偽の妻は辞める。本物の令嬢は超大物に嫁ぐ

偽の妻は辞める。本物の令嬢は超大物に嫁ぐ

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結婚記念日の前日、吉野唯(よしの ゆい)は、松尾雅人(まつお まさと)が偽物の婚姻届受理証明書で5年間も自分を騙していたことを知った。 雅人はすでに彼の義理の妹と入籍して子供まで作っていたのだ。 唯に子供を産ませないため、雅人は4年もの間、避妊成分を混ぜた薬やサプリを飲ませ続けていた。 唯はここでようやく目が覚める。自分は最初から、あの二人の関係を隠すための道具に過ぎなかったのだ。 真実を知った唯は、実の家族の元へ戻る。そして兄の勧めを受け入れ、盛沢市を去って政略結婚することに同意した。 雅人は、唯がただ怒っているだけだと思い込んでいた。身寄りのない唯は、最後には泣きついて謝ってくると信じていたのだ。 しかし再会したとき、唯は大富豪・吉野家の令嬢になっていた。超一流セレブの御曹司と腕を組み、富と権力を手にしていた。 雅人はようやく激しく後悔し、目を潤ませながら唯に縋り付いた。しかし唯は一瞥もくれずに言い放った。「結婚して子供までいるようなバツイチの男なんて、もういらないわ!」

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1화

第1話

松尾雅人(まつお まさと)と「結婚」して5年目。吉野唯(よしの ゆい)は、深津市での仕事を予定より早く切り上げて盛沢市へ戻った。

来月の結婚記念日を祝うため、唯は密かに海外旅行を計画していた。ビザとパスポートの更新手続きを進める中で、最新の戸籍謄本が必要なことに気づき、役所へ向かった。

しかし、窓口の職員から思いもよらない言葉を掛けられた。「吉野さん、当方の記録では、あなたは未婚となっております。戸籍に結婚の記録はありませんよ」

「そんなはずはありません。夫と結婚して、もう5年になります」

唯は思わず言い返したが、頭の中はひどく混乱していた。

雅人は、盛沢市でも評判のエリートだった。誰もが彼を温厚で優しく、ハンサムで一途だと言い、その笑顔を見れば夜空の月さえ霞んでしまうと噂していた。

5年前、唯は偶然、雅人の命を救った。それがきっかけで二人は恋に落ち、愛を誓い合って夫婦になった。

内密にしていたとはいえ、夫婦としての暮らしがあり、結婚指輪も、婚姻届受理証明書だってあった。それが嘘だなど、ありえるのだろうか。

窓口の職員は不思議そうな顔をした。「ですが、記録上は『未婚』となっています。吉野さん、何かの勘違いではありませんか?」

渡された書類の婚姻状況の欄には、たしかに「未婚」とはっきりと記されていた。

信じがたい現実に、唯は結婚指輪をぎゅっと握りしめた。あまりの出来事に、ひどく非現実的に感じられる。

どうしてこんなことになってしまったのだろう?

雅人と入籍していなかったのなら、この5年間の生活は一体なんだったのだろうか。

そんな中、芸能メディアのニュースが目に飛び込んできた。【トップ女優の一ノ瀬明里(いちのせ あかり)さんが盛沢市へ。夜に松尾グループの社長と密会、隠し子の存在をほのめかす】

明里?

唯は思わず息をのんだ。それは、松尾家の養女だった松尾明里(まつお あかり)なのだろうか?

18歳のとき、明里は実の親に引き取られて一ノ瀬家に戻り、名前を一ノ瀬明里に変えた。それから、親について深津市へと去ったはずだ。

明里は、いつ戻ってきたの?

