LOGIN顧客との取引を終えて支店を通りかかった。 そのときふと、残業を頑張っている夫に夜食を届けようと思いついた。 エレベータのドアが開いた途端、カップ麺のにおいが押し寄せてきた。 夫の舟森硯也(ふなもり けんや)と、新入りの秘書が並んでひとつのデスクに腰を下ろしていた。 机の上には、2つ並んだカップ麺。 私はとやかく言わず、アシスタントに命じてカップ麺を2箱差し入れさせた。 「二人ともカップ麺が好物らしいわね。遠慮せずにもっともっと食べなさい。食べ終わるまで退勤しちゃ駄目よ」 人を無理強いさせるのは好きじゃない。 まともな男なんて、ほかにいくらでもいるのだから。
View More硯也の祖父は激しい怒りから病を患い、寝たきりになった。祖母の方は生計を立てるために、各地を駆けずり回るほかなくなった。かつて栄華を誇った舟森家は、今や東都の笑いものへと成り果てた。林珊奈は名誉棄損と業績偽装行為などの罪で相応の処罰を受け、1年あまりの懲役を言い渡された。釈放後、彼女はもう東都には行き場もなく、すごすごと東都から立ち去るほかなかった。それ以降、彼女についてなんの音沙汰もなかった。おそらく彼女もやっとわかったのだと思う。――決して超えてはいけない一線があり、その心中を推し量ることはできない人がいる。そして、一度間違った方向に行けば、二度と後戻りができない道があるということを。全てが片付いて、私はようやく心を休めることができた。グループの業務を着実に切り盛りしつつ、プライベートも存分に楽しんだ。硯也がいた支店の支店長ポジションには、優秀で品行端正なベテラン社員を選んで着任された。彼の手に渡ってから、支店の業績は以前のレベルまで回復した。さらには、他にも良い変化が私にあった。以前のように休日も一日中仕事に忙殺されることがなくなったのだ。ジムに行ったり、本を読んだり、旅行にいったりと自分の好きなことをする時間を作れるようになった。私は仲良しの友人グループと一緒にアフタヌーンティーに行ったり、映画をみたり、展覧会に行ったりもした。私の日々は平穏に心地よく過ぎていった。もう以前のような疲労や苛立ちもなくなった。お手伝いさんは私の変化をみて、心から安心していた。「お嬢様は今の方が前よりもずっと幸せそうです。前はいつも仕事が忙しくてご自身のために楽しまれるということがありませんでした。今はこのようになられて、本当に良かったです」私は笑ってうなずいた。手に持っていたジャスミン茶を一口飲んで、穏やかに話した。「そうよ、今の方が居心地がいいの」その日の夕方、私は普段着で家を出ると、家の周りの小道をゆっくりと散歩した。夕凪が優しく吹き、花の香りを運んでいた。やわらかで心地良かった。西日が道に降り注いでいて、私の体にも降りかかっていた。温かくて眩しかった。道の街灯が段々と灯っていき、その点と点が連なっていった。まるで1つの長い銀河のように、美しくて、ロマンチックだ。そのときちょうど
だが、硯也が声をかけたビジネス界の長老たちは皆、私の成長を見守ってきたため、鬼龍院薇香の気質をよく理解していた。また、硯也が今までやってきたこと全てをわかっているため、誰も彼を助けようとはしなかった。さらには、自ら私に電話をかけてきて、私の決定を支持する立場を伝えてくる者もいた。こうして林珊奈は、さらに焦りと苛立ちを強めた。彼女は手段を選ばなくなり、常軌を逸した方法で私を屈服して譲歩させようと試みたのだった。/ある日の午後、私はちょうどグループの本社で幹部会議をしていた。そこにアシスタントが、突然ドアを叩いて入ってきた。慌てた表情で私のそばまで来ると、私の耳元で低い声でこう言った。「鬼龍院社長、林珊奈が記者陣を連れて、本社の下を塞いでいます。社長と舟森元支店長の結婚の裏事情を暴露すると言っています。社長が悪意で従業員をねじ伏せた復讐をするとも言っています」これを聞いて会議室にいた人は皆、次々に私の方を見てきた。めいめい異なる表情を浮かべていた。それでも依然として私は平然な顔つきで、まったく動揺していなかった。「そんな些末なこと、私が対応する必要あるかしら?」硯也も大急ぎで本社の下にやってきた。彼はドアの前を囲んでいる記者たちを見て、その中心にいる林珊奈を目にした。その瞬間、顔から血の気が引いた。大急ぎで前に出ると、彼女を引っ張って連れ去ろうとした。「珊奈、騒ぐな。早く一緒に逃げるぞ!」林珊奈は乱暴に硯也の手を振り払い、狂気じみた口調で言った。「ここまで来て、何か隠すことでもあるの?鬼龍院薇香は私たちを限界まで追い込んだ。なんで立ち上がって、彼女の本性を暴露しちゃだめなの?なんで自分たちのために道理を通しちゃだめなの?」硯也はとてつもなく怪訝な顔をしていた。彼は分かっていたのだ。——林珊奈がこんなことをすれば、彼だけではなく、舟森一家が破滅すると。一連の話が暴露されれば、それらのすべての証拠が拡散される。硯也は本当に地位も名誉も完全に失い、逆転のチャンスは二度となくなるのだ。「こんなことをしても、なにも良いことはないぞ!」林珊奈は笑った。涙が出るほど激しく笑った。「私はもうどうでもいい。もうこれ以上、何も良くなることなんてないんだから」私は本社最上階の大きな窓から、静かに窓の外の
