会社で火事が起きた時のこと。私は唯一の脱出ロープを、夫の森田理仁(もりた りひと)に渡した。しかし、彼は私の顔から火災避難用マスクを無理やり剥ぎ取ると、振り返ってそれを助手である陣内涼子(じんない りょうこ)に着けさせたのだ。理仁は脱出ロープを使って脱出し、涼子もマスクのおかげで無傷で逃げ出すことができた。ただ私だけが煙を吸いすぎて気を失い、さらには倒れてきた柱で腹部を強打してしまったせいで、下腹部から流れ出した血が足元を伝った。消防隊員が私を救急車のストレッチャーに乗せようとしたその時、理仁は私を引きずり下ろした。「柚葉(ゆずは)、お前のその程度の怪我でストレッチャーなんか使うな。涼子が先だ。彼女のほうが重症なんだから、しっかり検査してもらわないと!」消防隊員と医師は呆気にとられた。彼らは血に染まった私のスカートと、指の軽い火傷で泣きじゃくる涼子を交互に見つめる。同僚たちも思わず口を挟んだ。「お言葉ですが、社長……どう見ても森田部長の方が重症じゃないですか?」すると、理仁が声を荒げた。「うるさい!俺はこいつの夫なんだから、こいつが重症か重症じゃないかくらい分かっている。それに、お前たち。そんなこと言って、もし涼子に何かあったら、ただじゃ済まさないからな」私は少し膨らんだお腹を押さえると、静かに頷いて、涼子を救急車に乗せることに同意した。私が素直に聞き入れると、理仁は鼻で笑って言った。「柚葉。どうせ、そうやって大人しく聞き入れるふりして、同情でも買おうとしてるんだろ?でもそんな分かりやすい演技には、もううんざりなんだよ!」そして、私をストレッチャーから遠ざけようと、理仁は私の腹部を力いっぱい蹴り飛ばす。ただでさえ柱に打ち付けてしまった場所を蹴られ、私はさらなる激痛に襲われた。痛みで声も出せず、ただ体を反射的に縮こまらせ、震えることしかできない。しかし、そんな私の苦しみなど知らない理仁は私を嘲笑った。「一蹴りで静かになるなんて、本当に情けない女だな」再び下腹部から温かい血液が流れ出るのを感じて、私は絶望で胸が張り裂けそうだった。お腹の中にいたはずの命なのに、今となっては無残な汚れとなって足元へ消えていく。この子の父親である理仁は、そんなこともつゆ知らず、涼子を優しく介抱しながらストレッチャーへ
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