All Chapters of 偽の妻は辞める。本物の令嬢は超大物に嫁ぐ: Chapter 11 - Chapter 20

30 Chapters

第11話

「社長、さっきはブレーキが遅れてしまい、唯様の車にぶつかってしまいました」禮は目を上げ、唯の車をちらりと見た。「タイヤがパンクしているな。すぐには直らないが、どこへ行くんだ?」「ホテル・ルミエールです」と唯は答えた。禮は唯を一瞥した。「乗れ、送っていこう」唯は驚き、少し迷った。雅人との件が片付いていない今、これ以上禮を巻き込みたくはなかったからだ。相手は自分の婚約者なのだ。禮は唯が修理の心配をしていると勘違いした。「車は秘書に修理に出させるから、気にしなくていい」「唯様、ご安心ください。すべて手配しておきますから。偶然ですが、社長もホテル・ルミエールへ向かうところですので」傍らで誠が笑いながらフォローするが、胸の内は複雑だった。さっき社長はわざとブレーキを踏ませなかった。おまけにホテル・ルミエールを選び、今日はこんな洒落た格好をしていて……もしかして唯を狙った「偶然の出会い」作戦なのか?だが、そんなことを唯はまるで知らなかった。禮もホテルへ行くのなら断る理由もなく、「ありがとうございます」と素直に礼を言った。後処理のために誠が残り、運転席には禮が収まった。助手席に座る唯は、バックミラー越しに禮の様子をこっそり窺った。禮は表情を変えず、厳格なしつけのもとで育ったかのような冷徹さと、高い地位にある者の威圧感を放っていた。そのせいか、ひどく近づきがたい距離を感じる。冷たく、上品で、遠い存在。唯は不思議な感覚を覚える。つい数日前に二人で仲良くゲームをし、ぬいぐるみまで贈ってくれた婚約者とはとても思えない。そんなことを思っていると、禮の声がふと響いた。「先日贈ったぬいぐるみ、気に入ったか?」「ええ……気に入ってます。ありがとうございます」唯は不意を突かれ、あの独特なぬいぐるみを思い出して小さく微笑んだ。センスは謎だが、気持ちはとても伝わってきたのだ。その答えに、禮の口角がわずかに上がる。そして彼は付け加えた。「このあたりは車が拾いにくいからな。秘書の近藤が不注意だった分は必ず修理させておくし、状況はラインで知らせるよ」「では、お願いします」唯は笑顔で礼を述べ、追突の件は気にしないことにした。深津市へ帰るまでは禮と深く関わらないつもりだが、かといって避けているわけでも
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第12話

「唯、どこにいる?」雅人の優しい声が聞こえてきた。彼は数秒の間を置いてから、申し訳なさそうに言葉を続けた。「動画は見たよ。ごめん、俺の勘違いだった」唯は冷ややかに唇を歪めた。「友達の家にいるわ」「どの友達?今から迎えに行くよ」雅人が矢継ぎ早に言う。いかにも心配そうな声だった。「結構よ」唯はすぐに断った。彼女は声を少し潜ませる。「さっきまで川沿いで風に当たりすぎて、ちょっと頭が痛いの。薬を飲んだし、もう寝る準備もしたわ。話があるなら、明日帰ってからにして」そう言うと、迷いなく電話を切った。電話の向こうで、雅人はツーツーという音を聞いた。胸の中に、言葉にできない空しさが広がった。彼はすぐに、あれこれ想像した。唯はこれほどまでに自分を愛しているのだ。誤解されたことで、きっと傷つき、落ち込んでいるに違いない。だからこそ、一人で冷たい風の吹く川辺にいたのだろう。もしかすると、ずっと泣いていたのかもしれない……雅人はますます自分を責めた。しかし、唯が電話を切った後すぐ、晴れやかな気分で背伸びをし、バスタブに30分も浸かっていたとは知る由もなかった。風呂上がりにラインを確認すると、禮からの新しいメッセージが届いていた。【もう帰ったのか?】唯は眉を上げて、平然と返信した。【せっかくお金を払ったのに、何で今すぐ帰る必要があるんですか?】向こうからは返信がなく、そのままゲームのオンライン対戦の招待が送られてきた。唯は口元をほころばせ、喜んで承諾した。後のステージは前より明らかに難しかったが、唯は禮と渡り合って楽しく遊んだ。一回終わってから、唯がふとスマホの画面を見ると、時計は深夜2時を回っていた。禮からの次のゲーム招待はもう来なかった。数秒後、ラインに二文字だけメッセージが届いた。【寝る】唯もスマホを置いた。夜更かししてゲームをしたせいで、翌日松尾家の本邸に戻った唯の顔には、隠しようのない疲れが滲んでいた。そのやつれた様子がリビングで一晩中待ち続けた雅人の目に入り、彼はとてつもない後悔と切なさに襲われた。「唯」雅人は柔らかな声で詫びた。「ごめん。ケーキの件、ちゃんと調べもせずに誤解して」唯は頷いたが、表情に感情の揺らぎはなかった。雅人は周囲を気にして声を落とした。「書斎で
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第13話

