Masuk私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。 航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。 私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」 彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」 「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。 それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。 そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。 雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。 どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。 一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が写り込んでいる。 その写真には彼の言葉が添えられていた。 【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】 相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】 暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。 夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。 そしてパソコンを開き退職願を書くと、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。 8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。 航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。 彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。
Lihat lebih banyak雲嶺市の雨が上がった。私は着古したスウェットを羽織り、髪をざっくりとポニーテールにまとめて家の門を押し開いた。ポケットの中で携帯が震えた。私は自転車に鍵を差し込みながら、携帯を取り出す。それは南からのメッセージで、画面からでも興奮が伝わってきた。【家の名義変更が終わったよ!いつでも売りに出せるって不動産屋が言ってたけど、いくらで売るつもり?】あの家は、あの街と私の最後の繋がりだった。私は自転車に跨り、片手でメッセージを打つ。【相場でいいよ。売れたお金で、二人でここにゲストハウスを開くっていうのはどう?】送信して10秒もしないうちに、南から畳みかけるような返信が来た。猫が地面にひれ伏して拝んでいるスタンプ。猫の頭の上には「太っ腹」という文字が揺れている。続けてメッセージも送られてきた。【千雪!私、今から退職届出して、今夜にでもチケットとるよ!】デスクの下に携帯を隠して、コソコソとやりとりする南の必死な姿が目に浮かぶ。私は思わず笑ってしまった。そして、携帯をポケットに戻すと、勢いよくペダルを漕ぎ出した。道の角では、二人の老婦人が腰を下ろして談笑していて、彼女たちの目の前のバケツには、雫をまとった百合の花が挿されている。何を話しているのかはよく聞こえなかったけれど、そんな二人の雰囲気に私までなんだか気分が明るくなった。一人の老婆が顔を上げて私を見つめ、笑顔で会釈をしてくれた。だから私も同じように会釈を返す。通りを抜けると、一気に視界が開けた。私はスピードを緩め、耳元を通り抜ける風を感じた。この空気は特別だ。電車の埃っぽい匂いも、コピー機のトナーの臭いも、チェーン店から匂ってくる油っぽい匂いもしない。ただ湖から吹いてくる、草木の香りが混ざっただけの綺麗な風。湖のほとりのこの時間は人も少なく、セルフィースティックを手にポーズを決めている若いカップルが一組いるだけだった。女の子は嬉しそうに笑っているのに、男の子はずっと角度が定まらず、彼女に軽く頭を小突かれている。自転車を脇に停め、私は柵の一番外側へと進んだ。湖面には、真っ赤に染まった夕焼けが映し出されていた。カップルの女性が場所を変え、男性の方に指示を出す。「カッコよく撮ってあげるから、ポーズとって!」しかし、ぎこちないポー
航が雲嶺市を去ってから、私の日々は完全に穏やかなものとなった。南からラインが送られてきたのだが、航は雲嶺市から戻ってからひどく体調を崩したらしい。40度の高熱を出し、病院で3日間点滴を打ったそうだ。さらに退院後、航は旅客機には乗らないことにしたらしく、会社へ貨物機への異動願いを出したという。聞いた話だと、旅客機に搭乗するたびに、ジャンプシートが空っぽなのを見てぼーっとしてしまうらしくて、危うくフライト事故を起こしかけたんだって。それで会社も仕方なく、貨物機に回したみたいよ」南の声には少しの感慨が混じっていたが、それ以上に、どこかすっきりしたような痛快さがあった。陽菜に関しては、後ろ盾である航を失ったことで、社内で肩身が狭くなり、さらには敵も多かったことから、自主退職したそうだ。南からのそんな内容を見ても、私の心はとても静かだった。なぜなら、彼らがどうなろうと、私にはどうでもいいことだから。それから1ヶ月が経った。雲嶺市は雨季に入り、石畳がしとしとと雨に打たれていた。