月は雲に隠れ、愛は傷になる のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

23 チャプター

第11話

茉知の書く字は、いつも美しかった。よくある女性らしい丸みを帯びた可愛らしい字ではなく、幼い頃から書道を嗜んでいた彼女の筆跡は鋭く、力強く、紙の繊維の奥深くにまで刻み込まれるようだった。その研ぎ澄まされた文字が、今は将吾の心臓に、一画一画、深々と鋭利な刃のように突き刺さってくる。「記憶なんて失っていなかった」「それぞれの道を行く」「もう二度と会うことはない」……これほどまでに平易で短い言葉たちが、いざこうして並べられると、息が止まるほどに重く、苦しいのだろうか。茉知はすべてをわかっていたのだ。自分が騙され、無惨に傷つけられていることを理解しながら、それでも何も言わずに、ずっと自分を気遣い続けてくれていた。それなのに、自分は記憶を失った茉知など簡単に騙し通せると思い上がり、あろうことか彼女の目の前で、歌穂と見せつけるようにイチャついていたのだ。2人で過ごしてきた記憶が、走馬灯のように脳裏に次々と蘇ってくる。一緒にスキーへ行った日、山を登った日、誕生日ケーキを作った日。会議の資料をまとめた夜。近所のスーパーで買い物をし、肩を並べて夕飯を作った穏やかな夕暮れ。何の変哲もない、ありふれた日常のひとコマ。それを完全に失ってしまって初めて、あれがどれほど得難い日々だったのかを、骨の髄まで思い知らされる。自分は、いったい何をしていただろう。この世で一番救いようのない愚か者は、他の誰でもない、自分自身だ。将吾は硬く握り締めた拳を、自らの頬へ向けて思い切り叩きつけた。激しい痛みが広がる。それでも何も感じていないかのように、もう一度、また一度と、狂ったように自分自身を殴り続けた。切れた口の端から、どす黒い血がゆっくりと伝い落ちた。前髪の影に表情を隠されたまま、その凄惨な顔を、一筋の透明な涙が滑り落ちていった。秘書はずっとドアの前に立ち、将吾が平静を失い、やがて狂ったように手近なものを片っ端から床に叩きつけるのを見ていた。そして彼は、肩を震わせながら顔を覆った。いつも冷淡で情の薄い将吾が、まさかこの瞬間、子供のように後悔に泣き崩れるとは思ってもみなかった。秘書は小さく息を吐き、無惨に散らかった床にそっとしゃがみ込むと、黙々と破片を片付け始めた。怯えて顔を出した使用人や執事も、あまりの光景に声一つ出すことができず、台
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第12話

玉出市から小宵市までは、車で8時間ほどかかる道のりだった。だが、深夜の高速道路に車が走っていないのを見ると、将吾はまるで何かに憑かれたように時速150キロで飛ばし続け、わずか5時間余りで目的地へと辿り着いた。墜落地点は深い山中にあり、車で乗り入れることはできない。そこから先は、5、6キロほどの険しい山道を自らの足で登らなければならなかった。事故以来、将吾の両足は完全に回復しきってはいなかった。それに加え、ここ数日の立て続けの騒動でひどく動揺し、薬を飲むことすら忘れていた。一晩中アクセルを踏み続けただけでも、足はとうに限界を超えていた。それでも将吾は、周囲の制止を振り切って山を登ると言って聞かなかった。この一帯は手つかずの自然が残されており、岩肌がむき出しになった険しい獣道が続く。ほぼ垂直に近い急斜面も多かった。一歩踏み出すたびに膝に走る激痛は、まるで鋭い刃の上を歩くようで、そのたびに息が詰まった。「社長、山の麓でお待ちください。あとは私どもが対応いたしますから」「これ以上歩かれたら、足が本当に元に戻らなくなってしまいます」周囲の者たちが必死に引き留めたが、将吾はどんな懇願にも一切耳を貸さなかった。冷や汗が顔を濡らし、波のように押し寄せる眩暈に襲われても、血が滲むほど唇を噛み締め、うめき声ひとつ漏らさなかった。歩みは遅かったが、その一歩一歩は決して揺るがなかった。数時間後、一行はようやく墜落現場へと辿り着いた。原形をとどめないほどひしゃげた機体の残骸が、辺り一面に散乱していた。周囲の地面も草木も、すべてが黒い灰となって無惨に焼き尽くされていた。防護マスクをつけた検視官が眉をひそめながら何かを報告し、警察官がその隣で手早く記録を取っていた。衝突の瞬間がどれほど凄惨なものだったか、想像するまでもなかった。ニュースの画像を見た時でさえあれほどの衝撃を受けたのに、目の前に広がる地獄のような現場を直接目にした瞬間、将吾はもう正気を保つことができなかった。これまで強靭な意志で耐え続けてきた足の激痛が、一気に限界を迎えた。彼は力なく膝から崩れ落ち、手足は投げ出されたまま動かず、頬だけが土に触れていた。細身の体だというのに、数人がかりで引き起こそうとしても、びくともしなかった。「ご愁傷様です」警察官が重々しく
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第13話