胸の奥で、嫌な予感が渦を巻いた。唯はパパラッチが撮った写真をタップした。

それは、夜の港で撮られた写真だった。

近くに停まった高級車が光を遮るなか、明里は男を見上げていた。背伸びをしながらネクタイを引っぱり、楽しげに笑いかけている。

男の顔ははっきりと写っていない。しかし、そのネクタイは唯が先月、雅人のために特注したプレゼントだった。

盛沢市には、それ一つしかない特別なネクタイだ。

心臓が激しく脈打ち、唯の目は写真の下にある記者発表の動画へと引き寄せられた。

上品なドレスを着た明里は、美しく優雅だった。カメラの前で嬉しそうに微笑みながら、指元のダイヤの指輪をアピールしている。

「結婚ですか?実は、皆さんにお話ししていなかったんですが、ずっと前に結婚して、可愛い子供もいるんです」

レポーターは驚いて尋ねた。「まあ、素晴らしいですね!差し支えなければ、お相手はどなたなのか教えていただけますか?」

「それは、夫の仕事の邪魔をしたくないから秘密ですよ」明里は微笑んだ。

「でも、夫とは子供の頃からの知り合いで、あの人以外との結婚は考えられませんでした!」

祝福の拍手を耳にしながら、唯の視線は明里のダイヤの指輪に釘づけになった。心は、奈落の底へ突き落とされた。

なぜなら、明里のはめている指輪は、自分が持っているものと全く同じデザインだったからだ。

ただ、明里の方が宝石が大きく、光り輝いて見えた。

これはただの偶然なのだろうか?

唯は拳を強く握りしめた。どうしても、自分を納得させる言い訳が見つからない。

プロポーズの際、雅人は確かに言っていたはずなのに。「これはオーダーメイドの、世界に一つだけの指輪だ」

それとまったく同じものが、いま明里の手にあるのだ。

深く息を吸い、唯は雅人があるレストランに向かったと聞き、すべてを本人から問いただそうと決心する。

タクシーを拾ってそのレストランに向かうと、個室のドアが半開きになっていた。中から男たちの声が漏れて聞こえてくる。

「雅人さん、明里さんが戻ってきたよ。唯さんには、いつこの結婚が偽物だって明かすつもり?」

唯はその場から一歩も動けなくなった。

守ってきたと思っていた結婚生活は、すべて嘘だったのだ。

隙間から中を覗くと、雅人は冷めた声で言い放った。「まだその時じゃない。うちの祖父が頑固でね。明里とはかつて養妹という関係だったから、世間体として許さんと言い張るんだ。唯と5年連れ添うことを、明里をこの街に戻す条件にしたのさ。その期限まであと1ヶ月なんだ」

「何年も雅人さんを待っていた明里さんも、大変だったね……ところで、1ヶ月経ったら唯さんはどうするつもりだ?」

雅人は複雑な表情で言い切った。「唯もこれまで松尾家に尽くしてくれたし、俺に夢中だからな。俺と明里の関係が片づいたら、唯は外で養うつもりだ。明里は心優しいから、許してくれるはずだ」

「まあそうだね。深津市出身で身寄りもない女だし、盛沢市で遊んで暮らせるなら、それ以上文句は言えないよ……」

耳に突き刺さる言葉に、唯の心の中で何かが完全に砕け散った。

静かに目を閉じ、怒りと悲しみを抑え込むために、きつく唇を噛んだ。

この5年間、「妻」として、雅人のために全てを捧げ、必死で松尾家を守ってきた。盛沢市での生活を守るために、自分のすべてを犠牲にしてきたのに……

そのすべてが、雅人たちの間ではただの笑い話だったのだ。

その時、親友の杉本晴香(すぎもと はるか)から着信があった。「唯、検査の結果が出たわ。妊娠しない理由が分かったの。急いでクリニックへ来て」

唯は雅人との間に5年間子供ができず、晴香を頼って内密に調べていたのだった。

タクシーを拾い、唯は晴香のクリニックへと向かった。

それから10分後。

晴香は検査結果を差し出し、複雑な表情をした。

「調べたけど、唯の体に何の不調もなかった。それなら長年子供ができないのはおかしすぎる。だから処方されていた薬やサプリを調べた……全てに、意図的に避妊のための成分が加えられていたのよ」

