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あなたが恥と呼んだ七年間

あなたが恥と呼んだ七年間

بواسطة:  十三という素数مكتمل
لغة: Japanese
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東堂澪司(とうどう れいじ)の目に、私・白川心(しらかわ こころ)との結婚は家族の政略に抗って敗れた後の、汚点だった。 私たちの子供・東堂律(とうどう りつ)でさえ、彼の人生の消し去りたい染みとなった。 結婚して七年、世間は私が彼の妻だと知らなかった。彼に息子がいることさえも。 彼が桐谷芽衣(きりたに めい)とその娘・桐谷詩(きりたに うた)のために、また私と息子を否定した時。 私は泣かなかった。騒ぎもしなかった。ただ静かに荷物をまとめて、息子を連れて出ていった。 彼はもうとっくに忘れているのだろう。 結婚したあの年に、彼は自らの手で離婚協議書にサインした。 私がサインすれば、その離婚協議書はいつでも効力を持つことを。

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الفصل الأول

第1話

中村正一(なかむら しょういち)は私の退職願を見て、惜しそうな顔をした。

「白川さん、本当にもう一度考え直してくれませんか?

昇進の件なら、東堂社長にもう一度かけ合えます……副社長の席も、可能性がないわけじゃない」

私・白川心(しらかわ こころ)はただ静かに首を振った。

「中村さん、それは理由にはなりません」

あるいは、それだけが理由じゃない、というべきか。

今年で、東堂グループに入って十年目になる。東堂澪司(とうどう れいじ)と結婚して、七年目でもある。

私はプロジェクトをひとつひとつ取り、穴をひとつひとつ埋めてきた。

結婚後は、白川家から持ち込んだ人脈とリソースが、燃え尽きかけていた東堂家を蘇らせた。

会社では、彼の最も忠実な部下。

家では、彼の最も献身的な家政婦。

けれど、彼は人前で一度も、私を妻だと認めなかった。

七年かけても、彼の心の扉はついに開かなかった。

元々そういった事に無関心な性分な人なのだと思っていた。

ならばせめて自分の実力で、対等なパートナーとして彼の隣に立とう。そうして共に老いるまで歩き続けられるなら、それでいいと思っていた。

だが彼がずっと憧れていた人――桐谷芽衣(きりたに めい)が現れると、すべてが変わった。

芽衣といる彼は、私が一度も見たことのない柔らかさと安らぎをまとっていた。

彼はあらゆるリソースを彼女に捧げ、本来私のものだったマーケット部の本部長の席まで、彼女に捧げた。

彼は人を愛することを知っていた。ただ、彼の心の中にいる人が、最初から私ではなかっただけだ。

本部長になるのが芽衣だと知った時、確かに一瞬、落胆した。

だがそれ以上に、心が冷え切った。

積み重なってきた失望に、私は本当に少し疲れてしまった。

正一はしばらく黙って、静かにため息をついてから退職願にサインした。

「白川さん、あなたは本当にいい社員でした……」

私は何も返さなかった。

いい社員、いい妻、いい母。

どれも精一杯演じてきた役割だった。それをことごとく、澪司は軽々と否定してきた。

退職願を持って部屋を出ると、澪司と正面からぶつかった。

彼は私を見ても、表情ひとつ変えなかった。

喉まで出かかった言葉は、結局口から出なかった。

昇進していなくてよかった。今の役職なら退職に彼の承認はいらない。面倒が減る。

すれ違おうとした瞬間、彼は珍しく私を呼び止めた。

「白川部長、準備しておいてくれ。今夜一緒に食事だ」

どうして突然。

まさか澪司が、今日が結婚七周年記念日だと覚えているのだろうか。

胸の中に、みじめな感動がわずかに芽生えた。

だが次の瞬間に彼が発せられた言葉は、とても他人行儀なものだった。

「桐谷本部長が入社する。今夜は歓迎会だ、部署の社員は全員参加するように」

最後の希望に、冷水が浴びせられた。

私は薄く笑って、口の端を引いた。

「都合が悪いので行けません」

本来私のものだった本部長の席を芽衣に渡しておいて、今度はその歓迎会に出ろというのか。

七年の歳月も、結局「憧れの人」には敵わなかった。

彼の顔が曇った。

「お前が行かなければ、お前の部下は行くのか?」

私のことが心配なのではなかった。

私が行かなければ芽衣の今夜の席が冷えるのを、上から送り込まれた彼女の足場がまだ固まっていないのを、私の欠席で私のチームが彼女を充分に丁重に扱わないのを――恐れているのだ。

彼がすることはすべて、彼女のためのじならしだった。

私の部下を使って。私を使って。彼女のための道を。

私がまだ口を開く前に、芽衣がヒールの音を立てて歩いてきた。アイボリーのスーツ、隙のないメイク。

自然な仕草で澪司の腕に絡みついた。

「澪司さん、白川部長を困らせないでください。

今回昇進できなくて、少し気まずいでしょうから、来たらきっと気を悪くします」

そして私に向き直り、温かみのある笑顔を作った。

「白川さん、あなたもシングルマザーなんですって?

