Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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第1話

卒業旅行で、私たち三人はオーロラを見るためにアイスランドを訪れていた。吹きすさぶ強風に、親友の中島愛美(なかじま まなみ)のマフラーが奪われた。私の彼氏、梅田真(うめだ しん)はとっさに自分のマフラーを外すと、彼女の首元を包み込むようにしっかりと巻きつけた。それから振り返って、私に言った。「なあ、愛美のマフラー拾ってきてくれ。あいつの一番のお気に入りなんだ」凍てつく風の中を、私は懸命に追いかけた。ようやくマフラーを手にして顔を上げた時には、オーロラはすでに空から消え、ふたりの姿もどこにもなかった。届いたメッセージは、たった一言。【遅すぎ。愛美が寒がってたから、先に戻ってる】異国の道端に立ち尽くし、車を待つこと6時間。20台以上の車に手を振り、ようやく1台が止まって乗せてくれた。ホテルに帰り着いた頃には、もう深夜を回っていた。体の芯まで凍えきった私の目に映ったのは、1枚の毛布にくるまって身を寄せ合いながら、今日撮った写真を見せ合って笑うふたりの姿だった。写真のこと、オーロラのこと――弾む会話は、私が決して入り込めないものだった。真は私に気づくと、わずかに眉をひそめて言った。「遅かったな。お湯、用意しておいたから。ちゃんと温まってきなよ」コップに触れると、中のお湯はとっくに冷めきっていた。ずっと胸の奥に押し込めていた疲れが、堰を切ったようにあふれ出す。もう、いいや。帰りの便を一番早い便に変更し、予約していたホテルもキャンセルした。手の届かないオーロラなら、もう追いかけなくていい。……冷めきったお湯の入ったコップをそっと置き、マフラーをハンガーにかける。指先までひどく凍えていた。愛美が布団から顔を出して、私の手を握った。「うわ、冷たっ!」彼女は両手で私の手を包み込むと、温めるように何度もこすってくれる。それから顔を横に向けて、少し咎めるような視線を真に向けた。「ねえ真、私、綾華ちゃんを待とうって言ったのに。真ってば急かすんだもん」真は両手を挙げた。「はいはい、わがまま姫様。俺が悪うございました」そう言いながら愛美をベッドに押し戻し、丁寧に布団をかけ直してやる。「お前は体弱いんだから、寒いの分かってるだろ。他人の心配をしてる場合か」バスタオルが一枚、こちらに投げつけら
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第2話

眠れないまま、白々と夜が明けた。朝早く、愛美が弾んだ声で部屋に飛び込んできた。「ねえねえ、ミシュランに載ってるお店行こうよ!運良く、やっと予約が取れたの!」真は笑って頷く。「いいね」私はただうつむいた。今日はゴールデンサークルに行く約束だったはずだ。私だってちゃんと予定を組んでいた。なのに全部、愛美のために予定を変えてしまう。私の意見なんて、誰も聞いてはくれない。荷物をまとめ、ふたりの後をついて部屋を出た。車が来ると、真は私を助手席へと促した。「綾華、お前体調悪いんだから、前に座ってろ」真と愛美は後部座席に並び、光の角度だとか、機材だとか、写真の話で盛り上がっている。私が入り込む隙間は、どこにもなかった。運転手は私たちと同じ国の人だった。私をちらりと見て、それからバックミラー越しに後部座席をうかがう。「三人旅かい?あっちのふたりはカップルだろ、一人じゃ退屈だろうに」私は自嘲気味に笑って答えた。「そうですね。確かに退屈です」後ろから響くふたりの明るい笑い声が、私と運転手との短い会話をかき消していく。目的地に着き、厚手のコートの襟元をかき合わせて車のドアを開ける。真が先に降り、鞄からマフラーを取り出して、また愛美に巻き直してやっている。こちらをちらりと見て、「行くぞ」とだけ言った。席についた私の隣に、愛美が座る。