LOGIN私は瀬戸紗雪(せと さゆき)。 三年前から、恋人の鈴田響(すずた ひびき)とは離れて暮らしている。 一か月、残業を詰め込んでようやく時間を作り、響に会うため、彼の住む街へ向かった。 けれど、その日、響とは連絡がつかなくなった。 見知らぬ街で一人、十時間待った。 ようやくかかってきた電話の向こうから聞こえたのは、響ではなく、親友の森谷穂波(もりや ほなみ)の弾んだ声だった。 「紗雪、びっくりした?先にいろいろ回ってきちゃった。すごく楽しかったよ。響、案内うますぎ」 穂波ははしゃいだ声で、今日行った場所や面白かったことを次々に話した。 まるで響のスマホに残った三十件の不在着信など、最初から目に入っていないみたいに。 私は黙って聞いていた。 穂波が「寒い」とこぼすまで。 その一言で、ようやく響が電話を代わった。 「先に穂波をホテルまで送る。お前はもう少し待ってろ」 その声を聞いて、私は思わず尋ねた。 「私が何時間待ってたか、知ってる?」 響は少し黙ったあと、冷たい声で言った。 「穂波はお前の親友だろ。そこまで張り合うことか?」 あからさまに責められて、私はもう何も言えなくなった。 電話を切ると、家に帰るために呼んでいた車が来ていた。 運転手は私を見るなり、心配そうに声をかけてきた。 「お客様、もう夜中の十二時を過ぎてますよ。この辺り、あまり治安がよくないんです。家の人は心配しないのでしょうか」 私は雪で濡れた靴を見下ろした。 「そうですね」 そう答えて、少しだけ笑った。 「でも、もう二度とこんなことをしません」
View More響は血の気の引いた顔で私を見上げた。立ち上がろうとした瞬間、めまいでもしたのか、膝が崩れかける。彼はしばらくその場で動けずにいた。やがて息を整えるようにして、ゆっくり立ち上がった。「分かった。もう押しかけたりしない。でも、お前がまた振り向いてくれるまで待ってるから」その目には、私のよく知る頑なさが残っていた。私は眉をひそめ、何か言いかけた。けれど響はそれを聞かず、背を向けて部屋を出ていった。広い背中が、夜の廊下に消えていく。それきり、響が私の前に現れることはなかった。一か月後、代わりに穂波から電話がかかってきた。「紗雪、響に何言ったのよ!」電話口の穂波は、いつもの余裕をなくしていた。「私、ブロックされたんだけど。住む場所まで変えられてるし……紗雪はもう響と別れたんでしょ?だったら、どうして私までこんな目に遭わなきゃいけないの?」言っているうちに、穂波の声が少しずつ震え始めた。「私、本当に響のことが好きなの」でも、それが私に何の関係があるのだろう。「それはあなたと響の問題でしょ。私には関係ない」「違う!」穂波はすぐに言い返した。声には焦りが混じっていた。「紗雪から響に言ってよ。私の電話に出てって。響、紗雪の言うことなら聞くでしょ。お願い、言って」あまりの身勝手さに、思わず笑いが漏れた。「どうして私がそんなことをしなきゃいけないの?」「お願い。何でもするから。紗雪の言うことなら何でも聞く。だから、響に私を避けないでって言って」私はため息をついた。「響は、あなたをそういう目で見てないよ」「そんなの嘘。私が近づいても、響は避けなかったじゃない」穂波はむきになって言い返し、自分に都合のいい出来事をいくつも並べ始めた。私は黙って聞いていた。あの日、駅で待っていたときと同じように。「気づかなかった?響があなたに近づくのは、私を怒らせたいときだけだった」昔、響は言っていた。「あいつは男友達みたいなものだし、そういう相手としては見てない」あの言葉は、たぶん嘘ではなかった。穂波は、響のタイプではない。だから最初、私は穂波をそこまで警戒していなかった。「嘘よ。自分に都合よく言ってるだけでしょ」そう言っていた穂波の声が、途中から涙に濡れ
フランスでの暮らしは、想像していたよりずっとゆったりしていた。仕事は忙しい日もあったけれど、退勤後や休日の時間は驚くほど自由だった。休みが取れるたびに、私はヨーロッパのいろいろな街へ出かけた。友人も少しずつ増えていった。文化の違いはあっても、みんな気さくで親切だった。私がフランス語に詰まるたび、根気よく言葉を引き出してくれた。フランス人の友人、ディアナが言った。「フランス語を早く上達させたいなら、フランス人の彼氏を作るのが一番よ」言い終わるか終わらないかのうちに、隣にいたフランス人の男友達が手を挙げた。「紗雪、僕でよければ!」みんなが笑い出し、私も少し考えるふりをした。「じゃあ、考えておく」けれど、そんな穏やかな時間は長く続かなかった。その夜、家に戻ると、部屋の前に響がしゃがみ込んでいた。かなり長い時間待っていたのだろう。立ち上がった拍子に、膝が少し崩れた。「おかえり」響は私の手荷物を持とうとして、手を伸ばしてきた。昔の彼なら、そんなことはしなかった。私は拒まず、黙ってドアを開けた。響が中に入ってから、私は振り返った。「来ないで、とは言わなかった?」響は目を伏せたまま、何も言わなかった。握った手に、少しだけ力が入る。やがて顔を上げた響の目は、うっすら潤んでいた。「ごめん」私は額に手を当て、小さく息を吐いた。「どうやってここを知ったの?」響は一度だけ私を見て、言いにくそうに口を開いた。「仕事用のメールを見た」私は一瞬、言葉を失った。そういえば以前、急ぎの仕事を手伝ってもらったときに、パスワードを教えたことがあった。私はコートを脱ぎながら、背中越しに尋ねた。「仕事は?」響はエンジニアで、収入も悪くない。ただ、そのぶん仕事は忙しく、簡単に休めるような職場ではなかったはずだ。「大丈夫……」思わず笑いそうになった。大丈夫で済むことだったのか。働き始めてからの三年間、私たちはほとんど離れて暮らしていた。会いに行くのは、いつも私だった。響は忙しい、どうしても時間が取れないと、毎回そう言っていた。それなのに今は、仕事を放り出してまでフランスに来られるらしい。水をひと口飲んだところで、響の手元に目が留まった。「
