All Chapters of 機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が映り込んでいる。その写真には彼の言葉が添えられていた。【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。そしてパソコンを開き退職願を書き、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。……「今日は随分と早起きだな」航がキャリーバッグを引きながら寝室から出てきて、少しだけ眉をひそめた。私はマグカップを手にしたまま、彼が四本線の入った肩章を白いシャツに丁寧に付けるのを見ていた。「眠れなかったから、コーヒー飲んでたの」キッチンカウンターに立った航は、私が自分のために用意していたホットミルクを勝手に飲んだ。「また深夜までくだらない動画でも見ていたのか?」「い
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第2話

この部屋の鍵として登録していた指紋を削除してもらうために、午後、私はマンションの管理センターへと行った。管理人の女性は私にとても良くしてくれていたので、私が指紋を削除するのを見て不思議そうに尋ねてきた。「坂本さん、なんでわざわざ指紋を消すんですか?これからの出入りが不便になっちゃいますよ」「もう、必要ないんです」私はそう言って微笑んだ。家に戻ると、物置から大きな段ボールを2つ引きずり出し、片付けを始めた。この川沿いに建つ60坪の広い家は、航が一括で買ったものだった。家を購入した時、航は私に言ってくれた。「一番苦しい時期を、君が支えてくれた感謝のしるしだよ」だから、ここが自分たちの家だと私は信じていた。いざ荷造りをしてみると、私物が驚くほど少ないことに気づく。ウォークインクローゼットにある服の中で、私のものはたったの棚2つ分だけで、残りは全て、航が季節ごとに使い分けるタクティカルスーツや上着、スポーツウェアばかりだった。私は普段よく着る服をたたみ、スーツケースに詰め、航が私に買ってくれた、高価だが私の好みではないドレスは、そのまま掛けておいた。ベッドサイドテーブルには、航が初めて海外路線を担当した時に持ち帰ってきた記念品である、航空会社の飛行機の模型が置いてある。その模型を持ち上げてみると、その下に写真が一枚敷いてあった。4年前に撮った二人の写真。当時の航は、機長に昇格したばかりで自信に満ちあふれていた。私はその写真を静かに抜き取り、近くのゴミ箱へ捨てると、模型をそっと元の位置に戻した。夕方、携帯が震えた。航からのラインだった。【無事着陸。今ホテルに着いた】いつもなら私はすぐに、【お疲れ様、ベッドの寝心地はどう?】というような言葉を返信していただろう。だが今日の私が返したのは一言だけ。【うん】30分経って、またメッセージが来た。【こっちはかなり冷えるよ。免税店で何か欲しいものはある?】私は洗面台に置いてある化粧品類をポーチに詰め込んでいるところだった。【いらない】【いつもどこどこのブランドのスキンケア商品が欲しいとか言ってたじゃないか?】私は鏡に映った自分の顔を見つめる。【もういいの。欲しくなくなったから】それきり、向こうからの返信は来なくなった。私
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第3話

その後の2日間、私は黙々と身辺整理をした。リビングにある観葉植物は自分で買ったものだったので、隣人の女性にあげた。バルコニーのロッキングチェアも私が選んだものだったから、中古買取業者に引き取ってもらった。それでも航は、家から物が消えていることに全く気づいていないようで、ただ最近の私が大人しいことに、満足そうにしているだけだった。「最初からこうしていれば良かったんだよ」金曜の朝、航はダイニングテーブルで、私が適当に焼いたパンをかじっていた。「今日、成瀬さんの誕生日なんだ。夜、同僚たちと集まって食事をするから、君も一緒に行こう」私のテーブルを拭く手が止まった。「何で私が?」「だって、君は何で同僚に会わせてくれないんだっていつも文句言ってただろ?今夜はちょうどみんな揃うから、挨拶がてら顔を出せばいい」まるで私のためとでも言いたげだった。確かにかつての私は、航に私を同僚の集まりに連れて行ってほしいとお願いしていた。しかし、いつも航は「全員パイロットで君が行っても話が分からないと思うから、退屈なだけだよ」と連れて行ってはくれなかった。なのに今、わざわざ誘ってくるのは陽菜の誕生日だからだろう。「分かったわ」と私は頷いた。航の同僚たちが陽菜という人間をどう見ているのか、自分の目で確かめてみたかったのだ。夜8時、私たちは予約された店に到着した。個室のドアを開けると、すでに7人の男女が集まっていた。主役の席に座った陽菜は、白いロングワンピースに身を包み、見覚えのあるネックレスを身につけていた。それは一昨日、我が家のテーブルで目にしたプレゼントの箱の中身そのものだった。「坂本機長!奥さんもいらしたんですね!」陽菜が立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってくる。「初めまして。航さんからずっとお話を伺っていました。お会いできて嬉しいです!」陽菜が親しげに私の手を取りに来たので、私はサッと手を引いた。そして、淡々と言う。「お誕生日おめでとうございます」場の空気が一瞬だけ凍りついた。航が私の手を掴み、小声で咎める。「今日、俺の顔に泥を塗るような真似はするなよ」食事の間、話題はずっとフライトのことだった。どの航路の気流がどうだとか、管制官がいかに理不尽だとか、そういう話ばかり。聞いてもさっ
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第4話