明里は不満を押し殺し、作り笑いを浮かべた。「唯さん、お帰りなさい。陽太はもう大丈夫よ。マダム会のために無理をなさったのは知っているけれど、もし不満があるなら私に直接言ってくれればよかったのに。陽太は……まだ子供なんだから」その言葉が、椿の怒りに火をつけた。昨日は唯を叱りつけ、陽太の仇をとるつもりだった。それが、唯は逃げ出してしまったのだ。所詮は育ちが悪いから、何かあるとすぐに逃げる。まったく責任感がない。椿はかんかんに怒り、いきなり怒鳴り散らした。「唯!悪いことをしておいて反省もしないで、家出までしちゃうなんて。その上、今度は雅人の優しさにつけ込んで、ご機嫌取りの買い物までさせて。一体何を企んでいるの!」怒りが収まらないのか、さらに要求する。「今日のうちに明里と陽太くんに謝りなさい!謝るだけじゃ足りないわ。二人にお詫びのプレゼントも買いなさい。それが、松尾家の嫁としての務めよ」「プレゼントはいいよ」明里は唇を噛み、演技を続ける。「唯さんを困らせたくはないし。でも、陽太は痛い思いをして、やっと今ねむったばかり。心のこもったお詫びくらいは、するのが当然だと思う……」二人が調子を合わせて喋るのを聞きながら、唯は冷めた目で、隣の雅人を見た。やはり、彼はあの動画のことを二人に話していなかったのだ。だからこそ、急いで何か買い与えようと提案したのだ。金で解決して、波風を立てずに黙らせようとしていたのだ。唯の目が冷たく曇った。「雅人。急いで私を呼んだのは、今まで通り私に濡れ衣を着せて、二人に頭を下げさせたいだけなの?」この一言で、雅人の罪悪感はピークに達した。彼は唯をなだめるように言う。「母さん、明里、そこまでにしろ。この件は俺がうまく処理する」すると、明里は目に涙を溜めた。明里は、いかにもかわいそうに顔をふせた。「雅人……唯さんを大切に想っているのは分かるけれど、陽太は幼い。大人の悪意をぶつけるなんて……あの子にも善悪を学ばせる年齢なんだから、何が間違いだったのか理解させないと」「その通りだよ」椿は引き下がらない。「謝罪しないなら容赦しない!おしおきよ!」そう言って、椿は使用人に目くばせして、唯をおさえこませた。この理不尽な状況を目の前にして、唯は心の中で冷たく笑った。明里はさすがトップ女優だ
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第14話