真はその向かいに腰を下ろした。真はメニューを手に取り、店員を呼んで慣れた様子で注文していく。愛美がいたずらっぽく微笑んだ。「私の好きなやつ、ちゃんと頼んでくれた?」真は彼女の鼻先を軽くつついた。「全部お前の好物だよ。来たら分かる」運ばれてきた料理が並んで、初めて気づいた。そのほとんどが、シーフードだった。冷えで鈍く痛む下腹部を押さえながら、サービスで出されたパンを少し口に運ぶことしかできない。私は重度の魚介類アレルギーで、一口も口にできない。シーフードが好きなのは、愛美だけだ。昔の真なら、食卓にシーフードを並べるようなことは、絶対にしなかったのに。なのに今、テーブルいっぱいのシーフードの中に、私が食べられる料理は一つもない。真はエビを一尾手に取ると、丁寧に愛美の皿にのせてやる。愛美がちらりと私を見て、小声で真に耳打ちした。「
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第3話

あれこれ重なったせいか、熱が出てきた気がした。私の体調に一番早く気づいたのは、真だった。私の額に手を当て、体温計で熱を測った。「39.8度?お前ほんと、俺たちに面倒かけるよな」ため息をひとつついた。愛美が部屋に入ってきて、少し心配そうに言った。「今日の予定、キャンセルしよう?こんなに熱があるのに、綾華ちゃん一人でホテルなんて危ないよ」真は迷っている様子だったが、私は無理に笑って言った。「付き添わなくていいよ。ふたりで行ってきて」「本当に?でもこんなに熱出てるのに……」愛美がぬるま湯を一杯運んできた。「綾華ちゃん、まず解熱剤飲んで」差し出された白い薬を、素直に飲み込む。飲み終えるのを見届けると、真はスマホを手に取って確認した。「ガイドはもう来てる。今からのキャンセルは間に合わない。薬はここに置いとくから、忘れず飲めよ。すぐ戻るから」そう残し、真と愛美は出て行った。強い薬の効果か、少しの間眠ってしまったらしい。目を覚ましても、ふたりはまだ戻っていなかった。ホテルのフロントに電話して、温かいお粥を一杯頼んだ。待っている間、SNSを開いた。写真が2枚、目に飛び込んできた。真と愛美が、同じ場所で、同じポーズで撮った写真。画面をスクロールする指先が、かすかに震えた。真のアカウントを開く。【出発!まなみんには絶対負けないぞ】【ラッキーガールまなみんと一緒に、ついにオーロラゲット】【ひとりぼっちの黒砂海岸も、まなみんがいれば怖くない】――まなみん。長年付き合ってきた私すら知らなかった、特別な呼び名だった。共通の友人が、コメントを残していた。【真くん、彼女さんは?一緒じゃないんですか?】真は簡潔に返していた。【あいつ運悪く熱出しちゃってさ。ホテルで寝てるよ】お粥が届き、スマホの画面を消して置いた。スプーンで、熱々の白粥をゆっくりとかき混ぜる。思い出してしまうのは、高校卒業のあの年、私が高熱を出した日のことだ。あの時の真は、ひどく取り乱していた。不器用な自分の手で、私の好きな野菜粥を作り、食べやすい温度まで冷まして食べさせてくれた。二日間熱が続いた時は、嫌がる私を無理やり病院まで連れて行って、入院させろとまで医者に迫ったのだ。そんな大げ
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第4話

疲れ果てて、そっと目を閉じた。昔の真なら、私を絶対にひとりで残したりしなかったはずだ。意地の張り合いが一番愛情をすり減らすものなんだと、あんなに言っていたのに。けれど今回は、もう私の方から歩み寄る気にはなれなかった。彼が真っ先に思い浮かべる存在は、もう私じゃなくなっていたのだ。愛美がドアをそっと開けて、部屋に入ってきた。「綾華ちゃん、体調はどう?」私はただ無言で頷いた。彼女は私の手を取り、あっけらかんと言った。「なら、真に謝っちゃいなよ。ふたりの友達として、こんなふうに関係をこじらせてるのは見てられないよ」「……どうして」私は呆然と彼女を見つめた。