外でインターホンが鳴った。「こんにちは。宅急便です」私は傘を差して玄関に出て、平たい段ボールを受け取った。送り主は航だった。私は家に戻り、カッターで段ボールのテープを切る。中には2つのものが入っていた。1つは書類関係。署名済みの離婚届と離婚協議書、そしてキャッシュカードだった。離婚協議書には、以前のマンションの権利を全て私へ譲渡するという内容が書かれ、名義変更の手続き費用も全て航が負担することになっていた。キャッシュカードの下にはメモが一枚。【ここ数年で貯めたお金だ。暗証番号は君の誕生日だよ。家は引き払ったから鍵は管理センターに預けてある。俺にできることは、これしかなかったんだ】記載された条件を確認し、私は書類を整理した。これは8年という月日を無駄にされたことに対しての慰謝料だと思うから、私は拒むつもりはない。そして、もうひとつは箱の底に入っていた。繊細な木製のオルゴール。オルゴールには雪山が彫られていた。そこに飛行機も、コックピットもなければ、小熊のぬいぐるみもいない。ただ赤い木で彫り出された夕日だけが、そっと山頂に輝いている。私はゼンマイを巻いてみた。部屋中にオルゴールの澄んだ音が響き渡る。
しかし、航が現れても私は一切何も感じなかった。私は最後の一口を口に入れ、ティッシュで口元を拭う。「場所を間違えているみたいだよ。ここは私有地だから」航は大股で中に入り、後ろ手に門を閉めた。今の航はかなり痩せて、顎には青髭が目立ち、いつもはアイロンが効いているはずのシャツも、皺だらけだ。かつて華やかだった機長の面影は、見る影もない。「千雪、俺が悪かった」私の前に歩み寄ってくる航の声はかすれ、目は血走っている。「成瀬は追い出したし、あいつの物は全部捨てた。これからジャンプシートは千雪のためのものにするし、携帯の暗証番号も千雪の誕生日に変えた。だから……一緒に帰ろう?」まるで間違いを犯した子供のように、航は焦りながら「改善結果」を並べ立てる。しかし、私は冷静にまるで他人を見るような目で航を見つめた。「わざわざゴミを捨てたっていう報告のためだけに、ここまで来たの?」航が呆然としている。私が怒ったり、泣きじゃくったり、彼を責め立てたりする展開を想像していたのだろうが、私がここまで冷め切っていることに理解が追いつかないようだ。「実は……これを渡したくて……」航は胸元から茶封筒を取り出し、両手で差し出してきた。それは、私がどんなに泣いて頼んでも見せてすらくれなかったもの。「これは会社が特別に発行したジャンプシートの搭乗許可証だ。期限は無期限。君がコックピットからの景色を見たいと思ったとき、いつでも連れて行くから」航は続けて、畳まれた「やり直しリスト」を取り出した。「これは君への償いだ。甲状腺手術をやり直すことはできないから、最新の設備が整った病院での健康診断を予約したよ。オーロラも来月見に行こう。千雪の行きたい場所には全部連れていくから。お母さんの件も、東都の専門医に話を通して……」航は支離滅裂に語り続け、冷え切った約束の数々で、この8年間の穴を埋めようと必死だった。私はその紙を見て、何だか笑いが込み上げてきた。「航」私は航の切実な言い訳を遮る。「私があなたのもとを去った理由を、まだ理解してないの?まさか、搭乗許可証をもらえなくて、オーロラに行けなかったからだとでも思ってるの?」航の声がぴたりと止まった。「『俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない』そう言ったのはあなただよね?
航の怒鳴り声に驚いた陽菜は、数歩あとずさる。彼女はこんな航を一度も見たことがなかった。これまでの航は、穏やかで何でも器用にこなす機長であり、先輩だった。「航さん、何で私をそんなに怒鳴りつけるの?」陽菜の目元は赤らみ、今にも涙がこぼれそうだ。「もしかして、オーロラのことで奥さんと揉めてるの?でも、私はチケットを返すって言ったのに、どうしても私を連れて行くって言ったのは航でしょ?奥さんがいなくなったからって、私に当たるのはおかしいんじゃないの?」航は陽菜をじっと睨みつけた。今にも泣きそうな陽菜を見ていると、どうしようもない嫌悪感で吐き気がした。この4年、自分はなぜこの女を可愛い後輩だと思って世話をしてきたのだ?千雪が去ったあと、陽菜の最初の反応は罪悪感を感じることではなく、むしろ航と関係を切り離そうと必死になり、さらには航に責任を押し付けるような態度すら見せた。「最初から、千雪がいなくなったことを知ってたんだろ?」航は立ち上がると、一歩ずつ陽菜へ詰め寄った。「あの日、空港のラウンジで、千雪が向かいにいたから、わざと俺の腕を組んだんだよな?」陽菜は一瞬焦ったが、すぐに平静を装う。「何言ってるの?航さん、とりあえず落ち着いて。奥さんは実家に帰っただけかもしれないでしょ……」「黙れ!」航は陽菜が持っていた合鍵を奪い取ると、ピンク色のスーツケースと彼女を一緒にドアの外へ押し出した。「もう仕事以外の用で個人的に連絡してくるなよ。二度と俺の前に現れるな」「航さん!どうかしてるんじゃないの!?」陽菜がついに本性を見せる。「ねえ、私を捨てるつもり?じゃあ、これから誰が私のシフト管理をしてくれるの?練習機のトレーニングは誰が付き合ってくれるの?あなたが口を利いてくれなくなったら、私これからどうすればいいのよ!」その言葉を聞いた瞬間、航の気持ちは完全に冷え切った。そこにあったのは航に対する心配でも疑問でもなく、ただ「得られるはずだった利益を失うこと」への怒りだけだったから。「消えろ」航は音を立ててドアを閉めた。陽菜の悲鳴のような喚き声が外から聞こえてくる。翌日からの数日間、航は憑りつかれたように家の中を片付けた。業者を呼び、陽菜が触った、あるいは一度でも使った形跡のあるものは全て処分させた。
Ulasan-ulasan