明里は泣きながら訴えた。まるで唯がひどい悪事でもしたみたいだ。傍にいた椿も加勢した。「そうよ!この動画、わざと編集したんでしょ!唯、子供ができないからって、心が荒んでしまったのね。だからって無関係な子をいびるなんて、どうかしてるわ!」唯の顔が少しこわばった。感情を抑えようとしたが、胸に刺さるような痛みが走る。妊娠できないのは、雅人がこの5年間、サプリメントだと言って自分に避妊成分を混ぜた薬やサプリを飲ませていたからだ。自分こそが最も理不尽な被害者であるにも関わらず、会えばいつも「子供ができないこと」をネタにされる。5年間の結婚生活そのものが、偽りの上に成り立っていたのだ。唯は冷めた口調で言った。「動画が本物じゃないと疑うのなら、簡単なことです。今すぐ専門の業者へ持ち込んで鑑定しましょう。もし改ざんの跡が見つからなければ、メディアを何社か呼んで、その様子をすべて撮影してもらいますから。もし鑑定の結果、この動画が偽物だと判明したら、私はカメラの前で明里と陽太に土下座して謝ります。言い訳は一切しません」「メディア」という単語が出た途端、雅人の表情が引きつった。松尾グループの動きは、すぐに財界のニュースになる。私的なゴタゴタで世間を騒がせることだけは避けなければならないのだ。「もういい」穏やかだったはずの雅人が、柔らかく場を鎮めようとした。「母さん、明里、そこまでにするんだ。動画は俺が確認した。本物だ」そして、爆発寸前の唯をなだめようとした。「唯、母さんたちも陽太のことが心配で、焦ってつい変なことを言ったんだ。気にしないでくれ」雅人は、いつも物事を丸くおさめる人だった。それは、唯が昔彼を好きだった理由の一つだった。でも、結局のところ。これはただの仲裁役を演じているだけに過ぎないのではないか?それに、事が収まっても自分に得になることは一つもない。明里の対応は驚くほど早かった。彼女は即座に刺々しい態度を消すと、わざとらしく目を伏せて唯に謝罪した。「ごめんなさい、唯さん。勘違いをしてしまった。陽太は少し食いしん坊なだけで、正直に話したら怒られると思ったみたいで……」そして明里はさらに同情を引こうと続けた。「あの子、赤ちゃんの頃からほとんど私ひとりで育ててきたので、不安を抱えやすくて。他の子より敏感なの……
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第15話

子供の教育がなってないなんて、それ、ここにいる全員に向かって、育て方が悪いと言ってるのと同じでしょ?しかし、明里はその子の父親について触れるのを避けているようだった。歯切れ悪く絞り出した。「ごめんなさい……今後、気を付ける」その情けない姿を見た唯は、真顔でこう言った。「じゃあ、そういうことで。私は心が広いので、濡れ衣を着せられても、土下座やおしおきまでは求めないよ」唯は動揺して顔色が変に変わった3人を見ることなく、踵を返して階段を上がった。唯の後ろ姿が、すぐに階段の陰へ消えていった。明里が雅人に近寄り、自分を責めるような顔をして小声で言った。「雅人、ごめんなさい。私が注意不足で、唯さんの誤解を招いてしまって。お母さんにまで迷惑をかけちゃった」しかし、いつもなら優しくなだめてくれるはずの雅人は、今回に限って何も言わなかった。ただ不快そうに眉をひそめ、声のトーンを下げた。「明里、今後はそうやって何でもかんでも騒ぎ立てるな。今日は幸い、唯が配慮してその動画をネットに晒さなかったが、そうでなければ松尾家の恥さらしだぞ!」容赦のない叱責に、明里は顔から血の気が引いた。椿が不満そうに口を開いた。「雅人、なんてことを言うの?お嫁さんなら、多少の苦労はあたりまえでしょう。明里だって陽太くんのためにやったのよ!どうして他人のために、明里を責めるの?唯なんて勝手に家を出て行くなら、そのまま消えてくれればいいのよ!そうすれば明里に席を譲れるし、みんなに教えてあげられるんだから。誰が松尾家に跡取りを生んだなくてはならない存在で、誰が雅人の真の妻かをね!」椿の言葉は、まるで明里の本心を代弁しているようだった。しかし、雅人は考えることもなく拒否した。「だめだ。今はその時じゃない」椿は不思議そうに雅人を見た。「まさか。西区のあのマンションを本当に唯にあげる気なの?」雅人は答えなかった。唯が戻ってきたときの、あまりに青ざめてやつれた顔が頭から離れなかったからだ。胸のざわつきを突き放すように雅人は言った。「この件については考えがある。二人とも口出しするな」そう言うと、雅人は唯の後を追って2階へ向かった。明里は拳を固く握りしめた。悔しさに顔を曇らせ、自室へと戻っていった。部屋に入ると、ベッドの上で目を覚ました陽太が泣きそう
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第16話

