夏も足早に去って行き、既に季節は晩秋の終わりを告げかけていた。 落ちた銀杏の黄色い葉が風に舞い、時折そっと木枯らしが抱きにくる。 何処かに忘れてきたものを、思い出させるかのようにノスタルジーに。 遠くに見える山々は赤や黄色に染まり、絵の具をひっくり返したような色鮮やかな世界は神秘的で、まるで理想郷ユートピアのようだった。 昼下がりの喫茶店、隅に座るコートを着た男性。 コートの襟で顔が少し隠れていたが、明らかに綺麗に整っている横顔。「花音ちゃん。これを彼方のお客さんに宜しく」 保育園のボランティアから帰ってくると直ぐに、珍しく店主の奥さんから珈琲を持たされた。 奥さんは微笑むだけで何も言わない。「お待たせしました~~」「ウエイトレスのバイトは楽しいか? 家出娘」「え?」 男性がサングラスを外した。「先生!」 店主ご夫婦が店の外に準備中の札を掛け、奥の部屋にそっと去って行った。「これ以上休むと、卒業出来ないそうだが?」「ぇ? もう退学になっているものだと……」「して欲しいのか?」 先生の顔は、今までと何一つ変わってなかった。 いつもちゃんと私の目を見て、逸らすことは一切せず真っ直ぐ問い掛けてくる。 勝手にその視線を逸らしたのは私だと言うのに。 馬鹿だ……私は。「いえ……」「土産だ。三日後に来期のソリストをはじめオケメンバーのオーデションを行う。4月からそれに向けて始動する。最後のチャンスだ」「ぇ?」 先生が手渡した封筒を開ける。 スコア? これって……『KANONーパッフェルベル作 御神 貴志 編曲』「先生これって……」「これじゃ足りないか?」 本来パッフェルベルのカノンのスペルは「K」ではなく「C」ではじまる「Canon」が正しい。でもこれは私の名前の「K」からはじまっている。まるで「花音」へと言っているように。 これってあの時、先生が咄嗟に隠した海辺で書いていたものでは? 最初のフレーズに見覚えがあった。 あの頃から⋯⋯ ちゃんと先生は私のことを⋯⋯ それなのに私は。 溢れる涙に、先生はじっと私の目を見つめて頭を優しく撫でた。「帰るぞ。家に」「はい……」 無意識に頷いていた。「支度して来い。外で待ってるから」「はい」 ◇「妻がお世話になりました」「え? 奥さんなんですか?」
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