時間があれば、子供同士遊ばせましょうよ、友達を作るいい機会だもの」

私は何も言わず、踵を返した。

オフィスの入口まで来たところで、背後から芽衣の声がした。

私と芽衣以外には誰もいない状況で、彼女は鼻で笑った。

「あなたと仲良くしてる夏目陽菜(なつめ ひな)さん、お母さんが病気でお金が要るんでしょ?私が彼女の評価にDをつけたら、彼女の年末ボーナスはなくなるわね」

私は振り返った。

「脅しですか?」

「本部長として、ただ歓迎会にご招待したかっただけですよ、白川部長」

その表情は無邪気で、丁寧すぎるくらい丁寧だった。

あからさまな誇示と侮辱に、両手を思わず握りしめられた。

私の反応がよほど楽しかったのか、彼女は嘲りの表情を隠しもしなかった。

「来ますよね?」
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第1話
中村正一(なかむら しょういち)は私の退職願を見て、惜しそうな顔をした。「白川さん、本当にもう一度考え直してくれませんか?昇進の件なら、東堂社長にもう一度かけ合えます……副社長の席も、可能性がないわけじゃない」私・白川心(しらかわ こころ)はただ静かに首を振った。「中村さん、それは理由にはなりません」あるいは、それだけが理由じゃない、というべきか。今年で、東堂グループに入って十年目になる。東堂澪司(とうどう れいじ)と結婚して、七年目でもある。私はプロジェクトをひとつひとつ取り、穴をひとつひとつ埋めてきた。結婚後は、白川家から持ち込んだ人脈とリソースが、燃え尽きかけていた東堂家を蘇らせた。会社では、彼の最も忠実な部下。家では、彼の最も献身的な家政婦。けれど、彼は人前で一度も、私を妻だと認めなかった。七年かけても、彼の心の扉はついに開かなかった。元々そういった事に無関心な性分な人なのだと思っていた。ならばせめて自分の実力で、対等なパートナーとして彼の隣に立とう。そうして共に老いるまで歩き続けられるなら、それでいいと思っていた。だが彼がずっと憧れていた人――桐谷芽衣(きりたに めい)が現れると、すべてが変わった。芽衣といる彼は、私が一度も見たことのない柔らかさと安らぎをまとっていた。彼はあらゆるリソースを彼女に捧げ、本来私のものだったマーケット部の本部長の席まで、彼女に捧げた。彼は人を愛することを知っていた。ただ、彼の心の中にいる人が、最初から私ではなかっただけだ。本部長になるのが芽衣だと知った時、確かに一瞬、落胆した。だがそれ以上に、心が冷え切った。積み重なってきた失望に、私は本当に少し疲れてしまった。正一はしばらく黙って、静かにため息をついてから退職願にサインした。「白川さん、あなたは本当にいい社員でした……」私は何も返さなかった。いい社員、いい妻、いい母。どれも精一杯演じてきた役割だった。それをことごとく、澪司は軽々と否定してきた。退職願を持って部屋を出ると、澪司と正面からぶつかった。彼は私を見ても、表情ひとつ変えなかった。喉まで出かかった言葉は、結局口から出なかった。昇進していなくてよかった。今の役職なら退職に彼の承認はいらない。面倒が減る。
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第2話