そんな……

唯の心は激しく波打ち、震えが止まらなかった。

体質改善にと、薬やサプリを飲ませていたのは、雅人だった。

「体が弱いから」と言われ、毎日飲んでいたのに。

そう信じて毎日飲んでいたのに、結局5年経っても子供を授かることがなかった。

自分が産めないのではない。最初から雅人に産ませてもらえなかったのだ。

記者発表の動画と雅人の言葉。全ての事実が冷たいナイフとなって胸を貫く。

明里との子供を育てる雅人が、自分の子など望むわけがない。

「分かったわ。このこと、雅人には内緒にしておいてね」

クリニックを後にした唯は、あてもなく歩き続けた。とうとう、よく覚えている家族の番号にダイヤルした。

「慎さん、吉野家に戻る決心がついた。家が用意してくれた結婚も進めてちょうだい。ただ、こちらのことをすべて整理するのに、1ヶ月だけ時間がほしいの」

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第1話
松尾雅人(まつお まさと)と「結婚」して5年目。吉野唯(よしの ゆい)は、深津市での仕事を予定より早く切り上げて盛沢市へ戻った。来月の結婚記念日を祝うため、唯は密かに海外旅行を計画していた。ビザとパスポートの更新手続きを進める中で、最新の戸籍謄本が必要なことに気づき、役所へ向かった。しかし、窓口の職員から思いもよらない言葉を掛けられた。「吉野さん、当方の記録では、あなたは未婚となっております。戸籍に結婚の記録はありませんよ」「そんなはずはありません。夫と結婚して、もう5年になります」唯は思わず言い返したが、頭の中はひどく混乱していた。雅人は、盛沢市でも評判のエリートだった。誰もが彼を温厚で優しく、ハンサムで一途だと言い、その笑顔を見れば夜空の月さえ霞んでしまうと噂していた。5年前、唯は偶然、雅人の命を救った。それがきっかけで二人は恋に落ち、愛を誓い合って夫婦になった。内密にしていたとはいえ、夫婦としての暮らしがあり、結婚指輪も、婚姻届受理証明書だってあった。それが嘘だなど、ありえるのだろうか。窓口の職員は不思議そうな顔をした。「ですが、記録上は『未婚』となっています。吉野さん、何かの勘違いではありませんか?」渡された書類の婚姻状況の欄には、たしかに「未婚」とはっきりと記されていた。信じがたい現実に、唯は結婚指輪をぎゅっと握りしめた。あまりの出来事に、ひどく非現実的に感じられる。どうしてこんなことになってしまったのだろう?雅人と入籍していなかったのなら、この5年間の生活は一体なんだったのだろうか。そんな中、芸能メディアのニュースが目に飛び込んできた。【トップ女優の一ノ瀬明里(いちのせ あかり)さんが盛沢市へ。夜に松尾グループの社長と密会、隠し子の存在をほのめかす】明里?唯は思わず息をのんだ。それは、松尾家の養女だった松尾明里(まつお あかり)なのだろうか?18歳のとき、明里は実の親に引き取られて一ノ瀬家に戻り、名前を一ノ瀬明里に変えた。それから、親について深津市へと去ったはずだ。明里は、いつ戻ってきたの?胸の奥で、嫌な予感が渦を巻いた。唯はパパラッチが撮った写真をタップした。それは、夜の港で撮られた写真だった。近くに停まった高級車が光を遮るなか、明里は男を見上げていた。背伸びをしながらネク
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第2話
ほんの2週間前、唯が深津市で働いていたとき、偶然にも自分の家族が見つかった。吉野家が唯の存在を知ると、すぐに家に戻るよう申し入れた。ただ、吉野家は格式高い家柄だ。戻るからには深津市への定住や、離婚後の政略結婚を含めたすべての決定に従わねばならない。当時、唯は雅人を愛するあまり、吉野家の令嬢としての立場も責任もすべて放棄し、雅人を選んだ。だが、今は……5年もの間騙され続けてきたなんて。もう二度と同じ過ちは犯さない。電話口で、兄の吉野慎(よしの しん)がようやく安堵した様子で言った。「わかったのなら安心だ。ちょうど、政略結婚することになる相手も、盛沢市とは縁があるんだ。時間があれば一度会ってみるといい。