返事のない昨日にさよなら のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 7

7 チャプター

第1話

私は瀬戸紗雪(せと さゆき)。三年前から、恋人の鈴田響(すずた ひびき)とは離れて暮らしている。一か月、残業を詰め込んでようやく時間を作り、響に会うため、彼の住む街へ向かった。けれど、その日、響とは連絡がつかなくなった。見知らぬ街で一人、十時間待った。ようやくかかってきた電話の向こうから聞こえたのは、響ではなく、親友の森谷穂波(もりや ほなみ)の弾んだ声だった。「紗雪、びっくりした?先にいろいろ回ってきちゃった。すごく楽しかったよ。響、案内うますぎ」穂波ははしゃいだ声で、今日行った場所や面白かったことを次々に話した。まるで響のスマホに残った三十件の不在着信など、最初から目に入っていないみたいに。私は黙って聞いていた。穂波が「寒い」とこぼすまで。その一言で、ようやく響が電話を代わった。「先に穂波をホテルまで送る。お前はもう少し待ってろ」その声を聞いて、私は思わず尋ねた。「私が何時間待ってたか、知ってる?」響は少し黙ったあと、冷たい声で言った。「穂波はお前の親友だろ。そこまで張り合うことか?」あからさまに責められて、私はもう何も言えなくなった。電話を切ると、家に帰るために呼んでいた車が来ていた。運転手は私を見るなり、心配そうに声をかけてきた。「お客様、もう夜中の十二時を過ぎてますよ。この辺り、あまり治安がよくないんです。家の人は心配しないのでしょうか」私は雪で濡れた靴を見下ろした。「そうですね」そう答えて、少しだけ笑った。「でも、もう二度とこんなことをしません」響が、私の不在に気づいたのは、二時間後だった。彼のスマホの着信音は、海外で流行っているロックナンバーだった。私の好みではない。以前、少し拗ねたふりをして、私の好きな静かな曲に替えてほしいと頼んだことがある。響は、あからさまに嫌な顔をした。そのときの突き放すような声を、私は今でも忘れられない。「なんで俺が、いちいちお前に合わせなきゃいけないんだよ」私はひどく気まずくなり、すぐに謝った。けれど、ついさっき、親友の穂波がインスタを更新していた。【まったく。三か月前に例のおバカさんにすすめた曲、私はもう聴き飽きてるのに、あの人まだ着信音にしてるんだけど】三分前、響がそこにコメントして
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第2話

浴室でシャワーのお湯が温まるのを待っていると、穂波のインスタがまた更新された。【SNSで話題のミルクティー、やっと買えた。わざわざ一時間も並んでくれたのに、味はまあまあ。一口だけ飲んだから、残りは並んでくれた本人に引き取ってもらった】写真の端には、カップを手にしてこちらへ笑いかける響が写っていた。潔癖のせいで、響は私の飲みかけには一度も口をつけたことがない。それなのに、穂波の飲みかけは受け取るんだ。私は小さく息を吐き、そっと「いいね」を押した。それから、社長に電話をかけた。「社長、先日の件ですが……まだ間に合うようでしたら、私に担当させていただけませんか」電話の向こうで、社長は少し驚いたようだった。けれど、すぐに声がやわらいだ。「やっと決めてくれたか。正直、あの案件は君に任せたいと思っていた。一年だけ海外に行ってもらうことになるが、結果を出せば、戻ってきたあと会社としてもきちんと評価する。それに、一年なんて長いようであっという間だ。大事な相手なら、きっとわかってくれるはずだ」私は少し笑って、何も言わなかった。本当は、この仕事を受けると決めた時点で、私と響の関係はもう終わっていた。私はゆっくり時間をかけて、熱いシャワーを浴びた。浴室を出るころには、さっきの投稿は消えていた。少し意外だった。穂波も、見られて困るという意識くらいはあるらしい。そのとき、響から電話がかかってきた。嫌な予感はした。それでも私は、通話ボタンを押した。「何考えてるんだよ。俺の電話は無視するくせに、穂波の投稿には反応するんだな。わざとだろ。あいつを困らせて、楽しいのか?」早口で責め立てる声には、焦りがにじんでいた。けれどそれは、私を案じているからではない。穂波を守ろうとしているからだ。一か月、残業を重ねてまで響に会いに来たのに。その先で向けられたのは、こんな言葉だった。急に、全身から力が抜けた。「響、あなたはいったい誰の彼氏なの?」響はそこで言葉を詰まらせた。長い沈黙のあと、彼はため息まじりに言った。「……なんでそうやって、いちいち大げさにするんだよ」「響、やっぱり……私から話したほうがいい?」電話の向こうから、穂波の不安げな声が聞こえた。私は時間を確認
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第3話