結局、行った。ただの歓迎会だ。澪司が彼女のために用意した席は、私との結婚式より豪華だった。もっとも私の結婚式の日、会場に座っていたのは両家の身内だけだったが。あの頃の東堂家は破産寸前で、白川家との縁組でしか立て直せなかった。悪いのは私だ。当時、澪司にひと目で心を奪われて、浮かれて承諾してしまった。彼の心に、手の届かない憧れの人がいることも、私との政略結婚を拒もうとして、彼が必死に抗ったことも知らずに。私が心待ちにしていたその結婚式は、彼にとってはただの取引であり、芽衣が他の人と結婚した後、やけになってした賭けでもあり、家の決めた縁組に負けた後の、屈辱の証でもあった。結婚式の夜、彼はすでに離婚協議書にサインしていた。あの時、彼は静かな顔で私を見て言った。「家のために一生を縛られるつもりはない。だがお前のことは尊重するつもりだ。この協議書にはもうサインしてある。お前が望むなら、いつでも離婚できる」目の前に投げ出された紙を、私はしばらく動けずに見つめていた。言いたかった。あなたと結婚したのは、家のためじゃない――と。だが喉元で言葉を飲み込んだ。私一人が勝手に惚れたのだ。彼に重荷を背負わせることはできない。結婚してからそこに愛情が芽生える、時間が経てば絆が育まれる。そんな展開は小説の中だけじゃないはず、と思っていた。だから彼の近くにいるために、両親が用意してくれた道を捨てて、東堂グループの底辺から始めた。彼と一緒に再起すれば、愛してもらえると思っていた。七年の歳月があれば、愛してもらえると思っていた。子供ができれば、愛してもらえると思っていた。……全部、私の思い込みだった。七年が過ぎ、白川家は徐々に陰り、東堂家は日の出の勢いで成長した。それでも――澪司が私を愛していないという事実だけは、ずっと変わらなかった。胸がじくじくと痛んだ。酒は飲んでいないのに、頭がぼんやりした。澪司が壇上に立ち、芽衣を見る視線には柔らかさが満ちていた。「これからは桐谷本部長が、マーケット部唯一のトップです」言葉は短かったが、その場にいる全員が分かっていた。これは澪司が彼女のために権威を示し、彼女のこの先歩むのであろう道を整えているのだと。壇上の照明がやけに眩しく、胸が重くなった。立ち上
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第3話
芽衣が恥ずかしそうに澪司を見上げると、彼は優しく彼女の顔にかかった髪を払った。「東堂社長と桐谷本部長、本当に仲がよさそうで、お式はいつになるんでしょうねえ」空気を読むことに長けた社員たちが笑いながら、さっきまで凍りついていた雰囲気を溶かした。澪司は無意識に私を一瞥して、すぐに目を逸らした。「みんなには関係ない話だろう」その一言で、場の空気に火がついた。芽衣は頬を染めて俯き、ひっそりと澪司の胸元へ寄りかかった。男の目に灯った笑みは隠しようもなかった。彼が何か言いかけたが、祝福の声とはやし立てる声にすっかり飲み込まれた。私は賑やかさの外側に立って、二人の幸福を眺めていた。胸が苦しくてたまらなくなり、早々に席を立った。彼の目的は既に果たされた。私がいようといまいと、誰も気にしない。いつものように、澪司と帰宅時間をずらすために早めに車を呼んだ。ホテルの玄関を出ると、風が服の中に入り込んで、震えるほど寒かった。家に帰ると、息子の律(りつ)はまだ起きていた。ぬいぐるみを抱えてソファに座っていた彼は、私を見るなり飛びついてきた。「ママ、目と顔が真っ赤だよ、ぶつぶつもいっぱい出てる、病気?」思わず手で頬に触れた。たぶんアルコールアレルギーの反応だ。屈んで、笑ってみせた。「ママは大丈夫よ」彼は二秒じっと私を見て、本当に病気じゃないと確認してから、ようやく安心した顔になった。「ママ、明日学校で授業参観があるんだけど、ママとパパ、一緒に来れる?」少し戸惑った。律の転校手続きはまだ終わっていないから、今の学校にはまだ通わなければならない。でも澪司はこういう行事に一度も来たことがなかった。それでも律の期待に満ちた目を見ていたら、忍びなくて、スマホを取り出して澪司にメッセージを送ってみた。【明日、律の学校で行事があるの。一緒に来られる?】送ってから、律を寝かしつけ始めた。うとうとしながらも、彼はまだ小声で聞いていた。「パパ、来るかな?」「来るよ」頭を撫でた。「早く寝なさい」部屋を出て、スマホを手に取った。返信はなかった。一時間、二時間、三時間……静かなトーク画面を見つめながら、苦笑した。たぶん酔って、芽衣の家に行ったのだろう。電気を消して寝ようとした時、ス