その頃、2階へ上がった唯は、すぐにスマホを取り出し、禮へラインを送った。【桐生さん、お手数ですが、私の車を修理に出さないでください。そのボロボロの状態のまま、私のもとに送り返してもらえますか?】禮からの返信は、速く、まっすぐだった。【どうしてだ?】【それとも、新しい車でも買おうか?欲しいモデルを言えば、すぐ手配させる】唯は、その申し出を断った。【いえ。今回の費用は、他の人が支払うことになると思いますので】今度は、禮が余計なことを聞かなかった。【わかった】その時、階下から雅人が上がってくる足音が聞こえた。唯はすぐにスマホを枕の下へ隠すと、体を丸めて横になり、まるで疲れて眠ってしまったかのような演技を始めた。静かにドアが開かれ、ベッドの脇で足音が止まる。どうやら唯を慰めにきたらしい。雅人は、眠っているふりをする彼女の寝顔を見つめ、様子を探るように小さく声をかけた。「唯?」唯は穏やかな呼吸を保ったまま、微動だにしない。ベッドの横に立ち、体を縮めて眠る唯を見つめる雅人の心に、深い罪悪感が突き刺さった。何か声をかけようと口を開きかけたが、言葉が見つからない。結局、ばつが悪そうに、足音を消して書斎へ引き返した。書斎のドアが閉まる音を聞いてから、ようやく唯はゆっくりと目を開けた。その目は冷ややかで冴えわたっていた。しばらくしてから、本当の眠りについた。昼過ぎまでぐっすりと眠った唯が目を覚ました時、外から大きなエンジンの音が響いてきた。窓辺に立つと、大型フォークリフトが邸宅の玄関先に停車し、その上には昨晩壊した唯の車が載っていた。禮は、実にいい仕事をしてくれる。壊れた車を送り返してと言ったら、こんな大がかりな登場のさせ方をしてくれた。まるで松尾家の人に見せつけるみたいに。案の定、階下からは使用人たちの驚きの声が上がった。唯が下へ降りていくと、雅人が呆然として壊れた車の前に立っていた。彼女の姿に気づいた雅人は、ひどく心配そうな表情になり、こう問いかけた。「唯、君の車はどうしたんだ?」唯は表情に陰りを含ませ、静かに答えた。「昨日、運転中に上の空で、ぶつけてしまって」雅人の心臓に、鋭く引き絞られるような痛みを感じた。消えていたはずの罪悪感が、再び溢れ出してくる。昨日の夜、いわれのない疑いをかけ
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第17話

明里は、雅人の選んだ車を見て、心の中でこっそり喜んだ。「この車なら唯さんにぴったりね。控えめで落ち着いていて」と表面上は合わせている。でも視線を抑えきれず、隣の展示場にある高そうな限定モデルのスポーツカーへ、何度もちらちら向いていた。唯は表情を変えず、営業スタッフが熱心にA4について語るのを静かに聞いていた。完璧なボディ比率や最新のLEDライトなど、相手の言葉は耳に入っても、心には響かなかった。営業スタッフの説明が終わったところで、唯は少し眉をひそめて聞いた。「悪くないですが、ここには中古車はありますか?」「中古車ですか?」営業スタッフの笑顔が引きつった。営業スタッフもさすがに、連れの男性が盛沢市で有名な大物の雅人だと気づいていたのだ。高級な身なりをした女性を連れてきて、まさか中古車を求めるなどとは予想外だったらしい。あまりに場違いな質問だ。営業スタッフは内心で舌打ちしつつも、顔色一つ変えずに雅人の顔色を窺う。雅人も呆然としていた。自分のこの埋め合わせは、十分に気がきいていると思っていた。でも唯が、こんなに……つつましいとは思わなかった。営業スタッフは雅人の機嫌を損ねないよう、別の担当を呼んで3人を通路の先にある中古車エリアへ案内させた。新車の輝かしい空間とは対照的に、ここは照明も少し薄暗い。けれど、唯の目的は最初からはっきりしていた。ずらりと並ぶ車を眺め、一台の黒いA4の前で止まると、「これにしよう」と言い切った。それは唯が事故で壊してしまった古い車と、年式も色も全く同じだった。その様子に、雅人の心は再び激しく揺さぶられた。彼は感動した様子で唯の手を握りしめ、言った。「唯、相変わらず控えめで慎ましいな。本当に変わらないんだな」そして、いとおしそうに言った。「本当は、新しいのを買ってもいいんだよ。俺のために節約しなくていい」唯は淡々と笑い、横にいた明里を見た。「明里さん、この車どう思う?」明里は即座に察し、口元を隠しながら大げさに言った。「唯さん、本当に倹約家なのね!雅人が褒めるのも納得よ」「そうかしら」と唯は頷き、「じゃあ、これに決めるわ」と告げた。そして雅人の腕を組み、親しげにこう言った。「買い物は終わり。雅人、次は向こうのスポーツカーエリアも見てみようよ」雅人と
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第18話