「薇香、君は本当にここまで冷酷なのか?三年間も夫婦だったのに、少しの情も残っていないのか?」私はわずかに笑ったが、口調は冷たくて断固としたものだった。「あなたは、私を屈服させて私が譲歩するのをみたくて、自分のことをすごいと勘違いした行動をとった。私たちの間に情といえるものは何もないわ」言い終わるともう硯也を見ずにそのまま2階へ休みにいった。その日を境に硯也は家に帰ってきていない。たぶん、外で隠れて離婚について思い悩んでいるのだろう。もしくは、どうやってこの離婚騒動からどうやってより多くを手にするか家族と話し合っているのかもしれない。/ある日の午後三時過ぎ、家のドアベルが鳴った。お手伝いさんがドアを開けに行った。戻ってくると、やや困った表情をしていた。「お嬢様、舟森家の人たちがやって来ました。林珊奈さんもいます。お嬢様とお話したいと言っております」来るべき時がやっとやってきた。めんどくさがって問題を避けるより、一回できっぱりと話をつけて、一切の関係を完全に断ち切った方がいい。舟森家の人々はずかずかとリビングへ入ってきた。義祖父は車いすに座っており、重苦しい表情を浮かべていた。その目は不満に満ちている。義祖母は彼のそばにいて、あきらめつつも考えがあるというような複雑な表情をしていた。硯也は祖父母の間を歩いていた。やつれた顔をしていたが、その目は闘争心に満ちている。義祖父がまず口を開いた。口調がきつく、幾分傲慢に私を問いただしてきた。「薇香さん、一体何を考えているのですか?たった一人の秘書のことだけで、硯也と離婚するというのですか?ここ数年間、鬼龍院家のために硯也がどれだけ尽くしてきたかわかっていますか?薇香さんと硯也が離婚すれば、舟森家の評判はどうなるか分かっているのですか?」私はソファにもたれて、無表情のまま目を上げて義祖父の方をみた。そして落ち着いた口調で言った。「お爺様、私と硯也の離婚は一人の秘書のことだけで片付けられるほど単純なものではありません。硯也は節度を失い、私の限界線を無視した。そのたびに私を失望させてきたのです。このことを理解されていらっしゃいますか?」義祖父は眉をしかめたが、変わらずきつい口調で続けた。「それがなんだっていうんですか?孫にも落ち度はありますが、そんな
離婚届はアシスタントによって、そっと硯也の前のデスクに置かれた。端まできちんと整ったその紙は、まるで一塊の岩のように硯也を直撃し、彼の身動きを取れなくさせた。硯也は太字で書かれた3文字を凝視した。指先はわずかに震えていた。青ざめていた彼の顔は次第に赤みを帯びていった。その目はパニック、悔しさ、そして侮辱されたことへの怒りで燃え盛っていた。「薇香……おかしくなったのか?」硯也はふいに顔を上げた。声は気づかれないほどの震えを帯びていたが、彼はあえてその声を張り上げた。威勢を張ることで、自分の動揺を覆い隠そうとしているようだった。「林珊奈1人のこと、今回のたった1度の人事決定で……薇香は僕と離婚するというのか?長年僕が君の家のためにどれほど尽くしてきたか忘れたのか?どれだけ会社に寄り添って1歩ずつ今日まで歩んできたのか忘れたとでもいうのか?」私はそばのデスクに寄りかかり、両手を胸の前で組んでいた。表情は穏やかで、微動だにしなかった。無関心な視線を硯也へ向けており、それはどうでもいい見知らぬ他人を見るかのようだった。「硯也、あなたがしてきたことに対して会社が不当な扱いをしたことは1度もないわ。普通の従業員から支店長にまで昇格させた。あなた自身だけじゃなく、あなたの家族や親戚だって皆恩恵を受けている。だから、頑張り損なんてまったくしていないのよ」林珊奈は傍らに立ち尽くしていた。先ほど私に怒鳴りかかったときの自信は、もう消え失せていた。彼女の顔は青ざめ、目は赤くなっていた。それでも平静を保とうと努め、硯也の袖を引っ張った。彼女の声は嗚咽をはらみ、震えていた。「舟森支店長……全部私が悪かったんです。ここに居座って支店長の重荷になるべきではありませんでした。私はもう去ります。だから奥様と離婚なさらないでください……」――本当に笑える。その言い方じゃ、まるで硯也が私と離婚するみたいじゃない。硯也は苛立った不機嫌な口調で、彼女の手を乱暴に振り払った。言うまでもなく、林珊奈が見せたか弱さが彼の気を良くすることなどなかった。実のところ、彼が気にかけていたのは林珊奈が会社に残るかどうかではなかったのである。硯也は毎回私の許容ラインをうかがって、自分がすでに力を持っていることを実感していたに過ぎなかった。私の目の前
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