あの頃の将吾は、本気で自分自身にそう言い聞かせていた。だからこそ、ひたむきに尽くしてくれる茉知に感謝するどころか、いつしかその献身が当たり前のものになり、あぐらをかいていた。態度もひどく冷酷だった。特にリハビリの最も苦しい時期、耐え難い肉体の痛みと先の見えない心の消耗で、将吾は常に気が張り詰めたような状態だった。ほんの些細なことで突然癇癪を起こし、爆発してしまう。その理不尽な矛先は、決まって茉知へと向かった。熱い湯を顔に浴びせかけたこともあれば、心無い罵声を浴びせたこともあった。感情が制御できなくなった時は、手元にあるものを手当たり次第に投げつけた。一度、酷いことをしたことがある。雨の日は、足の痛みがひどく増した。それでも将吾は焦りから廊下の手すりにつかまり、何度も何度も歩く練習をやめようとしなかった。全身が冷や汗でびっしょりになり、唇が真っ白になっても、決して諦めなかった。見かねた茉知が慌てて駆け寄り、腕を取って休ませようとした。耳元で延々と続く彼女の心配の声が、うるさくて堪らなかった。鬱陶しそうに振り払い、強引に2歩進もうとした瞬間、足から完全に力が抜け、無様に床へと倒れ込んだ。ベッドサイドには、小さなスタンドライトが置かれていた。将吾は苛立ちのままに何も考えずそれを掴み取り、茉知に向かって力任せに投げつけた。茉知はその時、床に散らばった綿棒や錠剤を拾い集めるために身を屈めていた。危険に気づいた時には、もう遅かった。鈍い音がした。硬いものが骨に当たる、あの鈍い音だ。茉知は額を両手で強く押さえ、苦悶の表情を浮かべたまま床にうずくまり、しばらく立ち上がることができなかった。指の隙間から赤黒い血がとめどなく滲み出して、真っ白な床にポタポタと落ちていく。その色は、酷く鮮烈で痛ましかった。物音を聞きつけた看護師たちが、慌てて廊下から飛び込んできた。部屋の惨状と血だまりを見て、一瞬その場に立ち尽くす。しかしすぐに我に返り、急いで止血をすると、茉知の体を支えて処置室へと連れていった。病室のドアがバタンと強く閉まり、息の詰まるような静寂が戻った。どんよりと重い灰色の空で、窓ガラスを打ち据える雨の音だけが響いている。将吾は、まだ床に残されたままの拭き取られていない生々しい血の染みを、ただぼんやりと見つめて
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第14話