唯はゆっくり散歩でもするように一周して、最後にある展示台の前で足を止めた。彼女は真ん中にある赤いマクラーレンを指さして、こう聞いた。「これ、どうかな?」雅人が力強いボディラインのその車を見て満足そうに頷く。「いいね。唯の選ぶものはいつも信頼しているよ」「うん」と唯が答え、自然な流れで続けた。「それじゃ、ちょっと運転席に座って確かめてみてもいい?」雅人も明里も疑う様子はなく、声を揃えて、「いいよ」と答えた。唯は運転席に座り、慣れた手つきでエンジンをかけた。ステアリングから伝わる細かな振動を感じ取り、満足げに微笑む。車を降りて雅人のそばへ戻ると、少し迷ったふりをしてこう聞いた。「高すぎないかな?今見たら2億円近くしたよ」「何言ってるんだ?」雅人にとって、この金は明里のために使うもの。微塵も惜しくはない。「唯が選んだものなら、いくらだって価値があるさ。代金なんて気にするな」と、雅人は豪快に言い放った。そう言ってブラックカードを取り出すと、営業スタッフに言った。「あの中古のA4と、このマクラーレンをまとめて決済してください」30分後。営業スタッフが丁寧な手つきで、鍵箱を2つ差し出した。唯は当たり前のようにそれを受け取る。周囲が期待の眼差しを送る中、唯はまずマクラーレンの鍵が入った箱を開け、満足げに眺めてから蓋をし、自分のポケットへ仕舞った。次に残りの箱を開け、中の中古のA4の鍵を取り出した。驚きに目を見開く雅人と明里の目の前で、唯は笑みを浮かべてその鍵を差し出した。「明里さん、この鍵、受け取って」それを聞き、明里は呆然とした。信じられない様子で鍵を見つめると、一生懸命取り繕っていた穏やかな仮面が今にも崩れ落ちそうに歪む。「唯さん……これ、どういう意味?」明里の声が少しうわずった。「どうしてこれを私に?」雅人も眉をひそめ、納得がいかないといった様子で唯を見た。「唯、ふざけるのはよせ。このスポーツカーは、明里に買ってやるはずだったんだ」「ふざけてなんかいないよ」唯は微笑んだ。「明里さんはこれから私の代わりに松尾グループで働くのでしょう?しかも、芸能界の人なら人目に触れる機会も多い。軽率な行動はすぐ批判の的になるよね。さっきも、私からいろいろ学びたいって言ってたばかりじゃないの?それとも、
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第19話

