Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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第1話

深夜、杉山圭介(すぎやま けいすけ)は強い酒の匂いをさせて帰宅した。私・杉山菫(すぎやま すみれ)はいつものように、二日酔いに効く薬とお湯をそっと差し出した。「あっちへやってくれ。匂いが鼻についてかなわない」「……姫花さんとは、まだ仲直りできていないの?」私を射抜く彼の瞳に、冷たく剣呑な光が宿った。「言っておくが、これが最後だ。お前は自分のことだけ気にしていろ。俺の問題に首を突っ込むな」そこへ、息子の杉山日立(すぎやま ひたち)がドアを開けて出てきた。その幼い顔には、あからさまにうんざりした表情が浮かんでいる。「ママ、少し静かにしてよ。うるさくて眠れないんだよ」そっくりな親子の姿に、私は思わず乾いた笑いがこぼれた。自室へ戻り、数日前にすでに署名を済ませていた離婚届を静かに手に取る。「――だったら、離婚しましょう」圭介はまだこめかみに手を当てたまま、こちらを見やった。その目には、どこか見下すような色が浮かんでいた。「お前さ、自分が何を言ってるんだ、わかってるのか?」「ええ、わかってるわ」それが単なる癇癪ではないと、私の静かな態度から察したのだろう。圭介はわずかに姿勢を正すと、まるで施しでもくれてやるかのように、言葉を継いだ。「安藤姫花(あんどう ひめか)は正式な採用面接を受けて入社したんだ。俺たちの間には、お前が疑うようなやましいことなど何もない。今日だって、ただの歓迎会だった」「そう」「それでも、離婚するというのか」「するわ」呆れ果てたように、圭介は鼻で笑い、しばらく言葉が出てこないようだった。そこへ日立が小走りで駆け寄り、父親の足にすがりついた。その幼い顔には、はっきりと笑みが浮かんでいる。「パパ、ママと離婚するの?じゃあ僕には、新しいママができるってこと?」圭介は沈黙したままだ。それでも日立は、気に留める風でもなく言葉を続けた。「パパは誰が好きなの?僕はね、田中先生か鈴木秘書が新しいママになってくれたら嬉しいな。姫花さんでもいいよ」私は自嘲気味に口の端をゆがめた。どうやら圭介の「新しい妻の候補」は、私が思っていたよりもずっと多いらしい。まさか、姫花だけではなかったなんて。あれほど一途な人だと思っていたのに。「小林社長には話したのか」彼の言う「小林社長」とは
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第2話

その後、圭介は何日も家に帰ってこなかった。会社に寝泊まりしているのか、それとも別の女の部屋にでもいるのか。けれど、もうどうでもよかった。彼への期待など、とうの昔に尽き果てていた。日立も圭介の手によって杉山家の本家に預けられ、祖母の杉山静江(すぎやま しずえ)が世話をしているという。まるで、私がこの隙に子供を連れ去りでもするのではないかと警戒しているかのように。だが、私に少しも懐いていない子を、無理に連れて行こうなどと思うはずもない。たとえあの子が、私が腹を痛めて産んだ実の子だとしても。圭介は弁護士を寄越し、財産分与の話を進めさせた。「何もいらない」と突っぱねたが、彼は「その程度の金で困りはしない」の一点張りで、結局折れたのは私のほうだった。車、宝飾品、2軒の屋敷。弁護士が帰ったあと、すべて売却の手続きを済ませた。通帳に並んだ長い桁の数字は、見ていると安心させてくれると同時に、ひどく冷たかった。すべての手続きを終え、父にラインを送り、離婚した旨だけを手短に伝えた。送信を終えると、父の連絡先をブロックし、削除する。もちろん、圭介の分も。海園市行きの航空券を取った。どうしてもこの目で、海というものを見たかったのだ。我ながら滑稽な話だと思う。これほど裕福な家に育ちながら、これまで一度も海を見たことがなかった。父が私を都合のいい駒として扱うと決めた瞬間から、私に自由などというものは存在しなかった。