その夜、航は帰ってこなかった。翌日の昼頃ようやく帰宅した航は、ほのかにウッディ系の香水の匂いをまとっていた。陽菜が愛用している香水の香りだ。航は玄関に車の鍵を放り投げ、冷ややかな目つきで私を見た。「もう満足か?」ガムテープで段ボールを塞いでいた私は、顔すら上げなかった。「おい、聞こえてるのか?」航が段ボールを蹴り飛ばす。「こんなガラクタを整理して何になるんだ?」「もう使わないものをまとめているだけ」航はふっと鼻で笑った。「千雪、駆け引きにしてはずいぶんとくだらないな。数日口をきかなければ、俺が折れるとでも思っているのか?」私は立ち上がり、手に付いた埃を払う。「別に、あなたに機嫌を取ってもらおうなんて思ってないから」「ならその態度はなんだ?君のせいで成瀬さんは昨夜、1時間近くも泣いていたんだぞ。普通、謝るのが筋だろ?」「絶対に謝らない」「話にならないな!」航は苛立ちを露わにし、ソファにどっかりと座った。「来週の水曜日、俺はI国へのフライトが入っているから、君とやり合ってる暇はない。自分の過ちを認めるなら、成瀬さんに譲るつもりだった家族チケットを、君にやってもいいぞ。オーロラを見に連れて行ってやる」私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。オーロラ。6年前、私は甲状腺に腫瘍が見つかった。良性だとわかっていても、当時は生きた心地がしなかった。そのとき航は病室で私の手を握り、約束してくれた。「治ったら一緒にオーロラを見に行こう。俺の操縦する飛行機で、一番綺麗な夜空を二人で見よう」航はその約束を、6年も先延ばしにしていた。なのに今になって、その昔の約束をまるで私への施しのように差し出してくる。しかも、もともと陽菜のために用意していたチケットを……「いらないのか?」反応がない私に、航は眉を寄せた。「このチケットがどれほど貴重か知らないのか?成瀬さんに散々せがまれてようやく手に入れたんだぞ?でも、俺たちの8年記念もあるし、君に譲ってやろうって言ってるんだ」「そのチケット……成瀬さんにあげて」私は震える声で、航にそう言った。「なんて言ったんだ?」「成瀬さんにあげて。私はいらないから」航が急に立ち上がった。その表情は恐ろしいほどに険しい。「千雪、いい加減にしろ。チャンスを与
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第5話