「そうね。唯さんは本当に気が利くわ」帰りの道中、唯の機嫌は上々だった。車の窓を下げ、夕暮れの風に長い髪を揺らした。夕日が彼女の横顔を綺麗に照らす。唇に浮かぶ楽しそうな笑顔が、雅人の心をそっと揺さぶった。彼はそわそわとした気持ちを抑えきれず、何度も唯の横顔を盗み見た。二人で連れ立って家に入り、2階の廊下に差し掛かると、雅人はついに我慢の限界を迎えたのか、後ろから唯の華奢な腰を強く抱き寄せた。唯の肩に顎をのせ、熱っぽい息を吹きかけながら囁いた。「唯、もう怒ってないだろ?」唯は込み上げてくる吐き気を必死に抑えつつ、視線の端で明里が後ろについてきているのを確認した。それを利用するように、唯は身体をひねり、両腕を雅人の首に回すと、指先で彼のうなじを軽くなぞりながら、意味ありげに微笑んだ。「うーん……まあ合格かな、許してあげてもいいわよ」わざと甘くした声。雅人の目つきが、ぐっと深くなった。彼はいつもの真面目な紳士の顔をやめた。身をかがめてキスしようとし、かすれた声で言う。「じゃあ、もっと頑張れるよ」雅人、大変!陽太が泣き止まなくて、あなたに会いたいってきかないのよ!雅人の動きがピタリと止まる。好機とばかりに、唯は軽く彼を押し返し、髪を整えながら言った。「行ってあげて。子供が一番でしょ。私は先にお風呂に入っておくから」雅人は唯を見つめ、どこか葛藤したような表情を見せた。結局は父親としての責任感が勝ったのか、低い声で応えた。「待っててくれ。すぐ様子を見て戻るから。陽太はまだ小さいからな」雅人はそのまま、明里に連れられて慌ただしく去っていった。唯の顔から、笑みがスッと消える。彼女は声を出さずにえずいて、バスルームへ飛び込むと、雅人が触れた場所を執拗なまでに何度も洗い流した。バスローブ姿で出てくると、ちょうどスマホが光った。禮からのメッセージだった。【新しいスポーツカー、いいね】唯はすぐにピンときた。あのディーラーは、とっくに桐生グループの傘下に入っていたのだろう。口角を上げ、唯は探りを入れるように返信を打った。【私たちの関係に免じて、割引してくれたのでしょうか?】それに対する禮の返信は、直球で冷淡だった。【いいや。支払うのが男だと知ってたから、元の定価にさらに3割乗っけておいた】そのメ
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第20話

唯はスマホの画面に映る文字を見て、ふっと口元を緩めた。禮という男はいつも強引だ。しかし、それがなぜか不思議と自分の好みにぴったり合っていた。でも、すぐにまた冷静になった。すぐに結婚するとしても、そこに愛があるわけではない。これはお互いのためのビジネスなのだ。ビジネスである以上、結婚する前に条件を決めておくべきだ。お互いのために、後で誤解を生まないようにしたい。唯はもう一度スマホを操作して、禮にメッセージを送った。【明日の夜、時間ありますか?ご飯でもどうでしょう?】すると、禮からすぐに返信が来た。【いいよ】唯はメッセージを続けた。【お店が決まったら、場所を連絡しますね】一方その頃、雅人は陽太の部屋へ行き、そっとベッドの脇に腰を下ろした。陽太の幼い顔にはまだ涙の跡があり、小さくしゃくり上げている。ひどく不安そうだった。スマホの映像で陽太が嘘をついていたのを確認していた。それでも、我が子のあどけない寝顔を見ると、雅人はとても叱る気になれなかった。彼は優しくあやし続け、ようやく陽太がぐっすり眠るまで付き添った。だが、雅人の心の中は、唯が見せた艶やかな姿でいっぱいだった。早く戻って唯をこの手で抱きしめたいと、雅人は自然と足取りが軽くなる。しかし、部屋を出ようとした時、明里がドアのところに立ちすくんでいるのに気づいた。彼女は目を赤くし、悲しそうにこちらを見つめていた。「どうしたんだ?」雅人は声を潜めて尋ねた。明里は不満そうに近づいてきた。「雅人、唯さんが、今日はわざと嫌がらせをしてきたんじゃないかしら?もしかして、何か気づかれたの?」それを聞いて、雅人はわずかに眉をひそめた。心の中に、うっすらとした苛立ちが広がる。彼は、明里が中古車の件でへそを曲げているのを知っていた。「そんなはずはない」雅人はきっぱり否定した。「唯は昔から俺を信頼してくれている。いわれのない疑いをかけるような子じゃない」それから少し声を和らげて、宥めるように言った。「例の栗のケーキのことで唯が怒っていたとしても、表立って動くなと言ったのは、君のことを心配してのことだ」「本当に?」明里は信じられない様子で、雅人の袖を掴んで目を真っ赤にした。「でも……私が中古車で会社に通ったら、笑いものになって松尾家の恥になるんじゃない?」
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