「紗雪、今どこだよ。大家さんに聞いたら、もう部屋を出たって……どこに行ったんだよ。なんで待っててくれなかったんだ。俺、三時間も待ってたんだぞ」響の声には、不満と怒りが入り混じっていた。彼が言葉を切ったところで、私は口を開いた。「響。あの日、私は十時間待ってた。三十回も電話した。雪の中にずっといて、足は凍傷になった。その間、私がどんな気持ちでいたか、考えたことある?」響は黙った。電話の向こうから、乱れた呼吸だけが聞こえる。私はフランスの街並みを見ながら、コートの前をそっと合わせた。「その日の帰り、タクシーの運転手さんから聞いたの。私がいた駅で、その少し前に性的暴行事件があったって。同じ市内にいたあなたが、知らなかったとは思えない」あの夜のことを思い出すと、目の奥が熱くなった。「それでもあなたは、私を一人であそこに残した。十時間も。私は、あなたに何かあったんじゃないかって本気で心配してた。警察に相談しようかとまで思った。でも、やっと電話がつながったときに聞こえたのは、あなたと穂波の笑い声だった。あのとき、自分がひどく惨めに思えた」「紗雪……」響の声が震えた。「まだ話してる途中だから」私は彼の言葉を遮った。「女の人が自分に好意を持っているかどうかくらい、気づかないわけないよね。それなのに、穂波は私の親友だからって言って、平気で思わせぶりなやり取りを続けてた。昨日の夜もそう。穂波とのビデオ通話を切ったあと、私を抱こうとした。私がどんな気持ちだったか、分かる?」目の前にタクシーが止まった。私は一度息を吸い、静かに続けた。「あなたと穂波がこれからどうなろうと、もう私には関係ない。だから、これ以上連絡してこないで。響。もう終わりにしよう」電話の向こうで、響が何か叫んでいた。私はそれ以上聞かずに、通話を切った。響は暗くなった画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。大家さんはその様子を見て、だいたいの事情を察したらしい。「……今は、そっとしておいたほうがいいんじゃないかしら。追いかけても、かえってこじれることもあるから。紗雪ちゃん、普段は穏やかな子だし。時間を置けば、話くらいはできるかもしれないわ」響は赤くなった目で、大家さんを見た。
穂波はその場で固まり、気まずそうに目を伏せた。私がここまで言うとは思っていなかったのだろう。隣で響が眉をひそめた。「どういうことだよ。お前たち、いつ喧嘩したんだ?」私は響から目をそらさずに答えた。「四日前。穂波が私についてきて、あなたに会いに行くって言ったのを、私が断ったとき」それが面白くなくて、私への仕返しみたいに、先に響に会いに行ったのだろう。「それだけのことで?」響はまだ、信じられないという顔をしていた。もちろん、それだけではない。この一年、穂波は何かと私と響の時間に入り込んできた。私が響に会いに行こうとすると、決まって穂波から連絡が来る。旅行に付き合ってほしいとか、具合が悪いから来てほしいとか、理由はそのたびに違った。響とペアリングを選んだときでさえ、穂波はよく似た指輪を買って、平然と自分の指にはめていた。そこまでされて、気づかないほど鈍くはない。だから騒ぎ立てずに、穂波とは距離を置いたつもりだった。それでも、ここまで平気で踏み込んでくるとは思わなかった。穂波はゆっくり立ち上がった。目にはうっすら涙が浮かんでいる。「ごめん。私、帰るね」その瞬間、ガタンと椅子が倒れる音がした。響が勢いよく立ち上がり、穂波の前に出る。「穂波が帰るなら、俺も帰る」「そう。じゃあ帰って」私はすぐにそう返した。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。響は一瞬、目を見開いた。私はこれまで、一度も彼を追い出したことがなかった。喧嘩をしても、たいてい先に折れるのは私だった。けれど、もう本当にうんざりしていた。それでも響は動かなかった。奥歯を噛みしめるようにして、私をじっと見ている。穂波が小さく鼻を鳴らし、響の手をつかんだ。「行こう。なんで私たちがこんなこと言われなきゃいけないの。響がそうやって許すから、紗雪も調子に乗るんだよ」結局、響は穂波に手を引かれるまま、部屋を出ていった。ようやく肩の力が抜けた。私は席を立ち、皿に残った目玉焼きをそのままゴミ箱へ捨てた。それから寝室に戻り、荷造りを始めた。夜、ベッドに入ろうとしていたとき、仲のいい友人の滝沢千帆(たきざわ ちほ)から突然メッセージが届いた。【やばい、紗雪。これ見て。とんでもないの撮