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第4話
澪司が来たのは、律のためではなかった。芽衣の子供のためだった。律には大人の複雑な事情など分からない。パパが来たと分かった瞬間、目を輝かせて私の手を振り解き、駆け出した。「パパ!ずっと待ってたよ!なんでこんなに遅いの!」あんなに速く、あんなに嬉しそうに走る律を見たのは久しぶりだった。森の中を駆ける小鹿のようだった。だが彼が近づく前に、芽衣の子供の桐谷詩(きりたに うた)が澪司の前に立ちふさがった。「あんた誰?私のパパよ!」よく通る声に、周りの親子が一斉に振り返った。律はその場に立ち尽くし、顔を真っ赤にして、目に涙を溜めた。顔を上げて、震える声で澪司を見た。「パパ……パパ、僕のパパでしょ……そうでしょ?なにか言ってよ……」手を伸ばして澪司に触れようとした。澪司は半歩引いて、律と私を困ったように一瞥した。「俺は詩ちゃんのパパだよ。坊や、人違いだろ」人違い。たった一言、軽く落ちてきた言葉が、私と律の胸に重く刺さった。律の手が宙に止まり、頭を垂れた。目に涙が滲んでいた。私は信じられなくて彼を見た。「澪司!」公の場で彼の名前を呼んだのは、これが初めてだった。「パパ……」律は小さな声でそう言いながら、じりじりと彼の方へ近づこうとした。澪司は律を一瞥し、喉を動かしたが、何も言わなかった。「来ないで!私のパパって言ってるでしょ!」詩が怒って律を押した。律はよろけて後ろに倒れかけ、私は慌てて支えた。「澪司、どういうつもり!?」彼は私の一喝に固まった。私は怒りをぶつけた。「律はあなたの……」「保護者の方!」私の怒りを彼の大きな声が遮った。眉をひそめて不満げに、「お子さんをちゃんと見ていてください。シングルマザーで大変なのは分かりますが、他の人のパパを勝手に呼ばせないでください」と言い放った。詩は得意げに顎を上げた。「聞いた?この人は私のパパよ!」芽衣は柔らかい笑顔を浮かべて、柔らかく彼の腕に絡みついた。「もういいよ、澪司、ちゃんと説明できたんだから。こんな人に怒らなくていい」後ろでは子供たちがひそひそし始めた。「だから言ったじゃん、律ってすぐ嘘つくって、パパいないのにいつも作り話するって」「こんなに経っても一回もパパを連れてきたことないじゃん
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第5話
律の居場所が分かったのは、外がすっかり暗くなってからだった。昼から夜まで探し続けた。澪司はあのメッセージ以来、何の音沙汰もなかった。律に会えた瞬間、膝の力が抜けて、壁に手をついてようやく立っていられた。彼は隅に縮こまっていたが、私を見るなり飛びついてきて、涙で服を濡らした。「ママ!」罪悪感と後悔が波のように押し寄せて、律をきつく抱きしめた。隣で救助隊員がそっとため息をついた。その一言が、私をひどく追い詰めた。「もし誘拐犯からお子さんを取り戻せてなかったら、お子さんが今頃どうなっていたか考えたくもないですね」その言葉が耳に入った瞬間、頭で轟音が鳴り響き、全身が震えた。