少し変わった性格だが、人柄も能力も家柄も一流だからな」電話を切ると、慎から相手の連絡先カードが送られてきた。桐生禮(きりゅう れい)。唯はその名に軽く目を通すと、ラインで友だち申請を送った。相手はすぐに承認してくれた。【はじめまして。吉野唯と申します。盛沢市でまだ片付けなければならない事がありまして、それが済み次第、深津市に戻ってあなたと結婚するつもりです。この1ヶ月間は盛沢市でどんな騒ぎが起きようとも、どうぞ気になさらないでください】相手からはすぐに、短い返信が届いた。【わかりました。何か手伝えることがあれば、言ってください】慎の言葉を思い出し、思ったより話しやすい人だと唯は少し驚いた。しかしそう思っただけで、それ以上ラインの画面を見ようとはしなかった。この5年、唯は松尾家にも松尾グループにも、あまりにも多くのものを捧げてきた。だからこそ、自分がこんな罠にはめられていたと知った今、黙って騙されたままでいるつもりは微塵もない。偽の結婚、だって?ここから雅人と明里がどう落とし前をつけるのか、見届けようではないか。そんなとき、雅人から電話が入った。「唯。盛沢市についたと言っていたな?今どこにいるんだ?」慣れ親しんだ、いつもの低い落ち着いた声。長年騙されていたことを思うと、唯の胸は冷ややかな嘲笑で満たされた。口を開きかけた時、電話越しに子供のあどけない声が聞こえた。「パパ、意地悪な女なんかほっといて、僕と遊ぼうよ」直後に、明里の甘えるような声が響いた。「毎月欠かさず会いに来てくれるのに、
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第3話
陽太は子供だから、大人たちの複雑な事情なんて分かるはずもない。でも、この悪い女のせいでパパと一緒に暮らせないんだと、明里から聞かされていた。先ほどまでは会話に入り損ねていたが、今は意地悪を言えるチャンスだと思っているのだろう。「陽太、失礼なことを言っちゃダメよ」明里は慌てて陽太を抱き寄せると、唯に向かって申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい、まだ4歳なもので……お祝いの品なんて、気を使わないでね」「一人で子供を育てるのも大変ね」唯は眉を上げて笑った。「どうしてこの子のお父さんを連れて来ないの?まさか、作るだけ作って父親の責任を果たさないわけじゃないでしょ。まあ、これじゃ陽太くんがこうなるのも無理ないわ」明里は無理につくった笑顔で答えた。「主人は海外で仕事をしていて、都合がつかなくて」「それで、あなた一人で陽太くんを連れて盛沢市に帰ったの?明里さん、男を選ぶときはもっと慎重にならないと。こんな男、いないのも同然じゃない?一年中そばにいなくて、今頃別の誰かとよろしくやっているかもね」唯の言葉はいちいち明里の痛いところを突き、ついでに遠回しに雅人を皮肉っていた。二人の顔はたちまち曇っていった。雅人は眉をひそめて口を挟んだ。「これは明里のプライベートなことだから、首を突っ込まないようにしよう。唯、君も疲れているだろうし、上の部屋で休んでくれ」二人が必死にこらえている様子を見て、唯は頷いた。「わかったわ。じゃあ先に休ませてもらうね」階段を上る前、二人の表情をしっかりと見て、彼女は思わず小さく吹き出した。せいぜい我慢しなさい。あれだけ胸くそ悪いことをしておいて、甘んじて受け入れる以外に道があるわけないでしょ?1ヶ月、この二人がどこまで我慢できるか見ものだ。……唯は目が覚めると、もう夜だった。夕食の時間になり、雅人の父親・松尾隆平(まつお りゅうへい)も帰ってきた。陽太が使用人に連れて行かれ、食卓を囲んでいる時、隆平が深津市での開発事業の話を持ち出した。「唯、今回の深津市での活躍は見事だった。松尾家の知名度も上がったし、多くの投資家もついた。今後の深津市の発展性に賭けたい。特に吉野グループと桐生グループとの交渉が鍵になる」隆平は唯を見て、淡々と言った。「この2社は並の会社とは違う。もう唯は気にし
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第4話