しばらくして、浴室から響に呼ばれた。パジャマを持ってきてほしいらしい。私は一着持って、浴室のドアを開けた。その瞬間、響は慌ててスマホを伏せた。濡れた顔のまま、こちらに笑いかける。「ありがと」そう言うなり、またすぐにドアを閉めた。私はその場を離れなかった。数秒後、浴室の中から穂波の笑い声が聞こえてきた。「なにこれ。私たち、こそこそしてるみたいじゃない?」響の返事は、どこか気の抜けたものだった。「お前も紗雪のこと知ってるだろ。すぐ気にするんだよ」穂波は小さく鼻を鳴らし、はしゃいだ声で言った。「早く腹筋見せてよ。さっき、ちゃんと見えなかったんだから」響は呆れたふりをして笑った。「ほんと、エロいな」……私はそれ以上、聞いていられなかった。響が寝室に来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。頬は赤く、目には妙な熱が残っていた。何に煽られてきたのか、考えたくなくても分かってしまう。部屋の明かりも消さないまま、響はそのまま私を抱こうとした。私は彼を押し返し、静かに言った。「今日は無理。ゴムもないし」響は一瞬固まった。そして、反射的に口を滑らせた。「穂波が、安全日なら平気だって……」私は思わず彼を見た。嫌悪感が、はっきりと胸に広がった。「そういうことまで、穂波に話してるの?」「違う」響はすぐに否定し、気まずそうに髪をかき上げた。けれど私の視線に耐えきれなかったのか、少しだけ声を落とした。「あいつは他人じゃないだろ」私は響の顔を見た。言い訳をしているはずなのに、響の目は少しも揺れていなかった。彼にとって、穂波をかばうことは、もう当たり前になっているのだと思った。それをおかしいと思っているのは、私だけなのかもしれない。もう、響と同じベッドで眠ることすら耐えられなかった。「今日は別の部屋で寝て」響は信じられないという顔をした。「は?そこまですることかよ。わざわざ会いに来たのに、俺を追い出すのか?」「会いに来たんじゃなくて、そういうことがしたかっただけでしょ」響は黙って私を見た。その目に、怒りが浮かんでいるのが分かった。私はふと、別れを切り出すなら今かもしれないと思った。けれど、言葉にする前に、響は乱
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第4話