もともと、彼女は私の親友だったはずなのに。いつの間にか、いつも真の側に立って、私を責めるようになっている。「綾華ちゃんって頑固すぎるよ。男の人には合わせてあげなきゃ。意地を張って、こんな大ごとにしなくてもよくない?」理解できなかった。真が理不尽に私を責めているだけなのに、どうしてそれが「意地の張り合い」にすり替えられるのだろう。「愛美、私は自分が間違ってるとは思わない」愛美は黙り込んだ。長い沈黙のあと、ため息をつき、困ったように首を振る。「綾華ちゃんがそう言うなら、私にはもう、どうしようもないよ」部屋は再び静まり返った。スマホを手に取り、一番早い便を取り直し、予約していた便をキャンセルする。そして、荷造りを始めた。スーツケースの奥底に忍ばせておいた、小さな指輪のケースに目が止まる。自嘲気味に笑って、それをそっと元の場所に戻した。荷物を引いて部屋を出た時、ふたりはまだ戻っていなかった。マフラーだけが、ドアのそばのハンガーにぽつんと掛かっている。このマフラーも、別にそこまで大事じゃなかったんだ。胸の奥が冷えていくのを感じた。空港へ向かう途中、愛美からメッセージが届いた。【綾華ちゃん、私が真の気を紛らわせておくから、ホテルでゆっくり休んでてね】返信はせず、真のアイコンをタップした。【真、私たちが何のためにアイスランドに来たか、覚えてる?】【変なこと考えるなよ。俺は今、愛美とダイヤモンドビーチを撮りに行くところだから】彼の性格は、嫌というほど分かっている。「変なこと考えるなよ」というのは、ただ「その話
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第5話

実家の玄関を入ると、母、宇佐美百合子(うさみ ゆりこ)が用意してくれた柔らかいベッドにそのまま倒れ込んだ。両親が心配そうな顔で部屋までついてきて、私をじっと見つめる。「綾華、真くんと二週間もアイスランド旅行に行くはずだったんじゃないの?まだ数日しか経ってないのに、どうしてひとりで帰ってきたのよ」私は枕に顔をうずめたまま、溜まりに溜まった疲れと安堵がどっと押し寄せて、何も言葉が出なかった。父の宇佐美淳(うさみ きよし)が少し焦った声で言う。「お前、あの真ってやつに、何かひどいことされたんじゃないだろうな。待ってろ、父さんが今すぐ行って一発ぶん殴ってきてやる!」思わず吹き出してしまった。ずっと胸の奥につかえていた冷たい重荷が下りて、ようやく心から笑えた気がした。「父さん、落ち着いてってば」寝返りを打って、天井を見上げる。そこには、子どもの頃に真と一緒に買った星形の蓄光シールがまだ残っていた。電気を消すと緑色に光る、あのシールだ。昼間の光の中では、ただの色あせた紙切れで、端っこが情けなくめくれ上がっている。「彼とはね、もう別れたよ」部屋が、二秒ほど静まり返った。父は拳を強く握りしめ、それから開いて――結局、絞り出した言葉はひとつだけだった。「……別れたなら、それでいい!あんな男、うちの自慢の娘には最初から釣り合ってなかったんだ」母がベッドの端に腰かけ、私の冷えた手を優しく包み込んでくれる。ずっと氷のように凍てついていた心が、指先からじんわりと溶けていくようだった。「母さん、西京市の内定も全部辞退してきたよ」「辞退したなら、それでいいわ」母はどうでもよさそうに笑って手を振った。「叔母さんも前に、よかったら自分の会社に来てみないかって言ってたじゃない。家にいたいなら、ずっとここにいたっていいんだからね」父が横で何度も力強く頷く。「そうだとも、家が一番だ!父さんがお前の好物をたくさん作ってやるからな。見ろ、旅行に行って一回り細くなったじゃないか」ふたりの不器用な優しさに触れて、不意に鼻の奥がつんとした。「……母さん」「ん?どうしたの」「野菜粥が、食べたいな」母が目を細めて笑う。「いいわよ、父さんに作らせましょう。最近ネットの動画を見て練習してるから、私よりよっぽど