雅人は慌てて弁解した。「唯、陽太はまだ小さいし、父親もずっと側にいられるわけじゃない。だから人違いをしてしまったんだろう」「そうなの」唯は寂しそうな表情を浮かべた。「私はてっきり、子供が産めない私に代わって、他の子に『パパ』と呼ばせているのかと思って」優しく美しい唯は、部屋の灯りに照らされていっそう魅力的に見え、雅人は思わず胸を躍らせた。彼は優しい声でなだめた。「まさか。俺は俺たちの子供だけでいいんだ。陽太はまだ幼いだけで、大きくなれば自然と分かるようになるさ」言葉とは裏腹な雅人の態度に、唯は吐き気すら覚えた。だが同時に、どこか晴れやかな気分にもなった。このクズ男と悪女。裏ではどんなにイチャついていようが、自分の前では必死に言い訳し続けるしかないのだから。実際、明里は雅人の言葉を聞いて、内心面白くなかった。やっと陽太を連れてこの街に戻ってきたのは、何としても唯を追い出すためだったからだ。明里はわざと困ったような顔で唯に向き直った。「ごめんなさい、唯さん。陽太ったら頑固で……雅人が一緒に遊んでくれないと、もっとぐずっちゃうの。お願い……」陽太はおもちゃの車を握りしめ、目を真っ赤に潤ませて雅人を見つめた。「パパ、悪い女なんて放っておいて!僕と遊ぼうよ」雅人も気まずそうに唯の様子を窺う。唯はその光景を静かに見ていたが、やがて小さく頷いた。「いいわよ」すぐに雅人は陽太の手を引き、その場を離れた。唯は雅人の背中を見つめ、ふっと笑みをこぼした。昔は確かに、雅人を心から愛していた。穏やかな性格で、顔立ちも良く、誰にでも優しい雅人は、かつて自分だけを大切にしてくれた。しかし今、心の中にあるのは雅人への嫌悪だけだ。あの頃の愛情は、跡形もなく消え去っていた。雅人は気まずさからか、陽太を連れて去り際に思わず唯を振り返った。そして、彼は眉間にしわを寄せた。本来の唯はもっと感情を剥き出しにして嫉妬するはずだ。自分の感情に正直で、砂一粒でも許せない性格だった。それなのに、あまりに淡々と見送る彼女の姿に、彼は突然言い知れぬ不安に襲われた。しかし、隣から聞こえてくる陽太の甘える声に気を取られ、雅人は再び前を向いて歩き出した。静かな庭で。雅人は陽太をなだめていたが、どうにも上の空だった。明里は彼の落ち着か
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第5話
唯は説明した。「胃腸風邪のうえに香水に反応したのかも。あなたの香水を嗅ぐと吐き気がするの。雅人、さっき明里さん、転んだりした?彼女の香水の匂いがするんだけど」庭でのキスのことを思い出し、雅人は少し気まずそうにごまかした。「明里がよろけたから、支えただけだよ。この匂いが嫌なら、今すぐお風呂に入ってくるね」そう言い残すと、雅人はすぐにバスルームへ入っていった。唯は冷ややかな目でその後ろ姿を見送った。男の浮気は隠し通せるものではない。雅人が「出張」から戻るたびに、いつも明里の香水の匂いが漂っていたのだから。ただ、これまで雅人を信じすぎていたせいで、些細な変化を見落としていただけだった。今思えば、この4年間、自分は他の女が使った男を共有していたのだ。本当に気持ちが悪い。雅人がバスルームから上がったときには、唯はもう眠っていた。翌朝、唯は隆平の秘書から、休職の手続きを取るよう促された。唯は反論せず、ただ静かにうなずいた。朝食を食べに下へ降りると、ちょうど椿が陽太の手を引いてやってきた。そして、偉そうな態度で言い放った。「明里は会社に行く用事があって時間がないの。代わりに陽太くんのご飯の面倒を見なさい」唯は使用人に任せようと、一度は断ろうとした。だが、断りそうな気配を感じた陽太がすぐに大泣きしそうな顔をしたため、唯は言葉を飲み込んだ。彼女は素直にスプーンを受け取った。陽太に一口食べさせたとたん、陽太は茶碗をひっくり返した。ご飯が唯の服に飛び散り、陽太は大声で泣き叫んだ。「意地悪な女なんか嫌だ!僕ののどに詰まらせて殺す気なんだ!」耳を突き刺すような悲鳴に、椿が血相を変えて飛んできた。泣きわめく陽太の姿を見て、椿は唯に罵声を浴びせた。「ご飯ひとつまともに食べさせられないなんて、本当に何をやらせても駄目ね!陽太くんをこんな目にあわせて、本当に役立たずなんだから!」唯は淡々と反論した。「松尾グループの今年の利益の3割は、私の実績ですけれど」椿は言い返せずに言葉を詰まらせたが、気に入らないといった様子で鼻で笑った。「自分がいなきゃ松尾グループが回らないとでも思ってるの?隆平も言っていたわ、もうあなたの力はいらないってね!今日からは大人しく家庭に入りなさい。深津市の田舎者が、いい気にならないで。私たちの可愛い陽