穂波はその場で固まり、気まずそうに目を伏せた。私がここまで言うとは思っていなかったのだろう。隣で響が眉をひそめた。「どういうことだよ。お前たち、いつ喧嘩したんだ?」私は響から目をそらさずに答えた。「四日前。穂波が私についてきて、あなたに会いに行くって言ったのを、私が断ったとき」それが面白くなくて、私への仕返しみたいに、先に響に会いに行ったのだろう。「それだけのことで?」響はまだ、信じられないという顔をしていた。もちろん、それだけではない。この一年、穂波は何かと私と響の時間に入り込んできた。私が響に会いに行こうとすると、決まって穂波から連絡が来る。旅行に付き合ってほしいとか、具合が悪いから来てほしいとか、理由はそのたびに違った。響とペアリングを選んだときでさえ、穂波はよく似た指輪を買って、平然と自分の指にはめていた。そこまでされて、気づかないほど鈍くはない。だから騒ぎ立てずに、穂波とは距離を置いたつもりだった。それでも、ここまで平気で踏み込んでくるとは思わなかった。穂波はゆっくり立ち上がった。目にはうっすら涙が浮かんでいる。「ごめん。私、帰るね」その瞬間、ガタンと椅子が倒れる音がした。響が勢いよく立ち上がり、穂波の前に出る。「穂波が帰るなら、俺も帰る」「そう。じゃあ帰って」私はすぐにそう返した。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。響は一瞬、目を見開いた。私はこれまで、一度も彼を追い出したことがなかった。喧嘩をしても、たいてい先に折れるのは私だった。けれど、もう本当にうんざりしていた。それでも響は動かなかった。奥歯を噛みしめるようにして、私をじっと見ている。穂波が小さく鼻を鳴らし、響の手をつかんだ。「行こう。なんで私たちがこんなこと言われなきゃいけないの。響がそうやって許すから、紗雪も調子に乗るんだよ」結局、響は穂波に手を引かれるまま、部屋を出ていった。ようやく肩の力が抜けた。私は席を立ち、皿に残った目玉焼きをそのままゴミ箱へ捨てた。それから寝室に戻り、荷造りを始めた。夜、ベッドに入ろうとしていたとき、仲のいい友人の滝沢千帆(たきざわ ちほ)から突然メッセージが届いた。【やばい、紗雪。これ見て。とんでもないの撮
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第5話

「紗雪、今どこだよ。大家さんに聞いたら、もう部屋を出たって……どこに行ったんだよ。なんで待っててくれなかったんだ。俺、三時間も待ってたんだぞ」響の声には、不満と怒りが入り混じっていた。彼が言葉を切ったところで、私は口を開いた。「響。あの日、私は十時間待ってた。三十回も電話した。雪の中にずっといて、足は凍傷になった。その間、私がどんな気持ちでいたか、考えたことある?」響は黙った。電話の向こうから、乱れた呼吸だけが聞こえる。私はフランスの街並みを見ながら、コートの前をそっと合わせた。「その日の帰り、タクシーの運転手さんから聞いたの。私がいた駅で、その少し前に性的暴行事件があったって。同じ市内にいたあなたが、知らなかったとは思えない」あの夜のことを思い出すと、目の奥が熱くなった。「それでもあなたは、私を一人であそこに残した。十時間も。私は、あなたに何かあったんじゃないかって本気で心配してた。警察に相談しようかとまで思った。でも、やっと電話がつながったときに聞こえたのは、あなたと穂波の笑い声だった。あのとき、自分がひどく惨めに思えた」「紗雪……」響の声が震えた。「まだ話してる途中だから」私は彼の言葉を遮った。「女の人が自分に好意を持っているかどうかくらい、気づかないわけないよね。それなのに、穂波は私の親友だからって言って、平気で思わせぶりなやり取りを続けてた。昨日の夜もそう。穂波とのビデオ通話を切ったあと、私を抱こうとした。私がどんな気持ちだったか、分かる?」目の前にタクシーが止まった。私は一度息を吸い、静かに続けた。「あなたと穂波がこれからどうなろうと、もう私には関係ない。だから、これ以上連絡してこないで。響。もう終わりにしよう」電話の向こうで、響が何か叫んでいた。私はそれ以上聞かずに、通話を切った。響は暗くなった画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。大家さんはその様子を見て、だいたいの事情を察したらしい。「……今は、そっとしておいたほうがいいんじゃないかしら。追いかけても、かえってこじれることもあるから。紗雪ちゃん、普段は穏やかな子だし。時間を置けば、話くらいはできるかもしれないわ」響は赤くなった目で、大家さんを見た。
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第6話