手を震わせながら、律を頭からつま先まで異常はないか確かめた。「なんでママに電話しなかったの?どれだけ心配したか分かる?」彼は泣きながら答えた。大粒の涙がぽろぽろと落ちた。「パパに迎えに来てほしくて……いっぱい電話したけど、出てくれなかった」声がだんだん小さくなり、頭もだんだん深く下がっていった。「ママ、パパって僕のこと嫌いなの?僕、何か悪いことした?」私は律を抱きしめ、何度も何度も謝り続けた。ごめんね、律。あなたは何も悪くない。ママが悪かった、ママが間違えた……間違った感情に執着して、あなたを巻き込んでしまった。帰り道、律は私の腕の中で眠ってしまった。こっそり彼の時計型の電話を確認した。通話履歴の中で、律は澪司に何十回も電話をかけていた。全部、応答なし。折り返しも今もなかった。SNSを開いた。やはり、芽衣が投稿していた。写真の中で、三人は仲良く陶芸をしていた。本物の家族のように温かい光景だった。そしてその丁度同じ時間に、律は誘拐犯に車へ引きずり込まれようとしていたのだ。律の額にそっとキスをして、小さく囁いた。「もう、つらい思いはさせないから」家に帰るとすぐに荷物を詰め始めた。半分ほど詰めたところで、ドアが開いた。澪司が箱を手に入ってきて、テーブルにぞんざいに置いた。「律、お土産だ」律が目を輝かせて小走りで近づいた。バービー人形だった。ピンクのドレスを着た。律は箱を抱えて、明らかに戸惑った。私も理解できなかった。なぜ律にバービー人形を?一日でも父親をやっていれば、律
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第6話
【東堂澪司視点】翌日、出社しても心の姿がなかった。十年間、彼女は遅刻したことも休んだことも一度もなかった。メッセージを送った。【今日なんで来ないんだ?】以前なら即座に返ってきたのに、この日は昼になっても返信がなかった。だんだん落ち着かなくなってきた。仕事も手につかなかった。胸にぽっかりと穴が開いたような、何かを失いかけているような感覚がした。何度も何度もトーク画面を開いたが、心からは何も来なかった。体でも悪いのか。なんとなく、心のことが心配だった。その時、正一から連絡が入った。【社長、白川部長が退職されました。担当業務の引き継ぎ先はどうしますか?】退職!?あいつが退職した?しばらく迷ってから、電話しようとした。そこで気づいた。彼女の番号はまだブロックしたままだった。彼女と息子からの不在着信が百件近く並んでいるのを見て、今日の異変の意味がようやく分かった。拗ねているだけだ。胸を撫で下ろして、スマホを置いて仕事に戻った。午後六時、珍しく少し急いで家に帰った。今日は一緒に夕食でも食べようか。ドアを開けると、想像していた温かい光景とは違った。部屋は静まり返っていて、人の気配がなかった。テーブルの上のピンクのバービー人形が、やけに目についた。近づいて、その下に挟まれた書類の内容を確認した瞬間、その場に固まった。離婚協議書だ。あいつが……サインしたのか?日付を見て、一瞬頭がぼんやりした。もう七年か。この協議書、まだ残っていたのか。もうとっくに破り捨てたと思っていた。あんなに俺を愛していた彼女が、この書類に名前を書くとは、思いもしなかった。結婚前の自分がどうだったか、もうほとんど覚えていない。この七年、心がいる日常にいつの間にか慣れていた。毎日帰れば誰かが待っている。律が賑やかにパパと呼ぶ。心がいつも自分の周りにいる。結婚して最初の一ヶ月、何度か聞いたことがある。サインする気になったか?いつサインするつもりだ?それがいつからか、聞かなくなった。こんなにも誇り高い自分が、多くを説明する事はできなかった。でも、あれほど明らかな変化があれば、彼女には分かるだろうと思っていた。七年も経てば、自分がこの結婚を受け入れていると