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第6話
明里は、いま平手打ちをくらって顔がはれあがっていた。しかも図星を突かれて、心の中でびくっとした。明里はボコボコに腫れた顔で、なんとか口元を歪めて言い訳をした。「唯さん、勘違いよ。今のは不注意で転んだだけで……」「そうよね」唯は気のなさそうに笑った。「明里さん、あなたも松尾家で育ててもらった人でしょ。そんな恥知らずなこと、できるわけないもの。義理の兄が結婚してると知ってて口説くなんて、それこそ道ならぬ恋だし」彼女は「道ならぬ恋」という言葉を、わざと強く言った。その瞬間、雅人は唯が何かを察したのかとドキリとした。だが唯は顔を上げ、雅人の頬を優しく撫でた。「雅人、結局は私が悪いのね。同僚から、噂の『社長夫人』が会社に来たって聞いて、浮気でもしてるのかと思ってしまったの。怒らないわよね?」唯の指先がわざと腫れた箇所に触れ、雅人は痛みで奥歯を噛み締めた。それでも、悲しげな表情の唯を見ると、まもなく明里に立場を奪われると思い出し、すべてが申し訳なさに変わっていった。「怒らない」雅人はそう呟くと、思案した末に秘書を呼び出した。「『一ノ瀬さんは吉野グループへ一時的に手伝いに来ているだけ』と周知しておけ。つまらない噂で妻が不安にならないように」ここで唯に誤解を与え、おじいさんの耳にでも入れば厄介だ。それに、唯はあと1ヶ月しか妻の座にいないのだから。これは、彼女へのせめてもの償いだ。それを横で見ていた明里は、腫れた頬を押さえながら、今にも怒りで卒倒しそうだった。「一時的な手伝い」、「つまらない噂で妻が不安にならない」だと?唯が邪魔をしさえしなければ、ゆっくりと社内の評判を固められた。そうすれば、1か月後には誰もが自分を社長夫人として認めてくれたはずだった。唯は面白そうに明里の顔を見やり、心の中でせせら笑った。堂々と正妻の座に収まりたいのだろうが、望み通り身分を与えてやるつもりなどない。「雅人、本当にやさしいのね」唯は口ではそう言いつつ、軟膏を秘書に取らせるよう言うことすらしなかった。かわりに、休職届をさっと差し出した。「これ、休職の書類よ。会社は雅人と明里さんに任せるわ」雅人は、明里の悔しさにはまるで気づかない様子だった。休職届を見ると、彼は唯をじっと見つめた。心の中の申し訳なさが、また少し深くなった。
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第7話
一方その頃。唯が松尾家に戻ると、椿はマダム会の準備を全部唯に任せた。そして自分は、毎日陽太のそばにいた。あっという間に、マダム会の当日になった。椿は唯を困らせようと、奥の広間での準備を唯に押し付け、自分は明里と共にゲストたちを招き入れ、陽太を連れ回しては、得意げに周囲に紹介していた。「この子が明里の子供なんです。可愛くて賢いでしょう?」明里もまるで本物の家族のように、寄り添って嬉しそうに座っている。その光景を見たセレブ夫人たちは、微妙な表情を浮かべた。明里が「内密に結婚」して産んだという話は有名で、中には彼女こそが噂の「雅人の妻」ではないかと言う人までいた。今の椿の態度を見ると、確信を持った人たちもいたようだ。奥の広間の仕事を終えた唯はその光景を目にし、皮肉な笑みを浮かべた。今までじっくり見ていなかったが、改めて遠くから見ると、陽太と雅人は似ても似つかない顔立ちだった。血の繋がりがあるのかどうかさえ怪しいものだが、椿はよくも、これほど堂々と「実の孫」のように振る舞えるものだ。唯は歩み寄ると、淡々と言った。「そんなに子供がお好きなら、私も病院へ行ってみましょうか。雅人との子供を、がんばって授かりたいんです。