与えられた役目はただ一つ。「圭介に選ばれるにふさわしい妻」になるため、来る日も来る日も努力を重ねること。それはまるで、彼を中心に回る息苦しい小さな王国だった。彼がすべてを決め、私はその寵愛を求める女の一人。もっとも彼の目には、どんな手を使ってでも「特別な女」の座に居座ろうとする、性悪な女にでも映っていたのかもしれない。……海園市に着いた。空港を出た瞬間から、湿り気を帯びた空気を肌に感じた。さすが海沿いの街だ、と思う。呼吸するたび、潮の匂いが鼻の奥にまとわりつく。北戸市より気温が低く、海風が吹くたびに腕に鳥肌が立った。慌てて店に飛び込み、ストールを一枚買ってから、予約していたホテルへ向かった。一息ついてから、街をあてもなく歩くことにした。日が暮れると、通りはかえってにぎわいを増した。あちこちに露店が並び、焼
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第3話

電話の向こうは騒がしかった。音楽とざわめきが入り混じっている。バーにでもいるのだろう。「マジかよ。口では離婚だ何だ言っといて、そんな細かいことまで覚えてんのか?まだ未練あるんじゃねえの、圭介さん、どうよ?」「……彼女の勝手だろ」そのまま電話は一方的に切れた。私はもう、眠れなくなってしまった。14歳のときから、私は圭介の「妻候補」だった。一般教養だけでなく、彼の好み、趣味、些細な癖まで頭に叩き込まれる日々。両家が顔合わせの場を設けたとき、私は17歳で、彼は20歳だった。バスケットボールとゴルフとレースが好きで、甘いものが好き。少し潔癖なところがあり、眠るときは右側を向く癖があることまで、私は知っていた。そして、彼には想い人がいたことも――姫花という名の女の子だった。恋に目覚める年頃から、ふたりが密かに想い合っているという噂は学校中に知れ渡っていた。それなのに、最終的に彼と結婚したのは私だった。誰もが納得していなかった。陰で私を悪く言う声も、嫌というほど耳に入ってきた。けれど、本当のところが何なのか、私自身にもわからない。陰で噂していた人たちも、直接私に問い詰めてくることはなかった。だから弁解しようにも聞いてくれる人はいなかったし、そもそもそんなことに意味などなかったのだ。再び電話が鳴った。画面に表示された名前を見る。母の小林奈美子(こばやし なみこ)からだった。少しためらってから、通話に出る。ところが、聞こえてきたのは父の声だった。「お前、ずいぶん図太くなったよな。家族に相談もせず、勝手に圭介くんと離婚を決めるなんてさ。今うちで進めてる新規案件で、杉山家との提携がどれだけ大事か、わかってるのか……?」「日立は、まだ向こうの本家にいるでしょう」「お前自身のことを聞いてんだよ!今どこにいるのか?お前と圭介くんが離婚したなんて広まったら、うちがどう思われるか!せっかくまとまった話まで、また白紙になるんじゃないかと……」仕事、仕事、取引、取引。あの人の頭には、そんなことしかないらしい。提携のため、杉山家に取り入るためなら、実の娘を差し出すことさえ厭わないのだ。私は一度目を閉じ、深く呼吸を整えた。「だから、日立はまだ杉山の家にいるわ。杉山家との縁が切れることはない。お互い、世間体ってものがあるでしょう。
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第4話

女の子は、しばらく私を懸命に励ましてくれた。よほどピアノが好きなのだろう。私の手の怪我を、まるで自分のことのように、とんでもない一大事として受け止めている。最後の方には、今にも泣き出しそうになっていた。「大丈夫だよ、もう終わったことだから。すぐに新しい『好きなこと』、見つけるから」「本当に?」「もちろん」彼女はまだ信じきれなかったのか、父親に頼んで私とラインを交換してもらった。自分が練習している動画を、いつも送ってくれるという。「お姉ちゃんも、新しい好きなこと見つけたら、写真か動画、送ってね」私は彼女と約束した。