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第7話
心が去った翌日、マーケット部は崩壊寸前だった。七、八年彼女と共に働いてきたベテラン社員たちは、もともと芽衣を快く思っていなかった。空から降って湧いてきた本部長は業務の何も知らず、会議でプレゼンすらまともに進められない。心が去った今、無理して踏みとどまる理由もなかった。退職届が次々と提出された。家庭の事情でやめられない社員たちも、やる気を完全に失っていた。定例会を仕切る者はなく、企画を追う者もなく、プロジェクトの進捗を管理する者もいなかった。正一が扉を開けて入ってきた時、澪司は窓際に立って頭を抱えていた。報告を聞き終えた後、眉をひそめて聞いた。「白川が退職する時、なぜ俺の承認を通さなかった?」正一は東堂グループの古参社員だった。心が入社した時、面接をしたのも彼だった。インターンから部長職まで一歩一歩手を引いて育てたのも彼だった。上司と部下というより、師匠と弟子に近かった。この何年も、心が部署のために費やしてきた夜勤の日々、取ってきた大口顧客の数――その全てを彼は見てきた。一方の芽衣には業務能力も管理経験もない。社長との不透明な関係だけで上に立ったことに、正一は最初から納得していなかった。その教え子が心に深手を負わされて、音もなく去っていった。胸に燃える怒りを抑えながら、正一は皮肉な笑みで、言葉を真っすぐに突き刺した。「社長、本部長以下の社員の退職に、社長のご承認は必要ありません」澪司はその一言で完全に詰まり、口を開きかけたが一言も出てこなかった。そこへオフィスの扉が急いたように何度もノックされた。澪司が返事をする間もなく、秘書が飛び込んできた。顔が青白く、息が荒かった。「社、社長、た、大変です……とんでもないことに……」澪司は苛立ちをぶつけた。「何事だ!?」秘書はその怒鳴り声にますます動揺して、声をさらに震わせた。「会社の機密情報が……漏洩しました」頭の中で爆撃されたような音が鳴った。「何だと!?」「監視カメラに……桐谷本部長、いえ、桐谷が、会社の研究開発資料を競合他社に渡しているのが……」澪司はその場に立ち尽くした。耳の中がざわめいた。秘書が後に続けた言葉は、一言も入ってこなかった。呼び出された映像の中の光景に、全身に冷や水をかけられたような感
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第8話
【白川心視点】東堂グループでの十年間の経歴があったから、すぐに別の大手企業からオファーをもらえた。年収は東堂グループの三倍。ポジションは、ずっと目指していたマーケット部本部長だった。東堂家を出た翌日、澪司からメッセージが届いた。【今日なんで来ないんだ?】しばらく画面を見つめて、最後は苦笑した。私のことなんて心配していない。私がいなければ、芽衣の仕事が回らなくなると焦っているだけだ。返信せず、彼の全ての連絡先をブロックした。今の会社も、今の生活も、悪くなかった。ここでは澪司の承認を待つ必要がない。彼の気分を伺う必要もない。余計な遠慮が消えた分、動きが速く、決断が鋭く、やる気も以前より増した。一週間と経たないうちに、新しい会社での足場を固めた。東堂グループの研究開発資料が漏洩したという話は、昼休みに同僚の噂話で知った。「聞いた?東堂グループの開発データが漏れたって!」「え、本当に?あそこって悪い話なんて聞いたことないのに、いきなり何でこんな大ごとが起こったんだろう?」