雅人の血を引いていない他人の子供と違って、実の子の方が良いはずですから」誰が他人の子供だって?椿は内心、悪態をついた。こんな田舎者の孤児なんて、絶対にいらない!「何しに来たの?」椿は吐き捨てるように言った。「任せた仕事は終わったの?」「使用人に任せてありますので、ゲストたちのご案内はご安心を」と唯が答える。全く面白いね。自分には使用人のように振る舞わせ、明里にはまるで女主人のような顔をさせて。自分のことをバカにしているのでしょう。でも、絶対に彼女たちの思い通りにはさせない。何年も社内で百戦錬磨の戦いをしてきた唯にとって、たかがマダム会などお手の物だった。そのうちに、セレブ夫人たちの視線が唯に注がれた。飾り気のないロングドレスをまとっただけの姿なのに、不思議な清らかさと気品がある。誰かが好奇しげに尋ねた。「こちらの方は?」唯が口を開くより先に、明里が腕に抱きついてきた。「唯さん、この2日間は本当に助かったわ。私、雅人と一緒にプロジェクト投資で忙しくて、陽太のお世
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第8話
明里はそれを聞くや否や、表情をこわばらせて部屋の奥へ駆け出した。「陽太くん、どうしたの?」椿も慌てて後を追った。かわいい孫に何かあったのかと心配だった。部屋の中では、陽太がソファーに倒れ込んでいた。意識がはっきりしないうえに、むき出しの肌には発疹がたくさん出ていた。明里は泣きじゃくりながら陽太を抱きしめた。「陽太、どうしちゃったの?さっきまで元気だったのに、なんでこんなことに?」椿もびっくりして、おろおろと歩きまわった。でも明里は反応が早かった。テーブルの上で半分食べられたケーキに目をとめて、すぐに声を上げた。「陽太に栗のケーキをあげたのは誰?」使用人の一人が、うつむいて小さな声で答えた。「唯様が陽太様に渡していたのをお見かけしました……」その瞬間、その場にいた全員の視線が唯に集まった。明里は潤んだ瞳で唯を見つめ、信じられないというように口を開いた。「唯さん……陽太は栗のアレルギーだって、何度も念を押したよね。どうしてそんなものを食べさせたの?確かに唯さんは雅人との子供に恵まれていない。でも、だからといって私の子を逆恨みするなんて!野次馬のように駆けつけたセレブ夫人たちは、事の次第を把握し始めた。ただ、先ほど唯から少しアドバイスを受けていた彼女たちは、この世界でのいざこざには慣れているため、誰も口を開こうとはしなかった。かわりに、明里の泣き声だけが大きく響いた。唯は冷めた目で、明里親子による自作自演の罠を見下ろしていた。「栗?本当にそれが栗のケーキだと言い切るの?」明里が一瞬たじろぎ、すぐに言い返した。「当たり前じゃない?陽太の栗アレルギーを知っていながら、わざとやったんでしょ!」陽太も少しずつ意識が戻ってきた。ぐったりと明里の腕の中で、気分が悪くて小さくしゃくり上げていた。「ママ、この悪い女がわざとケーキをくれたの。食べても大丈夫だよって言ってた……」椿が怒りに顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。「唯!よくもこんなひどいことができたものね!」見物のセレブ夫人たちも、ひそひそと話しはじめた。「まさか……物静かでいい人そうに見えたのに、あんな根性悪だったなんて」「もしかして、松尾家が明里さんに優しくしているのが気に入らなかったの?嫉妬ね?」唯は静かに、それでいて鋭い口調で言い放った。「
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第9話