北戸市へ帰る前日、私は海を見に行った。映像で見たのと同じように、それは広く、深かった。けれど、これまで見てきたどんな映像よりも、目の前の海はずっと胸を打つものだった。波が次から次へと押し寄せ、岸を力強く叩いては、白いしぶきを高く上げる。飛沫のいくつかは私の頬を濡らし、いくつかは口の中に飛び込んできた。舐めてみると、本当にしょっぱかった。海風がそっと吹き抜けていく。心地よい冷たさと塩の匂いを連れて。遠く、夕陽が沈みかけていた。もうすぐ水平線の向こうへ完全に消えてしまいそうだった。薄暗くなりゆく光の中、砂浜で子供たちがはしゃぎまわり、恋人たちが静かに口づけを交わしていた。外の世界は、こんなにも美しいのだと、私は改めて思い知った。……北戸市に戻り、母の様子を見に実家へ足を踏み入れると、リビングのソファには何人もの人間が座っていた。両親のほかに、静江、そして圭介と日立の姿がある。全員の視線が、いっせいに私へ突き刺さった。スーツケースを引いたまま、入るべきか、踵を返すべきか迷った。ケースの中には母のために買った薬も入っている。「何をぼんやり突っ立ってんだ。家の前まで来ておいて、入る気もないのか?本当に縁を切るつもりなのかよ」父の刺々しい声。そういう考えがまったくなかったわけではない。帰る道すがら、実際にスマホで調べたくらいだ。けれど、現実は残酷だった。親子の縁は、嫌になったからといって切れるものではない。私がどれほど拒んでも、この人たちが家族であるという事実は消せなかった。スーツケースを提げて中に入ると、使用人の田村が慌てて出迎え、荷物を奥の部屋へ運んでくれた。腰を下ろすと
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第5話

日立の負けず嫌いな性格は、相変わらずだった。杉山家の本家で、まるで圭介の生き写しのように育て上げられているのだ。何でも一番でなければ気が済まず、自分の主張が絶対に正しいと信じて疑わない。幼稚園の頃から、私はずっとあの子の後始末に追われてきた。あの子ももう小学生だが、今はまだ夏休み中だ。学校が始まれば、世の中が自分の思い通りにはならないことに、そのうち嫌でも気づかされるだろう。圭介が歩み寄り、日立の腕を引いた。何か言いかけたように唇を動かしたが、結局言葉にはならなかった。私はバッグから携帯用のウェットティッシュを取り出し、靴跡を静かに拭き取った。使い終えたティッシュをゴミ箱へ捨てた。腹を痛めて産んだ子にああ言われて、心が波立たなかったと言えば嘘になる。ふと、海園市で会ったあの女の子を思い出した。日立とそう歳も変わらないはずなのに、まるで違う。もしかすると、日立が愛され、望まれて生まれてきた子ではないことも、どこかで影響しているのかもしれない。圭介は私を「手段が汚い」「罠にかけた」と罵った。実際、私もそう思う。普通の親は、実の娘に薬を盛って他人のベッドへ送り込み、子供を作らせたりはしない。でも、私の父にはそれができた。日立は、そうして生まれた子だ。身ごもってからしばらく、私はうつ状態に陥り、堕ろすことすら考えた。けれど家の周りはボディガードだらけで、玄関から一歩も出られなかった。初めてお腹の中の小さな鼓動を感じたとき、不思議な感情が湧いた。少しずつ「母親」であることを受け入れ、最後には産む決心をしたのだ。「……帰るわ」私は自分名義の小さなマンションに戻った。結婚前に買った、誰にも知られていない隠れ家だ。一眠りしたあと、ネットのレシピを見ながら自分のために料理を二品作った。味は悪くない。こういう料理を、圭介と日立が口にすることは決してない。初めて作ったとき、ふたりは露骨に嫌そうな顔をし、家政婦が目の前でそれをゴミ箱に捨てるのも見た。それ以来、ふたりのために料理を作るのはやめた。少し前、日立がエッグタルトを作ってとせがんだときも断った。私が作れば、あの子の想像するプロの味とは違う。どうせ「料理教室にでも通えば」と文句を言われるに決まっている。一体どこでそんな言葉を覚えてくるのだろう。