雲嶺市の太陽はジリジリと焼けるように熱く、体にまとわりついてくる。私は湖のほとりの庭付きの古民家を借り、。半年分の家賃を前払いした。大家は親切そうな女性で、大きなスーツケースを引く私を見ると、荷物運びを手伝ってくれた。「一人旅ですか?雲嶺市はいいところですよ」「旅行じゃなくて、ここで暮らし始めるんです」私は持参した本を、窓辺の棚に並べる。「ここで生活ですか。ここは穏やかに暮らせますよ」そう言って、大家は微笑みながら去っていった。私はまっさらなベッドに倒れ込み、天井の梁を見上げた。ジェットエンジンの轟音も、飛行図も、何かを待ち続ける日々もない。8年ぶりの、心安らぐ睡眠だった。遥か数千キロ先、G国でのこと。航がどうなったのか、私は関心がなかったが、後に南から電話で聞いた。……あの日、航と陽菜はG国のガラスのドームホテルにいた。航はいつもの癖で携帯を取り出し、千雪にメッセージを送ろうとした。どこへ行っても千雪に報告をすることが、もう航の習慣になっていたのだ。【千雪、ホテルに着いたよ】メッセージを送る。いつもなら1分以内に既読がつくのに、今日は一向に既読がつかない。そのまま電話をかけてみるが、それも繋がらない。航は違和感を覚えた。まさか、自分のことをブロックしているのか?すると、バスルームから妖艶なネグリジェ姿で出てきた陽菜が、航の背中に抱きつく。「ねえ航さん、何見てるの?もうすぐオーロラが見えるよ」航は眉をひそめたが、そのまま携帯の画面を伏せた。「何でもないよ。ちょっと携帯の電波が悪かったみたい」どうせ、ただ拗ねているだけだろう。今までどれだけ喧嘩をしても、千雪が自分をブロックしたことなんて、8年間一度もなかったのだから。戻ったら、ブランド物のバッグでも買って、少し機嫌を取ってやれば、すぐに機嫌を直すだろう。航はその後も、陽菜と5日間G国でオーロラを眺めた。そしてインスタに、背中を写した写真や風景の写真を3枚ほど投稿する。しかしこの数日間、航は何とも言えない違和感を常に覚え、心がざわついていた。6日目、航の我慢がついに限界に達した。マンションの管理センターに電話を入れる。「もしもし?妻が体調を崩して寝込んでるんじゃないかと心配なので、家の中を見て
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第6話

航は気が狂ったように、千雪のことを知っている人へ電話をかけ続けた。まず手始めに、南に連絡をとる。通じるなり、航は焦った様子で聞いた。「南さん、千雪がどこにいるか知っていますか?」電話越しに南が鼻で笑う声が聞こえてきた。「あら、もう休暇から帰ってきたんですか?オーロラはどうでした?」「そんなことはどうでもいいですから!千雪は一体どこにいるんですか?拗ねるにしても、やりすぎなんですよ!」「拗ねてる?」南が声を荒らげる。「頭の中までジェット燃料が詰まってるんですか?拗ねてるだけの人間が、携帯まで解約すると思います?」「俺に機嫌を取らせたいだけなんですよ!」航は奥歯を噛み締めた。「オーロラを見にあいつを連れて行かなかっただけですよね?それで、そのチケットを同僚に譲っただけ。埋め合わせすればいいだけなのに、ここまで大事にする必要があるんですか?」「自分がどうして捨てられたのか、まだわかってないんですか?」南はタバコを深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。「6年前に千雪が甲状腺の検査に引っかかったとき、あなたは海外路線に乗っていたから、私が彼女の病院に付き添ったんです。で、結果を聞くのが怖くて千雪が泣いていた時、あなたに電話をかけました。その時、自分がなんて言ったか覚えてますか?『鬱陶しい。今から離陸だから、俺の気分を害するな』って、千雪を突き放しましたよね?」「あ……あの時は何も知らなかったから……」「そう、あなたは知りませんでした。だって、千雪は風邪で炎症を起こしただけって、あなたに嘘をついていましたから。じゃあ、あなたが3年前に機長昇格試験を受けていた時、千雪のお母さんが心臓の手術を受けていたのは知ってましたか?昼間はあなたの世話をして、夜は病院でお母さんに付き添って……過労で廊下で倒れちゃったんですよ?」航の息遣いが次第に荒くなる。「千雪は俺に何も言ってなかったんです……何も……」「言ってないわけないじゃないですか!」南が怒鳴った。「千雪はラインであなたにも付き添って欲しいって相談してました。でもあなたはなんて返しました?『成瀬さんのシミュレーター練習で忙しいんだ。くだらないことで邪魔するな』って!」航は完全に言葉を失った。「それに、あの成瀬さんのことだってそうです」南は容赦なく航に真実を突き
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第7話