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第6話

アイスランドの残りの日程で予約していたホテルを、私はすべてキャンセルした。そこまで都合のいいお人よしでいてやる義理はない。この先の彼らの旅程なんて、自分たちで勝手にどうにかしてもらえばいい。大学に入学したばかりの頃、愛美はおどおどとした不安げな目で私を見ていた。彼女の母親が隣に立ち、私の手をすがりつくように握って言ったものだ。「うちの愛美は昔から体が弱くて……どうか、仲良くしてやってね」それ以来ずっと、私は彼女を守って世話をするのを自分の役目だと思い込んでいた。真にも、彼女を少し気にかけてやってほしいと頼んだのは私だ。まさか「気にかけて」いるうちに、彼の心ごと全部持っていかれることになるとは、夢にも思わなかったけれど。スマホに、ホテル予約サイトからの返金通知が何件も届いた。戻ってきた金額の大きさを見て――こんなことなら、最初からあんな高級ホテルを予約しなければよかったと、少し後悔した。私は返金されたお金の中から、5万円を母の口座へと送金した。備考欄には「食費」と打ち込む。リビングにいた母が、驚いた声を上げた。「ちょっと綾華、なんでお金なんて振り込んでくるのよ!」私は部屋のドア越しに言い返した。「親孝行だよ!」母が何かぶつぶつ言っていたけれど、よく聞き取れなかった。たぶん「まったくこの子は……」とか、そんなところだろう。その時、スマホが振動した。画面には、見知らぬ国際電話の番号。通話ボタンを押す。「……綾華」真だった。1万キロ以上の距離と9時間の時差を越えて届く彼の声は、電波のせいで少し歪んで聞こえた。それでも、その口調だけは痛いほどよく分かる。苛立ちを押し殺しながら、また私が理不尽な面倒を起こしたのかと呆れている――昔から変わらない、あの口調だ。「ホテル、一体どういうことだよ?俺と愛美が戻ったら、フロントで残りの予約が全部キャンセルされてるって言われたんだけど。お前、何のつもりだ?」「私がキャンセルしたの。それが何か問題でも?」電話の向こうで、彼の息がピタリと止まった。私がこんなにもあっさり認めるなんて、予想外だったのだろう。以前の私なら、彼と少しでも揉めるたび、まず「わざとじゃないって」と弁解して、彼の機嫌が直るのをひたすら待っていたからだ。でも今回
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第7話

実家で1週間、甘え放題タイムを満喫した。期間限定の「甘え放題タイム」も、そろそろ期限切れらしい。両親が私を見る目に、少しずつ棘が混じり始めていた。「見てみなさいよ。食べた後のお茶碗も洗わないし、布団も畳まないで、ソファに寝そべってばっかり」父は掃除機をかけながらぶつぶつと私を責める。掃除機の先が足元をかすめ、慌てて足を跳ね上げた。母は横で火に油を注ぐ。「私、昨日言ったでしょ。この子を甘やかしちゃダメだって。ほら見なさい、たった1週間で本性丸出しじゃない」私はクッションを抱きしめて、堂々と反論した。「私を穀潰しにしたのはふたりでしょ。お母さん自分で言ったよね、痩せた分の肉は全部戻してあげるって」父が横でへへっと笑った。掃除機を二、三往復させてから、また我慢できずに言う。「なあ、今日ちょっと出かけてきたらどうだ?ずっと家に閉じこもってるのもよくないぞ」私は目を細めて父を見た。「父さん、それって私を心配してるの?それともテレビを見る邪魔だから?」父はちらりとテレビを見て、それから私を見た。何も言わなかったけれど、答えは顔に書いてあった。午後、母にゴミ出しを言いつけられて外に出た。パジャマにサンダル、髪は適当にクリップで留めただけ。両手に生ごみの袋をぶら下げて、エントランス前に斜めに停められた電動バイクをよけようとした、そのとき。彼を見つけた。真が、うちのマンションの下にある古いエンジュの木の下に立っていた。ポケットに手を突っ込んで、うつむいてスマホを見ている。