あの夜、将吾と仲間たちは結局商業施設へ戻ったが、とうの昔に閉店時間を過ぎていた。そんな深夜に、まともなジュエリーショップが開いているわけもない。唯一、学校の裏門近くにある古びた銀細工の店だけが、閉店間際の薄暗い店内に、ぽつんと灯りをともしていた。年季の入った木製のショーケースはくすんだガラスに覆われ、その中には銀のブレスレットが何本か無造作に並べられていた。どれもシンプルで、これといった特徴もない、ありふれたデザインばかりだった。奥で作業をしていた年配の店主が、銀のパーツを小さな金槌でトントンと叩きながら、眠そうに顔を上げた。「そのあたりなら、どれも11980円だよ。昔ながらのシルバーだけどね。刻印や模様を入れたいならできるが、この時間だと仕上がりは明日になる」将吾にとって、そんな安物は到底満足できる品ではなかった。だが今は、ほかに選択肢がなかった。ろくにデザインを見ることもせず、入口のすぐそばにあったブレスレットを1本、適当に手に取って金を払った。帰宅した後、彼はそれを漫然と茉知へ差し出した。ちゃんとした高いものは、次に連れ出した時に、自分で選ばせればいい。ところが、茉知は飛び上がるほどに喜んだのだ。それを手のひらにそっと乗せて、もったいなくてなかなか腕に通す気になれないというように大事そうに眺め、目を細めて、将吾の首に腕を回して強く抱きしめた。「将吾がくれた、初めてのプレゼント。すごく嬉しいわ。ありがとう、将吾」そう言って、彼の唇に羽のように柔らかくキスをした。将吾は少し呆気に取られ、そしてなんとなく胸の奥がちくりと痛み、悔やんだ。もう6年以上も一緒に暮らしているというのに、自分はあいつにまともな贈り物をただの一度もしたことがなかったのだ。いつかちゃんと、埋め合わせをしてやらなければならない。記憶の波が、ゆっくりと現実へと引いていく。思えば茉知は、彼と一緒にいて、本当にいい暮らしをさせてやれたことなど本当になかったのだ。自分は一体、あいつに何をしてきたのだろう。将吾は骨壺を両腕でしっかりと抱きしめ、死人のような灰色の顔のまま捜索隊の間を抜け、足を引きずるようにして山を下り始めた。足の刺すような激痛は、いつの間にか完全に麻痺して消え去っていた。その代わり、胸の奥底で巨大な波が黒い渦を巻いていた
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第15話

屋敷の玄関前に辿り着いた将吾は、インターフォンを押すことなく自分で鍵を取り出してドアを開け、抱きかかえていた骨壺を大事に玄関へと置いた。リビングは、見るも無惨に散らかり放題だった。ソファにもテーブルにも、高級ブランドのバッグや数え切れないほどの宝飾品が山積みになっている。柔らかな白いカーペットには酒が染み込み、タバコの火による無数の焦げ穴が開いていた。飲み散らかされた酒瓶が床一面に転がり、換気すらされていない部屋には、アルコールとタバコの入り混じった不快な刺激臭が重く充満している。茉知がいつも静かに寝転んで本を読んでいたカーペットが、あんな無惨な姿に成り果てているのを見た瞬間、将吾の中で何かがプツリと切れた。もうこれ以上、歌穂に対して取り繕う気持ちなど、欠片も残ってはいなかった。足を引きずりながら2階へ上がり、歌穂の寝室のドアを開けようとした矢先、中から電話越しに怒鳴り散らす声が聞こえてきた。苛立ちを隠そうともしない、ひどく荒々しく下品な口調だった。「1億円はもう返したじゃない。なんでまだ利息が1600万も残っているのよ。そんな大金、今すぐになんて用意できるわけないでしょう。まだ堂々と大金を要求できる段階じゃないの。将吾の前では清純で可憐なお嬢様って印象を作っておかないと、後でアイツから財産を根こそぎ巻き上げられなくなるの。国外にいた時のことは、絶対に外に漏らさないでちょうだい。望月将吾って男は異常に勘が鋭くて、一度でも怪しいと思ったら徹底的に調べ上げる人間なのよ。パトロンのことも、賭博で作った借金のことも、絶対にアイツに嗅ぎつけられないようにして」電話を一方的に叩き切った歌穂は、苛立ちのままに椅子を蹴りつけ、汚い言葉を吐き捨てた。しかし、すぐにまた別の着信が鳴り響く。今度の相手は、普段から彼女と裏で通じている共犯者らしかった。相手が何かを言ったのだろう。歌穂は部屋中のものを当たり散らしながら、正気を失ったように叫び続けた。「あの男、本当に馬鹿じゃないの!媚び売ってた都合のいい女が死んだくらいで、大げさすぎるのよ!骨になってから未練たらたら泣き喚くなんて、安っぽくて反吐が出るわ!あいつの不動産と株、とっくに探偵を使って調べ上げさせてあるのよ。全部合わせたら何兆になると思ってるの。それを全部、財団に寄付するですっ
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第16話