フランスでの暮らしは、想像していたよりずっとゆったりしていた。仕事は忙しい日もあったけれど、退勤後や休日の時間は驚くほど自由だった。休みが取れるたびに、私はヨーロッパのいろいろな街へ出かけた。友人も少しずつ増えていった。文化の違いはあっても、みんな気さくで親切だった。私がフランス語に詰まるたび、根気よく言葉を引き出してくれた。フランス人の友人、ディアナが言った。「フランス語を早く上達させたいなら、フランス人の彼氏を作るのが一番よ」言い終わるか終わらないかのうちに、隣にいたフランス人の男友達が手を挙げた。「紗雪、僕でよければ!」みんなが笑い出し、私も少し考えるふりをした。「じゃあ、考えておく」けれど、そんな穏やかな時間は長く続かなかった。その夜、家に戻ると、部屋の前に響がしゃがみ込んでいた。かなり長い時間待っていたのだろう。立ち上がった拍子に、膝が少し崩れた。「おかえり」響は私の手荷物を持とうとして、手を伸ばしてきた。昔の彼なら、そんなことはしなかった。私は拒まず、黙ってドアを開けた。響が中に入ってから、私は振り返った。「来ないで、とは言わなかった?」響は目を伏せたまま、何も言わなかった。握った手に、少しだけ力が入る。やがて顔を上げた響の目は、うっすら潤んでいた。「ごめん」私は額に手を当て、小さく息を吐いた。「どうやってここを知ったの?」響は一度だけ私を見て、言いにくそうに口を開いた。「仕事用のメールを見た」私は一瞬、言葉を失った。そういえば以前、急ぎの仕事を手伝ってもらったときに、パスワードを教えたことがあった。私はコートを脱ぎながら、背中越しに尋ねた。「仕事は?」響はエンジニアで、収入も悪くない。ただ、そのぶん仕事は忙しく、簡単に休めるような職場ではなかったはずだ。「大丈夫……」思わず笑いそうになった。大丈夫で済むことだったのか。働き始めてからの三年間、私たちはほとんど離れて暮らしていた。会いに行くのは、いつも私だった。響は忙しい、どうしても時間が取れないと、毎回そう言っていた。それなのに今は、仕事を放り出してまでフランスに来られるらしい。水をひと口飲んだところで、響の手元に目が留まった。「
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第7話

響は血の気の引いた顔で私を見上げた。立ち上がろうとした瞬間、めまいでもしたのか、膝が崩れかける。彼はしばらくその場で動けずにいた。やがて息を整えるようにして、ゆっくり立ち上がった。「分かった。もう押しかけたりしない。でも、お前がまた振り向いてくれるまで待ってるから」その目には、私のよく知る頑なさが残っていた。私は眉をひそめ、何か言いかけた。けれど響はそれを聞かず、背を向けて部屋を出ていった。広い背中が、夜の廊下に消えていく。それきり、響が私の前に現れることはなかった。一か月後、代わりに穂波から電話がかかってきた。「紗雪、響に何言ったのよ!」電話口の穂波は、いつもの余裕をなくしていた。「私、ブロックされたんだけど。住む場所まで変えられてるし……紗雪はもう響と別れたんでしょ?だったら、どうして私までこんな目に遭わなきゃいけないの?」言っているうちに、穂波の声が少しずつ震え始めた。「私、本当に響のことが好きなの」でも、それが私に何の関係があるのだろう。「それはあなたと響の問題でしょ。私には関係ない」「違う!」穂波はすぐに言い返した。声には焦りが混じっていた。「紗雪から響に言ってよ。私の電話に出てって。響、紗雪の言うことなら聞くでしょ。お願い、言って」あまりの身勝手さに、思わず笑いが漏れた。「どうして私がそんなことをしなきゃいけないの?」「お願い。何でもするから。紗雪の言うことなら何でも聞く。だから、響に私を避けないでって言って」私はため息をついた。「響は、あなたをそういう目で見てないよ」「そんなの嘘。私が近づいても、響は避けなかったじゃない」穂波はむきになって言い返し、自分に都合のいい出来事をいくつも並べ始めた。私は黙って聞いていた。あの日、駅で待っていたときと同じように。「気づかなかった?響があなたに近づくのは、私を怒らせたいときだけだった」昔、響は言っていた。「あいつは男友達みたいなものだし、そういう相手としては見てない」あの言葉は、たぶん嘘ではなかった。穂波は、響のタイプではない。だから最初、私は穂波をそこまで警戒していなかった。「嘘よ。自分に都合よく言ってるだけでしょ」そう言っていた穂波の声が、途中から涙に濡れ
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