航の怒鳴り声に驚いた陽菜は、数歩あとずさる。彼女はこんな航を一度も見たことがなかった。これまでの航は、穏やかで何でも器用にこなす機長であり、先輩だった。「航さん、何で私をそんなに怒鳴りつけるの?」陽菜の目元は赤らみ、今にも涙がこぼれそうだ。「もしかして、オーロラのことで奥さんと揉めてるの?でも、私はチケットを返すって言ったのに、どうしても私を連れて行くって言ったのは航でしょ?奥さんがいなくなったからって、私に当たるのはおかしいんじゃないの?」航は陽菜をじっと睨みつけた。今にも泣きそうな陽菜を見ていると、どうしようもない嫌悪感で吐き気がした。この4年、自分はなぜこの女を可愛い後輩だと思って世話をしてきたのだ?千雪が去ったあと、陽菜の最初の反応は罪悪感を感じることではなく、むしろ航と関係を切り離そうと必死になり、さらには航に責任を押し付けるような態度すら見せた。「最初から、千雪がいなくなったことを知ってたんだろ?」航は立ち上がると、一歩ずつ陽菜へ詰め寄った。「あの日、空港のラウンジで、千雪が向かいにいたから、わざと俺の腕を組んだんだよな?」陽菜は一瞬焦ったが、すぐに平静を装う。「何言ってるの?航さん、とりあえず落ち着いて。奥さんは実家に帰っただけかもしれないでしょ……」「黙れ!」航は陽菜が持っていた合鍵を奪い取ると、ピンク色のスーツケースと彼女を一緒にドアの外へ押し出した。「もう仕事以外の用で個人的に連絡してくるなよ。二度と俺の前に現れるな」「航さん!どうかしてるんじゃないの!?」陽菜がついに本性を見せる。「ねえ、私を捨てるつもり?じゃあ、これから誰が私のシフト管理をしてくれるの?練習機のトレーニングは誰が付き合ってくれるの?あなたが口を利いてくれなくなったら、私これからどうすればいいのよ!」その言葉を聞いた瞬間、航の気持ちは完全に冷え切った。そこにあったのは航に対する心配でも疑問でもなく、ただ「得られるはずだった利益を失うこと」への怒りだけだったから。「消えろ」航は音を立ててドアを閉めた。陽菜の悲鳴のような喚き声が外から聞こえてくる。翌日からの数日間、航は憑りつかれたように家の中を片付けた。業者を呼び、陽菜が触った、あるいは一度でも使った形跡のあるものは全て処分させた。
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第8話

しかし、航が現れても私は一切何も感じなかった。私は最後の一口を口に入れ、ティッシュで口元を拭う。「場所を間違えているみたいだよ。ここは私有地だから」航は大股で中に入り、後ろ手に門を閉めた。今の航はかなり痩せて、顎には青髭が目立ち、いつもはアイロンが効いているはずのシャツも、皺だらけだ。かつて華やかだった機長の面影は、見る影もない。「千雪、俺が悪かった」私の前に歩み寄ってくる航の声はかすれ、目は血走っている。「成瀬は追い出したし、あいつの物は全部捨てた。これからジャンプシートは千雪のためのものにするし、携帯の暗証番号も千雪の誕生日に変えた。だから……一緒に帰ろう?」まるで間違いを犯した子供のように、航は焦りながら「改善結果」を並べ立てる。しかし、私は冷静にまるで他人を見るような目で航を見つめた。「わざわざゴミを捨てたっていう報告のためだけに、ここまで来たの?」航が呆然としている。私が怒ったり、泣きじゃくったり、彼を責め立てたりする展開を想像していたのだろうが、私がここまで冷め切っていることに理解が追いつかないようだ。「実は……これを渡したくて……」航は胸元から茶封筒を取り出し、両手で差し出してきた。それは、私がどんなに泣いて頼んでも見せてすらくれなかったもの。「これは会社が特別に発行したジャンプシートの搭乗許可証だ。期限は無期限。君がコックピットからの景色を見たいと思ったとき、いつでも連れて行くから」航は続けて、畳まれた「やり直しリスト」を取り出した。「これは君への償いだ。甲状腺手術をやり直すことはできないから、最新の設備が整った病院での健康診断を予約したよ。オーロラも来月見に行こう。千雪の行きたい場所には全部連れていくから。お母さんの件も、東都の専門医に話を通して……」航は支離滅裂に語り続け、冷え切った約束の数々で、この8年間の穴を埋めようと必死だった。私はその紙を見て、何だか笑いが込み上げてきた。「航」私は航の切実な言い訳を遮る。「私があなたのもとを去った理由を、まだ理解してないの?まさか、搭乗許可証をもらえなくて、オーロラに行けなかったからだとでも思ってるの?」航の声がぴたりと止まった。「『俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない』そう言ったのはあなただよね?
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第9話