歌穂は強く頬を押さえた。焼けつくような痛みが走り、口の端から血が細く流れ落ちていった。だが、もはやその痛みを感じている余裕さえなかった。心臓を鷲掴みにされて押し潰されるような死の恐怖が、全身の血管を侵食していた。恐る恐る顔を上げると、一切の感情を排した無表情の将吾が、見下ろすようにそこに立っていた。歌穂の全身が、ぶるぶると激しく震え出す。2年間、確かに彼と一緒にいた。だからこそ知っていたのだ――将吾という男は、いったん誰かを大切にすると決めたなら、底なしに甘やかし尽くす人間だということを。その底なしの優しさの温もりの中に長く浸かりすぎて、彼の本当の素顔をすっかり忘れてしまっていた。将吾が何より許せないのは、嘘と裏切りだ。自分は今、まさにその逆鱗に触れてしまったのだ。大学時代、将吾が所属していたバスケットボール部には、親友と呼べるほど仲の良い友人がいた。ふたりはいつも行動を共にしていた。その友人は家が貧しく、練習費用もまともな用具も買えずにいた。将吾は自腹を切って彼の4年分の練習費を出してやり、さらに限定のバスケットボールまで気前よく贈り与えていた。ある年、部内からひとりだけ、全国レベルのバスケットボール大会に出場する代表として選ばれる選考会があった。そこで結果を出せば、代表チーム入りの道と、高額の賞金が手に入る。将吾のフォワードとしての圧倒的な実力は誰もが認めるものであり、部員の誰もが彼が選ばれるだろうと信じて疑わなかった。ところが、彼を裏切ったのは、他でもないその最も信頼していた友人だった。選考前夜、その友人は将吾の飲むコップに大量の睡眠薬を混入した。しかし量を誤ったため、将吾は深い昏睡状態に陥り、一度完全に呼吸が止まったのだ。たまたま深夜まで起きてゲームをしていた他のルームメイトが異変に気づき、すぐに119番へ通報して病院へ運び込み、胃洗浄を受けさせたため、間一髪で命は助かった。一命は取り留めたものの、当然選考の時間は完全に過ぎ去っていた。その代表の枠は、その友人がまんまと手に入れた。将吾はすぐに不審を覚え、大学側を動かして近辺の病院と薬局を徹底的に調べ上げた。睡眠薬は医師の厳格な処方箋が必要な薬であり、購入者の記録を辿ることなど容易かった。3日と経たずに、黒幕は特定された。裏切りの可能性をあれこれ
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第17話

夜が深々と更けていく。最後の光が完全に沈み切り、冷たい闇だけが残された。将吾は薄暗い屋敷に一人座り、骨壺を丁寧に拭い続けていた。先ほどから、スマホの写真フォルダをずっと遡っていた。茉知の一番綺麗に撮れた写真を、立派な遺影にしてやりたかったのだ。しかし、端から端までフォルダを探し尽くしても、会議の記録と風景写真ばかりで、彼女が写ったものはただの1枚も出てこなかった。自分が、ただひたすらに憎かった。なぜ自分はこんなにも、すべてを断ち切るように冷たく生きてきたのか。自分で自分の首を絞めていたのだ。6年以上も一緒に暮らして、日々の温かな記録を写真に残し続けてきたのは、いつも茉知のほうだった。しかしその膨大な記憶は、彼女のスマホごと、あの事故の炎の中で灰となって消えた。いや、違う。彼は突然思い出した。テーブルの引き出しに、1冊のアルバムがある。中には、印刷してラミネート加工されたふたりの写真がぎっしり収められていた。将吾は弾かれたように立ち上がり、引き出しを開けた。しかし中に残されていたのはリモコンだけで、あとはもぬけの空だった。彼は慌ててふたりの寝室へ駆け込んだ。そこで初めて、彼女の持ち物がいくつもなくなっていることに気づいた。ドレッサーに並んでいた化粧品も、夜にいつも灯していた小さなライトも、ふわふわの抱き枕も、パイナップルのアロマの瓶も。何もかもが、跡形もなく消え失せていた。クローゼットを開けても、残っているのは自分の服だけだった。茉知はこの家を出ていく時、屋敷の中に残る自分の痕跡をすべて、完全に消し去っていたのだ。何一つ残さずに。彼女は本当に、本気で、自分のいるこの世界から永遠に出ていくつもりだったのだ。信じられず、いつの間にか涙で視界が滲んでいた。それでも諦めきれなくて、将吾は震える指で秘書に電話をかけた。コール音は、すぐに繋がった。「頼む。以前、リビングのテーブルによく置いてあった分厚いアルバム……俺と茉知の写真がたくさん入っていたやつ、どこに片付けられたか知らないか」一拍の重い沈黙を置いてから、秘書は困ったような声で答えた。「執事から聞いた話ですが……星山様はここを出発される前日、部屋から手紙や写真をたくさん持ち出してきて、庭で火を焚いてすべて燃やされたそうです。それから、プレゼントの類
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第18話

