は人前で一度も、私を妻だと認めなかった。七年かけても、彼の心の扉はついに開かなかった。元々そういった事に無関心な性分な人なのだと思っていた。ならばせめて自分の実力で、対等なパートナーとして彼の隣に立とう。そうして共に老いるまで歩き続けられるなら、それでいいと思っていた。だが彼がずっと憧れていた人――桐谷芽衣(きりたに めい)が現れると、すべてが変わった。芽衣といる彼は、私が一度も見たことのない柔らかさと安らぎをまとっていた。彼はあらゆるリソースを彼女に捧げ、本来私のものだったマーケット部の本部長の席まで、彼女に捧げた。彼は人を愛することを知っていた。ただ、彼の心の中にいる人が、最初から私ではなかっただけだ。本部長になるのが芽衣だと知った時、確かに一瞬、落胆した。だがそれ以上に、心が冷え切った。積み重なってきた失望に、私は本当に少し疲れてしまった。正一はしばらく黙って、静かにため息をついてから退職願にサインした。「白川さん、あなたは本当にいい社員でした……」私は何も返さなかった。いい社員、いい妻、いい母。どれも精一杯演じてきた役割だった。それをことごとく、澪司は軽々と否定してきた。退職願を持って部屋を出ると、澪司と正面からぶつかった。彼は私を見ても、表情ひとつ変えなかった。喉まで出かかった言葉は、結局口から出なかった。昇進していなくてよかった。今の役職なら退職に彼の承認はいらない。面倒が減る。
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