唯の言い方は、陽太の父親をクズだと言っているのも同然だった。明里は唯を睨みつけ、歯を食いしばった。本当は全てをぶちまけたい気持ちを、必死に腹の底へと押し込める。対する唯は冷静に言い放った。「そもそも何でアレルギーが出たのか、陽太くんが誰から栗を貰ったのか。防犯カメラを見ればすぐに分かるわ」「いい加減にして、無駄口を叩かないで!まずは陽太くんがどうなったのかを確認するの!陽太くんに何かあったら、絶対に許さないから!」椿は鬼の形相で唯を睨んだ。可愛い孫の血筋が、悪いはずがない。全てはこの疫病神のせいだと椿は思い込んでいる。マダム会は空気が凍りついたまま解散し、椿はすぐさま医師を呼び寄せた。間もなくして、雅人が戻ってきた。今日は普段より早い帰りだった。明里から陽太のことが報告されていたのだろう。階段にいた唯は、慌ただしく駆け上がる雅人を呼び止めようとした。しかし雅人は冷ややかな視線を一瞬投げただけで、そのまま明里の部屋へ向かってしまった。追いかけるように明里が上階へやってきた。手には水と薬を持って、わざと唯に見せつけるように言う。「唯さん、雅人を責めないで。陽太が心配で仕方がないだけ」唯は無関心な様子で、そのまま自室へと向かった。正直なところ、雅人に触られるのさえうんざりだったからだ。一方、明里の部屋では。雅人は陽太を見て、心を痛めていた。彼は明里の方を向いて眉を寄せた。「医者はなんて?防犯カメラの映像は?」「医者が言うには、陽太は胃腸が弱くてあのケーキで具合が悪くなったみたい……防犯カメラは、なぜか見当たらないみたいで」明里はさらに被害者を装い、ため息混じりに大人の対応を見せる。「いいの、雅人。きっと唯さんも、わざとやったわけじゃないんだから。大したことないし、もういいわ……」彼女は唇をかみ、目を赤くした。じっとこらえる姿が哀れで、雅人はいたわしくなった。雅人は明里を慰めていたが、唯との寝室に戻ったのはだいぶ夜も更けてからだった。その顔には、疲れがにじんでいた。ひとつは、陽太のことだ。もう一つの理由は、明里が、禮となら繋がれると言い張っていたのに、数日経っても連絡の一つもないからだ。雅人が部屋に入ると、唯は鏡の前でイヤリングを外し、鏡越しに彼を見ていた。「陽太くんは、
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第10話
でも唯は、なにも知らないみたいに目をぱちぱちさせて、のんびり言った。「もしかして陽太くんの、うそをつく癖って、あの父親ゆずり?ろくでもない男の子供だしね。それとも陽太くんの父親がずっと家にいなくて、一ノ瀬家のしつけがいまいちで、明里さん一人じゃ子供をちゃんと育てられないのかしら」唯の言葉は、ずけずけとして耳が痛かった。「そんなはずはない、陽太は俺の……」雅人はすぐに否定したが、唯の鋭い眼差しにたじろぎ、歯を食いしばった。「とにかく、陽太の父親は知っている。ろくでもない男じゃない」唯は雅人の言葉を遮り、冷ややかな口調で続けた。「じゃあ、私がわざと明里さんや陽太くんをいじめていると思っているの?」「そんなつもりじゃ……」雅人は焦りを感じていた。彼が言い返そうとする前に、唯は目を伏せて本音を隠し、上着を手に取って歩き出した。「私を信じられないのなら、頭を冷やしてから連絡してきて」唯が落胆した様子で背を向けると、それを見つめる雅人の胸に、ふと鈍い痛みが走った。まるで、自分の中から何かが静かに消えていくような感覚だった。そこへ、明里が入ってきた。「雅人、陽太は寝かしつけた。唯さんは一体どうしたの……」唯の先ほどの態度を思い出し、雅人は眉をひそめて尋ねた。「陽太にケーキを勧めたのは、本当に唯だったのか?」「雅人、もしかして私と陽太を信じてないの?」明里は動揺しつつ、苦笑いを浮かべた。「陽太は私たちが立派に育てているのよ。嘘なんてつくわけがない」「だけど……」雅人は困惑した表情を浮かべる。「唯さんがわざと意地悪するはずがないことくらい分かっている。きっと唯さんは、陽太があなたに懐いているのが寂しいだけ。でも陽太はあなたの子だから、親子の絆があるよ」明里は健気なふりをして付け加えた。「唯さんは今は少し気分が悪いだけよ。落ち着けば分かってくれるはず。私は怒っていないわ。陽太も私も、唯さんがこれまで松尾家に尽くしてくれたことはずっと覚えているから」明里の言葉で、雅人の不安はまた、ずいぶんうすらいだ。彼は明里を抱き寄せ、優しく言った。「明里、分かったよ。俺にとって本当に大切なのは明里と陽太だけだ。唯に関しては、少し負い目があるだけで、悲しませたくないだけなんだ……」……夜の帳が下りた。車を走らせながら、唯に後
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