「クライズがデザインした『デザート・ギャラクシー』のウェディングドレス、ミラノ・ファッションウィークで国際的なトップモデルが着て登場したんだって!会場の全員が息を呑んだって。本当に最高だったわ」「あなたって、本当に生まれながらのデザイナーよね。ここに入って最初に作ったコートから、もう世界中に名声が広まったんだもの。今や毎日、取材の申し込みが殺到しているわ」「私たちも恩恵にあずかって、コラボの依頼がいくつも舞い込んでいるのよ。来週には名誉ある授賞式が控えているって聞いたわ。最高栄誉を受賞するアジア人デザイナーは、あなただけだって!」スタッフたちはテレビの生中継を囲みながら、その瞳に心からの喜びと賞賛の光をたたえていた。茉知は、そうした華々しい名誉に対しても、特別な高揚感を覚えることはなかった。これまであまりにも多くの試練を経験してきた人間だけが辿り着ける、揺るぎない静かな落ち着きが、すでに彼女の身に備わっていたのだ。手元にあるオーガンジーとシルクの生地をそっと撫でながら、この2つをいかにして美しく融合させるかを、ただ静かに思いを巡らせていた。「そういえばクライズ、ちょうどこの工房の設立日を確認していたのだけれど、今日ってあなたがここへ来てからちょうど3周年の記念日よ」茉知は、ふと手を止めた。脳裏に、あの頃の断片的な記憶が蘇ってくる。あの屋敷を出る時、将吾が執拗に自分の行方を追いかけてくるだろうことは容易に想像がついた。好きであれ嫌いであれ、彼は自分の所有物を強引に手元に留めようとする異常な執着心を持つ人間だった。だからこそ茉知は知人に頼み込み、周到に飛行機の墜落事故を偽装したのだ。模型を組み合わせてリアルな機体の残骸のダミーを作り上げ、人里離れた深山に投棄した。露見しにくい絶妙な場所を選び、ニュースの報道も電話連絡も、仲間たちと事前に口裏を合わせてタイミングを計り、ピンポイントで将吾の仕事用パソコンに届くよう仕組んだ。その後は自らの身元につながる情報をすべて抹消し、真っ新な新しい身分を手に入れてスイスへ渡った。手元の口座には、手切れ金として受け取った400億円以上の莫大な残高がある。すぐに景色の美しい場所を探してマンションを1棟まるごと購入し、ようやく、心の底からやりたいと願っていたデザインに向き合える完璧な環境が整った
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第19話