「漏らした人、誰なのかよく分からない人みたいなんだけど、急にやってきた本部長だって。桐谷芽衣って人?」その情報を聞いても、特別な感情は湧かなかった。痛快でもなく、ざまあみろという気持ちもなかった。ただ――あの人か、と思った。ありそうな話だった。自分の利益のためなら手段を選ばない人だから。澪司にまた会うことになるとは思っていなかった。その日はずいぶん遅くまで残業していて、ビルを出ると、もう人通りはほとんどなかった。見覚えのある人影が、不意に視界に飛び込んできた。会社の入口に立っていた彼は、私の足音に気づいて顔を上げた。東堂澪司。最初、残業で目がおかしくなって見間違えたのかと思った。たった一週間会っていないだけなのに、別人のようだったのだ。目の下にくまができて、顎に無精ひげが伸び、シャツはしわだらけで、髪も少し乱れていた。あれほどきちんとしていた澪司が、そこに立っていて、みっともなく、どこか寂しそうにしていた。私を見た瞬間、目に光が戻って、早足で近づいてきた。「心」手を伸ばして、掴もうとした。「お前と律を……迎えに来た」私は身を引いて、その手をかわした。「東堂さん」思っ
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第9話
誇り高い澪司は、それ以上追ってこなかった。後で聞いた話では、彼は芽衣を訴えたという。営業秘密の窃取、社内中核データの漏洩――証拠は揃っていて、弁解の余地はなかった。かつての憧れの相手と、法廷で向き合い、最後に残っていたわずかな情を引き裂いた。思えば最初から、芽衣の話は全部嘘だった。夫の浮気も、無一文で追い出されたのも――全部作り話だった。浮気をしていたのは芽衣の方で、だから全てを失って放り出されたのだ。離婚後、東堂グループの競合他社が彼女と澪司の過去を嗅ぎつけて、接触してきた。目の前に積まれた大金と利益に、芽衣は心を動かした。その結果、芽衣には三年の実刑判決が下った。これは全て、正一から聞いた話だ。彼はため息をついて言った。「東堂グループはかなりのダメージを受けましたよ。これからは大変でしょう」「そうですか」私はそう答えて、それ以上は続けなかった。電話を切って、手元の企画書に戻った。東堂グループのことも、澪司という人間も、もう気にならなかった。澪司と再び会ったのは、三ヶ月後だった。上場企業のブランド指名競争入札に、私と東堂グループの人間が同じ場に現れた。私の会社も参加者のひとつで、偶然、東堂グループも同じだった。ただ私はチームを率いるマーケット部本部長として来ていた。東堂グループの代表として来ていたのは、澪司本人だった。資料漏洩の痛手を受けてから、多くのことを自ら前に出て指揮しなければならなくなったのだろう。会議室の扉を開けた時、ちょうど彼の視線とぶつかった。明らかに一瞬、彼の動きが止まった。私の方は落ち着いていた。ただ軽く会釈し、挨拶代わりにした。半年ぶりに見る彼は、前回よりもさらに痩せていた。以前のような堂々とした立ち姿ではなかった。眉の間の気骨は残っていたが、人を見る目はもはや高いところから見下ろすものではなく、真っすぐ水平に、むしろ少し慎重になっていた。全員が揃ったところで、入札が始まった。東堂グループの順番が先だった。新しい本部長が壇上に立って説明した。企画書は丁寧に作られていた。私たちの番になり、私が代表として壇上に上がった。市場分析を語り、ブランド戦略を語り、全体計画を語った。十年間やってきたことだ。目を閉じていても話せる。
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