顧客との取引を終えて支店を通りかかった。そのときふと、残業を頑張っている夫に夜食を届けようと思いついた。エレベータのドアが開いた途端、カップ麺のにおいが押し寄せてきた。夫の舟森硯也(ふなもり けんや)と、新入りの秘書が並んでひとつのデスクに腰を下ろしていた。机の上には、2つ並んだカップ麺。ハイヒールで地面を踏み鳴らした。カツカツと音がした。私が2人に近づいたとき、夫の秘書の林珊奈(はやし さんな)が彼女の分のゆで卵の皮をむいて、硯也にあげているところだった。「舟森支店長、残業お疲れ様です。どうぞお食べください」硯也は断ることなく平らげた。私を見た従業員たちは慌てて立ち上がり、次々に挨拶をした。「奥様、こんばんは」私はうなずき返し、デスクの上に置かれたカップ麺に視線を落とした。私のアシスタントが機転を利かせて口を開いた。「ここでは、オフィス内で匂いが強い食べ物は食べてはいけないという規定があります。窓を開けて空気を入れ替えてください」これをきくと、林珊奈はすぐさま怪訝な表情を丸出しにした。ほんのつかの間に強情な様子になり、顔を上げて私の方を見てきた。「奥様、舟森支店長は会社のために身を削り、私たちと共に残業してくださっています。奥様はなにも支店長のために作られないばかりか、会社の規定を盾にして支店長に食べさせようともしないのですか。支店長はとてもお疲れです。妻として支店長のお体を気遣われるべきではないでしょうか」私は彼女と目を合わせると、口角をあげて微笑みを浮かべた。「それで――あなたが代わって、私の夫の面倒をみるってわけ?」思惑を暴かれた林珊奈は一気に頬を赤らめた。硯也の袖をつかみ、彼に助け舟を求めた。残念なことに硯也は応じなかったが、彼女のそばにいた従業員が小声で諭した。「薇香社長は会社全体をまとめられている。我々は1支店にすぎないんだから、薇香社長に迷惑をかけるなんてありえないんだよ。舟森支店長の立場を考えて、我々は奥様と呼ぶようにと言われている」薇香社長という呼び名を耳にした途端、林珊奈の威勢は瞬く間に半減した。どの従業員も出勤初日はまず会社の基本を学ぶ。――それなのに彼女はグループの社長の名前すら知らないなんて。この時、やっと硯也が口を開いた。
Read More