スイスへやって来た最初の頃は、想像していたよりもずっと過酷だった。まったく見知らぬ異国で、言葉もろくに通じない。土地のルールも生活の勝手もわからない。住まいを購入する時にもトラブルが立て続けに起き、罰金もかなり支払う羽目になった。心の状態も、ひどく不安定だった。将吾と共に過ごした年月はあまりにも長く、どれほど彼に絶望しきって家を出たとしても、蓄積された感情というものはそう簡単に消え去ってはくれないのだ。ある深夜、気がつけば冷たい風の吹く大きな橋の上に立っていた。石造りの欄干にもたれかかり、暗い湖面をぼんやりと見つめながら、一人で声を殺して泣いていた。本当に、あまりにもたくさんのことがありすぎた。不意に、背後から力強い両手が伸びてきた。すばやい動作で茉知の体は欄干から引き下ろされ、その勢いのまま、茉知はその人物の体の上へと倒れ込んだ。「若いのに、死んじゃだめだ!人生、まだ見つけていない素晴らしいことがいくらでもあるんだから。前向きにいこう、悩みの一つもない人間なんてこの世にはいないんだからな」下敷きになっていたのは、ハーフのような整った顔立ちの男性だった。すっと通った鼻筋に、奥深い瞳は柔らかく甘い色気を帯びていて、ハッとするほど目を引く容貌だった。アスファルトで腕の皮膚が擦れ、血が滲んでいる。男は痛そうに顔をしかめて唸りながらも、それでも必死に慰めの言葉を並べ立てていた。茉知は慌てて起き上がり、内心少しだけ笑いたくなった。どうやら、自殺しようとしているのだと勘違いされたらしい。「ありがとう。でも大丈夫、そういう気はないから。私、誰よりも自分の命を大事にするタチなの」苦労に苦労を重ねて、ようやくあの地獄から這い出てきたのだ。どんなに辛くても苦しくても、この新しい命を簡単に手放すつもりなどなかった。生きてさえいれば、希望の種はいつでも芽吹く。でも死んでしまえば――本当に、何もかもが終わってしまうのだから。「もしかして……星山茉知さん?」男は目を大きく見開いた。その形の良い瞳に、信じられないものを見るような驚きの色が浮かんでいる。声が微かに上ずっていた。「異国のスイスで、私の名前を知っている人がいるなんて……もしかして、調べたの」茉知は警戒してすっと2歩後ずさり、じっと男の顔を睨みつけた。「望月将吾の恋人で
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第20話

栄えある授賞式の日。茉知は自らの手でデザインした、ゴールドのロングドレスをまとい、艶やかなメイクを施し、堂々と自信に満ちた足取りで光り輝くステージへと歩み上がった。会場にいた全員が、その圧倒的な美しさとオーラに思わず息を呑んだ。無数のスポットライトが彼女の体に降り注ぎ、長く裾を引くゴールドのドレスが、光を浴びて星屑のように煌めいた。司会者が高らかに読み上げる紹介文は、彼女がこの栄光の場所へ至るまでの過酷な道のりを、一語一語、正確に言い表していた。「クライズ――卓越した才能を持つ、デザイナー。誰も思いつかない大胆な発想と独自の創造性を併せ持ち、形のない感情をドレスという芸術に溶け込ませることに長けている。強力な人脈も莫大なリソースも持たないゼロの状態から、ただ己の並外れた才能とたゆまぬ努力だけを武器に、小さな縫製工房からこの世界のトップステージへと歩み出しました」茉知の目が、自然と熱く潤んだ。ステージの上から、自分のために割れんばかりの歓声を送ってくれる人々を見渡した。事前に用意された横断幕や、きらきらと輝く応援ボードを手にして、1万人もの人々が集まるこの巨大な会場の中で、その温かい光が、まるで彼女だけのために存在する銀河のように広がっていた。絶望と痛みに満ちて、涙に暮れていたあの日々が、ようやく遠い過去のものになったのだ。一歩一歩、自分の足で前へ進み続け、体に重くまとわりついていた過去の枷を、今、完全に打ち砕いた。手渡されたマイクをしっかりと握りしめる。事前にスピーチ原稿を用意していたはずなのに、いざこのステージに立つと、用意していた言葉はすべて感動と高揚の波に溶けて消えてしまった。考えるより先に、心から湧き上がる素直な言葉が口をついて出ていた。「みなさん、こんにちは。星山茉知です。かつて私には、人生に挫折し、絶望していた時期がありました。実体のない一方的な感情と、大切にする価値のない人間のために、自分の6年以上の貴重な時間を無駄に費してしまいました。自分の仕事も後回しにして、自立した『私』という存在を見失い、毎日がひどく虚しくて、心は常に深い泥の中に沈んでいました。時にはもう完全に自暴自棄になって、この先もずっとこの暗闇のまま終わるのかもしれないと、本気で思い詰めることもありました。でも、あるきっかけ
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