空港から直接来たのか、隣にはスーツケースが一つ。着ている服は、アイスランドで着ていたあのマウンテンパーカーのままだった。少しやつれた様子で、顔を上げた瞬間、目が合った。「綾華」先に口を開いたのは彼だった。声が少しかすれている。私はその場から動かず、右手のゴミ袋を左手に持ち替えた。ゴミ箱は彼の2メートルほど後ろにある。ゴミを捨てるには彼の横を通らなければならず、それが少し気に食わなかった。「帰ってきたんだ」私は言った。真は、私のこの淡々とした態度に戸惑っているようだった。昔の私なら、彼を見かけた瞬間、すぐに駆け寄って後をついて回っていた。彼の機嫌がよかろうと落ち込んでいようと構わず、ぺちゃくちゃと話しかけ続けていたは
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第8話

もう振り返らずに、家へと歩いた。ドアを開けると、両親がベランダの窓に張りついて、必死に下を見ていた。父は口の中で何やらぶつくさ文句を言っている。「あの野郎、まだ来る度胸があるのか!うちのマンションの下で20分も突っ立って、ドラマの主人公気取りか!言っとくが、父さんが若い頃お母さんを口説いた時だって、こんな情けない真似はしなかったぞ!」母がすかさず割り込む。「あなたが私を口説いた時、初日で追い返されたくせに。その後、工場の前で待ち伏せしてきたから、私、塀乗り越えて逃げたのよ」「娘の前でそんな話をすんな!」「先に言い出したのはあなたでしょ」スリッパに履き替え、リビングの真ん中まで歩き、咳払いをひとつした。「叔母さんのところで、半年間インターンすることにした」「深川市へ?」「うん」「半年?」「うん」「勉強しに行くの」私は鍵を靴箱の上に置いて、テープでぐるぐる巻きにされた宅配便の荷物も、ついでに端へ寄せた。「叔母さん、インテリアデザインの仕事してるでしょ。専攻とも合ってるし。家で一週間寝てばっかりだったし、そろそろ真面目に動かないと」母は何も言わなかった。しばらくスマホをいじっていた。ピロン。口座に100万円が振り込まれたという通知。「お母さん!インターンに行くだけなのに、なんでこんな大金くれるの?」「インターンついでに、気晴らししてきなさい!焦って帰ってこなくていいから」「向こうは物価高いんだから、けちけちしないで、食べたいもの食べて、飲みたいもの飲みなさい」母の声が、冷蔵庫の開閉音に混じって台所から聞こえてくる。「うん、ありがとう」そう答えながら、部屋に戻って荷造りを始めた。スマホが不意に鳴った。地元の番号。特に気にせず出た。「もしもし?」電話の向こうからは、何も聞こえない。ただ、かすかな息づかいだけが聞こえる。ため息をついた。「愛美?」電話の向こうが、一瞬静まった。「綾華ちゃん……」愛美の声には、涙の気配が混じっていた。「何か用?」私は本当に、4年間、彼女を友達として大切にしてきた。何かにつけて気にかけてきた。こんな状況になった今、彼女に何を言えばいいのか、本当に分からなかった。「綾華ちゃん、ごめんね」愛美が唐突に
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第9話

半年後、私の後ろには、いつもくっついてくる男がひとり増えていた。「綾華さん、俺どこに泊まればいいっすか。荷物持つよ」私は少し呆れながら、前を歩いていた。森野悠斗(もりの ゆうと)は、深川市で知り合った男だ。私たちは同じ年に大学を出たばかりで、しかも実家が同じ街だったこともあって、すぐに親しくなった。彼は私より数か月年下で、毎日私の後をついて回っていた。悠斗は私の後ろで、ぺちゃくちゃとしゃべりながらマンションの敷地に入ったところで止まった。「綾華さん、この辺、木、多いっすね」「綾華さん、あのエンジュの木、樹齢何年くらいなんすか?」「綾華さ――」私は足を止めた。真が、マンションの下にあるあの古いエンジュの木の下に立っていた。