航が雲嶺市を去ってから、私の日々は完全に穏やかなものとなった。南からラインが送られてきたのだが、航は雲嶺市から戻ってからひどく体調を崩したらしい。40度の高熱を出し、病院で3日間点滴を打ったそうだ。さらに退院後、航は旅客機には乗らないことにしたらしく、会社へ貨物機への異動願いを出したという。聞いた話だと、旅客機に搭乗するたびに、ジャンプシートが空っぽなのを見てぼーっとしてしまうらしくて、危うくフライト事故を起こしかけたんだって。それで会社も仕方なく、貨物機に回したみたいよ」南の声には少しの感慨が混じっていたが、それ以上に、どこかすっきりしたような痛快さがあった。陽菜に関しては、後ろ盾である航を失ったことで、社内で肩身が狭くなり、さらには敵も多かったことから、自主退職したそうだ。南からのそんな内容を見ても、私の心はとても静かだった。なぜなら、彼らがどうなろうと、私にはどうでもいいことだから。それから1ヶ月が経った。雲嶺市は雨季に入り、石畳がしとしとと雨に打たれていた。外でインターホンが鳴った。「こんにちは。宅急便です」私は傘を差して玄関に出て、平たい段ボールを受け取った。送り主は航だった。私は家に戻り、カッターで段ボールのテープを切る。中には2つのものが入っていた。1つは書類関係。署名済みの離婚届と離婚協議書、そしてキャッシュカードだった。離婚協議書には、以前のマンションの権利を全て私へ譲渡するという内容が書かれ、名義変更の手続き費用も全て航が負担することになっていた。キャッシュカードの下にはメモが一枚。【ここ数年で貯めたお金だ。暗証番号は君の誕生日だよ。家は引き払ったから鍵は管理センターに預けてある。俺にできることは、これしかなかったんだ】記載された条件を確認し、私は書類を整理した。これは8年という月日を無駄にされたことに対しての慰謝料だと思うから、私は拒むつもりはない。そして、もうひとつは箱の底に入っていた。繊細な木製のオルゴール。オルゴールには雪山が彫られていた。そこに飛行機も、コックピットもなければ、小熊のぬいぐるみもいない。ただ赤い木で彫り出された夕日だけが、そっと山頂に輝いている。私はゼンマイを巻いてみた。部屋中にオルゴールの澄んだ音が響き渡る。
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第10話

雲嶺市の雨が上がった。私は着古したスウェットを羽織り、髪をざっくりとポニーテールにまとめて家の門を押し開いた。ポケットの中で携帯が震えた。私は自転車に鍵を差し込みながら、携帯を取り出す。それは南からのメッセージで、画面からでも興奮が伝わってきた。【家の名義変更が終わったよ!いつでも売りに出せるって不動産屋が言ってたけど、いくらで売るつもり?】あの家は、あの街と私の最後の繋がりだった。私は自転車に跨り、片手でメッセージを打つ。【相場でいいよ。売れたお金で、二人でここにゲストハウスを開くっていうのはどう?】送信して10秒もしないうちに、南から畳みかけるような返信が来た。猫が地面にひれ伏して拝んでいるスタンプ。猫の頭の上には「太っ腹」という文字が揺れている。続けてメッセージも送られてきた。【千雪!私、今から退職届出して、今夜にでもチケットとるよ!】デスクの下に携帯を隠して、コソコソとやりとりする南の必死な姿が目に浮かぶ。私は思わず笑ってしまった。そして、携帯をポケットに戻すと、勢いよくペダルを漕ぎ出した。道の角では、二人の老婦人が腰を下ろして談笑していて、彼女たちの目の前のバケツには、雫をまとった百合の花が挿されている。何を話しているのかはよく聞こえなかったけれど、そんな二人の雰囲気に私までなんだか気分が明るくなった。一人の老婆が顔を上げて私を見つめ、笑顔で会釈をしてくれた。だから私も同じように会釈を返す。通りを抜けると、一気に視界が開けた。私はスピードを緩め、耳元を通り抜ける風を感じた。この空気は特別だ。電車の埃っぽい匂いも、コピー機のトナーの臭いも、チェーン店から匂ってくる油っぽい匂いもしない。ただ湖から吹いてくる、草木の香りが混ざっただけの綺麗な風。湖のほとりのこの時間は人も少なく、セルフィースティックを手にポーズを決めている若いカップルが一組いるだけだった。女の子は嬉しそうに笑っているのに、男の子はずっと角度が定まらず、彼女に軽く頭を小突かれている。自転車を脇に停め、私は柵の一番外側へと進んだ。湖面には、真っ赤に染まった夕焼けが映し出されていた。カップルの女性が場所を変え、男性の方に指示を出す。「カッコよく撮ってあげるから、ポーズとって!」しかし、ぎこちないポー
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