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第6話

通話が切れると、すぐ同じ番号から写真が送られてきた。圭介が目を閉じて姫花の膝に頭を預け、姫花がやさしく見下ろしている。色味でも整えれば、恋愛ドラマのポスターになりそうな一枚だ。【まあ、知らないの?私たち、もう離婚してるわよ?】そう打ち込んで送信した。こんなもの、わざわざ見せびらかさなくていい。本当にどうでもいいのに。送り終えると、SIMカードを抜いてゴミ箱へ捨てた。これでもう、不快な人間から電話がかかってくることもない。翌日、新しいSIMカードを挿した。動画を見ていると、東雲市という街は花が安く、種類も豊富で、鮮度もいいという話題を見かけた。思い立ち、東雲市行きのチケットを買った。夏だというのに気温はさほど高くなく、心地よい風が吹き抜けていた。まっすぐ花市場へ向かうと、動画の通り、鮮やかな花の海に迷い込んだような光景が広がっていた。カモミール、スミレ、カスミソウ、アジサイ、バラ……名前も知らない花々が、鮮やかに咲き誇っていた。いくつか買い集めて花束にし、ホテルへ持ち帰った。大きなガラス瓶に生けて眺めていると、胸の澱みが少しだけ晴れていく気がした。東雲市は食も豊かで、見慣れない郷土料理にいくつも出会い、どれも思いのほか美味しかった。この心がほぐれる空気の中、久しく触れていなかった絵筆を、再び手に取ってみた。ピアノはもう満足に弾けない手だが、絵なら描ける。不幸中の幸いというやつだろう。長くアカウントを放置していたのに、DMには依頼がいくつも溜まっていた。一つ選んで描き上げ、送った。【うわあああああ最高です!先生、いつ戻ってきたんですか!?もう諦めかけてました!】すぐにペイペイの送金通知が届く。端数を上乗せして、切りのいい金額にしてくれていた。【あなたが一枚目です】【光栄です!また依頼受付を再開したってことですよね!?SNSで宣伝させてください!】【どうぞ。私も、気が向いたときに描くつもりです。ありがとうございました】興奮を伝えるスタンプの連打。きっと可愛らしい女の子なのだろう。ログアウトして眠ろうとしたとき、時計は深夜2時を回っていた。何かに没頭していると、時間はあっという間だ。でもそれはとても充実していて、幸せなことだった。杉山家にいた頃とは違う。あの頃はただ子供の顔を見る
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第7話

私もようやく顔を上げた。ああ、圭介か。この場でそんなふうにグラスを叩きつけられる人間など、他にいるはずがない。「斎藤社長は、どこでそんなデタラメを聞いたんです?僕は初耳ですが」姫花は彼の背後で立ち尽くし、顔からさっと血の気が引いていた。その姿には少し同情すら覚える。今に至るまで、圭介は彼女に「妻」の座を与えていない。この数年、それだけの価値があったのか私にはわからない。斎藤は慌ててグラスを置くと、いきなり自分の頬を平手で張り飛ばした。乾いた音が響いた。「す、杉山社長、お願いですから怒らないでください!誰から聞いた話だったかも、もう覚えてないんです。本当に、ただの噂だったんだと思います!今度またそんなことを言う人がいたら、僕が絶対に否定しますから!」「そりゃご丁寧に。どうも」その場は収まったが、周りの姫花への態度は打って変わって冷ややかになっていた。この場にいる人間は皆、目端が利く。圭介にとって、この初恋の相手はそれほど重要な存在ではないのだろう。ふと、日立が口にしていた「田中先生」と「鈴木秘書」を思い出した。おそらく、最近の本当のお気に入りはそのふたりなのだろう。食事を終え、美咲に声をかけて帰る支度をした。「もう帰るの?この後カラオケもあるのに」「いいの、皆で楽しんで。私は美味しい食事だけで十分だから」美咲の顔に申し訳なさが浮かんだ。「ちゃんとお腹いっぱいになった?」頷いた。十分お腹は満たされた。この場でまともに食事に集中していたのは、私くらいのものだろう。