少し痩せて、顎には髭剃りでつけたらしい小さな傷があった。私を見つけると一歩前に出て、また止まった。それから、私の後ろにいる悠斗に気づいた。悠斗は片手でスーツケースを引き、背中には私のピンクのリュックを背負っていた。彼の全身黒ずくめの格好とはまるで似合っていない。彼は顔を半分だけ出して、真を見て、それから私を見た。「知り合い?」「昔の」私は言った。真が口を開きかけて、結局何も言わなかった。悠斗は目をぱちくりさせると、スーツケースを壁に立てかけ、ポケットからイヤホンを出して装着し、廊下の入口にしゃがみ込んでスマホをいじり始めた。少しいじってからまた立ち上がり、背負っていたピンクのリュックを下ろして、スーツケースの上に置いた。「綾華さん、俺、先に行ってますね?」「待って、一緒に上がってご飯食べよう。母が、悠斗くんにご馳走するって言ってたから」真は悠斗を見て、それから私を見た。「お前、昔もこうだったな」彼が口を開いた。「何が」「昔もこうやってぺちゃくちゃしゃべってた。俺が実験室に行く時、隣でずっと喋り続けてたよな。『今日の学食のおかずしょっぱすぎた』『ゼミの先生、髪型変えてた』『道でノラ猫見た』――何でも話してた」彼は言葉を切った。「あの時はうるさいと思ってた。でも後で実験室に誰もしゃべる人がいなくなって、初めて気づいたんだ。あれはうるさいんじゃなくて、賑やかだったんだって」上の階から父の料理の匂いが漂ってきた。肉じゃがの匂いだ。「綾華
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第10話

悠斗は、2年近く私にアプローチし続けた。深川市で出会ってから私が実家に戻っても、インターンから正社員になっても。母は、彼の方が真より頼りになると褒めた。父は何も言わなかった。でも悠斗が家に食事に来るたび、父はいつも料理を多く作った。ある日、悠斗が残業で、私ひとりで実家に帰ったことがあった。父は食卓に並んだ箸を見て、ふと手を止めた。悠斗の分まで用意してしまったことに気づいたのだ。数秒黙り込んだあと、その一膳をそっと引っ込めた。それ以来、父が箸を余分に並べることはなくなった。でも悠斗が来る日は、決まって彼の好物を一品多く作ってくれた。一度、私が熱を出して仕事を休んだことがあった。悠斗が何度も電話をかけてきて、出なかったら、直接会いに来た。母がドアを開けると、彼は薬の袋と熱さましシートの箱を提げて、玄関先で少し息を切らしていた。うちのマンションにはエレベーターがなく、部屋は4階だ。たぶん、走って上がってきたのだろう。彼は薬をテーブルに置くと、私の額に熱さましシートを貼ってくれた。斜めにずれて、半分ほど眉毛にかぶさっていた。私は熱でぼんやりしながら言った。「もっとちゃんと貼ってよ」彼は「ごめん、緊張して手が震えて」と言った。そしてもう一枚貼り直したけど、やっぱり斜めだった。私はベッドで2日間寝込んだ。悠斗は3回来てくれた。1回目は薬を届けに。2回目は、父が作った野菜粥を運んできてくれた。父が作って、彼が運ぶ係だった。彼が運んできた時、粥の表面はまだ湯気を立てていた。一口食べて、気づいた。父の味じゃない。父の粥は程よく粒の形が残っている。でもこの1杯は米が溶けきっていて、野菜も細かく刻んであった。「これ、誰が作ったの」と聞くと、彼は「俺が作った。おじさんが横で指導してくれて」と言った。「どれくらい時間かかったの」「そんなにかからなかった。4回焦がしただけ」そうして、ある冬、私は彼と付き合うことになった。特別なことは何もなかった。ただ、彼がわざわざマフラーを1本、用意してきてくれただけだった。悠斗は私を連れて、ムルマンスクへオーロラを見に行った。私たちは3晩、そこで待ち続けた。オーロラ予報でその夜の確率が高いと出て、彼はレンタルした厚手の防寒コートにくるまって
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