個室のドアを開けて出たとき、圭介が私の名を呼んだ気がしたが、聞こえないふりをして廊下を進んだ。けれど思いがけず、彼もすぐに後を追ってきた。姫花を残したまま。タクシーを呼ぼうと道端に立っていると、圭介が歩み寄り、腕を強くつかんだ。「お前がここまで演技が上手いとは、今まで気づかなかった」私は力任せに腕を振りほどき、心底呆れた目で彼を見据えた。「……私が何を演じたっていうの」「興味がないふりだよ。10代の頃からずっと俺の癖まで把握して、成人になった途端、自分から誘惑してきて。陰で俺をつけ回して、勝手に想いを募らせて、結婚後は汚い手を使ってまで俺の子供を身ごもって。それが今さら、俺と姫花のことなんて興味ないみたいな顔してさ。内心、
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第8話

そうか、そろそろ運動会の時期か。それで私を思い出したらしい。これまでは、こうした行事には必ず私が付き添っていた。私自身、負けず嫌いで、勝負事では何でも一番を取りたかった。だから必死になった。これで日立は、いつも一等賞を取っていた。私は日立の小さな手をゆっくり振りほどき、これまで見せたことのない、見知らぬ子を見るような目で彼を見つめた。「私はもう、あなたのママなんかじゃない。運動会でも、イベントでも、付き添ってくれる人ならいくらでもいるでしょう。少なくとも、私が行くことはもう二度とないわ」意味が伝わったのだろう。日立はその場にへたり込み、わっと泣き出した。私がなだめようともしないので、泣き声はますます激しくなる。以前なら胸が痛んだはずなのに、今はただ煩わしいだけだった。近所迷惑にならないか、それだけが気がかりだった。「わんわん泣くのはやめて、早く帰りなさい。私、まだご飯を作らなきゃいけないの」「……そこまで冷たく突き放す必要があるのか。日立はまだ子供だぞ。本当にもう、自分の子供じゃないと言い張るつもりか」「あなたこそ、いつまでしつこくつきまとう気?もう関係ないと言ったはずよ。あの子自身が、田中先生や鈴木秘書、姫花さんに、ママになってほしいって言っていたじゃない。あの子が好きな人を新しい母親にして、結婚すればいいでしょう」それを聞き、日立はさらに激しく泣きじゃくった。また足にすがりつこうとしたので、すぐに一歩後ろへ下がった。「いやだ、やだよぉ!他の人がママになるのはいやだ!姫花さんもいやだ!悪い人だもん。僕のこと、つねったりする……」嘘だと思われたと焦ったのか、日立は服をめくり上げ、さらに袖もまくって見せた。確かに細い腕には青あざがいくつか残っていた。強い力でつねられたような跡だ。なるほど。姫花は表向きは子供好きを装っていても、内心では彼を疎ましく思っていたらしい。「怪我をしたなら、パパに言って病院へ連れて行ってもらいなさい。私に見せても仕方ないでしょう」そう冷たく言い放ち、マンションの管理室に電話をかけた。ほどなくして、屈強な警備員が三人駆けつけた。圭介の顔色が変わった。失望と怒りの入り混じった目で私を睨みつけると、警備員に声をかけられる前に、無言で日立の腕を引いて去っていった。去り際、日立は何度も振り返
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第9話

その後の数日間、私はイラストの依頼を立て続けに受けた。ただひたすら絵を描くことに没頭した。以前は時間も気力もなくてできなかったことに、今は丸一日費やすことができる。仕上がりに依頼主は皆満足してくれ、報酬にも色をつけてくれた。1日休んだあと、再び海園市へ向かった。心春に、家に遊びに来ないかと誘われたのだ。青木心春(あおき こはる)――あの海園市のバーで出会った、ピアノを弾いていた無邪気な女の子だ。北戸市に戻ってからというもの、彼女はほぼ毎日、ピアノの練習動画を送ってきては、間違っているところはないか聞いてきた。私は間違っているところは直してあげ、うまく弾けているときは惜しみなく褒めた。依頼を受けるようになってからは、描いた絵をいくつか彼女にも送ってあげていた。今回の訪問でも、彼女のために描いた絵を、手土産として持参した。家の前に着くと、心春が自分でドアを開けて出迎えてくれた。私を見るなり歓声を上げ、飛びついてきた。ご両親も私を温かく歓迎してくれた。手土産の絵を渡すと、心春は大喜びで家中を駆け回った。「すごい、綺麗!これ私?ピアノ弾いてるところを描いてくれたの?」「そうよ、心春の絵よ」海園市にはさらに数日滞在した。いよいよ帰る日、私は心春を北戸市へ遊びに来ないかと誘ってみた。けれど両親は仕事が忙しく、すぐには休みが取れないという。がっかりと肩を落とす心春を見ていると、私もたまらなくなった。「じゃあ、私がお預かりして、帰りも私がお送りするというのはどうでしょう?」「本当に!?パパ、ママ、私行きたい!」そういうわけで、心春は私と一緒に北戸市へやってくることになった。まずは二人で楽しく食事に行き、マンションへ帰ると、ドアの前に日立がぽつんとしゃがみ込んでいた。周りには誰もいない。どうやら本家からこっそり一人で抜け出してきたようだった。私を見た途端、ぱっと立ち上がった。小さな手には不釣り合いな、一輪の赤いバラを持っていた。日立の顔には最初、安堵と喜びが浮かんでいたが、私が手を引いている心春を見た瞬間、一変して険しく歪んだ。責めるような口調で聞いてきた。「その子、誰?」私はわざと意地悪く微笑んだ。「心春は私の娘よ。私は今、この子のママなの」わざと苛立たせるつもりで放った言葉だったが
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第10話

そう言いながら、心春は自分の小さなバッグからピンク色のスプレー瓶を取り出し、私の手の甲に何度か吹きかけてくれた。さっきまでひどく痒かった発疹が、すっと落ち着いていく。ひんやりとして、心地よかった。「前にうちに来たとき、バラに触れてかぶれて赤くなってたでしょ?だからママがこれ買ってきて、お姉ちゃんに渡してって。すごくよく効くんだよ」私は彼女の頭をそっと撫で、小さく微笑んだ。心春はまだ幼い。人間という生き物は、関心のないもののことなど、気に留めようともしない――そんな残酷な真実を、まだ理解できる年齢ではないのだ。圭介も日立も同じだった。二人とも、私がバラにアレルギーがあることすら知らなかった。何かの記念日があるたびに、圭介はいつも決まってバラを贈ってきた。本人は姿を見せなくても、バラだけはきちんと届く。配達員だけは、いつも時間どおりで約束を違えなかった。その後の数日間、私は心春を連れて北戸市の博物館を回ったり、遊園地に行ったりした。彼女が「絵を描きたい」と言うので、絵画教室にも連れて行き、うさぎと虎の絵に一緒に色を塗った。彼女のご両親の干支なのだそうだ。ビュッフェにも一緒に行った。以前、杉山家にいた頃、圭介たちにそう提案したことがあったが、二人とも「品がない」と一蹴した。今になってようやく、自分の好きなように食べに来ることができた。思う存分楽しんだ。甘いアイスクリームも、気の済むまで食べた。二日後、約束通り心春を海園市の家に送り届けた。別れ際、彼女は名残惜しそうに私を見つめていた。「今度海園市に来たら、また絶対に一緒に遊んでね!」北戸市に戻り、飛行機を降りて到着ロビーへ向かうと、遠くに圭介の姿が見えた。私はすぐに引き返し、別の出口に向かおうとしたが、彼が足早に先回りして行く手を塞いだ。「お義母さんが入院した!」思わず足が止まった。けれど、すぐには信じられなかった。つい二日前、確かに母と電話で話したばかりだったから。慌てて母の番号にかけ直してみたが、何度鳴らしても誰も出ない。急に、不安がこみ上げてきた。圭介が切羽詰まった顔で私を見た。「本当に入院してるんだ。俺が車で送っていく」車に乗ると、後部座席には日立も乗っていた。私を見るなり「ママ、ママ!」と必死に呼び続ける。まるでこの世で初めて私に会っ
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